ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




金町浄水場第二取水塔。葛飾区金町浄水場。2003(平成15)年12月14日

金町浄水場の取水塔はレンガ造に見えるので、明治期に造られたのかと思っていた。調べてみると、金町浄水場は「1926(大正15)年8月。当時の南葛飾、南足立、北豊島3郡の12町村を給水区域とする「江戸川上水町村組合」の施設として給水開始」ということで、明治どころか、ほとんど昭和になってから出来た設備だった。1932(昭和7)に東京市に移管された。
上流側のトンガリ帽子の第二給水塔は1941(昭和16)年5月に出来た。この時代で構造がレンガ造というのは考えにくい。RC造レンガ貼りなのかもしれない。外観は第一給水塔に倣ったのだろうか。『東京都水道歴史館>金町浄水場』で、第一給水塔の写真を見ると屋根は平らで、特徴的な上部の飾りはない。また、このサイトには昭和14・15年制作の第二取水塔の写真が載っているが、どういうわけだろう。
ドーム型屋根の第三取水塔は1964(昭和39)年の完成。設備の増強に合わせて、第一給水塔を造り直したようだ。第一水位塔のすぐ下流に造られ、完成後に第一給水塔は取り除いた。第二・第三とも円筒形かと見てしまうが楕円形平面である。
金町浄水場のある住所は「金町浄水場」であることを当記事を書く過程で知った。


第三取水塔。2003(平成15)年12月14日

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志乃多寿司総本店。中央区日本橋人形町2ー10
1985(昭和60)年8月4日

甘酒横丁の人形町通りに近いほうにある「人形町志乃多寿司」の旧ビル。ビルの前にいろいろと邪魔なものが映り込んでいてビルの詳細がよく分らないが、旧ビルを撮った写真はこの1枚しかなくて、けっこう珍しい写真かもしれない。
志乃多寿司総本店は1877(明治10)年創業という老舗。いなり寿司・のり巻きが主力の大阪寿司の店だ。ここからのれん分けされたのが「神田志乃多寿司」「四谷志乃多寿司」「浅草志乃多寿司」。
現在のビルは「メインステージ日本橋人形町」(2000年9月築、12階建49戸)というマンション。写真右は「井上美容室」で、現在も写真の建物で営業中。「パーマ」の看板は今はない。

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岩井つづら店。中央区日本橋人形町2-10
上:2010年10月19日、左:1985(昭和60)年8月3日

岩井つづら店は甘酒横丁と人形町通りの裏通りとの角にある。テレビの人形町を散歩する番組でよく登場する。地下鉄人形町駅から明治座への往復で甘酒横丁を通る人は多いから、小さな店ながら目にした人は多いと思う。最近(2014年)、写真の建物が建て替わって3階建のビルになったので、旧店舗を記録しておく。
この周辺は空襲から免れているが、つづら店の建物は戦後のものと見当が付く。1947(昭和22)年の航空写真を見ると、甘酒横丁の北側が一列に白っぽく写っている。どうも、建物疎開で甘酒横丁が広げられて、戦後にまた建てられた家が写っていると思われる。

『東京路上細見2』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)から岩井つづら店を記述した箇所を紹介する。

 角の「岩井つづら店」。ここのようにすべて手作業でつづらをつくる店は東京全体でも2、3軒のこるだけという。つづらは、竹で組んだかごに和紙を貼り、漆で上塗りをし、家紋を入れる。軽くて通気性のあるつづらであるが、庶民のものであった柳行李(やなぎごうり)と比べると高級品であり、昔は歌舞伎などの役者の衣装入れに用いられた。今では5000円ほどの小箱が、ネクタイ入れ用に結婚祝いとして贈られることもあるとか。店の中には黒と赤のつづらが天井まで積み上げられ、和紙を貼ったかごは店先の歩道で乾かされている。4代目の当主、奥さん、息子さんが、ここで和紙貼り以降の作業をする。竹の目をきれいに出すように和紙を貼るのがポイントで、漆塗りにほこりは大敵と岩井さんは言う。アンティーク好きの若い人や外国人の注文や、全国からの注文があって、手に入れるには半年待たねばならないそうだ。



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松島神社
中央区日本橋人形町2-15。1986(昭和61)年4月13日

写真の通りは「大門通り」で、新大橋通りから北へ入ってすぐのところ。玉垣が写っているだけで、建物の様子はさっぱり分らない。桜が咲いていたから撮ったのだろう。それでもビルに変わる前の様子の写真は珍しいだろうから掲載してみた。
現在は「松島ビル」(1994年築、11階建)の1階に収まっている。
この辺りの住所は大震災前は「松島町」といった。松島神社にちなむ町名で、1713(正徳3)年の起立。1933(昭和8)年2月に「蛎殻町4丁目(大門通り東側)、人形町1丁目」に、1976(昭和51)年1月に「日本橋人形町2丁目」に変更された。
中央区立図書館>地域資料室』で、「松島神社」を画像データ検索すると、1981(昭和56)年撮影の拝殿と社務所を収めた貴重な写真が見られる。

