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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




心斎橋歩道橋。大阪市中央区心斎橋筋1-13、南船場3-12。1992(平成4)年8月7日

「心斎橋」というと普通は繁華街の地名をいう。難波(なんぱ)・道頓堀・千日前などと共に「ミナミ」に含まれる。そんな当たり前のことを誰に言っているのかというと、ぼく自身に説明している。「御堂筋を中心に老舗百貨店・専門店・ラグジュアリーブランドの路面店などが集積する大阪を代表する高級繁華街」(ウィキペディア)である。
心斎橋は長堀川に架けられていた橋に由来する。川は1962(昭和37)年に埋め立てられ、1909(明治42)年に架けられた石橋も撤去された。1964(昭和39)年に歩道橋が設置され、そこに旧心斎橋(橋の心斎橋は地名と区別して「旧心斎橋」と表記する)の欄干やガス灯が移設された。
大阪メトロ長堀鶴見緑地線の工事に伴って歩道橋は撤去され、1997(平成9)年に地下街の「クリスタ長堀」が完成した。歩道橋の旧心斎橋の遺構は長堀通を渡る心斎橋筋の歩道に移設された。
旧心斎橋の橋脚(装飾柱)4基が「北区中之島1」(中之島公園と思われる)に保存されていることが最近判明した。(大阪市>大阪の近代橋梁遺産

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、歩道橋の写真を載せて「旧心斎橋 設計=大阪府土木部(意匠設計野口孫市)、施行=不祥、建造年=明治42年、構造=石造アーチ式、所在地=南区心斎橋筋1」としている。

写真正面のビルは「心斎橋プラザビル東館」(1981年竣工)。その左は「心斎橋プラザビル本館」(1973年竣工)。両ビルとも2022年に取り壊され、今は「心斎橋プロジェクト」の名前で再開発の最中。28階建のビルが2026年2月の完成予定だ。

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大丸心斎橋店本館(左=北側、右=南西角)。大阪市中央区心斎橋筋1-7。1992(平成4)年8月7日

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「大丸百貨店 設計=ヴォーリズ建築事務所、施行=竹中工務店、建築年=1期:大正11年(1922年)、2期:大正14年(1925年)、3期:昭和8年(1933年)、構造=鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、地下3階塔屋付、所在地=南区心斎橋筋1」。1期は東側心斎橋筋側の南半分、2期は東側の北半分、3期は西側御堂筋側。3期も南と北の順に3、4期と分けるのが普通らしい。階数も大正期に完成している東側は鉄筋コンクリート造6階及び地下1階、西側は鉄骨鉄筋コンクリート造8階及び地下3階で北西部に塔屋が付く。 『近代建築ガイドブック』の解説文を引用しておく。

多くのキリスト教建築を手がけてミッショナリー建築家といわれるヴォーリズの作品で、こうした商業建築にも独自の手法を発揮している。  建物は心斎橋筋から御堂筋へのワンブロックを占めているが、一期二期で心斎橋筋側が完成し、地下鉄が梅田-心斎橋間に開通した昭和8年に御堂筋側半分が増築された。御堂筋側のファサードは重厚さと華やかさを合わせもつアメリカンゴシックスタイルの好例である。東西両ファサードの意匠の展開に着目したい。  昭和3年に竣工した京都店もヴォーリズの百貨店建築を代表するもので、昭和38年に大改装されているが、部分的に当時の片鱗を留めている。

日本建築学会による『大丸心斎橋店本館の保存活用に関する要望書』(2014平成26年)では、「建築様式は心斎橋筋側ブロックではネオ・クラシック、御堂筋側ブロックはネオ・ゴシックを基とするが、共に低層部を御影石、最上階及び塔屋をテラコッタ、中間階外壁を茶褐色タイル仕上げとする3層の外観構成でまとまりがあり、ファサード(正面外観)中央に開かれた玄関部及び頂上部など石彫装飾、テラコッタによる華やかな意匠を備えている。その装飾的意匠は館内に展開し、とりわけ 1 階グランドフロアの高い天井周り、エレベーター、階段など、種々の様式的意匠からアール・デコなど注目すべき表現を有している。」としている。

また、「構造設計は当時において耐震設計の第一人者といわれた早大教授の内藤多仲である。本建築の柱間は20尺(中央部のみ24尺)の均等配置で、四方隅に耐震壁をバランスよく配置した耐震構造、耐火耐水計画についてなど、竣工時の建築概要に謳われている。 ……」とある。

つまり「建築意匠・構造・平面計画・設備に関する評価を勘案すると1920年代から1930年代にかけて日本の大都市に出現した百貨店建築として、その典型的存在であり、また、日本の近代建築史上に大きな影響力を持った米国人建築家ヴォーリズの代表作品として位置づけられ、そして、日本を代表する商都大阪のランドマークとなる建物としてきわめて貴重な存在であるといえる。」として建物の保存を望んでいる。

