ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




築地市場青果部本館。中央区築地5-2。1990(平成2)年4月7日

塔屋のある水産物部本館の向かい側に直列で並んでいて、2階が渡り廊下でつながっていた建物。1階は「第2卸売業者売場」、2階は郵便局や事務所などが入っていた。
『日本近代建築総覧』では水産物部本館のほうになりそうだが、「東京中央卸売市場築地本部、建築年=昭和8年、構造=SRC4鉄、設計=東京市、施工=銭高組鴻池組?、備考=「建築世界」27巻による。様々な施設の集合よりなる 〇」で、青果部本館は2階建だが同じ仕様になると思う。
写真右の2階建ての建物から後ろに伸びているのは、引込線のプラットホームの屋根で、昔はトラックの止まっているところに貨物列車が停車した。開業時では下右写真の左奥がそれである。下左写真は新大橋通りの入口(青果門、あるいは裏門)の辺りから撮っている。『東京市中央卸売市場 築地本場・建築図集』から流用した。



左:背面車置場ノ展望。右:卸売人売場プラットホーム
東京市中央卸売市場 築地本場・建築図集』(東京市役所発行、昭和9年12月、非売品)より。



上左:青果部本館東面。上右:同北面。2018(平成30)年2月17日
下左:青果部本館中央築地郵便局。下右:同北側の廊下。2017(平成29)年7月15日


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青果部卸売場。中央区築地5-2
上:2017(平成29)年7月15日
左:2018(平成30)年2月17日

築地市場の青果部のうち、南半分が「卸売場」と見ることにする。上の写真はその南の端で、水産物部との間の連絡橋のある棟は「青果部本館」、その右が「通信棟」になるらしい。左写真は通信棟から北側が写っていて、2階建ての立体駐車場の1階部分が卸売場の主要部分。青果部本館の1階も「第2卸売業者売場」である。
卸売場(立体駐車場)の建物ができたのは案外新しく、1980年代前半。仲卸売場の立体駐車場ができた約15年後。1980年では昭和10年に市場が開業した時の建物があった。

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築地市場青果部仲卸業者売場。中央区築地5-2。2017(平成29)年7月15日

築地市場の青果部卸売場は、北側の「青果部仲卸業者売場」と南側の「青果部卸売場」とがある。仲卸業者と卸売業者の違いだが、卸売業者がセリで仕入れて仲卸に売り、仲卸は外から来る一般の店などに売る、という形だ。
写真右の2階建て立体駐車場は正門の通路の上に建てられた「正門仮設駐車場B棟」で、割と最近(1990年頃?)増設されたもの。また、青果部も建物としては立体駐車場の1階部分に売り場を設けたものと言っていい。
仲卸業者売場は、『築地市場』(福地享子+築地魚市場銀鱗会著、朝日新聞社、2018年、2700円+税)の年表に「1965(昭和40)|1月1日/築地本場水産物部屋上駐車場使用開始」とあるので、その頃に建てられたと思われる。写真左奥が青果部の駐車場と水産部の駐車場との連絡橋。



正門の通路から覗いた青果部仲卸業者売場。2017(平成29)年7月15日

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中央冷凍冷蔵庫。中央区築地5-2。2018(平成30)年2月17日

新大橋通りに開いた正門から入ってすぐ左(北)へ開いている広い通路を、正門の通路の上に建てられた立体駐車場(築地市場解体時の地図で「正門仮設駐車場B棟」)の上から撮った写真。写真奥に「東都水産東京工場」、その手前、左が「中央冷凍冷蔵庫」で、その間を左に行くと市場橋門。写真中央のグレーの小さいビルが「妻加工場」。写真右手前は「運送荷扱所」の屋上。



運送荷扱所(第2、第5棟)。2018(平成30)年2月17日

1枚目写真左の建物。左側の第2棟には「中央運送荷扱所」の看板がある。奥の建物は新大橋通りに沿って伸びている「正門仮設駐車場A棟」。新しく(2000年頃?)建てられた立体駐車場。



左:妻加工場、2017(平成29)年7月15日。右:中央冷凍冷蔵庫、2018(平成30)年2月17日

左写真が。1枚目写真の中央に写っている建物で、構内地図では「妻加工場」。刺身のつまを作っているのだと思う。その裏は「加工所(佃権)」を取り壊した跡。
右写真の中央冷凍冷蔵庫の右奥は市場橋門。手前の3階建てのビルは「北側1号事務所」。

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築地市場加工地帯。中央区築地5-2
左:2018(平成30)年2月17日、右:2017(平成29)年7月15日