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金井荘。荒川区南千住5-29。2013(平成25)年11月6日

南千住仲通りの中央辺りの四つ角を南へ入ったところにあったアパート。写真右奥はJR常磐線のガード。街灯は仲通りと同じものだ。「金井荘」は1969年の住宅地図から。割と幅のある建物で、写真手前の路地に入口があるが、そこから廊下が奥へ通じていてその左右に部屋が並んでいたのかと思う。
「Beauty Art Pane」の看板の店はなんとなく美容院のように感じていたが、paneは窓ガラスなのでステンドグラスを作っているのだろうか? その隣は「稲穂」(料理屋?)、1軒おいて「楽天」という居酒屋。
現在は「ティーケーメナー」(2014年6月築、3階建9戸)という小さいマンションに建て替わっている。

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倉本酒店。荒川区南千住5-24。2013(平成25)年11月6日

「南千住仲通り」商店街の西側入口は、都電三ノ輪橋への通路として知られている日光街道に面する梅沢写真会館の100m北に開いている。商店街の通りは、2階建の看板建築風の建物が基本のようで、すでにその半分以上が住居に建て替えられているように感じる。450mも続いてJR南千住駅の近くの日光街道に至る。住宅街の中を東西に通っている、近隣の住民を顧客にした商店街で、やはり近年は衰退してきている。
写真は日光街道から入って100mほどのところ。倉本酒店の右は「チヨダハイクリーナー」の看板の店だが廃業しているようだ。さらに右に「やぶ茂」という蕎麦屋。写真奥は丁字路で、商店街は少し左に振れる。写真の家並みの向かい側に「洋家具製造卸 山田商店」の平屋の建物や、「中華料理 一番」があるが、共に閉店している。『 Deepランド>「南千住仲通り商店会」南千住、日光街道沿いの人情深い商店街』がこの商店街を詳しくレポートしていて、山田商店や一番の写真はそこで見ることが出来る。




上:澤田家具店、左:紅屋呉服店
南千住5-24。2013(平成25)年11月6日

澤田家具店は後の平屋が製作所なのかもしれない。1969年の地図では平屋の後の駐車場とその東側が「工場」で、澤田家具店の工場だったらしい。写真右奥を左に入ると「家具製造卸 澤田工業所」の古い3階建ビルがある。家具店と関連がありそうだ。
澤田家具店から右(東)へ3軒目の紅屋呉服店は2020年頃には看板を外してしまった。

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上:清華亭、味美。豊島区南大塚1-58
左:家庭料理 まきしま。南大塚1-50
2006(平成18)年12月6日

大塚駅前から大塚三業通りに入って230mのところの交差点、その北の角から3棟の戦後の看板建築といえる家がならんでいた。写真では右端の1棟(2008年2月のストリートビューで「らん」という店と分る)が端だけ写っている。3棟の別個の家だが外観を揃えているのは、通りをすっきりと見せたいからだろうか。現在は「日神パレステージ大塚」(2011年9月築、11階建29戸)というマンションに替わっている。

「まきしま(巻島)」は清華亭があった四つ角を西へはいったところ。前の道路は暗渠になった谷端川の流路から都道436号(プラタナス通り)へ上がる坂道だ。今も建物が残っている。撮影時は営業していたようで、建物角のショーウインドーにメニューが出ている。

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スナック泉。豊島区南大塚1-51。2006(平成18)年12月6日

大塚三業通りの大塚駅の近くにあった和風の大きな建物。料亭か待合だったのだろうか。後には3階建と見える棟があるが、同時に取り壊されたから一体の建物だったのかもしれない。通り沿いの1階には3軒の店が入っている。「スナック泉」は中央の紺色の壁、右は「スナック・ニューホース」。建物の解体時まで営業していたようだ。左の黄色い日よけは、解体前は「JOJO」というヘアサロンだった。
現在は「グレスコート大塚Ⅱ」(2021年2月築、10階建18戸)というマンションに替わった。

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松し満(まつしま)。豊島区南大塚1-60。2006(平成18)年12月6日

JR大塚駅南口のすぐ東のところ。松し満の裏は山手線の土手で、松し満の前の左右の道は大塚三業通りから分かれて、線路の土手の下に沿って東西に通っている道。その道と土手の間に1列に家や小さなビルが並んでいる。
現在、大塚三業通りの小さなビルに「割烹 松し満」という居酒屋のような店がある。「食べログ」には「創業は昭和23年で料亭としてお店を構え」とあり、その料亭が写真のものだろう。「2012年にカウンター割烹として、今の場所へ移転」ともある。
写真の建物は今も健在。住居になっているのだろうか。



千草。南大塚1-54。2006(平成18)年12月6日

駅前から大塚三業通りに入ってすぐのところ。現在も写真のままの家並みだ。写真右手の破れた日よけの店は喫茶店だったような構え。右端は「鈴木不動産」。3階建てのビルは焼鳥の「鳥晶」。写真左奥は「割烹 水たき 千草」。大塚三業地をレポートしたサイトには必ず登場する。「料てい」の丸い鑑札がついている。

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