ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





小林果実店。中央区日本橋人形町2-7
上:1985(昭和60)年4月28日
左:1986(昭和61)年8月24日(?)

芳町通りと大門通りとの交差点。1986年の住宅地図では電話局前交差点とあるが現在はその表示板はない。当時は小林果実店の斜め向かい側はNTTの茅場兜電話局だった。
小林果実店はたぶん明治期の創業である。『大正元年日本橋区地籍地図』(中央区沿革図集[日本橋編])に、写真と同じ場所、住吉町九に「小林果物店」で記載されている。
交差点に向いた隅切り部分が正面で、芳町通り側の面がないから、かなり細い建物だ。同じ建物の後ろは、当時の地図では「桃山」というスナックだか喫茶店だったらしい。
いつ廃業したのか分からないが、今は2枚目写真の中央内科クリニックのビルの下屋のような平屋の建物が建って、その医院が使っている。


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国枝仏具店。台東区谷中1-2。1988(昭和63)年8月5日

言問通りが善光寺坂という坂道になるその登り口の辺り。写真右の山門は天眼寺、その右の看板は森田電機店。写真に写っている家並みは今もあまり変わらない。写真中央の二軒長屋の右側は1986年の住宅地図では空家だが、1966(昭和41)年の地図では「国枝仏具店」。「花美代」のビルが建て替わったのだろうか、今は3階建ての住宅に替わったように見える。写真左端のKEY COFFEEの看板は「ル・プリーベ」という店。今も店構えは変わらず営業しているが、撮影時にも外側を猫の絵で飾っていたかどうかは知らない。左奥のレンガ色のマンションは「マツダフラット」(1976年8月築、4階建)。善光寺湯という銭湯の跡地に建った。



武藤自動車工業。谷中1-1。1988(昭和63)年8月5日

善光寺坂をほぼ登り切った辺り。今は写真右手の「得應軒」という日本画材料店が変わらないが、その他の建物は替わったかなくなったかしている。得應軒の右は山門かと思えるような立派な門だが民家のものらしい。写真中央の看板建築は「武藤自動車工業」だった家。今は住宅に建て替わった。写真左は北沢印刷所。Google地図の航空写真では写っているがストリートビューで見ると更地になっている。その左と奥はNavi Park(時間貸し駐車場)。

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民家。台東区谷中5-2。1989(平成1)9月10日

観音寺の築地塀は谷中の名所として有名である。観音寺の隣が加納院という寺で、築地塀と並んで赤く塗られた山門がある。その山門の前から南へ、三崎坂の通りへ通じている横丁がある。写真の家はその横丁にあった。今は建て直されている。
周囲は寺ばかりなので、写真の2棟の家も寺が建てた借家、あるいは住職の住宅ではないかと思う。
下の写真は上の写真の右奥に続く並び。今は写っている3棟(写真左端の平屋も含める)は個々に住宅に建て替わっている。手前の2階建ての家は2012年には、下見板の壁はすっかり改修されていたが、残っていた。


民家。台東区谷中5-2。1989(平成1)9月10日


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平栄商会。台東区谷中4-1。1989(平成1)年9月10日

三崎坂の通りの台東初音幼稚園前から南へ、言問通りの谷中六丁目交差点を結ぶ道路にあった庭付き一戸建ての民家。道路がクランク状になっている近くだ。向かい側には大泉寺が唐破風の山門を構えている。「平栄商会」というのは住宅地図にあったもの。ほぼ総二階建ての日本家屋だ。洋館風の部分は昭和22年の航空写真には見えないので戦後の増築と思われる。
現在は建て替えられて、依然として庭付き一戸建ての大きな住居だ。



四軒長屋。谷中4-1。2012(平成24)年5月17日

平栄商会とした民家の北の三叉路の角にある四軒長屋。改装が進んでいて元の外観を想像しづらい。
下写真の三軒長屋は上写真の三叉路を右へ入ったところ。二階が後退していて、1階の屋根に物干し台を載せたタイプだ。向かい側には玄関の上に瓦(現在は葺き替えられた)の庇がある二軒長屋が残っている。


三軒長屋。谷中4-2。2012(平成24)年5月17日

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大橋米店。台東区谷中2-6。1988(昭和63)年11月3日

