ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京電力下谷変電所。台東区上野6-8。2007(平成19)年4月20日

写真の変電所があったのは、住所は上野でJR上野駅からも間近なところだが、「御徒町」と呼びたい場所である。旧町名は「仲御徒町(4丁目)」で、現住所に替わったのは1964(昭和39)年。地下鉄日比谷線の仲御徒町駅は1961年の開業で、当時の町名が付けられた。JRの高架線路から昭和通りの間が仲御徒町、昭和通りの東が御徒町だった。上野6丁目は上野駅のそばということで、昭和50年頃までは小さな旅館、つまり駅前旅館が多く集まっていたようだ。
下谷変電所は1931(昭和6)の建設、という以外は詳細は不明。外観の、上に太くなっていく飾りの柱、入り口の柱と庇、八角形の縦長の窓が奇抜なデザインで特徴的である。ドイツ表現主義の影響ともいわれる。曲線から連想される様式にアール・ヌーヴォーがある。あるいはそれに関連付けられないかとも思うのだが……。
2015年に取り壊され、現在はホテルが建った。

東京都交通局の下谷変電所というものもあった。1966年の住宅地図では上野5-21に「東京都交通局電気部第三変電区下谷変電所」という記載がある。都電のための施設だったのだろうが、現在はただの空地。少し前は「吉池」の仮店舗があったようだ。今も都が所有しているのだろうか?

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黒沢ビル。台東区上野2-11。2007(平成19)年10月24日

風俗店飲食店が立ち並ぶ上野仲町通りにある黒沢ビルは1929(昭和4)年(1930年という資料も多い)に、眼科医の小川剣三郎(1871-1933)が「小川眼科病院」として建てた。RC造3階地下1階建。小川は竣工後4年で脳溢血で急逝、後を継いだ黒澤潤三郎(小川の親族という)が医院長となったため黒沢ビルの名称になった。「正面1階の鉄平石張,尖頭アーチ窓やコンクリート製幌状の庇など表現派風意匠に特徴がある。屋上には温室風の紫外線療法室が残り,室内随所に小川三知作ステンドグラスをみることができる」(『文化庁>国指定文化財等データベース』)。
小川三知(1867-1928)は大正期から昭和初期に活躍したステンドグラスの作者として有名。小川剣三郎の実兄である。黒沢ビルのステンドグラスは建設前に既に完成していたらしい。三知はビルの竣工を見ずに亡くなった。
現在、ビルの見学会が月に一度行われている。予約と寄付が必要だが、透過光による本来のステンドグラスを見ることができる。



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Once Upon A Time。台東区上野1-3
1986(昭和61)年6月22日

昌平橋通りの裏に残っているレンガの蔵を改装したバー。蔵の前の道は近年「五軒町通り」と名付けられた。右に行くとすぐ外神田6丁目になり、その旧町名が神田五軒町だった。ちなみに蔵のある住所の旧町名は「西黒門町」。
酒屋の倉庫だったという。写真左の家は撮影時の地図では「池田ビル」だが、そこに出桁造りの酒屋があったのかもしれない。蔵は明治期のもので、関東大震災と空襲を生き延びてきている。レンガ造は地震に弱いとされているが、あるいは木材の柱や梁が使われているのだろうか?『Google古地図>昭和22年航空写真』を見ると、蔵の背後や横は焼失しているが、蔵の向かい側、上野1-4、5番地は焼失を免れている。今も昌平橋通り沿いに看板建築の7軒の長屋が残っている。蔵の斜向かいの古い日本家屋も戦前からのものかもしれない。
バーの開業は『上野経済新聞2013.12.10』の記事から推定すると、1976(昭和51)年。すでに老舗だ。

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学士会館。千代田区神田錦町3-28。1988(昭和63)年11月8日

