ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




よせ物樋口。中央区湊3-2。1986(昭和61)年6月15日

左右の道路は新大橋通りと鉄砲洲通りの中間の南北の道路で、入船と湊の町境になる。大沢印刷の向いだ。
よせ鍋と間違えて「あったかいものでも食べようか」という気持ちになりそうな看板だが、よせ物(寄物)とは「寒天・ゼラチンで果物・豆などの材料をまとめ、型に流して固めた料理。また、葛粉にサツマイモ・魚のすり身などの味付けした材料を入れ、蒸し固めた料理」(大辞和泉、小学館)。
樋口から右へ、ほてい屋、正知印刷、陣内電気商会。右端のビルの先に下の写真の中井鋳物工場がある。



中井鋳物工場。湊3-7。1987(昭和62)年5月

現在、この辺りはビルが立ち並んでしまったが、この建物はビルに囲まれて残っている。木造家屋の裏手に工場があるようだ。キューポラの設備があって機械の部品でも鋳造していたのだろうか。あるいは活字の鋳造かとも考えたが、「鋳物工場」というからには溶けた鉄を連想してしまう。

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真島湯。台東区谷中2-5。1989(平成1)年9月10日

当ブログ前回の吉野屋酒店と荒川米店との中間あたりの向かい側にあった。造りも正統的な銭湯だが、真島湯という名前も素直にかつての町名、真島町からの命名だ。江戸期に真島藩の下屋敷があったことに由来する。「建築計画のお知らせ」が出ている。
現在の地図を見るとマリーナアイランドとなっている。



真島湯。1989(平成1)年2月26日



真島湯の隣は看板建築の富士理容店。1988(昭和63)年11月3日

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吉野屋酒店。文京区根津2-33。1984(昭和59)年10月

台東区と文京区との境の道路で、写真の家並みの向かいは谷中2丁目。写真の右奥までは直線の道だが、その先から曲がりくねった「へび道」に入っていく。昔はこの道に藍染川が流れていた。大正末に暗渠になり、現在の道路に変わった。埋立ての頃にはこの辺りでは道路の西側のほうに掘割で流れていたようだ。
途切れ途切れにだが木造の長屋が並んでいる。2階が後退した古い形式の長屋だが、藍染川の埋め立てと同時期のものかもしれない。



荒川米店。1枚目の写真の右端に写っている長屋。1989(平成1)年2月26日

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根津工芸印刷所。文京区根津2-33。1990(平成1)年2月26日

当ブログ前回の2枚目の写真の右のほうに写っている。長屋かと思うほど間口の広い家だ。『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、元本は1992年刊行)では「戸塚工芸印刷」となっている。「吉為さんの大きな米屋」だった建物。



なかよし文庫の長屋。1990(平成2)年5月6日

根津工芸印刷所の隣は4軒長屋で、鈴木塗装店(2軒分)、貸本屋のなかよし文庫、斉藤牛乳店が入っている。
なかよし文庫を始めて見たのは20年以上も前だが、そときでさえ「まだ貸本屋が!」とびっくりした。貸本屋の全盛はたぶん昭和30年代前半である。『不思議の町 根津』には「会員制で入会金は大人300円、子供100円。1冊70円。5,000人の会員がいる」とある。
同書には長屋の以前の店が記録されている。左から、「鈴木ペンキ」「人見洋服ヤ」「人力車ヤ」「象牙の職人梅昇堂」。



雪印牛乳根津販売所(斉藤牛乳店)。4軒長屋は谷中との境の道に出る角にある。1986(昭和61)年4月



長屋の近影。2007(平成19)年12月15日

長屋の店はみな廃業してしまったようだ。左半分は2階を目隠しで隠しているが、屋根の骨組みが覗ける。目隠しするからには解体の途中ではなさそうで、火事になったのだろうか。
なかよし文庫はネット上ではいろいろなサイトで取り上げられている。藍染大通りのなかでは芋甚に次ぐ注目度だろう。それらを参照すると、なかよし文庫が休業したのは2003年3月である。45年間営業してきた。

