ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





慶應大学図書館。港区三田2-15
上:2014(平成26)年4月23日、左:2011(平成23)年9月13日

1981(昭和56)年12月に図書館新館(三田メディアセンター)が開館して図書館の主な機能はそちらに移ったから、写真の建物は「慶應義塾図書館(旧館)」とするのが正式らしいが、面倒なので単に「図書館」で通す。
慶應大学(慶應義塾)は福澤諭吉が1858(安政5)年10月江戸鉄砲洲(現・中央区明石町、よく知られている「築地」といわれる)に蘭学塾を開いたのが始まり。「慶應義塾」と命名したのは芝新銭座(現・港区浜松町)に校舎を建てた1868(慶応4)年。三田に移転したのが1871(明治4)年である。そして開塾から50周年の記念事業として、図書館が建設された。
いかにも明治の建築らしい煉瓦造、ゴシック様式の建物。2階建ての本館(ホール、記念室、事務室)の右に3階建ての八角塔(泉鏡花展示室)、左の2棟の書庫は軒の低い5階建てで、いづれも地下1階がつく。曾禰中條建築事務所の設計で戸田組の施工。明治45(1912)年4月15日竣工、開館式は5月18日(ステンドグラス>2009年)。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、昭和57年、加島出版会、2300円)には「設計は当初、三菱合資会社を退社直後の曾根達蔵に依頼されたが、彼は明治41年、後輩の中条(ちゅうじょう)精一郎とともに曾根中条建築事務所を開設したため、最終案は事務所の作品として中条に委ねられたと言われる。赤煉瓦に花崗岩とテラコッタを交えた華麗なゴシック様式の外観は、記念図書館ということを意識したもので、堅実な作風で知られ同事務所の作品の中ではひときわ目立っている。」とある。



慶應大学図書館。港区三田2-15。2014(平成26)年4月23日

正面左にある2棟の書庫の外側の棟は、昭和2年8月に増築されたものではないかと思う。
東京大空襲ではキャンパスにかなりの被害が出た。5月26日の空襲で、焼夷弾が屋根を突き破って本館内部と屋根が焼失した。書庫の被害は少なかったらしい。1949(昭和24)年には修築工事が行われ、元の姿を取り戻している(ステンドグラス>2012年)。




慶應大学図書館玄関ロビー正面奥、ステンドグラス
2014(平成26)年4月23日

玄関ロビー奥の階段踊り場にあるステンドグラスは、空襲で焼失した後、大竹龍蔵によって1974(昭和49)年に復元されたもの。元のステンドグラスは、和田英作(1874-1959、洋画家)の原画、小川三知の制作。「燦然たる光とともに門を開いてあらわれた、塾章ペンを手にした西洋文明のシンボルである女神を、封建とミリタリズムの象徴である鎧をまとった武士が白馬を降りて迎えているところ。まさに新時代を開かんとする塾の精神をあらわしている」図(ステンドグラス>2009年)、ということだ。
大竹龍蔵は小川三知のもとでステンドグラスを学んだ人。図書館のステンドグラス制作のときはまだ手をだせない身分だったらしいが見てはいたらしい。恩師の作品を復元する決心をしたときは、すでに77歳だった。「3年の工期も終わりに近づき、最後の色調調整の指示を作業員に与えた翌日の昭和49年10月10日、大竹龍蔵は突然この世を去ったのである。完成除幕式は、それから2カ月後の月命日、12月10日に行われた。」





地下室も覗いてみた。2014(平成26)年4月23日

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現徳湯。足立区本木東町(もときひがしまち)15。2005(平成17)年1月17日

現徳湯は本木新道沿いの、本木小学校の少し北の向かい側にあった銭湯。撮影後1・2年で廃業したと思われる。現在は住宅3棟に変わっている。
千鳥破風の典型的意匠の銭湯。このスタイルの銭湯は戦後もけっこう建てられていて、現徳湯がいつ頃の建物なのか分からない。「現徳」とは経営者の名前なのだろうか?
現徳湯』の探訪レポートに「浴室は東京では珍しいぐらい小さくて、地方の銭湯の規模だろうか」とある。現徳湯が建った頃はまだ農村に近かったのだろう。2か所の破風の懸魚は木彫の凝ったもので、玄関横のタイル絵もあって、正当と思われていた様式に忠実な建物だったようだ。