大丸心斎橋店本館は2019(令和元)年9月に建て替えられた。その際、御堂筋側の外壁をそっくり保存して御堂筋からの景観を保存継承した。新本館の高さを11階に抑えたのも景観を考えてのことだろうか。内部は1階フロアを主に、旧部材をできる限り再利用して復元しているようだ。 とにかく御堂筋側の外壁保存は大変な工事であっただろう。そんな苦労をしてまで5フロアの増築では割に合わないように思うが。やはり耐震構造にしないといけなかったのだろうか。



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大阪市交通局曽根崎変電所。大阪市北区西天満(にしてんま)2-7。1992(平成4)年8月5日

堂島川に架かる大江橋の北、つまり御堂筋が新御堂筋と分岐する交差点が梅新南交差点だが、その交差点の東南にあるのが写真の変電所。無人だが現役で動いているという。
現在の町名の曽根崎は梅新南の北、国道2号の北になるが、『ウィキペディア>西天満』には、「1900年(明治33年)旧曾根崎村域に曾根崎永楽町・曾根崎上1 - 2丁目、旧北野村域に西梅ケ枝町、旧川崎村域に東梅ケ枝町が起立」「1944年(昭和19年)…曾根崎新地1丁目の御堂筋以東を真砂町へ編入、曾根崎永楽町の御堂筋以東および曾根崎上1 - 2丁目の曽根崎通以南に神明町を起立」などとあって、変電所のあるところは曽根崎と付く町名だったのかもしれない。

Osaka Metropolis>曽根崎変電所』によると、曽根崎変電所の建物は、大阪メトロ御堂筋線に電気を供給している変電所で、1936(昭和11)年の竣工。開業時には市電(路面電車)に給電していた。地下鉄に給電するようになったのは1962(昭和38)年だという。

建物の外観が独特で、変電所としての実用的なデザインとも思えない。『レトロな建物を訪ねて>大阪市交通局曽根崎変電所』では、設計・施工は不明で鉄筋コンクリート造2階建、一部3階。「いわゆる表現主義的モダニズムの香りがするデザイン」「ひときわ目を引く2階部分のコーベル(持ち送り)の列は構造的なものでなく、装飾的に使われているような気がする」としている。


『ウィキペディア>西天満』には「現在の2丁目7番には堂島を隔てる曽根崎川が流れ、上流から難波小橋・蜆橋が架かっていたが、1909年(明治42年)に埋め立てられた。」とある。変電所の南の、奥で南に曲がっている横丁のことだ。グーグルマップに「堂島上通」とある。

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毎日新聞大阪本社。大阪市北区堂島1-6
1992(平成4)年8月5日

JR大阪駅西口から南へ向かう(車は北への一方交通)幹線道路が大阪市道南北線(四つ橋筋)で、国道2号線を桜橋交差点で越えると曽根崎新地、その先の東側に毎日新聞大阪本社の社屋があった。1992年12月にはJR大阪駅の西に新本社ビルを建てて移ったので、本記事の写真を撮った半年後には取り壊しが始まったのかもしれない。跡地には2000年3月に「堂島アバンザ」というオフィスビルが竣工した。その敷地に旧ビルの玄関部分がモニュメントとして残されている。ほぼ、玄関があった場所だ。
建物は『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「毎日新聞社本社、設計=片岡建築事務所、施行=大林組、建築年=1922(大正11)年、構造=鉄筋コンクリート造5階建、地下1階」。「片岡の当時の代表作として安定した古典的作風を示している」とある。
堂島、北新地に生きて』では、毎日新聞に勤めていた人が「大阪随一のネオン街・北新地に隣接する旧社屋」について語っている。隣は毎日放送が入った毎日大阪会館で、近くには朝日新聞社と産経新聞社の大阪本社があり、地方紙や電通の支社もあってマスコミ関係が集結していたという。
曽根崎新地は「北新地」というのが普通らしいが、『ウィキペディア>北新地』によると、「日本を代表する歓楽街で、東京の銀座と並ぶ高級飲食店街である。…風俗店やパチンコ店は皆無である。カジュアルで雑多な雰囲気のミナミエリア(難波・道頓堀など)とは性格を異にする街でもある。一般的には「大人の街」と定義される」とある。東京の銀座・有楽町も新聞社が集中した街だ。『堂島、北新地に生きて』でも、理由を付けては北新地に繰り出したという。



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大阪鉄道管理局。大阪市北区大深町(おおふかちょう)1-1。1992(平成4)年8月5日

