ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




I邸。文京区西片1-11。2007(平成19)年2月24日

言問通り(の延長、清水橋通り)に架かる清水橋の通りを西へ行くとすぐ「西片児童遊園」で、そこを過ぎて南へ入る道路との角にあった日本家屋の住宅。塀際に洋風の小さな別棟があるが、そちらは案外と新しいものかもしれない。2015年に建て替えられた。
下の写真は、上の写真左奥に写っている家。撮影後、1・2年で取り壊されたと思える。現在は駐車場。
西片1・2丁目(旧駒込西片町)は江戸期は福山藩阿部家(幕末の阿部正弘が有名)の江戸丸山屋敷で、明治になっても阿部家が所有した。明治中期から広大な阿部邸の敷地を宅地として開発していったらしい。写真の2軒は普通に見れば庭付きの贅沢なお屋敷だが、「阿部さま」にすれば一般庶民の住宅なのだろう。



K邸。西片1-11。2007(平成19)年2月24日

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中村邸。文京区西片1-1。1986(昭和61)年5月

お屋敷町といっていい文京区西片にあった洋館。西片の高級住宅街というと普通は本郷台地の上に広がっているが、写真の洋館は台地の崖の下、言問通り沿いにあった。菊坂下交差点の少し北で、現在は「メイフラワー西片」(1990年7月築、5階建20戸)というマンションに替わっている。写真左の家は今も変わっていないようで、門とガレージは写真のままだ。
洋館は『日本近代建築総覧』に「中村道雄邸、昭和6年築、RC3階建、設計=高松政雄、1階外壁煉瓦タイル張」となっている建物。
高松政雄というと、「1885-1934年。曽禰中條建築事務所に入所し、丸の内のオフィスビルなどの設計に従事する。また、東京海上ビルなどの設計を行った。 特に病院建築の設計監督に從事する。病院建築は造詣が深く、慶應義塾大学病院などの設計を行った」(ウィキペディア)建築家がいた。中村邸の設計者がその人なのだろうか?


中村邸。1988(昭和63)年10月10日

中村邸の北側。洋館の裏手に母屋になるらしい2階建ての家、手前に平家の日本家屋が洋館とくっついている。駐車場は、今は時間貸しの機械が入ったが、やはり駐車場のまま。

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やまきた駅前観音堂、岡本屋呉服店、ポッポ駅前屋
神奈川県足柄上郡山北町山北1917。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口の広場の前を東西に通っているのが「山北駅前大通り」で商店街になっている。駅前から北へ、県道76号へ出る通りとの交差点(タケイ美容室と木川薬局が向き合っている)で、山北駅前大通りは「西大通り」と「東大通り」に区分される。対面通行はできそうな道幅だが、それぞれ山北駅へ向かう一方通行で、山北駅まで来てしまった車は県道へ向かうしかない。
駅前広場の東西の端の位置に、2013年頃まで「山北駅前大通り」のゲートがあったのだが、老巧化で取り外された。設置されて50年くらいは経っていたのだろうか? 写真は西大通りの入口付近だが、「岡本屋呉服店」の前にゲートがあった。
「ポッポ駅前屋」の真っ黒な建物が目をひく。看板に「休憩 お食事 お土産 鉄道模型」とあるが、食堂である。以前は「山北町観光案内所」だったが、それが「ふるさと交流センター」に移って、2011年4月にポッポ駅前屋が開店した。そのせいか、観光案内所で食事処を聞くとここを挙げてくれるとか。「食べログ」などを見ると、安価だし電車の時刻まで鉄道模型を眺めて時間をつぶせるらしい。もし機会があれば、カレーうどんを食べてみたい。建物は大正時代のもので、元々は茶舗だったという。

岡本屋呉服店の左は「やまきた駅前観音堂」。商店街のゲートが撤去されたとき、代わりになるものを、と商店街の有志で発案、地元の彫刻家蘭二朗氏が制作した観音菩薩を空き店舗に祀った。2014年10月24日が開眼法要。地域の安全を見守ってくれることになった。北山駅に下り立ったハイカーも安全を願って寄っていかなくてはならない。