すでになくなった建物だが、過去形で記述するのは面倒なので、今もあるかのように書いていく。
新大橋通り側の正門を入るとすぐ左(北)に広い通路がある。その角が運送荷扱所で、その先に小さな木造家屋が10棟程密集している一角がある。構内地図に「加工地帯」となっている。
写真の看板を書き写してみると左から、「7号棟、丸玉水産(8号棟)、¬木、東京漬物水産加工食品協同組合、東洋水産」。右端の四角い建物には看板がないが、たぶん東洋水産。
丸玉水産は、場外におでん種・かまぼこ等の練り物を売っている店があるが、その製造工場が市場内の写真の建物なのだろうか?



5号棟、7号棟。左:2017(平成29)年7月15日、右:2018(平成30)年2月17日

加工地帯の北面。左写真の「丸甲境周水産」と「亀和商店」が5号棟、その奥の長屋風の建物が7号棟。7号棟には「北田水産、尾坪フーズ」の看板が架かっている。
いずれも鮮魚を切り身にするような加工をしているようである。



11号棟、蛸加工場。2017(平成29)年7月15日

加工地帯の西面。左写真の左奥にいく通路が5~9号館(魚がし横丁)との間の通路。「丸勇」の建物が11号棟で、3枚目写真の左端に写っている。この会社も鮮魚を切り身にするような加工をしているらしい。
右写真は地図に「蛸加工場」とある建物。左写真の左側の建物。看板は「東京第一蛸加工工業協同組合」。RC造のように見える。多数の電線が屋内に入っていっている(屋内から出ている?)。変電所のような設備があるのだろうか?

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くらづくり本舗、杉田屋家具店
埼玉県川越市幸町2
上:1989(平成元)年9月18日
左:1984(昭和59)年5月4日

くらづくり本舗は埼玉県内に43店舗を展開する和菓子メーカーで、1887年(明治20年)2月に「なかじまや」として創業した(『ウィキペディア>くらづくり本舗』)。『有限会社くらづくり本舗』と改名したのは1979(昭和54)年9月で、近年のことだ。一番街に出店したの1982(昭和57)年6月。古い蔵造りの建物や看板、暖簾の「創業明治二十年」の文字を見ると、昔からここで商売している老舗のように感じられる。
東武>時代旅行>くらづくり本舗』によると、建物は「小林家住宅」として川越市の指定文化財になっている。「この地で呉服太物商を始めた後、初代佐平が明治16年(1883)に奥の文庫蔵を建て」というから創業は明治10年頃だろうか? 屋号はなんといったのだろうか? 文庫蔵は明治26年の大火で焼けてしまったのだろうか? 大火後の1895(明治28)年に2代目佐平によって店蔵と住居棟が建てられた。

くらづくり本舗の隣に「杉田屋家具店」が写っている。建物は二軒長屋で、3軒の店が使っていたようだ。2012年に取り壊され、その後正面は旧二軒長屋の形にして復元された。

追記(2020.02.07)
上に幾つか疑問を書き込んでおいたら、当の小林家の方から返事を頂いた。文庫蔵は大火では焼け残り、収蔵品も無事だったらしい。また、小林佐平商店の屋号は「山田屋」。
HP『小林家住宅』を運営されている。そこの「蔵だより」で、文庫蔵に収蔵されていたものを順次紹介している。明治期の染め型紙や、店主の趣味だったのか戦前の映画の資料など貴重なものが残っている。
店蔵の屋根の両端の「まつ毛」が注目されているが、これは建物のオーナーでも正体が判らず、調査中とのことだ。

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埼玉銀行川越支店。埼玉県川越市幸町4
1989(平成元)年9月18日

現在は「埼玉りそな銀行川越支店」であるが、写真では「サイギン」と「埼玉銀行」の看板、写真右平屋の営業所の「埼玉銀行川越支店」の文字が写っている。
「第八十五国立銀行」の本店として建てられた建物。1918(大正7)年3月の竣工、設計は保岡勝也、施工は伊藤順造の施工のSRC造3階建てである。1996(平成8)年12月に国の登録有形文化財になっている。埼玉県では登録第1号という。
外観はルネサンス様式を基調とする。昭和初期から主流になるオーダーを用いる重厚な外観の銀行建築と比べると、明るい印象で大正デモクラシーに通じるものがあるそうだ(『近代建築ガイドブック』東京建築探偵団著、鹿島出版社、昭和57年)。正面角の塔屋は4階建てで八角形の断面、ドーム屋根にしている。窓の間のバットレス(控え壁)と建物の角の縞模様はサラセン風(全国近代化遺産活用連絡協議会>埼玉りそな銀行川越支店)。

