ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




ナカタニ。港区新橋5-6。1990(平成2)年1月15日

上写真の前の通りは新橋の赤レンガ通り。新橋4~6丁目の日比谷通りと赤レンガ通りの間は空襲では焼け残った地区である。1990年頃なら横丁や裏通りに戦前の看板建築などが残っていて、ぼくは何枚か写真を撮っているのだが、どこにあった建物なのか判らなくなっている。
上の写真には「新橋赤レンガ通り」の標識があり、とりあえずストリートビューでその通りを眺めてみたが写真に写っている建物はすでになくなっているようだ。写真右にある「寿司長部」をネット検索したら「新橋の5丁目にあった「寿司 長部」さんが6丁目に移転」(2007年11月)と書かれたサイトがあった。通り名の表示板の右に配電盤のような箱と街燈と消火器の箱が並んでいる。現在も新橋5丁目の赤レンガ通りに、写真のものとは替わっているが同じアイテムが同じ順序に並んでいる場所があるので、そこだと判明した。


新橋紙業。1990(平成2)年1月15日

ナカタニは2軒の家を占有している。1軒は四つ角の角にあり、その角を曲がった隣に「新橋紙業株式会社」がある。写真ではよく分らないが、中央の円の飾りの中に富士山がレリーフで描かれている。建築時の会社のマークだろうか。この建物は残っているが壁を新建材で張りなおしていて、今では富士山を眺めることはできない。「新労働通信社」の表札が今も架かっている。


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兼坂ビル。港区新橋2-5
1990(平成2)年1月15日

前の通りは新橋の赤レンガ通り。写真右手に堀商店の古いビルが見える。日本旅行が入っているビルが兼坂ビル、写真左端の「キロニー 兼坂商事株式会社」の看板のビルが第二兼坂ビル。
兼坂ビルはこれという特徴のないありふれたビルに見えるが、縦長の窓で鉄筋コンクリート造の一昔前のものとは判る。よく見ると古典様式の面影がかすかに感じられる。昭和22年の航空写真に写っているビルと同じビルだろう。戦前の建築かもしれない。
現在は、兼坂ビルと第二兼坂ビルとがまとめて「新橋2丁目MTビル」(2000年3月竣工)に改築されている。

「新橋赤レンガ通り」の名称は割りと最近のものかと思っていたが、銀座煉瓦街が出来た同じ時期に、この通りも耐火建築のレンガ造りの建物が奨励されたことによるらしい。具体的には「清隆館」という観工場があったことに由来する、という説がある。命名の由来と、いつからその名称で言われるようになったかは別で、それが知れたいのだが。

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堀商店。港区新橋2-5。
上:1986(昭和61)年2月2日
左:1984(昭和59)年5月5日

外堀通りの赤レンガ通りの交差点(新橋二丁目交差店)の角に立つので、景観的にも重要な建物だ。1998(平成10)年4月に国の登録有形文化財になっている。『総覧』では「堀ビル、建築年=昭和7年、構造=RC4、設計=公保敏夫、施工=安藤組」。『都市の記憶>堀商店』によると、実際の設計者は小林正紹らしい。小林は「国会議事堂設計チームの中心であり神宮外苑の絵画館なども手がけた」人で、公保の実兄にあたる。小林は大蔵省の官吏(技師)という立場から、民間の建物を設計する際には公保の名義にしたり、共同ということにしたという。
外観は角を大きくアールをとって水平線の中に縦長の窓を並べたモダンな感じである。スクラッチタイル貼りの壁面なので山田守設計の千住郵便局に似たところもある。建物右の階段室から塔屋の縦のラインを強調したあたりは中世ヨーロッパ風だろうか。軒から出ているトゲトゲの飾りは他には見たことがない。
国の登録文化財に指定される前の平成元年に「東京都選定歴史的建造物」に選定されている。平成8年に外壁や窓枠などの補修工事が都の助成で行われている。



近影。2009(平成19)年6月8日

周りのビルのほとんどが改築されて高層化された。1枚目写真の昭和の時代の街並みは、堀商店から右の外堀通り沿いに、城南信金新橋支店(横丁)新橋亭別館、青柳ビル、森薬舗、大黒屋ビル。
城南信金は堀商店の左にもある。城南信金のビルが堀商店を囲むようにL字型の平面で、建て替わったEXER新橋も同じだ。