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タケイ美容室。神奈川県足柄上郡山北町山北1927。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口の駅前広場から、御殿場線と平行に「山北駅前商店街」の通りがある。駅前からは県道76号へ出る通りがあり、その両通りの交差点角が、両側とも洋館風の建物で、すでに山北駅前の有名な建物だと思う。山北駅が東海道線の駅としてにぎわった当時をしのばせる建物である。駅前に建って眺めると、レトロな街並みを再現した鉄道模型のジオラマの中にいる気分になれる。
山北町(やまきたまち)はD52を展示した山北鉄道公園や鉄道資料館などを開設している。鉄道遺産を核に、観光客を誘致しようという方針のようにみえる。だとすると、タケイ美容室と木川薬局が向き合う光景は貴重な観光資源であろう。
神奈川の近代建築探訪タケイ美容室・木川薬局』によると、両方とも木造2階建て。建築年はタケイ美容室が昭和7年、木川薬局が昭和13年頃。



木川薬局。山北町山北1917。2016(平成28)年4月22日

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山北駅。神奈川県足柄上郡山北町山北。2016(平成28)年4月22日

JR御殿場線の山北(やまきた)駅は東海道線の駅として1889(明治22)年に開業した。1934(昭和9)年12月に丹那トンネルが開通するまで44年間、日本の大動脈たる東海道線の全列車がこの田舎駅に停車した。この駅で山超えのための機関車を増結し、石炭と水を積み込んだのである。昭和初期には「山北機関区」で働く職員は650人にもなったという。旅客列車が着くたびに鮎寿司弁当や山北産のみかんは飛ぶように売れたのではないかと思う。
今、その賑わいをかろうじて伝えるのは、駅構内の広さと駅前広場に向かって建つ2棟の洋風看板建築くらいだ。
駅舎は関東大震災で大破した後、1924(大正13)年に建て直されたもの。
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~國府津-山北間編 明治頌歌』に『山北町史』に拠るとして、関東大震災の被害が引用されている。それによると、液状化現象によると思われるが駅構内が水浸しになり、構内にあった貨車29両が転覆し、荷役停車中の貨物列車が脱線したという。



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中沢屋酒店。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1259。2016(平成28)年4月22日

御殿場線に乗り換えるため小田急線新町田駅に降り立ったついでに、「ロマンス通り商店街」をちょっとばかり歩いてみた。その商店街は御殿場線と小田急線の間を東西に通っている、道幅も適当な、まあまあ商店街らしい通りだが、賑わっているとはいえない。駅から離れるにつれ、商店街らしさも薄れる。
「ロマンス通り」という名称の由来と、いつ頃から称しているのかが気になる。やはり小田急のロマンスカーから来ているのだろうか? 新宿―小田原の特急を「ロマンスカー」の名称で運行を始めたのは1949年10月、戦後まもなくの時期だ。3000形車両を投入したのが1957年7月。

ロマンス通り商店街には古そうな商店の建物が点々とあるのだが、いつ頃の時代のものなのだろう? 関東大震災でかなりの被害を出したということだから、昭和初期の復興期が、この町にもあったのかもしれない。


内藤履物店。松田町松田惣領1263。2016(平成28)年4月22日


中村陶器店。松田町松田惣領1315。2016(平成28)年4月22日

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小田急新松田変電所。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1357。2016(平成28)年4月22日

小田急新松田駅にある変電所。Googleマップに「秦野電気システム管理所松田事務所」とあるが、これは小田急の電気系統の点検などをおこなう部署のようだ。小田急小田原線が開通したのは1927(昭和2)年4月1日で、新町田駅もそのとき開業した。変電所はそれ以前に建ったわけなので、大正15年頃かと推定できる。
神奈川の近代建築>小田急新松田変電所』によると、RC造2階建、設計は小田急電鉄で、相武台前駅の変電所が同じ仕様による建物だそうだ。相武台変電所には建物の正面、2階の中央にアーチの出入口があるので、新松田変電所にもあったのを塞いでしまったのかもしれない、としている。また、近代建築では足柄上郡唯一のRC造の建物だという。
新松田駅の駅舎は平屋の寄棟屋根に破風のような屋根を乗せて、ちょっと古い駅舎にみえるが、1980(昭和55)年に建て直された割と新しいものだ。



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聖路加宿舎。中央区明石町8。1987(昭和62)年9月15日

