ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




ローリエ。中央区日本橋蛎殻町1-22。1985(昭和60)年10月10日

現在は上を首都高速道路が通っているかつての箱崎川の河岸の通り。写真左から、今西ビル、ロリーエ(インドスパイスカレー)、小山法律事務所、住宅、サントリーショッピングクラブ、横丁を介して右端がヤマサ醤油東京支店。昭和30年頃の火保図では「杏雲亭(中華料理)、北村紙原料店、佐原屋、小山パン店、岩田商店東京支店、株式会社寿屋東京支店」などの記載である。
現在、蛎殻町1-22の街区は「デュークスカーラ日本橋」(2002年1月築、12階建て、106戸)という1棟のマンションで占められている。



さつき寿司。日本橋蛎殻町1-21。1987(昭和62)年5月31日

1枚目写真の今西ビルは新大橋通りへ出る横丁の角にあって、その横丁を入ったところに現在もある建物。タイル張りの壁と二階の縦長の窓で、洋風な造りの事務所かと思う。正面入り口の右側に「三栄商会」の表札が残っているが、今でもこの表札はそのままになっている。goo地図の昭和22年と昭和38年の航空写真とでは屋根の形が異なるようなので、戦後の建築らしい。どうもこの辺りは空襲で焼けたような感じだ。
左隣の家の看板は「エミール」。右奥の家は昭和30年頃の地図では「斉藤タバコ店」。
現在、角のタイル張りの家を除いて、L字形に「グランヴァン水天宮」(1999年3月築、10階建て、57戸)というマンションが建った。

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木村湯。中央区日本橋蛎殻町1-19
上:1985(昭和60)年2月17日
左: 2004(平成16)年1月1日

新大橋通りの銀杏八幡の向かい側の横丁を入ったところにあった銭湯。2007(平成19)年9月30日で閉店、その後、「ガーラレジデンス日本橋水天宮」というマンションが建った。
目隠しの波板で見にくいが、正面は出桁造りの本体家屋(たぶん二階が住居)が敷地いっぱいに延びていて、その前面中央に入り口が突出し、その左右を中庭にしている。入り口の屋根に破風をつける場合が多いが、木村湯はあっさりしたものだ。
木村湯は湯の温度が高かったらしい。 『入浴情報>木村湯』には「なんと45.5℃もあった」とある。東京の銭湯は伝統的に熱いのが普通だったようだ。ぼくは1960年頃、まだ中高生だったが、木村湯には何回か入っている。熱いのを我慢してのぼせていたのだろうか。湯をうめていて怒られた経験は何度かある。



マルイシ。日本橋蛎殻町1-4。1987(昭和62)年頃

写真右奥のビルは「三貴ビル(三貴商事株式会社)」(現在は取り壊されて駐車場)で、木村湯はこのビルの左の並びにある。古い家が並んでいるが、今も、写真中央から右側の家3軒が残っている。写真左端は「双葉陶器ビル」で、その右の民家と共に、現在は「日本橋FKビル」に建て替わった。

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二葉屋。中央区日本橋蛎殻町1-5。1985(昭和60)年10月10日

新大橋通りの蛎殻町交差点のすぐ裏にあった染物屋。看板に「染の小西」とあり、入り口と窓に張り紙がある。移転か閉店のお知らせだろうか。写真左にあったのが下の写真の民家。上の写真では二葉屋の左側が切れてしまったが、下の写真に少し写っている。民家のほうは『雪印牛乳蛎殻町販売所、他』で、すでに取り上げている。
現在は二葉屋と民家とで「塩田ビル本館(1987年11月築)」というビルに建て替わっている。


民家。日本橋蛎殻町1-5。1983(昭和58)年2月11日


宏和写真商会
日本橋蛎殻町1-5
1987(昭和62)年5月31日

新大橋通りの蛎殻町交差点から南に入ったところ。平成元年に「とうかん堀通り」という名称がつけられた、蛎殻町と小網町の境になっている通りである。写真左にある説明版は 「稲荷堀(とうかんぼり)」のもの。現在ある説明版は、平成9に再設置された二代目のようだ。写真の家並みは、不思議と今も変わっていない。

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喫茶みき。足立区千住大川町2
2012(平成24年)7月24日

日光街道の千住5丁目交差点から西へ「いろは通り」が入っている。大正通りとの交差点までは「いろは通り商店街」その先は「ニコニコ商店街」という商店街である。日光街道に都電が走っていた頃は、とても賑わっていたという。現在は、店をたたんでしまった家が目につくし、店舗を住宅に建て替えている家も多い。
左写真はいろは通りに入ったすぐのところで、奥のマンションは「日神パレステージ北千住」(2006年3月築、13階建て、39戸)で、日光街道に面している。「喫茶みき」と「焼肉ソウルハウス」は1989年の住宅地図では「アモール菓子店」と「酒処ひさご」。

