ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





築地菊栄ビル。中央区新富2-7
上:1985(昭和60)年11月10日、左:1987(昭和62)年頃

平成通りの築地橋北詰にあったビル。『日本近代建築総覧』では「築地菊栄ビル(旧松竹キネマ本社)、建築年=昭和2年、構造=RC6階建〈地下1階、6階部分は増築〉、設計・施工=大林組、備考=「建築写真類聚」銀行・会社7による」。
松竹といえば歌舞伎座、東劇、今は無いが松竹会館などがあった東銀座・築地の辺りが本拠地かと思うが、そこから少し離れている。ここに本社ビルを建てたのは、隣に新富座があり、明治43(1910)年にそれを松竹が買収して、その周辺を東京の本拠地にしようとしたためかと考えられる。
外観はこれといった目立った特徴が見られないのだが、じっくりと眺めていると関東大震災以前の、装飾を置いた洋式建築を脱してモダンに切り替えた思い切りの良さを感じる。1階の壁がスクラッチタイル張りで建った時代を表している。各階の窓の間の壁が少し下を向いているのは実用的な理由があるのかどうか知らないが、デザイン的には外観の単調さを破っていて面白いと思う。
晴海通りの万年橋際に松竹会館が建ったのは1956(昭和31)年で、その時松竹はそこに本社を移した。『野田宇太郎文学散歩第2巻』(文一総合出版、昭和53年、1200円)は著者が昭和33年に観察した記録ということだが、「角の松竹本社の旧ビルは大林組東京支店に変わった」と書いている。1969年の住宅地図では「本嘉納商店東京支店」。菊正宗酒造に替わったのは1970年代らしい。
2013年12月に解体され、2015年11月に「ザ・パークハウス東銀座」(13階建36戸)というマンションが建った。


京橋税務署。新富2-6。1988(昭和63)年2月21日

築地菊栄ビルの一つ北のブロックが京橋税務署で、歌舞伎興行の新富座があったところである。関東大震災で被災した後はそのまま劇場は廃止した。松竹はそこに映画館を建てて松竹の封切館にした。新富座の名称は引き継いで、昭和14年まで続いたらしい(中央区今昔物語>第14回新富座)。戦後の昭和25年頃の火保図では「松竹第二別館」。
京橋税務署に建て替わったのは昭和38年。そのビルも50年以上が経って建て替えることになり、税務署は平成28年11月ですでに仮庁舎に移った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





西村電設。品川区東大井2-4。2013(平成25)年9月22日

旧東海道の松本レジン向かい側の家並み。TOTOの看板のビルが長良商会、その左のビルは松本レジン営業所。手前の家はしもた屋のようだが、1981年の地図では「西村電設」となっている。下の写真がその横の写真で、奥に一列に家が並んでいて、店舗の後ろに住居を配置したものらしい。昭和22年の航空写真では、西村電設とその後ろの裏通りに沿った5・6軒の家がなくなっていて、爆弾でも落ちたのかというように見える。強制疎開の跡かもしれない。
今、ストリートビュー(2016年1月)を見ると、下の写真の1列が取り壊されていた。


西村電設。東大井2-4。2013(平成25)年9月22日



鳥海米店。東大井2-4。2013(平成27)年5月30日

1枚目写真左端に1階の軒先だけかろうじて写っている。建物左の軒下に米屋の看板を残しているが商売はやめたらしい。通り沿いに1階部分が伸びているのが珍しいが、立派な出桁造りの商家だ。『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)には「元鳥海米店、構造=木造2階建切妻造瓦葺、建築年=明治末~大正初期」となっていて、関東大震災以前の建物である。
写真右の家は八百貞青果店。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





越中屋精肉店。品川区東大井2-5。2013(平成25)年9月22日

旧東海道の日鮮技研の信号のある交差点から南へ50mほどのところ。写真左手前が越中屋精肉店だが看板がなくて廃業したように見える。



松本レジン。東大井2-5。2015(平成27)年5月30日

1枚目写真の中央に写っている出桁造りの家。『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)では「松本レンジ株式会社、分類=商業、種類=その他(商業)工場兼店舗、構造=木造2階建切妻造瓦葺、建築年=明治末~大正初期」となっている。
「レジンresin」とは樹脂(松やになど)あるいは合成樹脂のこと。『品川区>製造業者DB>松本レジン』によれば、プラスチック製品製造業で、射出成型機で磁気テープの巻取り用リールやその関連の部品などを製造しているらしい。設立は1963年4月。写真の家の裏に工場が別棟であり、向かい側のビルに事務所があるようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日鮮技研。品川区東大井1-23。2013(平成25)年9月22日