JR大阪駅の北、現在の「ヨドバシ梅田」のところにあったビル。1928(昭和3)年に「大阪鉄道局」として建てられた。1950(昭和25)年に「大阪鉄道管理局」となり、1987(昭和62)年に国鉄分割民営化で「西日本旅客鉄道」の成立とともにその本社として使われることになる。したがって「西日本旅客鉄道本社ビル」としたほうがいいのかもしれないが、1991(平成3)年に「JR西日本ビル」が建設されているのでそれと混同しないように古い名称にしておいた。
1989(平成元)年に国鉄清算事業団は本建物を解体撤去し敷地を売却することにしたため、JR西日本は芝田にJR西日本本社ビルを建て、1992年4月には引越しが完了している。したがって、1992年8月撮影の写真では解体の準備に入っていて、すでに足場が組まれている。

『ウィキペディア>JR西日本本社ビル』によると、「旧大阪鉄道管理局庁舎」は、設計=鉄道省工務局建築課、監督=神戸鉄道局工務課、設計主任担当=伊藤滋、構造設計担当=永田重朗。構造=鉄骨鉄筋コンクリート造5階、地下1階建、塔屋付。「平面計画は中廊下形式で広い中庭のある6角形。外観は茶色のスクラッチタイル張りで、腰には龍山石及び龍山石擬石が用いられた」とある。

跡地はバブル崩壊もあって1997年になってやっと競売が行なわれ、ヨドバシカメラが落札した。開業は2001年11月。関西地区の1号店である。それ以来、大阪の家電量販店として繁盛した。家電と言えば日本橋電気街(でんでんタウン)が有名だったが、その多くの店が撤退したという。今はサブカルで繁盛してきているらしい。

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梅田阪急ビル(阪急百貨店)
大阪市北区角田町8。1992(平成4)年8月5日

JR大阪駅を含む繁華街・ビジネス街一帯を「梅田」という。角田町(かくだちょう)も普通は梅田と言われる。このへんのことは大阪を知らないぼくは、もっぱらウィキペディアの「梅田」や「角田町」の項目を見て知ることになる。実を言うと「阪急」と「阪神」の区別もろくに分っていないのである。今は建て替わってしまったが、写真の建物は「阪急百貨店(デパート)」で、普通には「阪急うめだ本店」と言っていたという。
『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「阪急ビルディング、設計=竹中工務店・阿部建築事務所、施行=竹中工務店、建築年=1期:昭和4年7月、2期:昭和11年、構造=鉄筋コンクリート造7階建、地下1階、所在地=北区角田町」。ついでに解説文を引き写してしまうと、

 阪急電車の前身、箕面有馬電気軌道株式会社が宝塚-箕面間を開いたのが明治34年、京阪神間の私鉄による郊外開発にやや遅れをとったものの、大正9年には神戸線を全通させ昭和2年より阪急電鉄網の拠点となる阪急ビルディングの建設が始められた。
 阪急は明治44年の宝塚温泉の開業、大正2年の宝塚唱歌隊(後の歌劇団)、さらに大正9年に竣工した旧阪急ビル内には直営のマーケットストアや食堂を設けるなど商業多角経営に積極的であった。そして昭和4年より開業した阪急ビル内にはマーケットが発達した阪急百貨店が開業した。ターミナルデパートの嚆矢とされた。
 近年列車ホームは北に移設されたが旧コンコースの天井モザイクなど内部にも華やかさを留めている。

阪急ビルディングの建築に就いて』というサイトによると、「阪急ビルディングの建設計画は、構造を阿部美樹志、意匠・平面計画を竹中工務店が担うという体制で進められていた」「一方、竹中工務店にあって、プロジェクトのまとめ役として奔走したのが、大正6(1917)年入社の鷲尾九郎(明治26(1893)年~昭和60(1985)年)であった」として、阿部美樹志と鷲尾九郎について解説されている。


梅田阪急ビル(阪急百貨店)。大阪市北区角田町8。1992(平成4)年8月5日

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日本銀行大阪支店。大阪市北区中之島2
1992(平成4)年8月4日

日本銀行大阪支店の旧館は、辰野金吾の設計で1903(明治36)年の竣工。設計には日銀建築技師だった葛西万司と長野宇平治も関わっている。施工は直営、基礎は大林組。構造は煉瓦・石造2階、地下1階建。
辰野金吾といえば、東京駅など赤レンガの壁に白い花崗岩の帯を巡らした「辰野式」の外観が有名だが、日銀大阪支店はそれ以前の時代の作品。やはり辰野の設計による日本銀行本店(1896明治29年)から7年後になるが、その外観を引き継ぐことが要求されたのかも知れない。1906年竣工の京都支店は辰野式だ。
様式は、新古典主義、ルネサンス、ネオ・バロックといろいろに言われるのは、辰野がいろいろな建築様式の装飾を持ち込んだため、ともいう。辰野は重厚な外観になるのを好まず、どっちかというと余計な装飾を付け加えて見る人を楽しませている、としている資料があった。
1982年に新館(1980年竣工)の建設に合わせて、老朽化していた旧館が建て替えられた。その際、西側以外の3面の外壁と屋根が復元された。改修工事といっても外観の保存が目的らしく、内部は貴賓室と大階段が復元されている。