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高野湯。神奈川県三浦市三崎2-3
1994(平成6)年5月2日

すずらん通り商店街を北へいくと、細い道路と交わる四つ角から街燈の表示が日の出通りに変わる。その角のすずらん通り側に高野湯という銭湯がある。高野湯は明治43年の創業で、建物は大正期のものらしい。2006(平成18)年9月30日で閉店、廃業した。現在、跡地は空地のままで、駐車場になっている。
左の写真は横丁の側、高野湯の後ろのほう。燃料は重油を使っていると判る。
掲載した写真は撮影時の天候があるにしても、アングルも考慮してない。幸い、高野湯を記録して写真などを公開しているサイトが幾つかあるのでリンクさせていただく。
風呂屋の煙突 高野湯
『風呂屋の煙突> 高野湯(再訪)
今日も銭湯。 高野湯
銭湯wiki 高野湯

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蘭。神奈川県三浦市三崎2-12。2007(平成19)年11月17日

写真左奥に三崎港と城ヶ島大橋が写っているが、写真左の道路は県道26号(三崎港通り)と三崎銀座通りを結ぶ道路の一本だ。写真中央の家は、その外側の造りからスナックだった家だろう。看板などがないからもう営業はしていないようだ。ただし、ストリートビューを見たら、「蘭」の看板が出ていた。最近、開店したのだろうか。



溝川酒店。三浦市三崎2-14。2007(平成19)年11月17日

1枚目写真の左奥に写っている酒屋。看板建築のデザインは 旧福島商店と同質で、壁の色調も同じである。店名の看板がないのだが、普通に営業しているように見える。三崎1丁目の日の出通りにも溝川酒店があって、電話帳には日の出通りの店しか出てこない。両者の関係はどういうものなのだろうか?
左上の写真はシャッターを押すときしっかり立ち止まっていなかったらしく、ぶれている。ちゃんとした写真を載せているサイトとして、『 ろぢうらデジャヴ 大橋と看板建築と(2011.01.30)』を紹介しておく。

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杉山洋品店。神奈川県三浦市三崎2-11。2007(平成19)年11月17日

ルミエールや靴の東京堂がある四つ角にある、今も商売が続いている洋品店。角の隅切りした部分をきちんとデザインした看板建築だ。



蔵造りの茶舗。三浦市三崎2-11。1994(平成6)年5月2日

1枚目写真の右へ行ったところにある蔵造りの店。新茶のポスターが見えるので茶舗と分かる。この建物は「チャッキラコ・三崎昭和館」として2010年3月27日に改めて開館した。それまでは茶舗の商売は続いていたようだ。三崎昭和館を紹介したサイトから仕入れた情報だが、建物はなんと1902(明治35)年に建てたもので、当初は米屋だったという。肝心の店名が判らないのだが、あるサイトの写真に「大橋商店」「大橋清左衛門商店」の茶箱が写っていたからそれかもしれない。( 『 三崎・城ヶ島観光 散策レポート チャッキラコ・三崎昭和館編』、『 素顔のままで(2011.02.08)』参照)
三崎昭和館の隣は「泰山丸本店」という事務機・文具の店で、正面は看板建築風だが横を見ると蔵造りの建物のように見える。1880年創業の神奈川県最古の文具店だそうだ。



ふじ商事。三浦市三崎2-12。1994(平成6)年5月2日

三崎昭和館の向かい。写真中央の民家は、今は建て替えられた。写真右の開店祝いの花輪がある店は、黄色いネオン管が取り付けられたりしていて、パチンコ店かと連想が働くのだがまさにそうだった。会社名は「ふじ商事」と判るが、店名は「エリート」だろうか? 『閉店したホール』というサイトにあった「三浦市/ふじ」である。

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靴の東京堂。神奈川県三浦市三崎2-12。2007(平成19)年11月17日

ルミエールのある四つ角の南西の角。商売は廃業して看板も消してあるが店構えはまだそのまま残っている。2階の壁一杯に取られた窓とその上の鍵形に連続して張り出した庇がちょっと珍しい造りだ。



