ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




躍金楼(てっきんろう)。中央区新富1-10。2011(平成23)年11月7日

割烹 躍金楼」の創立は明治6(1873)年。明治元(1868)年に置かれた新島原遊廓が1871年に廃止され、新富町が成立した。新富座の開業が1872(明治5)年。新富座を中心にした花街ができはじめた明治初期に躍金楼が芝居茶屋の1軒として開業したのだろう。
昭和9年頃の火保図では、新富町2–10(現・新富1-5)に「躍金楼 待合」がある。そこが創業の地らしい。写真の建物は『中央区を、知る>新富町躍金楼店舗』によると、戦後の1949(昭和24)年に建てられたもので、1960(昭和35)年に奥の棟が増築された。
昭和27年頃の火保図には、現在地に「(料理家)躍金」があるが、旧地が「旅館躍金」としてある。戦後すぐは料理屋をやっていられず、旅館を営業していたのを、そこを売って新たに現在地に店を構えたのかと想像してしまう。
新富町は昭和50年頃までは、花街として粋な町という印象を発していたから、その頃の名残をとどめる建物といっていい。

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上:プランナー。中央区新富1-15。2007(平成19)年2月7日
左:まつ坂。新富1-15。2011(平成23)年11月7日

1枚目写真は『佐藤家住宅』の向かい側にあった建物。「プランナー」は1986年と1979年の住宅地図にあった会社名。写真のガラス戸にある社名は読めないが、それとは異なる。建物は2017年に周辺の建物と共に取り壊されて、現在は「Axas銀座アジールコート」(2018年12月築、10階建49戸)というマンショに替わっている。
昭和27年頃の火保図では、住所は新富町2-13で「(待合)長谷川光仲」である。向かい側の佐藤家住宅と同じく待合だった家らしい。改装されてはいても建て替わったとは思えない。
路地の奥は、戦前築と思える長屋風の建物が並んでいる。居酒屋の「まつ坂」の奥は「町田写真製版所」

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佐藤家住宅。中央区新富1-11。2007(平成19)年2月7日

当ブログ『瀧亭/新富1丁目』で出した建物だが、そこではちゃんと記述されてないので改めて紹介する。
佐藤家住宅は『中央区>佐藤家住宅』によると、大正14年に建てられた待合の建築。花街だった新富町の面影を伝える建物だ。「門塀を廻し、門扉には花頭窓を設け、材の細い垂木を吹き寄せにするなど優美な意匠が随所に見られる。/2階の庇は、2本の角材と1本の皮つき丸太材を交互に並べた垂木とし、野地板との間に線の細い丸太材を設えるなど数寄屋風の意匠も見られる。/内部の間取りは、客と他の客、裏方の導線が重ならないように工夫が施されており、旧待合の間取り性格が見られる。/旧部材を大切にしたリフォームがされている。」と解説されている。
正面2階の右側の窓の手すりが、2010年頃に左側の手すりのように木で復元された。

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民家。中央区新富2-5
2007(平成19)年2月7日

平成通りの築地橋近くの、京橋税務署の横を東へ入った横丁にあった民家。窓の庇が壁とカーブでつながっているのが特徴。空襲の被害を免れた地区にあるので、戦前築の看板建築が残っていたのかも知れない。ストリートビューでは、2009年12月には存在しているが、2013年7月では現在の「アパホテル」がほぼ完成している。
写真右のタイル張りの家は「榎本歯科医院」で現在も同じ。榎本歯科は1921年の開業で、現在は三代目だという。2021,22年頃に外壁のタイルが貼り替えられた。

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平野園茶舗。中央区銀座7-15。1987(昭和62)年12月27日

昭和通りの銀座東七交差点を旧築地市場正門の方へ入ったところで、「中央市場通り」の愛称(1991年度設定)がある。写真左のビルが昭和通りに面した「日本交通銀座ビル」(現・日土地銀座ビル)。その右、陰になっているのが「平野園(茶)」、以下右へ「中村商店(自転車)、吉良屋酒店、青木氷室」。木造2階建ての家は戦前築のように見える。
昭和30年頃の火保図では、銀座東7-3の住所で「枚田タバコ、中村サイクル、吉原屋酒S、靑木氷S、八百勝靑果」という記載。平野園は後にここに移ってきたのだろうか。「吉原屋」は地図が手書きなので吉良屋の書き間違いか。八百勝は写真右の「銀座平林ビル」(1980年2月築、9階地下1建)のところにあった戦前から続く店だった。ビルに建て替わるまで営業していたようだ。
平野園は現在「銀座平野園」というらしいが、明治16年創立という老舗。近所に多い料亭などをお得意にしているのだろう。建物は2010年5月に中村自転車店と共に「銀座7ビルディング」(13階地下1建)に建て替わった。吉良屋酒店は「日宝銀座Kビル」(1989年5月築、9階建)に建て替わている。

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白いばら。中央区銀座3-5。1987(昭和62)年5月31日

中央通りの1本西の裏通りで、「銀座ガス灯通り」の名称がある。キャバレーだった白いばらは、有名な洋食の煉瓦亭の2軒おいた並び。2018(平成30)年1月で閉店、すぐ取り壊されて駐車場になった。白いばらの右(南)の「山岡ビル」と「当りや」(1979年では「ハゲ天」)は、2019年に「ココマイスター」(鞄、財布)の2階建の建物に替わった。白いばらの左は「十字屋ビル」(9階地下1階、1986年築)で、建直し中のビル(13階地下2階)が完成する頃だ。



