三ツ和。台東区日本堤1-10。1989(平成1)年2月19日
アーケードのいろは会商店街の北側、および土手通りの東側にかけて空襲での焼失を免れた地区がある。狭い範囲だが、そこで今でも見られる古い木造家屋は戦前の建築と見てもよさそうだ。土手通りの伊勢屋や、廿世紀浴場がそれに当たる。当記事の写真の家は、焼失地区に隣接した位置にあるが、たぶん焼失を免れた家になるのではないかと思われる。ストリートビューで見る限るではいずれの家も現存している。
上の写真は伊勢屋のすぐ裏の通りで、昔は山谷掘りだったのを埋めて道路にしたところだ。写真左奥で土手通りに合流し、そこが「いろは会」商店街の入口である。
左:民家、日本堤1-10。右:加藤風呂店、日本堤1-8。2005(平成17)年7月23日
『昭和16年の台東区>山谷』の地図を見ると、現行住所の日本堤1丁目の土手通り側が「地方今戸町」となっている。埋められて公園に替わった山谷掘りには地方橋が架かっていて、その親柱が残っている。橋の名前は地方今戸町からのものかと分かり、親柱のひらがな表記の表札は「ぢかたはし」だから「地方」は「ぢかた」と読むと知れた。「町」の読みが分からないが、『青空文庫>里の今昔(永井荷風)』では「ぢかたいまどまち」とルビが振ってあるから、それに従うことにする。
地方今戸町は1889(明治22)年に北豊島郡から浅草区に編入された。土手通りの東側沿いに長く伸びて、南端は山谷通りと接する吉野橋の辺りまであったらしい。そこなら今でも「今戸」だ。既出の「昭和16年の地図」だが、ウィキペディアを参照すると、昭和16年に「浅草日本堤3丁目」が成立していているから、その直前の地図なのだろう。
明治10年頃の「内務省地理局東京五千分の一」を見ると、山谷掘りの東側(新吉原の周囲も)は田畑が広がっているが、「地方山谷町」の町名がある。地方今戸町には「字見帰リ耕地」と「字日本堤外耕地」を含んでいる。「地方(ぢかた)」の意味は『ウィキペディア>台東区の町名』に記されていた。「「町方」に対する言葉で、市街地に対する農村部、町奉行支配地に対する代官支配地を意味する。橋場町の場合を例にとれば、元の橋場村の一部が町地化して町奉行支配地に組み入れられた部分を「橋場町」と称し、残余を「橋場町地方」または「地方橋場町」と称した」とある。
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