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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




式場病院バラ園。千葉県市川市国府台6丁目。2010(平成22)年6月4日

式場病院はバラ園でも有名だ。現在は開放されていないが、かつては時期になると近所の人はこぞって訪れていたという。新館、次いでストレスケア病棟を建設するため立入禁止になったのがいまだに解けない、とういう形のようだ。ストレスケア病棟はバラ園を半分囲むように建てられているので、建設の済、バラ園をかなり縮小したようだ。これではわざわざ来てもらっても申し訳ないから、立入禁止ということにしておこう、という事情のように感じる。患者とのトラブルも気にしているかもしれない。
写真奥の和風の家は病院の創立者、式場隆三郎の自宅として建てられた家。病院の敷地のほぼ中心にある。個人の住宅なのでバラ園の遠景に写ってしまったという写真を選んで掲載した。入ってはいけないバラ園の写真はいいのか? と聞かれると困るが。写真右の白い陸屋根の建物がストレスケア病棟。
『ビブリオテカ グラフィカ>式場隆三郎邸の居間』によると、式場邸は昭和14年の完成で、柳宗悦や濱田庄司が設計に協力しているという。

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式場病院本館。千葉県市川市国府台6丁目。2010(平成22)年6月4日(2枚とも)

今回の写真はつい先日撮ってきたもの。わざわざ出かけたわけではなく、ぼくの家から散歩で行ける場所である。
北総線矢切駅の近くにある化研病院(化研病院(1)化研病院(2))の南に接して式場病院がある。精神化神経科の専門病院で、一般にいう精神病院である。
いつものことだが、急遽ネットで調べてみると、式場病院は式場隆三郎によって1936(昭和11)年に創設された。彼は美術評論家でもありゴッホについての著作などが多数ある。山下清を見出してプロデュースしたことが有名。『二笑亭奇譚』が彼の著作と知って驚いた。読んではいないが、本のことは『乱歩と東京』(松山巌著、PARCO出版局、1984年)の記述で知っていた。
写真の建物は病院の本館。まずル・コルビュジェを、次にレーモンドを連想する。昭和30年代だったらモダンな現代建築といった感じだが、いつの建設なのかは知らない。案外、昭和40年前後なのかもしれない。式場病院は1955(昭和30)年6月18日に火災にあい、患者18人が焼死するという惨事が起きている。たぶん病棟は古いものでもそれ以降のものと思われる。病院の門を入って(入らなくても)すぐ左上に見えるのだが、その少し見上げる角度に見えるのがいいようだ。前にせり出した部分の地面からの高さは車のセダンならやっと入り込める程度。
『市川市>市川ゆかりの人>式場隆三郎』に「昭和20~30年代は、同じ市川に住む建築家、岸田日出刀らとともに地域文化発展の主導者として活躍された」とある。岸田は東大安田講堂が有名だが、戦前からモダニズム建築の重鎮だったそうだ。この建物になにか関係していないだろうか。



本館の玄関。1枚目の写真で右側手前の位置。建物は平屋で、写真右へ細長く続いている。

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丸太柴田商店。中央区日本橋人形町3-5。1987(昭和62)年9月6日

芳町通り北の裏通りで、「大森商店」の看板は写真右の白い看板建築の家で、茶色の3階建ての建物は丸太柴田商店。丸太柴田は以前、『丸太柴田商店』で紹介した。そのビルの裏側にあるが建物は別で、旧記事の建物は『日本近代建築総覧』に「丸太柴田商店、芳町2-4、S6、RC3」となっているが、こちらは木造のようだ。




東京和裁。日本橋人形町3-2
上:1986(昭和61)年5月24日
左:1987(昭和62)年4月5日

上の写真で左の家はブルーミング中西の「名花館」。写真の白い建物は昭和30年頃の火保図では「旅館青山」。昭和8年の火保図では「鈴木医院」で、これならまあ納得だが、正面はかなり改装されているのだろう。