下の写真は国道の入り口から100mほど入ったところ。1990年の撮影で、まだ古い建物が並んでいる。もっと細かく撮っておけばよかったが、この頃のいろは通りの写真はこの1枚しかない。写真右端が「藤井商店(文具)」、以下、「吉田観光」「理容いろは」一軒おいて「中松屋(履物)」。ここまでは、現在では駐車場になったり、住宅に建て替わったりしている。


吉田観光。千住大川町2。1990(平成2)年4月30日


三軒長屋。千住大川町5
1990(平成2)年4月30日

日光街道の千住5丁目交差点から少し北へいった次の横丁との角にあった三軒長屋の店舗。
このすこし手前に都電の終点「千住四丁目」停留所があった。新国道4号と千住大橋が完成するとすぐ、市電も千住大橋を渡って延長され、1928(昭和3)年7月16日から営業を開始した。水天宮-北千住(電車の行先表示)の21系統の都電は、1968(昭和43)年2月24日に、千住四-三輪橋が廃止され、1969(昭和44)年10月25日に全線が廃止された。

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旧石川酒店。足立区千住大川町24。2012(平成24年)1月15日

前の通りは大正通り。大正通りは荒川土手の下の氷川神社のところからまっすぐ南に延びている。写真は氷川神社からすこし南にいった辺り。写真右のそばやは「いづみや」で、建物は「嶋田荘」。出桁造りの家は「石川酒店」だった。裏に住居があったと思われるが、アパートに建て替えたらしい。
大正通りは、大正天皇の即位の大典を記念して、千住町の有志が通したもの。西掃部堀という排水路を埋め立てて造った。幅7.2m、延長1084mである。1916(大正5)年6月に着手、9月に完成した。荒川放水路の開削により、西掃部堀が不要になるからだが、荒川放水路の工事で出た残土を使ったのだろうか。当時は荒川放水路の工事は始まったばかりの頃なので、なんともいえない。完成時には南端の掃部堤の際に「大正記念道碑」が森鷗外の撰文で建てられた。「大正記念道」というのが当初の正式な名称だったようだ。



廃屋。千住大川町24。2012(平成24年)7月14日

石川酒店の裏手でみつけた廃屋。空き家になってかなり経つらしく、ガラス戸が壊れて風雨が吹き込んでいたり、屋根がめくれたりしている。庭付きの一戸建て住宅だろうか。

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千住四ツ木の灸。足立区千住大川町13。2012(平成24年)1月15日

写真右に荒川の堤防が写っているように、堤防のすぐ下。右奥へいくとすぐ氷川神社がある。堤防沿いの道路に3本の道路が交わる角に正面を向けた、お屋敷といっていい大きな住宅。写真左端に写っているのは「リバージュ北千住」というマンションだが、1998年の住宅地図では「新橋湯」という銭湯だ。同地図には正面の住宅に「千住四ツ木の灸」の記載がある。『東京いま・むかし』(桐谷逸夫、日貿出版社、平成8年、2978円)に、1994年に土手の上からスケッチした絵が載っている。そこには、住宅右手の門の奥に「家傳/千住四ツ木の灸/専用駐車場」の看板があり、新橋湯も描かれている。
最近だと思うのだが、「千住四ツ木の灸」の石碑が門の前にたてられたようだ。



楽食拉麺・菊や。千住大川町10。2012(平成24年)7月14日

住宅街のなかにポツンとあるラーメン屋。興味のある方はネット上に幾つかレポートがあるのでそちらで。意外と永く営業してきているようである。
建物は平屋の長屋になるのだろうか。古い航空写真を見ると、周辺には同じような規模の家が密集していたような感じだ。現在はおおかた建て替わっている。
下の写真は右奥に見えている赤い屋根の家。

平屋の民家
千住大川町10
2012(平成24年)7月14日

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上:三軒長屋。足立区千住寿町30
1990(平成2)年4月30日(左も)

左:宮本美和夫建築設計事務所
千住寿町27

千住寿町の北半分の地区に今も残っている古い町屋、長屋、商家の3軒である。日光街道の背後に広がる住宅地、といっていいかと思うが、商店や中小の工場もけっこう見受けられる。同地区で有名な建築物というと、大黒湯である。大戦期の空襲を免れてその昭和初期の木造大建築が残っているわけで、当然、周辺にも同じころに建ったと思われる家が残っているのだが、建て替えが進んで、いまやすかっり減ってしまった。ここに出した3軒は、お互いにわりと離れて存在していて、当記事のためにかき集めた、という形になってしまった。
中村畳店は昭和5年の建築という( 『日々想うがままに>「新足立百景」No4中村畳店』)。



