ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



誠文堂新光社。千代田区神田錦1-5。1986(昭和61)年6月22日

誠文堂新光社は主にペット、園芸や理工系の雑誌や本の出版社。会社のHPによると、1912(明治45)年の創業。「誠文堂」の社名で書籍取次店としての出発である。昭和10年に新光社と合併して誠文堂新光社の社名になった。戦後すぐの『日米会話手帳』はこの会社の出版だった。
「子供の科学」が有名だが、戦前なら大正11年創刊の「科学画報」だろう。ぼくの父がこの雑誌を読んでいて、ご丁寧にも数冊ずつ製本してあったので昭和7~10年の号がいまだに我が家の本棚に納まっている。ぼくは子供の頃から時々取り出しては眺めていたのだが、おかげで世間離れした変な大人に成長してしまった。昭和7年の「科学画報」は新光社(東京市神田区錦町1-19)の発行で、新光社の代表者は小川菊松、誠文堂の創業者である。新光社は誠文堂の出版部門だったのかとも想像できる。
写真のビルは1932(昭和7)年の建築。スクラッチタイル貼りの壁面、丸窓、アールデコ風の塔屋というモダンな外観は今みると昭和レトロそのものだが、建築当時は斬新にみえたのだろう。『Site Y.M. 建築・都市徘徊>誠文堂新光社』によると2005年4月に解体された。『廃景録>誠文堂新光社』にはビルの裏側の写真も載っている。

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長田ビル。台東区駒形2-2
1987(昭和62)年10月4日(2枚とも)

前の通りは春日通りで、右手にすぐ厩橋、左手には江戸通りとの厩橋交差点である。現在、長田ビルは建て替わってエポック社の本社ビル(2001年7月に駒形1丁目から移転)になっている。2001年12月には都営地下鉄大江戸線が開通して、撮影場所(ビルの向かい)に蔵前駅の出入り口ができた。
「長田医院」の看板が目立つからビル全部が長田病院かと思ってしまうが、1986年住宅地図では「長田ビル/長田医院・東京イエス浅草集会所・白菊印刷」という記載。1955年区分地図には病院のマークがあるから、元はやはり病院だったのだろう。

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駒形橋西詰交差点。台東区駒形2-7。1988(昭和63)年5月14日(2枚とも)

右奥への通りが江戸通り、左手へ行く通りが浅草通りで、写真左端に都営地下鉄浅草線の浅草駅の出入り口がある。その前を左に進めば駒形橋だ。交差点の角は千代田生命東京支社、そこから右へ、橋本ゴム工業旧館(「旧館」はぼくがかってに付けた)、同新館、鰻の前川、側面だけ見えているのがリボ駒形。
千代田生命のビルは「浅草駅前儀式ホール」となって残っている。橋本ゴム工業は2棟まとめて「シティハウス浅草ステーションコート」(2005年3月竣工)というマンションになった。2003年に「株式会社ハシモト」に商号変更して文京区湯島に移転している。前川もビルに替わり(前川ビルは1989年10月の竣工。正面から写真の家を撮影しておけばよかった)、店舗はすぐ裏の隅田川河畔に移った。


橋本ゴム工業

橋本ゴム工業(現・株式会社ハシモト)は1925(大正14)年の創業というから、写真のビルは創業後わりと早い時期に建てたものと思われる。

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日山肉店(写真左)。中央区日本橋人形町2-5。1985(昭和60)年3月8日

人形町通りの人形町交差点と甘酒横丁交差点との中間辺り。日山は昭和2年の創業で建物は大正時代というから、建物は創業時に建てたものかもしれない(大正15年と昭和2年との間は1週間しかない)。人形町の肉店では今半と双璧をなす。2階はすき焼の割烹店。もう20年くらい前になってしまったが、一度だけなにかの会食で上がったことがある。
2枚目の写真が1985年2月、上の写真は同年3月の撮影である。その間にアーケードが取り払われ、街灯が取り替えられている。



パチンコ正村。1985(昭和60)年2月17日。左下は昭和初年と思われる梅園のマッチラベル

パチンコの正村は料理屋だったような外観で、昔は「梅園」だったと聞いた。浅草のあんみつ屋が人形町にも店を出したのかとも思うが詳しくは知らない。昭和8年の火保図では「ソバヤ梅園」。戦後の昭和25年の『人形町全町詳細図』(町会から配られるような住宅地図)では「西・中華料理明華」。ぼくが知っている昭和34年にはすでにパチンコ屋だった。いまだに続いているのだから東京でも古くからある店に入ると思う。芳町通りの「パチンコ百億」も同じくらいの歴史がありそうで、人形町にはパチンコ屋にも老舗が存在する。