旧東海道と、西へ行くと第一京浜国道の大井消防署前交差点を結ぶ通りとの交差点で、その角に日鮮技研という小籠包を売る店がある。建物は看板建築風だが古いものなのかそうでもないのか分からない。1981年の住宅地図では「キッサプリンス」で、旧東海道側の隣は今は日鮮技研だが、1981年では「中村菓子店」。


三上タバコ店。東大井1-23。2013(平成25)年9月22日

日鮮技研の角を西へ曲がると、隣が出桁造りの家で、前面を料亭の通用口のような外観にしている。その先が冨貴寿司の3階建てビルと3階建ての集合住宅。そして、裏通りとの角にタバコ屋だった出桁造りの長屋風建物と並ぶ。この並びは、古い航空写真を見ると、二軒長屋が3棟くっついて並んでいたようだ。料亭風の家はその1棟で、三上タバコ店だった家は長屋の半分が残っているのだと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





かどやカメラ店。品川区東大井1-2。2013(平成25)年9月22日

京浜急行の鮫洲駅の駅前にある日本家屋。右の通りを奥へ行くと旧東海道に出る。建物の正面右側はかどやカメラ店。中央の玄関の横に「小唄教室」の看板がかかっていて、家自体が検番の建物のような外観だ。



平屋の民家。東大井1-3。2009(平成21)年4月12日

鮫洲駅から旧東海道に出たところにあった平屋の家。元は酒屋だか米屋だか、とにかく商家だったのだろう。現在はファミリーマートに建て替わっている。左の3階建てアパートは「クシダハイツ」で、1階は「串田米店」。こちらも建て替わった。



サメズコインランドリー。品川区東大井1-2。2015(平成27)年5月30日

旧東海道の鮫洲駅への横丁から北へ少し行ったところにある出桁造りの商家。北から旧東海道を来て、東大井入ってから初めて出会った古い日本家屋である。1981年の住宅地図では「肉屋」と「サメズコインランドリー」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





太安堂。品川区東大井1-20。2013(平成25)年9月22日

京急鮫洲駅から旧東海道へ出る間の横丁。鮫洲運転試験場で試験を受ける人を相手にした代書屋が今でも2・3軒残っている。ぼくが運転免許の試験を受けたのは1967年だったが、やはりこの駅前の代書屋で書類を整え(タイプして作成してもらう)顔写真を撮って試験場に向かった。顔写真は自分で用意しなければならなかったので、主にそれが目的だった。当時は軒並み代書屋が並んでいたのではなかっただろうか。今はいったい誰が利用するのかと、代書屋の存在自体が不思議である。
上の写真は旧東海道から入ってところで、奥が鮫洲駅。写真左に並ぶ商店長屋は昭和20・30年代に建ったもののようだ。ごく最近の写真のつもりでいたが、すでに手前の太安堂と奥の白い長屋(はまやタバコ店、一番堂)が建て替わっている。その間の長屋に入っている「バスケット(喫茶店)」「中田堂瀬能事務所(代書)」はかなり長いこと営業しているようだ。「あんず(飲み屋)」の日よけのテントは「テルヤ(洋服店)」だったときのまま。


中田堂。東大井1-20。2009(平成21)年4月12日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





いちかわ西洋館俱楽部。千葉県市川市新田5-6
左:2006(平成18)年2月11日、右:2007(平成19)年4月8日

京成本線市川真間駅の南、住宅街に残されている洋館で、小さなコンサートホールやギャラリーに貸し出されている。『千葉県>文化財>西洋館倶楽部(渡辺家住宅)』によると、「東京株式取引所の仲買人であった丸水渡辺商会の店主・渡辺善十郎により、日本家屋の母屋に隣接するゲストハウスとして建てられたもの」で、「昭和2年(1927)建築の木造3階建ての洋館」。ベイウインドウ状に張り出した玄関ホール、その上のバルコニー、正面以外の3面は「破風の拝みを押さえた袴腰型切妻破風を中心とする屋根」、側面軒先の千鳥破風、などを外見の特徴としている。内部も建築当時の照明器具などが残されているという。いちかわ西洋館俱楽部の開館は1997(平成9)年で、同年、国の登録有形文化財に登録された。
いちかわ西洋館倶楽部 ホームページ』には、オーナーである渡辺氏がこの館の歴史について寄稿されていて、興味深いエピソードが語られている。関東大震災で深川の邸宅が被災したため、市川に1000坪の敷地を求めて別荘を建てたらしい。当時の総武線は両国までで、都内に通うのは不便だと、じきに深川へ戻ってしまったとか。東久邇宮盛厚王が国府台陸軍野重砲連隊の将校として赴任すると、この西洋館が殿下の宿舎に借り上げられた。戦時中には空き家となっていて、敷地内に焼夷弾が落ちたものの大事には至らなかったという。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