現在、聖路加ガーデンとなっている街区の南の通りに沿って建っていた聖路加国際病院の看護婦宿舎。昭和38年の航空写真に写っている。昭和35年頃に建ったのだろうか? L字型平面の角に玄関、その奥に階段室があって、その屋根の上に水槽が載っている。その上の避雷針と思われるものの形が面白い。昔の漫画のロボット、あるいはブリキの玩具が頭に付けているアンテナみたいだ。



都職員明石住宅。明石町14。2004(平成16)年11月6日

1枚目写真の右奥へいくと、隅田川の堤防沿いの道路に突き当たる。今は「墨田川テラス」という川沿いの遊歩道に整備された。隅田川に出る手前にあるのが写真左の薄茶色のビルで、「中央区明石町区民館」。集会のための部屋を用意した施設だ。「リサイクルハウスかざぐるま明石町」があるのが特徴。
写真中央が「都職員明石社宅」で、手前のル・コルビュジエ風の建物が玄関ロビーに当たる共用部分、後ろのビルが本体になるのだろうか?
写真右にわずかに写っているのが「警視庁東京水上警察署明石寮」。その左のビルの隙間から隅田川対岸の月島のマンションが見えている。その手前の門の表札は「新明石住宅」で、水上警察署明石寮の裏に建っていた。
現在、都職員明石住宅は広場のような公園に、水上警察署明石寮は建て直している最中かと思う。

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土門拳旧居跡。中央区明石町2。2008(平成20)年11月5日

佃大橋通りを佃大橋へ登っていかずにその下の通りから南へ入る横丁を入った奥、都営明石町アパートの裏に、横丁から西へ入っている路地に沿って戦前に建てられた民家が並んでいた。長屋のように見える家で、実際に二軒長屋式の家もあったかもしれない。同じような外観なので、借家として建てられたと思われる。
横丁から3軒目が土門拳(どもんけん)の住んだ家だったのだが、訪れた日には2・3軒目の家は取り壊されて、更地になってしまっていた。2008年7月、当ブログに「九ちゃんのママ」から情報をいただいてすぐに赴いていたら間に合っただろうか? 
上写真の路地入口の角にあった家は2017年まではあったようだが、今は路地奥の家もなくなって、時間貸駐車場になってしまった。



路地奥の民家。左:2008(平成20)年11月5日、右:2008(平成20)年12月19日

『Cradle(クレドール)』という出羽庄内地域文化情報誌(山形県酒田に「土門拳記念館」がある)の2013年5・6月に「土門拳の肖像」という特集を組んでいて、その年譜に「1938(昭和13)29歳 明石町に転居」「1966(昭和41)57歳 麹町に転居」とあり、土門拳は28年間、明石町で暮らした。
『SPOON』という、やはり酒田・庄内の地域情報誌の2007年11月号に、土門拳の長女で土門拳記念館館長の池田真魚氏(1940(昭和15)年生まれ)のインタビュー記事が載っている。「2階屋の1戸建てなんですけど、落語に出てくる長屋みたいなものですね。1階に6畳と3畳、2階に6畳があって、2階は、土門の書斎兼寝室兼客間なんです。そこに、おばあちゃんと両親と子どもたちが住んでいたんです。」と、明石町の家についても語っている。
土門拳の弟子で堤勝雄という写真家がいる。平泉の中尊寺が出している『関山』という雑誌の平成17年(2005)2月号に「古寺巡礼と中尊寺」という記事を寄せている。氏は昭和38年夏に弟子入りし、明石町の家に住み込みで働いたらしい。撮影依頼の電話受付、撮影の許可依頼、スケジュールの調整、チケット・宿の手配、すべてのマネジメントを任されたうえ、家事までやった。勿論土門が撮影するときは重い機材を担いで助手を務める。「築地明石町の二軒長屋に住む土門邸の一日は……」「二階の書斎兼寝室」「風呂屋の仕舞湯で背中を流し、冷たいミルクコーヒーを一気に流し込んで一日が終わる」などとある。土門家から路地を抜けて鉄砲洲川のあった大通りに出ると、その角に「明石湯」があった。1970年まではあったようだ。

路地の奥の奥の民家。2008(平成20)年12月19日

路地の奥は鍵型に曲がり、そこから両側に4軒ずつの民家が並んでいる。こちらはほぼ(たぶん7軒が)今も残っていると思われる。左の写真は曲がり角までいって覗き込んだもの。これ以上踏み込めない雰囲気だ。

