ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中条電気。港区西新橋1-9。1987(昭和62)年1月1日

外堀通りの赤門ビル(消失)のすぐ西にあった。この辺りの大通りはビルが立ち並んでいるのが普通で、まだ昭和であるが、写真のような戦前の木造店舗が見られるのはかなり珍しい。現在はビル(中条ビル、アコール新橋)に建て替わっている。



五軒長屋。西新橋1-21。1990(平成2)年1月15日

中条電気の横を入った裏通りにあった看板建築の長屋。この長屋は2010年1月17日に裏手の家からでた火災で内部を全焼した(『E-TYPEのガレージ>西新橋・・・“昭和な光景”が焼失』)。今頃はビルに建て替わったかもしれない。
店は手前から、まるきん、カメヤ化粧品店、つく司パン店、田中時計店。右端の軒が少し高くなっている1戸は、下の写真では4階建ての小さなビルに建て替わっている。定食屋のまるきんは、ストリートビューでみると、赤い日よけに「大正十五年創業」の字をいれている。長屋が建つと同時に入居して、建物が焼失するまで食堂あるいは居酒屋を続けてきたのだろうか。


2007(平成19)年3月9日

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赤門ビル。港区西新橋1-13。左:1987(昭和62)年1月1日、右:2009(平成21)年7月14日

外堀通りに最近まであったビル。正面中央上部にアーチの中に球を入れたような飾りがあるが、他には特に特徴らしいものは見当たらない。『日本近代建築総覧』に「赤門屋、西新橋1-13-1、建築年=昭和4年、構造=RC4、施工=清水組」で載っている。1階の店は、写真の看板などでは、「MENS SHOP AKAMONYA」「Boutiqueあかもん」などの表記があるが、会社名は「㈱赤門洋装店」らしい。
『都市徘徊blog>赤門ビル』によると、2011年にビルは解体されたが、解体用のフェンスが組まれていた2010年になっても「あかもん」は営業していた。右写真では、外堀通りに向いて建っていた2棟のビルが取り壊されて赤門ビルの横が見えている。『都市徘徊blog』には赤門ビルの後ろまでが写っている写真が載っている。
左写真右の「丸宏証券」の看板のビルは「西新橋1森ビル」。森ビル株式会社が設立された初期の1957年11月に竣工した。2008年に解体され、赤門ビルの跡と同様に今は駐車場になっている。

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松菱金属。墨田区向島1-7。2008(平成20)年12月3日(4枚とも)

三つ目通りの源森橋から言問橋東交差点までの沿道に残っている古い商店建築を紹介する。写真は全て通りの西側である。東側は、すぐ戦前の建物と判るものがほとんど残っていない。
上の写真は源森橋のすぐ北。同じような造りの、瓦屋根の家が2棟並んでいる。左の家はしもた屋になっているようである。右の家は「松菱金属」の文字が残っているが営業しているかどうか。



茨木仕立屋(明石屋)。向島1-7

左のあずき色の家は二軒長屋の片割れかもしれない。すっかりリフォームされて、まだ当分使っていく構えだ。右の家は建ったときの造りをよく残しているように見える。ガラス戸に「和服仕立物店」と読める。仕立屋さんだが、今も商売を続けているのだろうか。




上:旧加藤洋品店、左:二軒長屋
向島1-6

商店や家内工業の製作所だったと思われるが、しもた屋になった家が並ぶ。写真中央の家が「加藤洋品店」だった家。右端は三軒長屋の二戸分を看板建築にしているようだが、伸和プレスという会社だった。現在、旧加藤洋品店から伸和プレス(横丁の角にある)までが取り壊され、すでにビルに建て替わった。
左の写真は上の写真の家並みの裏側。二軒長屋が2棟並んで残っている。この裏通りの向かい側は隅田公園。

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左:山口酒店、右:長屋。墨田区向島1-14。2008(平成20)年12月3日

三つ目通りの源森橋と牛島神社前交差点の間にある横丁を東に入ったところに残っている出桁造りの酒屋。2軒の店が入るように造られた長屋のようにも見える。建物の横の壁は新建材で改装されているが、正面の物干し台は木で作りなおされているので、全体が昔の雰囲気を保っている。
写真左手の向かいは「ホタカリュミエール・イワタ」(2007年9月築、10階建て)というマンションだが、それが建つ前は 弁天湯という銭湯だった。風呂屋の煙突>弁天湯によると、2006年3月24日で廃業した。
右写真は山口酒店の並びにある三軒長屋。元は四軒あったのを、手前の1戸がなくなって駐車場になっている。