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たんぽぽ、ミツエ。足立区興野2-1。2005(平成17)年1月17日

本木新道を西新井大師-北千住駅の東武バスが運行している。写真はその「興野(おきの)センター前」バス停の付近。「興野住区センター」は本木新道の東側の裏手にある。写真の建物は本木新道の西側で、裏手には興野神社がある。「興野銀座会」の街灯があるが、横丁から左(南)は「本木中央通り商店会」に変わる。
写真の建物は、右の「大衆酒場 精ちゃん」までが1棟のアパートでL字型平面をしている。2019年8月のストリートビューでは「韓国家庭料理 ミツエ」と精ちゃんを残して、建物の半分が取り壊されて空き地になっている(現在はTimesの駐車場)。その画像ではミツエの紺色のテントが外されていて、建物の看板が見えていて、そこに「傘」の一字が残っている。

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長尾商事。足立区興野2-22。2005(平成17)年1月17日

大師前駅近くの環七通りから本木新道に入って荒川に出るまでの中間あたり。「興野(おきの)銀座会」の街灯がある。横断歩道は信号のある交差点。
横丁との角にある大きな看板を乗せた平屋の家はなんの店だったのだろう。廃業しても看板の文字を残しておいてくれるといいのだが、そうもいかないかな。その右の、かなり古そうな日本家屋は不動産屋の「長尾商事」、さらに「中込寝具店」。
現在、平屋の家と長尾商事の家は時間貸しの駐車場(5台)と「カームサンシャイン」(2007年3月築、木造2階8戸)というアパートに替わった。中込寝具店は2019年4月に取り壊されて駐車場になっている。長尾商事は少し北へいった同じ並びに移って営業している。

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近藤額縁店。埼玉県川越市松江町1-21
1989(平成1)年9月18日

立門前通りの川越街道に近いほうにあった看板建築にした店。2015年10月に川越市の「景観重要建造物」に指定された。名称は「木村家(桝屋)主屋及び袖蔵」で、その袖蔵が近藤額縁店で、写真左の「桝屋食料品店」が主屋である。撮影時は見た目通りの昭和初期の看板建築と見ていて、桝屋も日本家屋の町家の前面を看板で隠していたとは気が付かなかった。
今は、主屋は看板を外されて1階の格子戸を復元し、2階の格子窓も見えるようになった。2017年の工事による。袖蔵は2020年に「蔵の宿 桝屋」という宿泊施設として開業した。
広報川越 平成27(2015)年10月25日』によると、主屋は川越大火(明治26年)後と推定され、袖蔵は明治26年の建築。主屋の左に車庫にしている平屋の家がある。その家の奥に土蔵があって、それが明治13年の建築。
木村家の家業がなんだったのか分からないのだが、やはりこの辺りに多かった米問屋だろうか?

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小島結納品店。埼玉県川越市松江町2-1。1989(平成1)年9月18日

中央通りの蓮馨寺門前から川越街道を結んでいるのが「立門前通り」で、「立門前商栄会」の商店街である。昔はそうとう賑わったというが、今は両大通りに近い部分はまずまずの商店街なのだが、その間は住宅地に近い感じになってしまっている。写真の2棟の日本家屋の商店も、今は取り壊されて1戸建て住宅と駐車場になってしまった。また、街灯が取り換えられた。写真右へ行くとすぐ川越街道で、角に「芋十」がある。
写真左の家はどんな店だったか写真からは手掛かりがない。右の家は二軒長屋で、「登喜寿し」と「小島結納品店」。今は結納などをしないで結婚式にいってしまうほうが多いかと思われるのだが、個人どうしの結びつきなら当然のことだろう。結婚とは家の結びつきと決めてかかっている老人はわりと普通にいそうで、そういう親や祖父母と波風立たないように結納品を求めるなら、今は結婚式場でそろうのだと思う。

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川越商工会議所旧館。埼玉県川越市松江町2-1
1989(平成1)年9月18日