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中之島図書館2・3号書庫。大阪市北区中之島1-2。1992(平成4)年8月4日

大阪府立中之島図書館の裏側(東側)に4棟の建物が並んでいた。写真左から、事務棟、3号書庫、2号書庫、講堂・商工資料室。
2・3号書庫につては、『大阪府立図書館>中之島図書館 書庫紹介動画』で、建物の解説と各階の書架の写真を載せた5分ほどの動画が見られる。
それによると、2号書庫は、大正5年(1916)3月に増築、設計は大阪府営繕課、構造は煉瓦造、書庫棟は5階の積層構造。3号書庫は、昭和2年(1927)5月に増築、設計は大阪府営繕課、構造は鉄筋コンクリート造、書庫棟は5階の積層構造。
2・3号書庫と事務棟は、建替えのため2022(令和4)年に取り壊されて、2025年1月には新書庫がほぼ完成している。
事務棟は、1960(昭和35)年の竣工。
講堂・商工資料室は、『大阪府立中之島図書館』に、「昭和31年(1956)6月 商工資料室新館を増築、講堂と商工資料室を開設」とある建物。2004年4月に「関西大学中之島センター」が開設しているが、そのときに改修されて、現在は写真とは外観が少し異なる。2015年3月末閉鎖して、現在は「中之島図書館別館」となっている。

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大阪府立中之島図書館。大阪市北区中之島1-2
1992(平成4)年8月4日

大阪府立中之島図書館の設計者は住友臨時建築部技師長の野口孫市で、1904(明治37)年2月竣工、石造・煉瓦造3階建。外観は、正面の階段を上った基壇上に四本のコリント式円柱、それに支えられた三角形のペディメント、その奥の建物の中央にドーム屋根がある中央ホール、という新古典主義である。
日建設計>2-5 大阪図書館』には、「野口孫市は、西洋古典様式建築の核心を捉え、この図書館の設計にはパッラーディオ様式で取り組みました」として解説されている。16世紀にパッラーディオという人がイタリア北東部のヴィチェンツァに建てた「ヴィラ・ロトンダ」という建物を指す。欧米でそれが、「智恵の殿堂」という意味が込められた建築様式となり、図書館や大学などの「理想の原形」となっていた、という。
アメリカでもパッラーディオ様式の大学や図書館が建てられた。野口孫市はそれらを見ていて、その影響が指摘されている。
『アメリカ建築案内』(東京大学建築学科 香山研究室編、工業調査会発行、平成元年、1980円)で、どんな物かを見てみると、コロンビア大学図書館(ニューヨーク、1897年)は規模が段違いに大きい。第4代大統領トマス・ジェファーソンが設計した「モンティチェロ」という自邸(1809年)は壁が茶色のタイルなのだろうか、古典主義の厳格さが少ないように見える。ニューポートのレッドウッド図書館(ピーター・ハリソン、1750年)が、外観が一番似ているが木造だからこぢんまりしたものらしい。

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大阪市中央公会堂。大阪市北区中之島1
1992(平成4)年8月4日

近代建築が並ぶ中之島のシンボルが大阪市中央公会堂だろう。「中之島公会堂」と言われることも多いらしい。建設にあたってはコンペが行なわれ、岡田信一郎の案が採用されて、辰野片岡建築事務所が実施設計したとされる。構造は「煉瓦及び鉄筋コンクリート造3階建地下1階」、清水組の施工で1918(大正6)年の竣工。
株式仲買人岩本栄之助による100万円の寄付で建設は動き出す。1911(明治44)年のことで、同年8月に「財団法人公会堂建設事務所」が設立された。辰野金吾はその最初から建築顧問として関わっている。岡田案の採用も辰野が決めたと思う。正面の4本の大オーダーとその上の大アーチはそのまま実施されている。ネオ・バロックを基調とした壮麗なデザインだ。辰野は東京駅にみられる赤レンガと花崗岩の「辰野式」をここでも持ち出したようで、岡田のバロック的な要素をネオ・ルネッサンス風の意匠に変えたとされる。内部の細部には片岡安(かたおかやすし)のデザインが見られるという。

1999(平成11)年3月、耐震及び保存・復元工事が始まり、2002(平成14)年9月に完了した。同年12月に国の重要文化財指定されている。

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