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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



岡三証券大阪店。大阪市中央区今橋1-8
1992(平成4)年8月4日

堺筋の今橋通(いまばしどおり)との交差点を東へ入ったところ。北浜の金融街といっていい場所になる。
岡三証券大阪店』によれば、現存する写真のビルは、1954(昭和29)年に岡三証券の本社ビルとして竣工したもの。1965(昭和40)年に本社は東京に移して、「大阪店」になった。「大阪支店」は大坂に何店か別にある。2009(平成21)年4月に建物をリニューアルし、1階は多目的ホールに直した。外観は変えていないという。
写真右に写っているビル(テントに「大和證券」と読める)は、「イトーピア北浜スウィートマーク」(2005年2月築、24階地下1階86戸)というマンションに替わっている。

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住友ビルディング。大阪市中央区北浜4-6。1992(平成4)年8月4日

大坂の近代建築といえば、まず挙げられるのは中之島の「中央公会堂」だろうか。ぼくは「住友ビルディング」を挙げたい。外観は対照的な両者だが、一見地味に見えて内部の豪華さを感じさせる住友ビルに惹かれる。
『近代建築ガイドブック[関西編]』(加島出版社、昭和59年、2800円)では「住友ビルディング、設計=住友工作部、施工=大林組、建築年=大正11(1922)年~昭和5(1930)年、構造=鉄筋コンクリート造5階建、所在地=東区大川町5-22・西横堀1」。

『日本近代建築の歴史』(村松貞次郎著、日本放送協会発行、昭和52年、750円)によると、関西の建築家のよる「関西建築士会」が結成されたのが大正6年。大正8年に「日本建築協会」と改名する。関西在中の建築家が中心だったが、京都帝大教授の武田五一をはじめ建設業の経営者やその設計部に属していた建築家も含まれた。その中には住友に属する建築家もいた。幅の広い懇親的な性格の組織だったという。そういう関西の建築家の世界から、大正から昭和にかけて、日本の様式建築を円熟化・簡素化し、新時代の造形へ進んでいった建築家たちを輩出していった、として住友ビルに関して以下のように述べている。

 野口孫市・日高胖(ひだかゆたか)が基礎を築いた住友の営繕関係では長谷部鋭吉・竹腰健三が第二段階の展開の原動力となった。大正15年に竣工した住友ビルは、すでに近代的な構造・設備を内蔵しながら。様式的な意匠を採用し、しかもそれを単純化する試みに成功した作品として、明治以来の様式の学習期(その決算としての長野宇平治や岡田信一郎の作品も含めて)をはっきり脱却した段階を示している。いわば日本における様式建築の自立としかもその展開を示すものとして日本の近代建築史上に大書されるべき作品である。



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goo blogのサービス終了にはびっくりしましたが、なんとかAmebaブログに「引越し」できました。goo blogはすっかり慣れて作業もやりやすかったのですが、しかたありません。20年近くお世話になったお礼をいうべきなのかもしれませんね。
ついでにブログのタイトルを「昭和回顧録 建築編」と改名しました。「昭和」「回顧」「建築」を入れたタイトルを、と考えたら、ただ繋ぎ合わせただけになってしまいました。この後、移行できなかったコメントの復元作業をやっていきます。コメントにも貴重な情報が入っているので捨てるわけにはいきません。
ということで、「ぼくの近代建築コレクション」と同様に「昭和回顧録 建築編」をよろしくお願いします。

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大阪市立愛日小学校。大阪市中央区北浜4-3。1992(平成4)年8月4日

淀屋橋交差点の西南裏手にあった愛日(あいじつ)小学校は、1990(平成2)年に大阪市立集英小学校と統合され大阪市立開平小学校となって閉校した。写真はその2年後のもので、「大阪府…事務局/国民体育大会準備室」の看板が掛かっている。『ウィキペディア>大阪市立愛日小学校』によれば、校舎が解体されたのは2005年で、跡地は再開発され、「淀屋橋odona」や「三井住友海上大阪淀屋橋ビル」が建った。
『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「設計者=不祥、施行=清水組、建築年=昭和4年(1929)、構造=鉄筋コンクリート造3階建、所在地=東区北浜5-36」。『ウィキペディア』では設計者を「建築家・横浜勉(1880-1960)」としている。