2016(平成28)年1月1日

青い壁面は豆タイル張りのようだが、とにかくその色が目立つ。入り口の左にホステスの出身県の地図、右と左端にホステス募集の広告。それには「お仕事は簡単で楽しいです」「お客様のお話をお聞きするだけでいいのです」とあり、そんな内情が客に分かってもいいのだろうかと思わないでもないが、銀座の客は概しておとなしいのだろう。
創業は昭和6(1931)年。『ウィキペディア>白いばら』によると、前歴があって、「広島出身の初代社長が1921年(大正10年)に深川で「広島屋」という名称の食堂を開業したことに遡る。この店舗を売却して1929年(昭和4年)に銀座二丁目で「バー富士」を開店し、1931年(昭和6年)には同店の最終所在地となる銀座三丁目の一角で「つる屋」を開業した。その後に改名や業態変更を繰り返し、「白いばら」という名称のキャバレーとなったのは1951年(昭和26年)のことである。」とある。
都市徘徊blog>白いばら』によると、建物は1946(昭和21)年に建てられた木造2階建てのバラックに事務所の3階を増築したもの。
看板にある「健全 明朗」は本当だったようで、ネット上ではたいへん評判がよく、閉店が惜しまれている。

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名古屋商工会館。中央区銀座4-3
1987(昭和62)年7月5日

晴海通りの天賞堂の横を入ったところ。通りには「銀座レンガ通り」の名称が付いている。
名古屋商工会館は、『環境デザインマニアック>名古屋商工会館』によると、1930(昭和5)年の竣工、6階建地下1階。壁はクリーム色だろうか。その後白く塗り直されたようだが、その下はスクラッチタイル。窓が大きく、装飾もないので昭和5年の建築とは思えない。昭和10年頃の火保図では「銀座會舘 5F」、昭和30年頃では「名古屋商工会館(コ六) メイジンシト(料理家) アートコーヒ(喫茶店)」。
「株式会社名古屋商工会館」という会社があったらしい。名古屋鉄道株式会社に吸収合併したというから、元々名鉄の関連会社だったと思われる。ビルのオーナーで名鉄の東京の事業所も入っていたのかもしれない。
2015(平成27)年に解体されて、「G4 BRICKS BLD.」(2016年11月築、8階地下1階)に建て替わった。

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三貴ビル。中央区銀座3-10。2010(平成13)年2月1日

昭和通りの西の裏通り(中京430号)で、写真右にあった建物(芙蓉ビル/三共㈱別館、林、めぐみ、みどうすじ)が取り壊されて、三貴ビルの全体が見えている。
三貴ビルは小さなビルだが、角を丸くして、各階のガラス窓も丸くして、水平にビル全体に回しているのが瀟洒で、人目を引いていたと思う。壁の文字は、通り側1階に「三貴ビルディング」と「青写真 / 東北工株式会社」、路地側の4階上に「靑寫眞 blue-print / 東北工株式會社」。青写真(あおじゃしん)というのは、主に建物・機械の設計図のコピーに使われた複写技法。1975年頃からは現行のコピー機に替わっていった。
昭和30年(1955)頃の火保図に、「銀座東三丁目2」の住所にある「三貴ビル(コンクリート造5階建)」と思われる。2011年頃に取り壊され、跡地は平屋の建物で営業する「紫龍」というラーメン店になった。

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川梅商店。中央区銀座1-24。1988(昭和63)年2月14日

写真手前が、新富町から新富橋を渡って銀座1丁目に入ったすぐの四つ角で、右奥への通りの向かい側は京橋公園。右手に銅板張り看板建築があるが、そこから手前の角の家まで、戦前築の看板建築と思われる。現在も銅板張りの家が「鮨 石島」になって残っている。その手前は「銀座マスキービル」(1992年11月築、8階建)と「パークサイド銀座」(1993年4月築、9階建)というオフィスビルに建て替わっている。
「川梅商店」は、そのHPによると、「創業以来「生かんてん」を中心としたあんみつ材料、和甘味食材の製造卸販売会社」。本社と店舗が築地3丁目にある。創業は1899(明治32)年。写真の店舗(兼工場?)は関東大震災で被災した後、1924(大正13)年に再建したもの。1966(昭和41)年に本社を築地へ移転する。「1983(昭和58)年「Sweet Shop KAWAUME」現住所(築地)に移転」ともあるから、それまで写真の店舗が使われていたのかもしれない。
昭和30年頃の火保図では、住所は「銀座東1-15」で、写真左から「桜井印房、川梅ミツ豆材料、砂場そば、木挽町食料配給所」。砂場は昭和10年頃の火保図に「そばや」とあるから戦前からの店だったのかもしれない。銅板張りの家は米屋だったわけだが、1986(昭和61)年の地図でも「中央精米」。

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三原ビル。中央区銀座4-8。2000年(平成12)年1月18日

晴海通りの、最近まであった三原橋センター(三原橋地下街)から北へ入ったところで、写真の通りは三十間堀川を埋め立てた跡の道路。Googleマップでは「中京429号」となっている。戦後、三十間堀川は戦災残土の処理場とされ、昭和27年7月に埋め立て工事は完了している。写真の通りの中央がかつての川の中央になり、川の両岸は建物が建った。そのため、そこに建った建物は南北に長く、幅の狭いものが多い。三原ビルもそんな形のビルだ。
昭和30年(1955)頃の火保図に「三原ビル(コンクリート造5階建)和泉金属KK/ニュー東京観光バス」と載っているビルと思われる。2013年に取り壊されて2015年9月に、現在の8階建地下1階のビルに建て直された。「串八珍」は新しいビルに移っている。写真奥の赤い看板は「和人餃子房 俵屋」。

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