場所はあかぢ坂の登り口。出桁造りの商家とその周りに造られた小屋は今も変わらない。角の小屋は倉庫兼ガレージかと思うが、そこに書かれた文字は「㈱上野米穀」。店のほうは「大橋米店」だったらしい。その関連性は分からない。写真右端の小屋は「鍋島町会詰所」。昭和31年の区分地図には角の小屋のところに交番のマークがついている。
景観は今もほとんど変わらないのだが、細かく見ると、ガードレールが鉄パイプのものに変わり、銀杏の木は刈られてなくなっている。店の右に二階が増築され、角の小屋の上に物干台が造られ、正面1階の屋根の上にも物干台ができている。


民家。台東区谷中2-5
2000(平成12)年4月29日

写真左の塀が文京区との境の道。かつて真島湯という銭湯があったが、そのすぐ南の並び。現在はごく普通の住居に建て替わって、通りの側は駐車場にしている。

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臨江寺の長屋。台東区谷中1-4。1989(平成1)年2月26日

大谷石の臨江寺の門があるのはかつて藍染川が道の西側を流れていた道で、台東区と文京区(下谷区と本郷区というべきかもしれない)の境をなす通りである。臨江寺の向かいは文京区根津2丁目。写真右のブロック塀は通りから入った臨江寺敷地内にある。写っている人は門から入って、参道を山門・本堂へ向かっている。2棟の二階建て民家とその間の平屋の長屋は臨江寺の家作だろう。長屋は五軒長屋と思われる。ブロック塀は参拝客の目から住民のプライバシーを守るためだろうが、写真的には残念なものだ。
現在、写っている家は取り壊されて「臨江寺駐車場」になっている。大谷石の門とその左右の塀、鉄製角棒の門扉は残っている。写っている門扉の後ろにあるのが「蒲生君平墓」の石碑と案内板。墓自体は墓地のほうにあるらしい。この石碑のバックの部分だけブロック塀が残っている。


堀田美術店。谷中1-4
2007(平成19)年10月18日

臨江寺の門からすぐ北の四つ角。堀田美術店の横を入るとそのまま三浦坂に通じている。向かい側は根津観音通りで、不忍通りの根津小学校入口交差点に出る。位置的には角の堀田美術店から臨江寺に接する範囲の家は、元は臨江寺の家作だったのかと考えられる立地である。堀田美術店は看板に「表具 絵画」とあるが、表具・表装の店らしい。
特にどうということもない家に見えるが、屋根の庇とパラペットがいやに古めかしく見える。なにより庇の下の持ち送りだ。洋風3階建ての家を改装したものと思える。

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同潤会清砂通りアパートメント7号館。江東区白河4-3。1991(平成3)年6月16

7号館は清州橋通りに面して1階に店舗を並べた4階建ての細長いビルだった。その外観を示さないと片手落ちだが、なぜかその写真を撮っていなかった。写真は5号館と7号館の間の横町を入ったところから撮ったもの。
7号館は大通り沿いに4階建ての本体と、その後ろに3棟の正方形に近い小さい3階建ての別棟があって、本体と後ろの3棟が廊下でつながっているという構造だったようだ。この形は1号館の西に並んでいた3号館も同じだったようだ。ただし3号館の方は別棟が2棟だった。
左写真は左奥が本体、手前が後ろの西棟。平面的な壁の部分は増築したものだろうか。後西棟は4階を増築しているらしい。
右写真は本体と別棟の連結部分(階段室)の下の通路。今思えば、この通路を歩いてみるのだった。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、清砂通りアパートメント全16棟の建設を5期に分けている。5・7・8号館が第3期の工期で、昭和2年4月20日の着工、昭和3年9月20日の竣工。アパート建設用地に整備前の道路と建物があり、それを移転してから建物建設にかかったので、1年5か月を要している。

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同潤会清砂通りアパートメント6号館北翼。江東区白河4-1。1991(平成3)年6月16

6号館は清州橋通り沿いにあった5号館の裏手にあった。写真は清州橋通りの南の裏通りから見た6号館の北翼。6号館の平面は匚型の両端を折り曲げたロの字型に近い形で、割と広い中庭を持つのが特徴だった。写真で見る北翼は清砂通りアパートメントの外観の特徴が見られない。6号館は道路から少し離して建てられていたので、その隙間に増築した個所があり、上の写真も増築で元の表面が隠された状態を見ているのかもしれない。



