ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




柵の柱。台東区上野公園2。1987(昭和62)年4月18日

不忍池の外周を巡っている歩道と植え込みの間の、鉄パイプの柵を保持する柱である。写真左下の舗装は遊歩道ではなく、不忍通りの歩道ではないかと思う。たよりない記憶だが、不忍通りの池之端一丁目交差点付近ではないだろうか。写真右上にわずかに不忍池の水面が写っている。
山田守設計の東京中央電信局で使われた表現派のデザインだ。
今、ストリートビューでざっと見たところでは、写真のタイプの柱は撤去されてしまったようだ。数少ない表現派の造作として貴重な遺跡なのだが、一つでも残されていればうれしい。

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浩道オート商会。台東区上野7-14。2008(平成20)年5月7日

JR上野駅の北に両大使橋という線路の上を渡る陸橋がある。写真はそこを上野公園から下りてきたところに、つい最近まであった戦前築の木造家屋。前の通りはいつのまにか「入谷口通り」の愛称がついた。後ろのマンションの裏は昭和通りで、「上野バイク街」として知られたところだ。浩道オート商会と隣の金田モータースもバイク街を構成していた店になるわけだ。
あの街はいま?東京・上野のバイク街をあなたは知っていますか?」によると、「上野のバイク街は昭和26年頃、下谷1丁目に開店した「旭東モータースー」が発祥。10年後には付近に20軒以上のバイク屋が軒を連ねるようになり、…」とある。1966(昭和41)の住宅地図を見ると、昭和通り沿いの下谷1-1に「旭東モータース商会」が見つかる。最盛期には約80店からあったという。この辺りの昭和通りの両側は戦災から免れて戦前からの木造家屋が並んでいたから、そういう家を安く借りられたのかもしれない。下谷1丁目は焼けてしまっている。

写真の通りと、後ろのマンションの間には裏通りが通っていて、浩道オート商会の裏側には銅板張りの看板建築があった。2019年と思うが、それらの古い家屋は取り壊され、マンションを建築中。

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一色菓子店。台東区上野1-14。左:1989(平成元)年頃、右:2005(平成17)年4月1日

昌平橋通りの湯島中坂下交差点の北。写真の家並みの裏に黒門小学校がある。現在も写っている建物は変わらない。一色屋菓子店は『東京都の近代和風建築』(2009年)の一覧表には「構造=木造3階建、建築年=昭和2年」となっている。間口も広く、高さもあって目立つ建物だ。2013年に住宅用に改装されて表面は新しいパネルで覆われ、窓の上のアーチや建物両端上部の小さなレリーフなどの装飾が見られなくなってしまった。

下の写真はやはり昌平橋通りで、一色菓子店から南へ160mのところ。写真右の横町から右(南)は千代田区外神田になる。看板建築の瀬田氷店は、「エクセル湯島」(1996年9月築、7階建て11戸)という細長いマンションに建て替わっている。


瀬田氷店。上野1-5。1989(平成元)年頃

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東京電力下谷変電所。台東区上野6-8。2007(平成19)年4月20日

写真の変電所があったのは、住所は上野でJR上野駅からも間近なところだが、「御徒町」と呼びたい場所である。旧町名は「仲御徒町(4丁目)」で、現住所に替わったのは1964(昭和39)年。地下鉄日比谷線の仲御徒町駅は1961年の開業で、当時の町名が付けられた。JRの高架線路から昭和通りの間が仲御徒町、昭和通りの東が御徒町だった。上野6丁目は上野駅のそばということで、昭和50年頃までは小さな旅館、つまり駅前旅館が多く集まっていたようだ。
下谷変電所は1931(昭和6)の建設、という以外は詳細は不明。外観の、上に太くなっていく飾りの柱、入り口の柱と庇、八角形の縦長の窓が奇抜なデザインで特徴的である。ドイツ表現主義の影響ともいわれる。曲線から連想される様式にアール・ヌーヴォーがある。あるいはそれに関連付けられないかとも思うのだが……。
2015年に取り壊され、現在はホテルが建った。

東京都交通局の下谷変電所というものもあった。1966年の住宅地図では上野5-21に「東京都交通局電気部第三変電区下谷変電所」という記載がある。都電のための施設だったのだろうが、現在はただの空地。少し前は「吉池」の仮店舗があったようだ。今も都が所有しているのだろうか?

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黒沢ビル。台東区上野2-11。2007(平成19)年10月24日

風俗店飲食店が立ち並ぶ上野仲町通りにある黒沢ビルは1929(昭和4)年(1930年という資料も多い)に、眼科医の小川剣三郎(1871-1933)が「小川眼科病院」として建てた。RC造3階地下1階建。小川は竣工後4年で脳溢血で急逝、後を継いだ黒澤潤三郎(小川の親族という)が医院長となったため黒沢ビルの名称になった。「正面1階の鉄平石張,尖頭アーチ窓やコンクリート製幌状の庇など表現派風意匠に特徴がある。屋上には温室風の紫外線療法室が残り,室内随所に小川三知作ステンドグラスをみることができる」(『文化庁>国指定文化財等データベース』)。
小川三知(1867-1928)は大正期から昭和初期に活躍したステンドグラスの作者として有名。小川剣三郎の実兄である。黒沢ビルのステンドグラスは建設前に既に完成していたらしい。三知はビルの竣工を見ずに亡くなった。
現在、ビルの見学会が月に一度行われている。予約と寄付が必要だが、透過光による本来のステンドグラスを見ることができる。



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Once Upon A Time。台東区上野1-3
1986(昭和61)年6月22日