第八十五国立銀行は、1878(明治11)年に設立された埼玉県で初めての銀行で、埼玉県では唯一の国立銀行。順調に発展していったようである。1943年(昭和18年)7月、戦時体制の一環で、県内の幾つかの銀行と合併して「埼玉銀行」になる。1991年(平成3年) 4月、協和銀行と合併し「協和埼玉銀行」に商号変更。1992年 9月、「あさひ銀行」と再度変更。「埼玉りそな銀行」は2002年(平成14年)8月に株式会社大和銀ホールディングス(現・株式会社りそなホールディングス)の完全子会社として設立された。2003年(平成15年)3月に、埼玉りそな銀行はあさひ銀行を吸収して営業を始めた(『ウィキペディア』)。

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服部民俗資料館。埼玉県川越市幸町6。1989(平成元)年9月18日

一番街に面して、時の鐘入口交差点の間近にある商家だった建物。『カワゴエール>服部民族資料館、服部家住宅』によると、塗家造の建物で、正面から見ると二階は窓がなく、高さも低い。部屋ではなく倉庫として使われた「厨子二階(つしにかい)」というものだという。川越大火の直後、明治26年4月には棟上げした。棟上げ式の写真が残っていて時期が判明したのだろうか。江戸後期の形式を残した明治の商家として貴重である。
『カワゴエール』には「服部家は7代続いた商家で、元々は照降業(傘や履物の販売)や薬種業(薬の販売など)を営んでいました(屋号:山新)」とある。『 Tabi2ikitai.com>服部民俗資料館について』に「山新は山田屋新助(服部新助)の略」とあるから、商店は「山田屋」の商号で営業していたのだろうか?
服部民俗資料館の開館は1984(昭和59)年で、「蔵造りの町並み」など観光客誘致の取り組みが始まった初期の頃だ。服部氏はその先頭に立った一人なのだと思う。

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近長商店。埼玉県川越市幸町15。1984(昭和59)年5月4日

写真は鐘つき通りから一番街商店街との時の鐘入口交差点を撮っている。近長(きんちょう)商店の建物は、二階の千本格子と入母屋屋根が特徴の町家建築。「真壁造」になるのだろうか。蔵造りではないがなかなか重厚な感じで「蔵造りの町並み」に調和している。
写真では鐘つき通り側の八百屋が写っている。豆腐店で有名なのだが、撮影当時では一番街に向いた方で豆腐を売っていたのかもしれない。今は観光客相手に、一番街に向いた店舗でおからドーナツを売り、鐘つき通り側が豆腐店と豆腐料理の店にしている。また、写真手前の庇の下の空間を増築して住居の部屋にしている。その和風下見板の壁に「武州川越町/近長 細田長兵衛商店/電信器號〇三」の古そうな看板が架かっている。その看板は以前は金色の字だったのが今は黒で書き直したようだ。近長とは近江屋長兵衛で、近江商人の後裔という。鐘つき通り側に並ぶ「鐘つきうどんきんちょう」と「近長魚店」は近長商店とは同族である。
何代目だかは知らないが、1899(明治32)年に設立された「川越商業会議所(現川越商工会議所)」の18名の発起人のなかに、「細田長兵衛(青物魚商)」の名前がある。

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時の鐘。埼玉県川越市幸町15
1989(平成元)年9月18日

「鐘つき通り」から撮った時の鐘の鐘撞堂。今はなくなった電柱と電線が写っている。電線を地中に埋める工事は1991年12月の完成である。撮影当時は鐘つき通りという道路の愛称も付いていなかったと思う。
鐘撞堂の左は正面を看板建築にした家だが、今は蔵造りの前面に改装した「福呂屋」という和菓子屋で「鐘つき最中」などを売っている。明治8年創業の老舗の和菓子屋というが、「河越茶」や抹茶ラレなども売っているからかつては茶舗だったのかもしれない。
鐘撞堂の右は「明治牛乳川越中央販売所」とだんごの「田中屋」の二軒長屋。牛乳屋はつい最近まで営業していたようだが、今は「かのん」という「鐘つきたこせん」の店に替わった。『日本神話.com>時の鐘』は時の鐘についてその歴史を詳細に調べている。昭和52年の写真が載っていて、それではおもちゃ屋。
創業文久元年(1861年)の田中屋はだんご一筋で頑張っている。

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