6号館、南東の角から。1991(平成3)年6月16

写真右の道路は清州橋通り沿いにあった5号館の横から南へ入る横丁。右奥が清州橋通りの方向。南翼折り返し部分の外側を見ている。道路際に張り出している白い部分は増築したもので、昭和50年ごろの工事になるのではないかと思う。
再開発により高層マンションとスーパーマーケットが建って、1枚目写真の裏通りと上写真の横丁とは消滅した。



6号館南翼折り返し部分。写真は左から、南東角、南側玄関(階段室)、北側玄関



中庭から見た6号館北翼。1991(平成3)年6月16



中庭から見た6号館西棟。1991(平成3)年6月16

中央と左の階段室から左側は前面に増築している。増築部分の壁は階段室の壁に合わせているが庇はそれより前に出てしまっている。6世帯共同での工事らしいが、誰が許可するのだろう。暗黙の了解か?
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、清砂通りアパートメント全16棟の建設を5期に分けている。6号館と横丁の向かいの9・10号館は第2期(大正15年12月20日-昭和2年12月14日)という。



中庭から見た6号館南翼。1991(平成3)年6月16日

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同潤会清砂通りアパートメント5号館。江東区白河4-2。1991(平成3)年6月16日

5号館の清州橋通り側。中庭を持つロの字型の平面をしている。構造上は複数の棟なのかもしれない。
現在、5号館の跡地は「イーストコモンズ清澄白河セントラルタワー」(2006年6月築、33階地下2階建て、483戸)という高層マンションの北に隣接するスーパーマーケット、マルエツになっている。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、清砂通りアパート全16棟の建設を5期に分けていて、5・7(5号館東の並び)・8(7号館の裏)号館は第3期である。工期は昭和2年4月20日から翌年10月。昭和3年9月20日竣工としている。



5号館。白河4-2。2003(平成15)年1月5日

清州橋通りから5号館の横を南へ入って、裏通りとの角になる。3棟のビルが並んで建っているようにも見えるが、5号館の1棟。屋上角に柱と梁だけのパーゴラと呼ばれる棚が造られている。建物南西の角にもあり、これが他の棟にはない5号館の特徴だ。
再開発によって写真の横丁と裏通りは消滅してしまった。




5号館。白河4-2。2003(平成15)年1月5日

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同潤会清砂通りアパートメント1号館。江東区白河3-4。1991(平成3)年6月16日

清州橋通りと三ツ目通りが交わる白河三丁目交差点角にあったのが同潤会清砂通りアパートメントの1号館。今は「清州橋通り」というが同潤会アパートが建った当時は「清砂通り」と言ったのだろう。関東大震災で焼け野原になった白河・三好辺りの復興事業は街区の整備、つまり道路の付け替えから始まった。今までの道路を無視して、ほぼ東西、南北の方向に造り直した。東西の小名木川と南北の大横川に合わせたのだろう。
清砂通りアパートは全部で16棟が建てられるが、1号館がまず建てられた。いち早く同潤会が土地を手に入れていたのと、二本の幹線道路の位置が決まった時点で工事に着手したかららしい。2本の幹線に向いた棟ということで同潤会アパートの中心として、象徴性を持たせた外観で完成した。この第1期工事は大正15年4月の起工で、竣工が昭和2年3月。1号館のある街区には2・3・4号館があるが、2号館は第1期工事になるかもしれない。3・4号館は第5期で、昭和4年3月30日の竣工。
参照:『同潤会のアパートメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)



1号館、清州橋通り側。白河3-4。1991(平成3)年6月16日



1号館、三ツ目通り側。白河3-4。1991(平成3)年6月16日


1号館、階段室。白河3-4
1991(平成3)年6月16日

1号館は大通りに面しているので全面的に4階建てで、1階は店舗。建物の特徴は角の円筒形の階段室、階段手摺のアールヌーボー風の支柱、階段室屋上の円柱が支える円形の屋根、といったもの。
1号館の横や裏手に2~4号館があることなどは、撮影時には知らなかったので写真を撮っていない。次に撮影に来たのは2003(平成15)年1月で、1~4号館が取り壊された後だった。

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