左:民家、向島1-12。右:花屋、向島1-11。2008(平成20)年12月3日

上の2件は言問通りに近く、その通りから横丁を南へ入ったところ。それぞれ別の横丁である。左写真の民家は、元は二軒長屋で、その1戸が右のビルに建て替えたのだと思う。

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上:平屋の民家、左:長屋
墨田区向島1-15。1984(昭和59)年7月21日

上の庭付き一戸建て、平屋の住宅は、業平駅(とうきょうスカイツリー駅)から三つ目通りに出るまでの、東武伊勢崎線(現在は「東武スカイツリーライン」というらしい)の高架に沿った道路にある民家。写真は高架沿いの道路から横丁に入ったところ。今も、屋根が葺きかえられたりしているが、家も板塀もそのままで残っている。
昭和22年の航空写真を見ると、この辺りは三つ目通りから水戸街道に入って150m位先まで、その大通りの両側が空襲の焼失から免れたようである。今でもわずかではあるが、戦前の木造家屋が見られる。ただし上の写真の民家は、昭和22年の写真では写っていない。高架沿いの道路の北側が家1軒分の幅で取り壊されたように見える。線路を空襲の火災から守るために取り壊したのではないかと思う。ついでに道路を拡幅しようという計画があったかもしれない。
1枚目写真の右の家は二軒長屋で、裏側に同じ二軒長屋がT字形にくっついている。その2棟が、2枚目写真の路地を挟んで2セット配置されている。現在、通り沿いの1棟は建て替えられ、もう1棟はリフォームされた。奥の2棟は、改装はされているのだろうが木造長屋の雰囲気は残っている感じである。



木造総二階建ての民家。向島1-15。2008(平成20)年12月3日

長屋の先の四つ角に面した民家。裏には小さな庭があるらしく、板塀から植木が出ている。掲示板と消火器を家の敷地内に設置させているのだろうか。昔からここに住んでいるんだ、という余裕のようなものが感じられる。写真右端の家は二軒長屋の1戸が残っているものらしい。

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永柳工業。墨田区京島1-1。2004(平成16)年1月24日(3枚とも)

京成押上線の「けた下1.9Mガード」を北に抜けたところの路地。奥へ行けば曳舟川通りで、「東部ボウル」が見えている。写真左手(西側)の工場が永柳工業。
写真右(京島1-2)に写っているのは、撮影した頃とは変わっているかもしれないが、1985年の住宅地図では「田原香油㈱の寮」、看板建築風にしたらしい建物は「やきとんまつ代」。以下、「グアム」「おにぎり仲吉」「割烹あぐ利」「小料理みさ」と並んでいて、小さな飲み屋街だったように思える。
現在、再開発によって永柳工業があったところは、「イーストコア曳舟一番館」(2008年10月完成20階建て273戸)、「二番館」(2009年11月完成41階建て490戸)などに、2番地の入り組んだ路地の中に工場や住宅が建て込んでいたところは「イトーヨーカドー曳舟店」(2010年11月開店)になった。以前、イトーヨーカドーは曳舟たから通りの京島2交差点の近くにあったから、そこから移転した形だ。



1枚目の撮影位置から門のところにきて振り返ったもの。永柳工業の手前の建物は地図に「食堂」と書き込まれていた。道路の奥は京成線のガード。


『永柳工業株式会社』によると、永柳工業は明治29年の創業。コルク製品の製造から出発し、ゴム製品、王冠も製造販売している会社。写真の工場があるところは「帝国コルク株式会社」があったのを、1925(大正14)年に買収して向島工場とした。その頃と思われる地図を見ると、工場敷地の南半分は湿地で、池まであったようだ。
再開発により、北茨城市中郷町の工場を増築して移転したのは2005(平成17)年である。

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七軒長屋。墨田区京島1-53
上:2008(平成20)年12月6日
左:2013(平成25)年2月10日

明治通りの京島交差点の角に古い商店長屋が残っている。『東京DOWNTOWN STREET 1980's>京島一丁目>京島一丁目』に、「七軒長屋」と紹介されている建物。店ごとにその正面を看板建築風に改装している。四ツ目通り側の、2階の壁ををトタン波板で葺いた店が、元に近い造りなのかもしれない。
現在は交差点に向いた「散髪屋おかざき」と黄色い日よけの「沖山測量登記事務所/東邦地所不動産部」が営業していて、他は空き家か住居になっているらしい。明治通り側の「二葉堂」は菓子屋だった。その隣の「コーサテン」というソフトクリーム屋だった店の日よけがまだ残っている。さらに隣は長屋には入らないようだが、「大和屋履物店」だった。