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石原ビル。大阪市中央区北浜4-1
1992(平成4)年8月4日

淀屋橋交差点の南西角にあった石原時計店のビル。再開発のため2021年に取り壊された。『ウィキペディア>石原ビルディング』によると、御堂筋の道幅が広げられた後に、石原時計店(石原政造)により建てられた。1939(昭和14)年3月の完成。設計は眞水・三橋建築事務所。石原政造自身がビルの衣装を手掛けたという。構造はRC造8階地下2階建。
写真では腕時計のロンジンの広告が挙がっている。1983年頃よりで、それ以前はオメガを中心に扱っていたとか。2008年にセイコーの専門となり、ビルの解体時までグランドセイコーの広告だった。
写真右端にわずかに写っているのは「ミズノ淀屋橋店」。1927(昭和2)年7月に「美津濃運動用品株式会社」の本社として建てられた。設計=岡部顕則、施行=竹中工務店、8階地下1階建。とてもそんな古いビルに見えないが、増築などの改修でファサードは改装されているのだろう。

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淀屋橋政経ビル。大阪市中央区北浜4-8
1992(平成4)年8月4日

土佐堀通の淀屋橋交差点から東へすぐのところ。この辺りは、住所は北浜でも「淀屋橋」と言われるのが一般的らしい。
写真左のビルは「日生淀屋橋ビル」。2019年には取り壊されて2022年に「日本生命淀屋橋ビル」(2022年8月築、地上25地下1階建)が建った。写真右のビルは「オリックス淀屋橋ビル」(1991年3月築、地上9階地下2階建)で、政経ビルが解体された後、オリックス淀屋橋ビルの増築部分(2006年7月築)になった。
今はなき大阪の近代建築>淀屋橋政経ビル』によると、「設計者:不祥、建築年:1935(昭和10)年頃、構造:鉄骨コンクリート造、地下1階、旧住所:大阪市東区北浜4-8」。2004年2月に火災で内部を焼失して解体されたという。

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つねなりすたじお。大阪市中央区北浜2-1。1992(平成4)年8月4日

土佐堀通の北浜2交差点から東へ50mほどのところ。現在は「つねなりビル」(1997年10月築、9階地下1階建)に建て替わっている。
『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「つねなりすたじお 設計・施行=不祥、建築年=大正2年(1913)頃、構造=煉瓦造2階建、所在地=東区北浜3-40」。
消えた建築>つねなりスタジオ』によれば、設計者は吉本与志雄。彼はネット検索すると「徳川美術館」(名古屋、1935年)の設計者として出てくる。また、『蔵前工業会館』(新橋、昭和6年)があった。『消えた建築』の写真では建物は左右のビルより少しバックしたところに建っていて、前のスペースに車を止めている。建物右端から煉瓦塀が突き出していて、そこに「つねなり すたじお」の厚みのある文字が貼り付けてある。

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旧近畿建築会館。大阪市中央区北浜2-1。1992(平成4)年8月4日

土佐堀川の方から撮った土佐堀通に並んでいた家並みの裏側。建物は右から、日本文化会館ビル、つねなりすたじお、北浜ゲイトビル、ヒサヤ大黒堂、旧近畿建築会館、ヤマニビル(北浜ビジネス会館)。写っている3棟のビルは今もそのまま。
ヒサヤ大黒堂と旧近畿建築会館は「サンメゾン北浜ラヴィッサ」(2006年2月築、18階地下1階建31戸)というマンションに建て替わって、ヒサヤ大黒堂はその2階に本社を置いている。