今はレストラン、ホテルが一般の人が利用できる施設だが、学士会の会員のためのクラブハウスとして建てられた。学士と言っても会員は旧帝国大学を卒業しているか、その教授に限られる。つまり、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学の7校。
設計はコンペの一等当選案、高橋貞太郎のデザインを佐野利器(としかた)が構造設計してまとめた。コンペは一般公募ではなく、学士会会員に限ったようだ。1926(大正15)年6月に着工(最初の予定では1923(大正12)年9月1日、つまり関東大震災で延期された)、1928(昭和3)年4月末に完成。会館のオープンは5月20日。RC造の4階地下1階建。
学士会館という建築』(東大教授・鈴木博之「学士会会報」2008年)に、建設当時の学士会館を紹介した建築学会発行の雑誌の記事が紹介されている。建物の外観について「…簡素質実は常に全体の設計に考慮された事であるが、然かも端麗にして、冒し難き気品を有し、会員が社会に対して恃すべき態度其のものを会館の外貌として居るので、古典建築の有する雅味と、荘重と、近代建築の有する気品と明快と、此の四つの要素が調和されて、新会館の様式が生れ出たのである」。当サイトにはコンペの、高橋貞太郎、北澤五郎、中村與資平の各プラン(透視図)が載っている。
昭和11年、2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれ、昭和17年には屋上に高射機関銃が据えられという。戦後は米空軍に接収され、「学士会館士官クラブ」として使われた。返還されたのは昭和31年7月21日。



学士会館新館。1986(昭和61)年9月23日

旧館から後退して建つ5階建ての部分は、1937(昭和12)年9月20日の開業の新館。設計者は藤村朗(あきら)。三菱地所の社長になった人だ。兄の藤村操(みさお)は1903(明治36)年に華厳滝で投身自殺したことで有名。
学士会館の運営は最初、築地精養軒に任された。昭和7年10月に「学士会館精養軒」として独立、今も続いている。

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今荘。千代田区神田神保町3-15。2006(平成18)年3月31日

さくら通り西側の入口の交差点に向いた角にあるうなぎ屋。大通りは、一般的になっているのか疑問だが「雉子橋通り」で、靖国通りから北は「専大通り」という。この辺りはいつのまにか集英社のビルが立ち並んでしまった。
店のメニューは「うな重」の一品だけで、座敷席だという。角の隅切りした面に装飾を集中させている。3階の千鳥破風、2階の看板と丸窓、1階の唐破風といった造形で、和食を提供する店だと判る仕掛けだ。それらがないとただの家になってしまう。またそれがあるために看板建築ということになっている。
千代田区>景観まちづくり重要物件>今荘』によると、竣工=昭和 8 年(1933)頃、設計者=佐藤組。「震災復興期の木造3階建の建物で、看板建築の一種ともいえるが、独自の和洋折衷デザイン、特に、震災復興の区画整理で初めてできた角地の隅切りを活かしたファサードが印象的」としている。千代田区景観まちづくり重要物件の指定は平成 15 年6月。
今荘は明治30年(1897)に、牛鍋屋として創業したという。それが1980年頃まで続いていたらしく、昭和30年頃の火保図は「今荘牛鍋料理」、昭和44(1969)年の地図では「今荘食堂」、昭和52(1977)年では「すきやき今荘」という記載だ。うなぎ屋になったのは案外と新しいようだ。

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朝田質店。千代田区神田神保町2-21
1987(昭和62)年11月1日

さくら通りの裏に今も残っている看板建築の建物。しもた屋になっているのだろうが、正面の「看板」部分は建築時の状態がよく保たれているように見える。大中小の半円アーチを使ったデザインが面白い。地図で質屋だったと知らなければ個人医院かと思ってしまうだろう。写真では壁の色が何色ともつかないのだが、1994年に撮った写真では白く塗り直されている。
昭和30年頃の火保図では「朝田友一質ヤ」。その地図では写真左の「平田染工」が「平田化学工業KK」ですでに載っている。

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第一相互銀行別館。千代田区神田神保町2-19
左:1983(昭和58)年9月、右:1991(平成3)年6月30日

神保町のさくら通りに今も残っている銀行だった建物。『日本近代建築総覧』では「第一相互銀行(旧相互無尽会社)、建築年=昭和5(1930)年、構造=RC4階建、設計・施工=安藤組」。
『ウィキペディア』によると、「相互無尽株式会社」は1911年に「相互貯金株式会社」の名称で神田神保町(現在地なのだろうか?)に創業。 1951年10月、相互銀行法の施行で「第一相互銀行」とした。80年代には地上げ屋や暴力団の総会屋も絡んだ融資で問題になり、大蔵省の指導で1989年10月に「太平洋銀行」が発足。それも1996年3月に経営破綻。6月にさくら銀行(2001年4月、住友銀行に吸収合併され「三井住友銀行」に)の出資で「わかしお銀行」が発足。2003年3月、三井住友銀行と合併。
左写真の頃はまさに第一相互銀行別館で、横丁の向かいに「第一相互銀行本店」があった。右写真は太平洋銀行だった時期。
東京 DOWNTOWN STREET 1980's>千代田区神田神保町~その一(2011.05.03)』で1981年撮影の写真を見ることができる。横丁側入り口上部の長方形の出っ張りが井形の飾りだったと判る。