昌平橋通りの裏に残っているレンガの蔵を改装したバー。蔵の前の道は近年「五軒町通り」と名付けられた。右に行くとすぐ外神田6丁目になり、その旧町名が神田五軒町だった。ちなみに蔵のある住所の旧町名は「西黒門町」。
酒屋の倉庫だったという。写真左の家は撮影時の地図では「池田ビル」だが、そこに出桁造りの酒屋があったのかもしれない。蔵は明治期のもので、関東大震災と空襲を生き延びてきている。レンガ造は地震に弱いとされているが、あるいは木材の柱や梁が使われているのだろうか?『Google古地図>昭和22年航空写真』を見ると、蔵の背後や横は焼失しているが、蔵の向かい側、上野1-4、5番地は焼失を免れている。今も昌平橋通り沿いに看板建築の7軒の長屋が残っている。蔵の斜向かいの古い日本家屋も戦前からのものかもしれない。
バーの開業は『上野経済新聞2013.12.10』の記事から推定すると、1976(昭和51)年。すでに老舗だ。

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井戸のある民家。台東区池之端4-22。1990(平成2)年2月18日

言問通りの上野消防署谷中出張所の辺りの南の裏通りにある民家。この辺りから清水坂の下までは「谷中清水町」といったが、1966年に現行の池之端4丁目に替わった。写真の民家は2005年に「イングリッシュティーハウス ペコ」という紅茶のカフェを開業した家である。玄関と隣のレンガ塀の間に、現役ではないが手押しポンプが残っている井戸がある。
写真左の家は今は建て替えられて、それが下見板の古い洋館風のものなので、イングリッシュティーハウスならむしろこちらだろう、という感じである。



遠友庵道場。池之端4-26。2011(平成23)年11月9日

1枚目写真の裏通りを左(東)へ行くと崖下で行き止まりだが、谷中清水町公園へ上る階段がある。写真手前の金網がその階段の手すり。今は取り壊された長屋があった。古い二軒長屋に見えるが、裏にもう1軒あるらしく「看脚下」の貼紙をした入り口がある。3軒長屋としてよさそうだ。「大道学舎 遠友庵道場」が長屋の2軒分を使っていたのだろう。

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飯田邸。台東区上野桜木1-10。1990(平成2)年2月18日

正藤邸の北側の裏通り。写真左奥に写っているビルは「中銀上野パークマンシオン」(1970年10月築、11階建74戸)で言問通りに面している。そこは以前「浜野病院」があったところ。古い木造家屋が2棟並んでいるように見えるが、一部平屋のひとつの建物かもしれない。現在は建て直されている。



民家。台東区上野桜木1-10。左:2012(平成24)年5月17日、右:2007(平成19)年3月2日

1枚目写真の裏通りを手前に行くと三叉路に突き当たる。その角にあった民家。最近のストリートビューを見たら建て直されていた。右写真で左奥に入るとすぐ左(西)に曲がり、「台東桜木郵便局」の角に出る。
1枚目写真に写っている電柱の広告は「㈱葵フォトプリント」だが、2・3枚目写真の家がそれだった。

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正藤邸。台東区上野桜木1-9。2013(平成25)年11月9日

市田邸の裏手にあった、ドーマー窓を付けた急勾配の屋根が特徴の住宅。2017年頃に建て替えられてしまった。現在のグーグル地図では「㈱藤久サービス」(内装業及び清掃業)となっている。
屋根の形は洋風だが1階の外観は和風だ。『台東区近代洋風建築調査報告書「データ編」』(台東区教育委員会文化事業体育課、平成8年)に「正藤邸、木造2階建、モルタル仕上げ 近代和風住宅 昭和戦前」で載っている。写真の建物は「Google古地図>昭和22年航空写真」に写っているそれとは違うので、戦後の建築である。
敷地の南半分を庭にしていて、その庭の東半分に木造2階建モルタル壁、外階段のアパートを建てている。昭和40年頃の建築らしい。そのアパートは残っている。

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市田邸(表門と母屋)。台東区上野桜木1-6。2013(平成25)年11月6日

東京芸術大学の敷地の北を東西に通っている通りに面して、表門を構えている屋敷。以下、『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)の「市田家住宅」の記述を紹介する。
市田邸のある一帯は、寛永寺の支院のひとつである松林院の土地だったのを、明治中期に寛永寺が100坪単位で貸地・分譲し、次第に宅地化された。隣の「上野桜木会館」と共に屋敷町の歴史的景観を伝えている。
市田邸は明治40年(1907)に、日本橋で布問屋「市善商店」を営む市田善平衛により建てられた。善平衛は60歳になったのを機に長男に店を任せて、隠居所を建てて引っ込んだらしい。そこに家族の誰かが入り込んできたのか、大正初期に2階を増築する。『たいとう歴史都市研究会>市田邸』には「当初は平屋の建物でした。大正期に家族が増えたため、 平屋当時の桁に床梁をのせ2階を増築した「おかぐら形式」です」とある。
戦後は東京芸術大学声楽科の学生が多く下宿し巣立っていった家である。既サイトには「30名程」とある。「出船の港」なんかが通りに漏れ聞こえたのかもしれない。
家の配置と間取りは「敷地全体を塀で囲い、南東隅に腕木門、南半に庭を設け、起り屋根の玄関が取付く木造2階の母屋を中央に配置する。母屋は、南側を庭に面した縁側と座敷の接客空間とし、北側を居間・台所・風呂・女中部屋などの生活空間にするなど、当時の小規模な屋敷型住宅として典型的な姿を残す」「北西に木骨煉瓦造2階建の蔵」。
平成13年より、NPO法人「たいとう歴史都市研究会」が借り受け維持管理をし、地域の芸術文化活動の拠点として活用するようになった。平成17年に国登録有形文化財になった。



市田邸(蔵と母屋)。台東区上野桜木1-6。2013(平成25)年11月6日

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