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有精堂。神田神保町1-39。左:1987(昭和62)年1月1日、右:1996(平成8)年5月4日

すずらん通りから2本南の裏通りにあった。書籍の取次店が多い場所だから有精堂もそういう会社かと考えたが、『総覧』に「有精堂出版K.K.、建築年=S4」と載っていた。出版社らしい。
現在は建て替わったビルに「弘正堂図書販売株式会社」の看板がかかっている。



檜画廊の4軒長屋
千代田区神田神保町1-17
上左:1987(昭和62)年11月8日
上右:1987(昭和62)年
左:2001(平成13)年10月

すずらん通りの中ほどにある、看板建築にした4軒長屋の店舗。上の2枚の写真はアーケードがあった時代のものとして出してみた。ブレ写真なので小さい表示で。左下の写真がほぼ現在の状況。1986年の住宅地図では、手前の角から、檜画廊、中山書店、大野カバン店、楽々(中華料理)。
建物最上部の軒の飾り帯は、よく見ると三角形の形と大きさが揃っていない。ゲージなど用いず手書きしたようで味がある。

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フクヤ美容室。中央区日本橋人形町2-22。1987(昭和62)年2月22日

大門通りの甘酒横丁との交差点からすぐ北の辺り。大門通りから東側は旧住所では浪花町である。写真右のビルは「二葉亭ビル」。現在もあるビルだが今はGoogleマップでは「京樽人形町ビル」。その角を入って次の四つ角に、撮影時には「東京芳町会館」があったようだが今はどうなのだろう。
写真左の日本家屋は「牧野商店」で、現在は牧野商店とフクヤ美容室が6階建てのオフィスビルになっている。


左:牧野商店。日本橋人形町2-22。1988(昭和63)年1月29日
右:大勝軒本店。日本橋人形町2-22。1987(昭和62)年2月22日

出桁造の両脇に防火壁を張り出させた建物が牧野商店。見たところ戦前の建築に見えるが、大門通りから東側はほぼ空襲で消失した地区になるので、この家も戦後に建て直されているかもしれない。
牧野商店の左は大幸ビルで、現在も「人形町眼科クリニック」の看板を出している。このビルの隣が小林ベーカリーのビルで、その角を東に入ったところが右の写真。写真右端が小林ベーカリーのビル。中華料理の大勝軒はかなり有名な店だった。大勝軒という店名はよく目にする。この店が本店だか元祖なのかもしれない。「ラーメンと餃子」という店ではない。シュウマイはたいていの客が頼んだ一品だったが、餃子はメニューになかったと思う。家族でご馳走を食べに行くという感じの店だったが、昼食ならシュウマイとラーメンで済ませる場合もあった。ラーメンは日本そばの器で出てきた。そのせいか味もなんとなく日本風のあっさりした感じだったように覚えている。
ネットで調べると「人形町大勝軒系」という暖簾があって、その大元だった。1912(明治45・大正1)年の創業である。現在、人形町3丁目にある大勝軒は1987(昭和62)年に暖簾分けされたものらしい。
建物は、タウン誌の記事でだが、昭和28年に建てられたものと覚えている。入って左の窓にはステンドグラスがはまっていた。
現在は大勝軒ビルに替わった。大勝軒という喫茶店を開いているという。



香月。中央区日本橋人形町2-22。1987(昭和62)年2月22日

大勝軒の並びで東の方を見ている。木造の家は戦後まもなく建ったものだろう。写真右端は「山一」で、大勝軒から3軒先。山一のビルと写真中央左よりの白い壁の家とが現存している。それ以外はビルに建て替わった。

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久留米屋。中央区日本橋人形町2-3。1989(平成1)年11月5日

人形町通りの甘酒横丁交差点の南、人形町2丁目側の町並み。写真左端が甘酒横丁交差点、右手が水天宮の方向。撮影時には左から、玉英堂(和菓子)、ジョリー(婦人服)、吉野家、パール(喫茶)、空家(旧野本洋品店)、久留米屋呉服店、横丁を介して板倉屋(食品)である。久留米屋は営業しているようには見えない。
現在はどうなったかというと、玉英堂、ジョリーはそれぞれビルになったが店は続いている。吉野家は変わらず。パールは3階建てのビルに建替えたようだ。マクドナルドが入った。久留米屋は写真の建物のときに一度、中華料理店になったときがあった。今は野本洋品店も含めて3階建てのビルに替わって、「すし三崎丸」が入っている。