左:旧第一相互銀行別館。2007(平成19)年4月14日
右:三井住友銀行千代田営業部
2009(平成21)年12月撮影のストリートビューより

太平洋銀行は2003年3月に三井住友銀行に替わり、神保町の店舗は「千代田営業部」といった。その後、2012年10月で廃止され、駿河台下の神田支店に統合され、そこが神保町支店となった。現在は千代田営業部のビルは建て直され、2015年5月に「神保町寮」(10階地下1階)として竣工した。マンションなのだろうか?
別館は周囲にビルが建ち、さくら通り側の入口が塞がれている。2009年に外装を改装して塞いだ部分や白く見える壁の部分もきれいになった。横の壁のスクラッチタイルを持ってきて貼り直したりしたらしい。

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小林自転車店の四軒長屋。北区滝野川6-66。2018(平成30)年6月21日

きつね塚通り商店街の中ほどに、少しずれてはいるが変則五叉路の交差点がある。そこに写真の四軒長屋がある。正面右の「小林自転車店」が営業している。左の「寿々松」は甘味処で和菓子屋のようだが、ネットに出てこないので廃業したようだ。その右は「理容 赤坂」だった店。
建物は戦前に建った看板建築の長屋かと思ったが、屋根が片流屋根なので、あるいは戦後まもなくに建てたのかもしれない。昭和22年の航空写真に写っている建物だと思う。その写真では左にもう一軒(イナリ堂薬局)あった五軒長屋だったようにも見える。



斎藤商店。滝野川6-81。2018(平成30)年6月21日

四軒長屋の向かい側の角は「斎藤商店」という駄菓子屋。『駄菓子屋探訪ブログ>斎藤商店(2016.12.03)』にレポートされている。写真では「玩具模型教材さいとう」の袖看板を下ろしてしまっているのが心配だ。
写真の右の路地を入ったすぐ右に「佐藤医院」という『日本近代建築総覧』に載っている医院があった。「佐藤医院、滝野川6-79-1、2階建、タイル貼」という記載。

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六軒長屋。北区滝野川6-83。2018(平成30)年6月21日

きつね塚通り商店街の神召キリスト教会の北隣は「神召教会教育館」で、その向かい側に写真の長屋がある。「フタミヤ」が二軒分を使っているとして六軒長屋である。元はモルタル壁の看板建築風のものだったようだが、片流屋根の簡便な造りだ。戦後の昭和30年前後の建物ではないかと思う。長屋の裏は屋敷といっていい、庭木に囲まれた平屋の大きな民家で、この辺りの旧家かと思わせる。長屋はそのお宅の家作かと思う。
長屋は現在、貸店舗の「アートコ」と「しゃぼん玉」の二軒と「鳥瀬」という居酒屋が営業している。1984年の地図では手前から「中西クツ、分陽軒、正光カメラ、ふたみや、お茶漬け莵」。フタミヤはどういう店だったのだろう?

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神召キリスト教会。北区滝野川6-64
2018(平成30)年6月21日

滝野川銀座商店街(旧中山道)の埼京線の踏切から130m東に「きつね塚通り」という商店街が、北の国道17号(中山道)まで通っている。滝野川銀座から入ってすぐのところに「神召(しんしょう)キリスト教会」がある。建物は『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年、2900円)では「神召キリスト教会(旧聖霊教会)、建築年=1927(昭和2)年、設計・施工=不詳/不詳。にぎやかな街角にたたずむ、ひっそりとしたプロテスタント教会」。RC造2階建である。
正面の壁から出ている4本ある柱の上部が槍のような形にしているのが、ゴシック様式の建物によくある造形で、教会を表す外観になっている。しかし一見すると医院のようにも見えてしまう。庶民的な商店街に面して建つ教会に適した外観といえると思う。

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