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熱帯魚大八。文京区根津2-35。1990(平成2)年5月6日

藍染大通りの北側の家並み。写真左から、旧・魚友、熱帯魚大八、理容有波、落合八百屋、根本診療所。
以下、『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、元本は1992年刊行)からの引き写しである。熱帯魚の看板の店は本書では「小島小鳥屋」。有波理髪店は昭和12年の開業で、俳優の大滝秀治や金子信雄が来ていたというがいつの話だろう。落合青物店がここに移ってきたのは戦後で、元は「すし仙」。有波理髪店と落合青物店の建物は2軒長屋かもしれない。その隣は、元は風鈴屋、さらに隣はつくだに屋だったという。



浅野商店。根津2-34。1990(平成2)年5月6日

1枚目の写真のすぐ東に続く家並み。左の3軒長屋は、住宅地図には「浅野酒店」のみの記載だ。以下、テート薬局、三盛タイプ商会、路地が入っていて33番地に根津工芸印刷所。
浅野酒店は『不思議の町 根津』では「浅野味噌店」で、大正3年の開業という。テート薬局も明治44年の開業という古い薬屋だ。

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大一設備工業所
文京区根津2-36
1986(昭和61)年4月

前の通りは不忍通りで当ブログ前回の八重垣食堂のあるブロックのすぐ北に続くブロック。その八重垣食堂の写真では取り壊されて空地になっている。
4軒長屋に東信電気店、楠本ふとん店、花家(ヤキトリ・食事)、大一設備工業所が入っている。この長屋の左右に路地が入り込んでいるが、後ろでつながっているらしい。

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八重垣食堂。文京区根津2-36。1988(昭和63)年11月3日

不忍通りの根津神社入口交差点。右へいく道路が通称「藍染大通り」で、谷中のあかぢ坂に続いている。
角の八重垣食堂の場所は東京渡辺銀行の支店が建っていたところで、東京渡辺銀行頭取の渡辺治右衛門の屋敷があかぢ坂の北側にあったという(森まゆみ著『不思議の町 根津』(ちくま文庫、1997年)参照)。1927(昭和2)年3月14日に国会での片岡蔵相の「…現に今日正午頃に於て渡辺銀行が至頭破綻を致しました…」という失言で倒産したといわれる銀行である。またそれが昭和金融恐慌のきっかけになったともいわれる。実際のところは事情はもっと複雑なわけで、ぼくなどには理解不能だ。
写真を見ると八重垣には看板に「食堂」の字は見当たらない。住宅地図は「八重垣食堂」の記載であり、森まゆみも「八重垣食堂」を使っている。分かりやすい名称だが正式な店名だったのだろうか。撮影時で、さしみ定食1200円、てんぷら定食950円。



不忍通りの八重垣食堂の並び。1990(平成2)年5月6日

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繁の湯。中央区入船3-6。1985(昭和60)年頃

中央区入船・湊で「近代建築」といえるのは今は中央小学校(旧鉄砲洲小学校)が唯一のものだが、かつては昭和14年築の山田守が設計した築地電報電話局があった。とはいっても、ぼくは目にはしているはずだがまったく覚えがない。このあたりにカメラを向け始めた頃にはなくなっていたのだろう。もう1件、誰もが興味を引きそうなのがこの繁の湯である。
繁の湯の前の道路は新大橋通りの1本東の裏通り。建物後方の洗い場と湯船がある部分は木造のごく一般的な風呂屋の造りだ。問題は前面で、洋風のビルのような躯体の上に和風の瓦屋根である。屋根は中国風にも見え、全体も中国風に感じてしまうのはぼくだけだろうか。帝冠様式という和洋折衷のスタイルがあるが、それに当たるのだろうか。前面はタイル貼りだが横はコンクリートの地肌のまま。それでも木造らしい。



繁の湯。1987(昭和62)年5月3日

現在は「ニッセイ入船3丁目ビル」(1990年竣工)というのが建って、そのビルの地下に「入船湯」という区営の銭湯ができた。運営は繁の湯の人が引き受けているという。(「風呂屋の煙突入船湯」を参照)