左:玉英堂、右:かねこ玩具店。日本橋人形町2-3。1985(昭和60)年8月3日

甘酒横丁交差点角の玉英堂。昭和30年頃までは「おかめ」という甘酒屋だったらしい。明治中期に創業された「尾張屋」という甘酒屋が同じ角にあって、そこから「甘酒屋横丁」と言われるようになり、現在の「甘酒横丁」になったという。
「おもちゃのかねこ」は板倉屋の角を入った、久留米屋の隣にあった店。写真右には喫茶店の「べねぜら」が少し写っている。この喫茶店は昭和25年の地図に出ているし、昭和8年の火保図には「キッサ」となっている。あるいは戦前から続いている店かもしれない。

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東嶋屋(そば)。中央区日本橋人形町2-4。1987(昭和62)年6月7日(2枚とも)

人形町通りから甘酒横丁に入るとすぐ有名な森乃園(ほうじ茶)と双葉(豆腐)が並んでいて、その隣が日本そばの東嶋屋。人形町を歩くテレビ番組では森乃園と双葉はよく登場するが東嶋屋はまず出てこない。普通すぎて、つまりこれという特色がなくて紹介しづらいのかもしれない。
現在の東嶋屋の建物を知っている人がこの写真を見れば、この建物のまま表面を改装したもの、と誰しも思うことだろう。ところが現在の建物は平成になって建替えたものである。せめて5階建てくらいにできただろうに、ご主人が頑固で「うちはこれでいいのだ」とでも言ったのだろうか。



写真左はビルになる前の双葉商店。東嶋屋の角から右奥へは、「鍼灸マッサージ藤倉治療院」の家がビルの裏口になってなくなったが、他の建物はだいたいが現存している。「宝や不動産」の向かいが有名な「人形町今半」。

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東西上屋(とうざいうわや)倉庫。横浜市中区海岸通1-1。2003(平成15)年2月8日(2枚とも)

現在は象の鼻パークの広場に変わってしまったが、つい最近まで東西上屋倉庫があって港横浜の景観を残していた。倉庫を残しておけば昭和30年代の横浜が実感できるところとして観光の目玉になったのではないかと思う。引き込み線に黒塗りの貨車を3両くらい置いたら鉄道ファンも見に来るかもしれない。
倉庫は大きな1号倉庫とその半分くらいの2号倉庫があった。写真の倉庫は2号のほうで、「東西上屋倉庫㈱梱包部」の文字がある。横浜税関の横の入口から入ってすぐのところから撮影。
東西上屋倉庫株式会社は終戦後の1949年の創業らしい。倉庫の建物はそのとき、茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫だった建物の資材を持ってきて建てたものだという。
倉庫を解体したときに、その下から明治時代のトロッコの「鉄軌道」と「転車台」が見つかった。どのテレビ番組だったか憶えていないが、この転車台がどう使われていたのかアニメで説明した番組を放送していた。



1号倉庫が写真左にわずかに写っている。中央右よりのビルは昭和ビル。撮影時は倉庫会社の敷地にかってに入ったような気がして、奥まではいかなかった。2001年2月に「横濱コレクターズモール」が1号倉庫に出来ていたから遠慮することはなかったのだが。
参考サイト:『神奈川の近代建築>東西上屋倉庫』
        『月刊旧建築(2008.04.12)』
        『筆不精者の雑彙(2008.10.19)』

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横浜貿易会館。横浜市中区海岸通1-1。1987(昭和62)年8月9日

大桟橋への入口になる開港広場の景観に重要な役割をしているビルである。角の正面に「社団法人貿易協会」の文字を置いているが、レストラン「SCANDIA」が入って永い。1963年からの入居らしいが、写真の昭和62年の外観―1階の青いテント、2階窓のデンマーク国旗のテント、2階上の文字等―は今もほとんど変わらない。横浜貿易会館の煙突と写真左端のキッコーマンビルは取り壊された。
建物は設計施工=大倉土木で1929(昭和4)年に、横浜貿易協会の事務所として建てられた。西隣の横浜海洋会館と同じ設計施工者、同年の完成である。横浜海洋会館を横に長くしたようでデザインは共通するものがあるが、角の両脇の、壁を張り出させた部分や3階窓の上下に庇を出しているのが独特な感じだ。これはやはり装飾なのだろうか。



1993(平成5)年5月5日

海岸通りの西から見た15年前の写真。横浜貿易協会の入口が海岸通り側にあるのに今気がついた。ここに写っている店は、スカンディア以外は現在は入れ替わってすでにない。2002年に撮った写真では「餐澤家?」のところがコンビニのampmだ。

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