近影。2012(平成24)年1月15日



中村畳店。千住寿町21。2012(平成24)年1月15日

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喜代川玩具店。足立区千住寿町35。1990(平成2)年4月30日(2枚とも)

当ブログ前回の「エフジーマート」が左端に、その後ろの瓦葺き寄棟屋根の家は岩槻家で国道沿いの家の裏にある民家。茶色のモルタル塗の看板建築は「喜代川玩具店」。その隣の家はうなぎの「石岡」と「西山花店」。屋根を突き破ってやぐらのようなものが出ているが、看板にしていたものだろうか。あるいは調理の煙抜きか。この家の右から裏道が入っていて、やぐらの二軒長屋は裏道に沿って日光街道からは少し斜めになっている。
写真右の白い建物からは千住寿町39になる。下の写真に移って、「喫茶ロリー」の隣は、「青柳菓子店」。さらにパチンコの「田丸センター」と「今村無線」のビル。古い航空写真を見ると青柳菓子店と田丸センターとは一体の建物にも見え、元は五軒長屋だったのかもしれない。今村無線の先は、撮影時では協和銀行千住支店が千住5丁目交差点(いろは通りの入り口)の角にある。
現在、写真の範囲は4棟のマンションに替わった。「ランドシテイ北千住」(14階建て40戸、2009年8月築)、「ライオンズローベル北千住シティマークス」(14階建て64戸、2004年3月築)、「レーベンリヴァーレ北千住プライムアート」(15階建て71戸、2011年8月築)、「ライオンズシティ北千住」(13階建て36戸、1997年3月築)である。


田丸センター。千住寿町39

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酒蔵三忠。足立区千住寿町34。1990(平成2)年4月30日(3枚とも)

当ブログ前回の石田呉服店からの続きで、そこから北へ見ていく。前面をモルタル壁の看板建築風にした二軒長屋は、左側の店は廃業していて、右側は「酒蔵三忠」。居酒屋のような店名だが、表には「なべ/さしみ/うなぎ丼」などの看板があって日本料理屋らしい。隣は出桁造りの商家で2軒の店が入っている。左が「スガヌマ毛糸店」右が「すずき履物店」。
下の写真に移る。二軒長屋の左側、黄色い壁の店は「ペコペコ亭」。右側は看板建築に改装しているが、「千武商店」。隣の家は「パチンコ」の看板が残っているが空き家である。下の写真で切妻造の瓦屋根が見えるので、元は二軒長屋だった建物らしい。


ペコペコ亭



鳥海金物店

パチンコ屋だった建物の隣は四軒長屋。左から、「鳥海金物店、あん?、藤見カメラ、スルガヤ(セトモノ?)」。長屋の右は路地が入っていて、ここから北は千住寿町35。寄棟屋根の家は、写真右端の「エフマートブリッジ」の裏の岩槻家。
3枚の写真で示した範囲は、現在は3棟のマンションが建っていて、写っている建物は一軒も残っていない、と思ってストリートビューを見たら、石田呉服店隣の二軒長屋の左側の家が残っていた。ただしその家も航空写真では取り壊されて更地のようである。

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石田呉服店。足立区千住寿町34。1990(平成2)年4月30日

日光街道(国道4号線)の千住寿町交差点のすぐ北の辺り。千住大橋―千住新橋の新4号国道は、大震災前に計画されたが、震災復興事業として1924(大正13)年から工事が始まり、1927(昭和2)年3月にほぼ完成している。幅は22m。千住大橋の竣工は少し遅れて同年12月で、現在も上り線に使われている。1969(昭和44)年から東側13mの拡幅工事を開始、1978(昭和53)年4月に完成した。同時に千住新橋が架け替えられている。
国道の北千住交差点から千住新橋の間の西側は空襲の被害を免れたので、昭和末までは大震災後に建った商家が並んでいたと思われる。東側は拡幅工事で取り壊されたわけだが、戦時中に建物疎開で一度取り払われているようだ。
上の写真では間口の広い洋風看板建築が2軒並んでいる。左の家は廃業していて残念ながら店名は不明だ。右の家は「石田呉服店」。現在は「ゼファー北千住弐番館」(1997年5月築)というマンションが建っている。写真左のアーケードが切れているところは裏道への入り口。そこに見えている家は今も健在だ。




上:石田呉服店。1988(昭和63)年12月11日
左:砂川園。千住寿町33。1990(平成2)年4月30日

上の写真は石田呉服店や酒蔵三忠の店先がうすぼんやり見えるので掲載した。
左の写真は1枚目の左端にちょっと写っている「砂川園」。1989年の住宅地図から書き写しているだけなので何の店なのかは知らない。その左は「東屋本店」。左後ろの壁は「ダイアパレス北千住第2」というマンションで、当然これは現存する。

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