現在、アクサ生命の川越営業所が使っている「川越商工会議所旧館」という名称のビルで、写真では「埼玉県信用保証協会」と「社団法人川越法人会」が入っている。川越街道が立門前通りと合わさる角に芋菓子の「芋十」があり、その北隣にある。
「埼玉農工銀行川越支店」として1927(昭和2)年に建てられた。「農工銀行は勧銀への取り次ぎまたは勧銀と同等の業務を行い、事実上の勧銀の子会社的な存在であった。……現在のみずほ銀行が後身である。(ウィキペディア)」。川越支店は1898(明治31)年の設立で、1930(昭和5)年8月に日本勧業銀行に合併された。写真のビルが埼玉農工銀行だったのはほんの数年間だったらしい。
銀行らしい重厚な感じを受けるのは、なんの飾りもない壁と、前面に少し出ているタイル張りのバルコニーの平坦さにもかかわらず、玄関や窓が彫りが深いからだろうか。左右対称の正面も一役買っている。唯一の飾りは、2階の窓の間の壁にある幾何学模様の柱型。これらの外観の特徴が竣工時からのものなのかは不明だが……。

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松岡屋葬具店、足立勝(原田家)。埼玉県川越市松江町2-6。1989(平成1)年9月18日

川越街道と仲町通りが合わさる三差路で、写真右端のレンガ塀が川越キリスト教会。その左の「松岡屋葬具店」は今は取り壊されて川越キリスト教会の駐車場になっている。
写真左手の出桁造りの町家と蔵が「足立勝(あだかつ)(原田家)」で、最近、川越市の景観重要建築物に指定されたため、建物についての情報が市の出版物で見られるようになった。『広報川越(平成29年4月25日)』と『景観重要建造物(川越市都市計画部都市景観課、2019年)』に載っている。
足立勝の家業についての記述がないので、推測すると、「広い三和土の正面には、米俵の荷崩れによる壁面損傷を防ぐために設けられた磨き半丸太が当時のまま残っています。」とあるから、米問屋だったかと思われる。仲町通りの「原田家住宅」が「足立要(あだよう)」の屋号の米問屋だったから、同族の店だったと考えられる。
建物は、主屋・住居棟(主屋は通り沿い、住居はその裏に接している)が明治26年の川越大火以降の建築。奥蔵(敷地の裏手にある蔵。松岡屋葬具店が取り壊されたので通りから見える)が棟札から明治19年、文庫蔵(通り沿いの蔵、今は黒く塗られている)が墨書および伝承から明治19年以降の酉年の建築。

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東大球場。文京区弥生1-1。2019(平成31)年4月18日

東京大学弥生キャンパスにある「東大球場」は2010年9月に国の登録有形文化財に指定された。『文化庁>国指定文化財DB 』によると、「東京大学野球場観覧席・ダッグアウト及びフェンス」の名称で、建築年=1937(昭和12)年、構造=観覧席及びダッグアウトが鉄筋コンクリート造3階建、フェンスが鉄筋コンクリート造。解説文は「…内部に記者席、更衣室等を配する階段状の観覧席に、片持ち支持のアーチ形屋根を架ける。観覧席の左右に配されたダッグアウト、グラウンドを囲むフェンスを含め、全体をRCでつくる。戦前に遡る数少ない現役の野球場施設。」



東大球場。2019(平成31)年4月18日

観覧席の下に更衣室や倉庫などにした建物があり、観覧席はアーチ状の片持ち梁が支える屋根を取り付けている。写真ではよく分からないが、この梁のデザインが先端的で見ものである。



東大球場。2019(平成31)年4月18日

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東京大学農学部3号館。文京区弥生1-1。1988(昭和63)年1月30日

東京大学農学部3号館は農学部の中心になる建物で、1941(昭和16)年の竣工、設計は内田祥三(よしかず)、RC4階建て地下1階、中庭を2つとった「日」型の平面の建物。
東大農学部の歴史>農学部の拡充』によると、「昭和12年9月着工、昭和16年5月31日竣工」。昭和16年は12月には太平洋戦争が始まった年で、戦前築の東大の建物では最も遅く完成した建物だと思う。3分割ではあるが横長の窓が、他の内田ゴシックにない特徴かもしれない。
農学部1~3号館は空襲の被害を免れたが、弥生キャンパスは昭和20年3月10日の空襲で木造建物はほとんどが焼けてしまった。池之端のほうから延焼してきたという。当時、第一高等学校だった建物も残っていたが、それは全焼してしまったようだ。1947年の航空写真を見ると3号館は屋上が黒っぽい四角のまだら模様になっている。カムフラージュを施したと思われる。



東京大学農学部3号館、西南角と南側。1988(昭和63)年1月30日



東京大学農学部3号館、東側。2019(平成31)年4月18日

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