旧電気店。2007(平成19)年11月17日

1枚目の写真の右端に写っている元商店。シャッターに日立のマーク認められるので電気店だったかと推定した。建物の横は蔵作りの家のように見えるが外観だけを蔵造りにした木造家屋なのだろうか。通りに面した横側を看板建築にしている。

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ルミエール。神奈川県三浦市三崎3-2。1994(平成6)年5月2日

三崎公園から三崎銀座通りに入って東へ行くとやがて十字路がある。ここから北へ向かっている商店街が「すずらん通り」になるらしい。三崎銀座通りより少し道幅は広いように感じる。
その角にあるのがルミエール。スナックだろう。同じ家の北側は「六」というマグロ料理の店。駐車場の空地、「やなぎ」という洋品店と、現在も同じだが、六は「磯料理・おお田」という店になっている。


永村履物店。三崎3-4
1994(平成6)年5月2日

松月商店からルミエールまでの短い間にも、中華料理の牡丹、サトウ薬局、居酒屋の音羽、有魚亭、などの古い建物、その間の旧商店が両側に並んでいる。永村履物店は、今は廃業したが、写真では看板は割りと新しく見える。所々で見られる蔵造りだがちょっと変わった店先の造りである。

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新橋志乃多寿司。港区新橋2-6。1986(昭和61)年2月2日

甘粕ビルの右隣が中国料理の新橋亭本店、その隣が新橋志乃多寿司だった。志乃多寿司といえば稲荷ずしを主力にしている店だ。写真からは料理屋(料亭志乃多寿司)も営業している。この建物は裏の路地まであるから、料理屋もけっこう大きかったかも知れない。2階は障子が見えるからお座敷だったようだ。軒についているマークは袖看板のものと同じで、人形町総本店も同じマークを使っているから志乃多寿司のマークである。ということは、新橋志乃多寿司が建てたビルなのだろう。
後に「新橋モダン食堂」になった。『 都市徘徊blog>新橋亭本社ビル、新橋モダン亭』によれば、その店は2005年2月末で閉店し、新橋亭より先に解体された。

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織田ビル、中和ビル。港区新橋2-6。1986(昭和61)年2月2日

織田ビルの4階中央にあるのは大黒天像。黒いだけでなんだか分からないが、『異都発掘』(荒俣宏著、集英社文庫、昭和62年)の写真を見ると、金網の中に納まっている。商売繁盛の神だから置かれたと解釈できるが、やはり不思議な感じする。部屋の中に置物としておいて置くだけではすまなかったのだろうか。
織田ビルは、『 近代建築撮影日記>港区新橋界隈①』の写真では、1996年にはすでに現在のビルに建て替わっている。



甘粕ビル。新橋2-6。1986(昭和61)年2月2日

外堀通りに面して並んでいる織田ビル、中和ビル、甘粕ビルが実は「新橋共同建築」の名前で復興建築助成株式会社が造った一体の建物だと知ったのは、『 都市徘徊blog>新橋共同建築(2010.07.26)』によってだった。そこにリンクされている資料を今になって読んでみた。
『復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の「共同建築」の計画プロセスと空間構成に関する研究』というレポートで、2006年の論文集に載ったもの。執筆者は栢木(かやのき)まどか、伊藤裕久(ひろひさ)で、東京理科大の大学院生と教授である。
ビルの平面図が載っている。3棟に見えるビルのそれぞれの敷地は3人の土地利権者の持分と同じで、共有部分はない。外観をまったく異なるデザインで建てているのだから共同建築にする意味はなさそうに思える。復興助成会社は3人の建主の建物に対する要請を全面的に受け入れて、本来の共同建築を建てようとはしていないようだ。
論文でも言及しているが、助成金を受けるために復興助成会社を立てる必要があったようだ。また、各建物の境界の壁は共有できるから個々に建てるよりは安くつくのも確かだ。復興助成会社も実績を増やしたかったのかも知れない。



1984(昭和59)年5月5日

前記論文には助成会社による共同建築の例を10件、表にして挙げている。その中に「8.京二館、4階建て、竣工=昭和4年」というのがある。当ブログの「 京二館ビル(中央区京橋2-5)」かもしれない。

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