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中央区立第二中学校。中央区明石町1。1987(昭和62)年1月15日

明石小学校の北に隣接していた、大正15年に「京橋高等小学校」として建てられた校舎である。
高等小学校とは1886(明治19)年に尋常小学校(修業年限4年)と高等小学校(修業年限4年)が設置されて以来、制度の変遷があり、明治末には尋常小学校は6年間(義務教育)、高等小学校は2年間となる。尋常小学校を卒業した後、余裕のある家庭の子が高等小学校に進学した。1941(昭和16)年、国民学校令により尋常小学校は国民学校(初等科)に、高等小学校は国民学校の高等科に変わった。

京橋高等小学校の校舎は『東京市教育施設復興図集』(昭和7年、東京市役所編纂、勝田書店発行)によると、施工は竹田組で、工期は大正14年11月2日~大正15年11月25日。学校の創立は明治44年11月で、20学級とある。竹田組は半年ほど先行するが、大正14年6月15日~大正15年8月28日の工期で隣接する明石尋常小学校を建てている。
写真中央の玄関から左は増築による。増築と言っても戦前のことになるだろう。



左:第二中学校・正門、右:東側出入り口。1990(平成2)年1月21日

戦後、京橋高等小学校だった校舎は、区立第二中学と都立京橋高校とで使われた、としてよさそうである。学校の名称や場所が変わっていくので、その点が複雑である。
戦後の学制改革により昭和22年に中学校が発足する。中央区では10校が開校、そのうち京橋地区は「明石中学」「明正中学」「文海中学」の3校。『中央区の地名の由来』を参照すると、明石中は常盤小学校内に開校し、昭和31年に現在の銀座中(銀座8-19)のところに落ち着く。なぜ「明石」なのかが不思議だが、明石小に併設するつもりで名称を決めたら、そこが占領軍に接収されてしまったからだろうか? 接収が解除されたのは昭和28年7月。明正中は明正小学校(新川2-13)内にあった。明正小は昭和21年から26年まで京華小学校(八丁堀3-17)に統合され、校舎は空襲の被災者を収容したらしい。明正中が開校したのは京華小内だったのだろうか? 
文海中学は明石小内に開校、ということだが、当時の明石小は京橋高等小学校だった校舎を使っていたと思われる。以降、区内の小学校に分教場を置き、昭和28年に京橋高校(校舎は旧京橋高等小)内に移転した。
昭和43年に、文海中と明正中が統合して「第二中学校」に、明石中は「第一中学校」になる。1984(昭和59)年に、第一中学校と第二中学校が統合して「区立銀座中学校」になった。文海中→第二中が京橋高等小の校舎だった建物にあったのは、昭和28~59年ということになる。

一方、都立京橋高校はというと、『中央区の地名の由来』によると、「東京市京橋区女子実業学校」(都立晴海総合高校のHPでは「東京市立京橋区女子実業補習学校」)が明治44年に京橋高等小学校に間借り移転してくる。大正7年「東京市京橋区実業補習京橋女学校」と改称。昭和2年「東京市京橋区京橋専修女学校」と改称。昭和7-11年の火保図に「専修女学校/明石町高等小学校」とあり、跡づけられる。そして昭和24年に「都立京橋高等学校」となった。1963(昭和38)年に晴海に移転する。これ以後、京橋高等小だった校舎は文海中→第二中が単独で使用したのだろう。京橋高校は平成9年に、都立京橋商業高校と統合して「晴海総合高等学校」になった。

掲載した写真はすでに第二中学は銀座中学になった後なので、「旧第二中学」が正しい。第二中が出た後は区の施設が入っていた。1986年の住宅地図では「区立築地小学校/区立京橋朝海幼稚園」だが、築地小の建替えのため、一時移ってきていたもの。平成6年1万分の1地形図には「シルバー人材センター」とあった。教室の一つを使っただけかもしれない。2002(平成14)年に解体された。今は、「UR都市機構ラヴェール明石町」(2004年6月築、22階建て199戸)という賃貸マンションが建つ。

建物は佃大橋通りの側が正面だったと思われる。その肝心の面を撮り損ねたようだ。そちらは『廃景録>中央区立第二中学校』および『都市徘徊blog>中央区立第二中学校 』で見ることができる。

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