旧近畿建築会館。大阪市中央区北浜2-1。
1992(平成4)年8月4日

『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)には、「旧近畿建築会館(伊藤邸)、設計=宗建築事務所(大倉三郎)、施行=不祥、建築年=大正15年(1926)、構造=RC造3階建、所在地=東区北浜3-37」。
大倉三郎については同書の解説に「京大卒で大正12年から昭和2年まで大阪の宗兵衛の事務所に籍を置いた学究肌の建築家で、その後京大営繕課に移っているが、この間の宗事務所に新鮮な作風を吹込み、独特の温かみのある作品を数多くのこしている」としている。
建物についてはやはり同書に上の文に続いて「医師の診療所付住宅であったというが、外観はスパニッシュ風でまとめられ、内部は簡素ながら、要所に魅力的な装飾を配している。1階を入ったところの階段親柱の彫刻は、大倉の好んだモチーフのひとつ」とある。
今はなき大阪の近代建築>ヒサヤ大黒堂玄武会館』によれば、解体前にはヒサヤ大黒堂が「玄武会館」として使っていたという。2003年12月に解体され、その写真が載っていて西側側面が記録されている。

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日産生命。大阪市中央区北浜2-1
1992(平成4)年8月4日

土佐堀通の北浜1交差点から西へ100mほどのところにあったビル。
『ウィキペディア>日産生命保険』には、日産生命保険相互会社は「バブル経済の崩壊の影響などにより、1997年(平成9年)4月25日に倒産。戦後初の生命保険会社の経営破綻となった」「当社の破綻を皮切りに、東邦生命保険(1999年6月破綻)、第百生命保険(2000年5月破綻)、大正生命保険 (同年8月破綻)、千代田生命保険(同年10月破綻)、協栄生命保険(同年10月破綻)、東京生命保険(2001年3月破綻)と、中堅生命保険会社7社の経営破綻が続き「生保破綻ドミノ」と呼ばれた。いわゆる「護送船団方式」と呼ばれる金融保護政策が、バブル崩壊後は銀行に続き保険業界でも崩れ去ることとなった」とある。
写真のビルは大阪支店だったと思われる。建物自体の詳細は不明。ビル中央の階段室に続く塔屋がアールデコを思わせて独特。
現在は「光世証券本社ビル」(2001年竣工)に建て替わっている。

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西田三郎商店、広田商事、桂隆産業
大阪市中央区北浜1-1
1992(平成4)年8月4日

大阪証券取引所の土佐堀通に対して向かい側に、3棟の洋館が並んでいた。上の写真では、桂隆産業は街路樹の後に隠れてしまっている。『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では3棟がまとめて記されていて「設計・施行=不祥、建築年=明治末~大正初期、構造=煉瓦造2階建(大川側に地下室付)、所在地=東区北浜2-75」。「それぞれに個性的な衣装を凝らしながら軒を接して並ぶ証券取引業者の店舗で、濃厚な時代色を感じさせる。一番東の桂隆産業が一番垢ぬけた意匠であるが、それにしても奇抜な、あまり本格的洋風建築に見られない独特の意匠である…」と解説されている。
現在は、西田三郎商店と広田商事だったところに「エムズ北浜ビルディング」(2007年4月築、8階建)というオフィスビルが建っている。
桂隆産業の建物は健在で「北浜レトロビル」の名称に変わり、「北浜レトロ」というティーサロンになって繁盛している。『北浜レトロ>歴史』によると、「明治45年(1912年)、大林組の設計・施工によって北浜の株式関係者の集会所『株友会倶楽部』として建てられた」「第二次世界大戦後は、建築資材の専門商社「桂隆産業株式会社(平成6年倒産)」の本社社屋として利用されてきた。平成9年(1997年)、単身渡英し独力で当時のインテリア・デコレーション学んだ現オーナーの指揮のもと大規模な保存・改修工事を経て、建築当時の姿と雰囲気そのままに『北浜レトロビルヂング』として甦った」とある。

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