木村屋パン店。1987(昭和62)年5月3日

繁の湯の並び。看板建築の商店と商店長屋が並んでいる。左から木村屋パン店、3軒長屋に料理屋の「はし」、民家、文華堂洋品店。路地を隔てて5軒長屋で、伊藤畳店と佐倉屋鶏肉店の看板が見える。

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塩田畳店。中央区入船3-5。1987(昭和62)年5月3日

新大橋通りの入船橋東北の築地電報電話局(現・アーバンネット入船ビル)の北の横丁。右奥へ行くと鉄砲洲通りへ出る。写真左から、橋本商会、塩田畳店、広瀬電気、広沢ビル。この並びの建物は今もあるが、商売が続いているのかどうか。広沢ビルの先のブロックからビルが立ち並んでいるが、戦時中に建物疎開になったところだ。



塩田畳店。2004(平成16)年1月1日。袖看板が外されている。



広沢ビル。2004(平成16)年1月1日。「廣澤製作所」は製本所だったのだろうか。モダンな外観だが切妻屋根である。現在は1階の出入り口と窓がベニヤ板で塞がれている。

廣澤製作所(2012.08.03追記)
先日、日本電機株式会社という会社の方から廣澤製作所の写真の使用許可を依頼するメールを頂いた。日本電機は大田区矢口に本社を置く中堅の配電盤のメーカーといことだ。創業100周年を記念して編集中の社史に、会社の前身である廣澤製作所の写真を載せたいということだった。
少し会社の沿革も教えて頂いた。分かった範囲で以下に記しておく。
入船町の会社は1910年に廣澤二郎という人が電気機器メーカーを創業したもので、後に蒲田区や日野にも工場を増やしたらしい。昭和の初めに当時の牛尾財閥~野村財閥に経営が移行し、その後日本電気㈱と改称、本社を現在地に移した。
廣澤家の方の談話によると、入舟町の廣澤製作所は創業者の子孫の方々が日本電機とは別にしばらく事業を続けていたが、隣家の火災を機に廃業、以降建屋は他者に間貸ししていたそうだ。

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東京クラブ。台東区浅草1-26。1986(昭和61)年10月26日

戦前から、すでに西洋物の2番館だったらしい。平面は三角形に近く、舞台になるところは三角形の鋭角になる位置で、舞台を置くには狭すぎるようだ。映画専門の劇場として建てたのかもしれない。スクリーンの大きさを売り物にする時代になっては、なんともならないだろう。
ファサード中央のベランダの張り出しは、下から見れば庇の張り出しになるわけだが、表現主義的な造形で、見ていて楽しい。メンデルゾーンのアインシュタイン塔を想起させる。アインシュタイン塔は殻から頭だか足だかを出したオウム貝を連想するのだが、東京クラブはベランダの張り出しの曲線が魚のエイみたいだ。曲線が有機的なものを連想させるだけのことだろう。表現主義が生物の形態をどうした、という話は聞いたことがない。


左:1985 (昭和60)年1月、右:1986(昭和61)年10月26日

枝川公一著『ふりむけば下町があった』(新潮社、1988)に東京倶楽部のことが書かれていた。枝松が館の事務員の女性(70歳)から聞いた話をまとめたものらしい。ここに載せた写真を撮った頃の話としていいだろう。
内容は「入場料700円は浅草で最も安い。17時からは500円に、20時からは300円と割引になる。2階の映写室にはフジ・セントラルの旧式映写機が。3階の客室からはスクリーンは、はるか下に小さく見える。ウチコミ(開場)は平日が10:30、土日が10:00。終了は21時で、1回目の上映は終了時間に合わせて途中から。馬券を買う人も早朝割引500円で入ってくる。1回だけは外出できる。」



横から見ると「芋虫のような」と形容される形である。建物の構造がそのまま現れている。今となっては中を見ておかなかったのがなんとも悔しい。700円払って入ってみればよかった。1985 (昭和60)年1月

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