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左:加藤伍。右:その裏の路地。中央区日本橋人形町3-4。1982(昭和57)年8月8日

左写真の家は芳町通りの一誠の角を北へ入ったところ。看板は「かつみ・身ごろも・○○発売元/加藤伍株式会社/東京店」だろうか。商品がなんだか分からないが呉服関係だろうか。現在は3階建ての住居に建て直されている。その家の玄関脇に、写真の建物にある2階窓の上の飾りと柱の上の飾りが1個ずつ残されて置かれている。
右写真は加藤伍の裏手の路地。



末広亭(ラーメン)。日本橋人形町3-7。1985(昭和60)年1月

人形町通りの人形町交差点から少し北のところ。現在、この一角はビルの建設が始まって写真の3軒とも取壊されている。ラーメン店の建物は、解体前はいろは寿司になっていた。写真左の建物は撮影時では日本橋信用金庫本店、解体前は東京シティ信用金庫。右は吉仲理髪店。
末広亭は以前は井上花店。煙草も売る花屋で、商売替えしたもの。向かいにあった寄席の名前を拝借している。明治33年の『東京営業便覧』に「伊勢屋(煙草商)」で載っている。
その左、日本橋信用金庫のところは、大正15年の『人形町気分』に「井筒屋香油店」、昭和8年の火保図では「井筒ヤ油店」、昭和30年頃の火保図では「井筒屋商店」。井筒ポマードは聞いたような気がする。『琺瑯看板>石鹸・化粧品』の「井筒明花香油」の琺瑯看板の解説に井筒屋商店の沿革が記されている。マッチラベルは昭和初年のものと思われる。

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一誠。中央区日本橋人形町3-4。1987(昭和62)年3月8日

手前は芳町通りで写真右の道路は人形町交差点から1本西の横丁。かつてはこの道路の右側が人形町3丁目、左が芳町2丁目(芳町1丁目は芳町通りの南側)だった。現在は「東通工」の看板のある3階建ての建物がなくなってコインパークになっているが、他の建物は残っている。
手前から奥へ、一誠(不動産)、帯の岩崎、東通工と安田ビルメン、三蔵鮨。



向かいのビルから見下ろす。1996(平成8)年5月6日


東通工
1987(昭和62)年3月15日

瓦葺で切妻屋根の屋根だが、火保図ではコンクリート造の建物になっている。

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済生館薬局、古川商店。中央区日本橋人形町3-7。1989(平成1)年10月15日

前の通りは芳町通りで、小諸そばの入るマンションの右手は人形町中央ビル(1階はampm)で、そのビルが人形町交差点に面している。
「濟生館」の字がある煙草屋は山内商店。以前は薬屋でタバコも売っているという店だったが、薬を扱うのをやめて「薬局」の字を外してしまったらしい。
写真左は石井理髪店を取壊した跡。洋風、3階建ての看板建築だったのが解体前は改装されたただの四角い建物だった。現在は飲み屋(焼鳥)のカミヤのビルになっている。
日本家屋の商店はハンドバッグ店の古川商店。石井理髪店と済生館薬局も戦前からの店だが古川商店は明治19年の創業である。戦前までは主に和装の袋物を扱っていた。また、昭和60年頃までは櫛、簪から印籠まで置いていた。建物にも花街だった芳町の面影が感じられる。寄席の末広亭があった頃は三代目桂三木助などが出入りしたという。主人は代々古川喜兵衛を名乗り、店名も正式には古川喜兵衛商店。今もビルになった1階で商売を続けている。


左:古川商店。1981(昭和56)年
右:花家。1981(昭和56)年12月

古川商店の右に見えているのが料亭の花家。1982年頃に取壊されて現在のマンションに替わった。残念ながら建物の全景を撮っていない。
古川商店の建物は2階の正面は土壁なので「塗屋造」になるのかもしれない。


1976(昭和51)年1月2日

この古い写真では花家が半分くらい写っている。済生館薬局の「局」の文字が見える。

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