旧京成倶楽部。千葉県市川市真間1-9。2003(平成15)年11月19日

京成本線の市川真間駅の北に、ホームからも見えている建物。『「帝都」の残映>伊藤邸』では、1929(昭和4)年に建てられた木造2階建ての建物。「京成電気軌道社の社員倶楽部として建てられたが、竣工後まもなくから葛飾瓦斯(現京葉ガス)の本社屋として使用され、現在は個人の住宅として使用されているという変遷が激しい建物」。したがって当ブログでは建物名称は「伊藤邸(旧京成電気軌道社員倶楽部・旧葛飾瓦斯本社屋)」で、『日本近代建築総覧』に「伊藤和夫邸、市川市真間1-9-10」とある建物である。ネット上では「旧京成電鉄社員倶楽部」としているのが多い。
東京東郊における都市形成過程~京成電鉄市川真間駅周辺部を対象として~』では、「京成倶楽部(社員の福利厚生施設)」は1929年に竣工してすぐに京葉ガスの本社となり、1945年からは個人住宅になった、としている。
市川真間駅の前にあった京成電鉄診療所(現在は取り壊されて京成不動産が管理する駐車場になっている)の前に「本多貞次郎頌徳碑」がある。本多貞次郎は京成電鉄の創業者で政治家でもあった。京葉ガスの創立にもかかわっている。また、旧京成倶楽部、市川医師会館、京成電鉄診療所、がある真間1-9のほぼ全域が本多貞次郎邸だった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





モハノンド。千葉県市川市真間2-19。2006(平成18)年2月11日

写真右手の通りは真間川に架かる手児奈橋のすぐ南。角の日本家屋も看板建築風の商店長屋(四軒長屋)も、たぶん昭和30年頃建てたものではないかと思う。通りは南の京成本線の踏切まで「真間本通り商店会」が組織されている。店が立ち並んでいるわけでもなく、通りの幅が広いので商店街とはいいにくい。
写真の通り沿いの家並みの裏側は駐車場だが、昭和22年の航空写真では匚形平面の長屋と思われる家が2棟並んでいる。戦前からある長屋だったらしい。その南の棟は1975年まで、北の棟は1990年まではあったことが『Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る』から判る。
現在は写真手前の角の家が取り壊されて駐車場になっている。その右の平屋の家は今も「駒子」という居酒屋。四軒長屋は残っているが営業している店があるのかどうか怪しい感じだ。



市川二業組合検番。市川市真間2-11。2006(平成18)年2月11日

「真間本通り」の京成本線の踏切のすぐ北にあった日本家屋。『『ぬけられます』あちこち廓探索日誌>千葉県 市川市 その2(2009.07.12)』に「市川二業組合検番」とあった。市川に花街があるとは意外だが、国府台は幾つかの連隊の駐屯地だったからそれを背景に花街が成立した。今でも料亭が3軒あるという。『雅万歩>浅草橋~市川(2011.01.04)』によれば、2010年に建物は取り壊されたという。今は駐車場になっている。花街はどうなってしまったのだろう?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





朝倉青果店。千葉県市川市真間4-4。2006(平成18)2月11日(他2枚も)

市川真間の手児奈霊神堂の裏手の十字路で、その十字路を中心に商店が20軒くらい集まっていたようだが、写真を撮った頃にはすでに半減していた。今ではさらに数軒になってしまっているようだ。『市川市真間商店小歴』を見ると「手児奈橋通り会」という商店街である。
写真の角の八百屋「朝倉青果店」は健在。隣の魚屋「魚朝」は営業しているのかどうか怪しい感じだ。その建物は今もあるが日よけの看板はなくなっている。その右の2軒は、今は取り壊されて駐車場になっている。その先の下見板の家は残っている。その隣の「昭和クリーニング」は取り壊されて駐車場に。



広瀬パン店。市川市真間4-2

朝倉青果店の十字路の南東の角。自販機だけの店になっているようだ。今は住宅に建て替わっている。右奥の塔屋は市川市立真間小学校。
下の写真の新川屋雑貨店は上の写真の左の枠外にあった。やはり住宅に替わっている。


新川屋雑貨店。市川市真間4-2

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