ダルマ理容院。京島1-53。2008(平成20)年12月6日

明治通りの京島交差点から少し北へいった辺り。古い長屋の表側を店ごとに改装して1戸ごとに独立した店舗のようにみせている。写真左から、サンユー商事、金子屋(製菓材料)、ダルマ理容院、こうたろう(ラーメン)、ディスカウントショップサトウ。その先は路地が入っていて石井酒店。
サンユー商事の建物上部の消えかかっている文字は「赤坂歯科醫院」で、ラーメン店にも「松江寿司」の旧店名が残っている。ディスカウントショップは「金華園(中華料理)」だったときの造りらしい。

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鎌田セルロイドの倉庫。墨田区京島1-46。2004(平成16)年1月24日

京成曳舟駅に接してNTTの事業所(旧向島電報電話局)がある。写真の倉庫はその裏にあったもの。現在は「スポーツクラブ&スパルネサンス曳舟」という施設になっている。それが建つ前は「㈱鎌田」と「駐車場(旧協和電設置場)」で、鎌田のほうも工場はなくなっていて、駐車場になっていたが倉庫のいくつかがまだ残っていた、という状態だったらしい。
㈱鎌田は、1968年の地図に「合名会社鎌田セルロイド工場」とあるから、その会社の末裔なのだろう。ネットではそれらしい会社は見つけられなかった。昭和22年の航空地図に写っているから戦前からある倉庫だと思う。気のせいか、いかにも危険物を入れておく倉庫のように思えてくる。



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キムラヤパン店。墨田区京島1-6。2010(平成22)年5月6日

曳舟たから通りの京成押上線の踏切から分れて南に向かう昔からある道路がある。川の跡を道路にしたと判る形で、ゆるいカーブを描いてS字状にくねりながら十間橋通りの手前で再び曳舟たから通りと合流する。その先は直線に改修されているが、東武亀戸線を越えて、文化2丁目で、川は仲井掘と合流していた。
今回の写真はその道路沿いの京島1丁目の範囲にある3点。上の写真の家は京成押上線の踏切がすぐ右手にあるところで、家並みの裏側は再開発のため、かつてあった住宅などはきれいになくなっている。写真の家もまもなく取り壊されるもの思う。現在は写真右端の平石薬局を除いて住人は退去したようだ。
写真左端はしもた屋だが、建物左2階に「小料理「芳」」の看板が残っていた。キムラヤパン店はおにぎりやシベリヤも置いている。その隣、2階正面を縦縞の板で塞いでいるのは「テーラースミダ」だった家。



曳舟湯。京島1-6。2008(平成20)年12月3日

曳舟湯は昭和7年の創業で、建物もそのときのもの。再開発のため2012年6月17日に閉店、最近、取り壊された。
階段を3段あがって入るようになっている。回りを見回しても、ここだけ地形的に高くなっているはずはなく、土盛りしたのだろうと思う。前の道路はかつての川の跡である。曳舟湯が建ったころはその川が下水溝のようになって残っていたかもしれない。この辺りは、昔は大雨があれば簡単に出水したと思われるから、少しでも地面を高くしたかったのだろう。



矢島たばこ店。京島1-10。2013(平成25)年2月10日

区立京島西公園の向かい側。この公園は丸登化成工業と旭運送店があった跡に、昭和52年2月に開園している。写真中央の矢島たばこ店の建物は、昔の航空写真を見ると、4軒長屋の一戸が残っているものだ。

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稲田商店(タバコセンター)。墨田区京島1-7。2010(平成22)年5月6日(2枚とも)

京島1~3丁目は1970年頃までは工場地帯といってよかったようで、中小の工場は今も多数あると思うが、大工場もかなりあったようだ。その工場跡地は再開発されてマンションと商業施設に替わってきている。京島1丁目は旧町名だとほぼ寺島町4丁目にあたる。写真の通りは「曳舟たから通り」という。右奥へいくとすぐ京成押上線の踏切で、そこを渡るとイトーヨーカドー曳舟店だが、写真ではまだ建設中だ。煙突は曳舟湯。今頃、曳舟湯は解体されてしまったと思う。
京島は空襲の被害からほぼ免れた地域で、古い木造の家は戦前からあるとみていい。角の稲田商店は二軒長屋の看板建築。もう1戸は曳舟湯コインランドリー。古い地図を見ると1990年ごろまでは多昌履物店だった。



小橋商店、古本屋

1枚目写真と同じ家並みを逆方向から撮った。写真中央左寄りの店はすでに廃業しているらしく、住宅地図では空白。その隣が古本屋になっている。1985年の住宅地図では「小橋商店」と「白石果実」で、古本屋の方は果物店だったらしい。『 Kai-Wai散策>バラック系の古本屋(2005.06.29)』で、この古本屋を正面から撮った素敵な写真を見ることができる。野菜の段ボール箱に本を入れて置いてあるのは、残されていた箱を利用したのだろう。

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