ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




新扇橋。江東区扇橋1。2007(平成19)年5月29日

小名木川の、大横川と交わるところからすぐ東に架かるのが扇橋、その次が小松橋。その間に扇橋閘門があり、小名木川は東西に分断されている。
新扇側は北の猿江町1丁目と南の扇橋1丁目を結ぶ、大門通りに架かる橋。大門通りは洲崎遊郭にちなむ名称で、吉原とも通じていて昔から言われていたという。
江東区>区道橋>新扇橋』によると、「橋長:57.3m。架設形式:単径間鋼製アーチ橋。架設年次:昭和43年3月に大改修。設計荷重:20t。全幅員:17.9m」。竣工は1931(昭和6)年。


扇橋。江東区扇橋1。2007(平成19)年5月29日



小松橋。江東区扇橋2。2007(平成19)年5月29日

小松橋は北の猿江1・2丁目と南の扇橋1・2丁目を結ぶ、小松橋通りに架かる橋。『江東区>区道橋>小松橋』によると、「橋長:55.9m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:昭和56年6月に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.8m」。外観から西深川橋、新高橋と同じ仕様と思える。竣工は1930(昭和5)年。

新扇橋と小松橋の間に扇橋閘門が設けられた。「昭和47(1972)年1月の着工から、約5年の歳月と約30億円の事業費をもって昭和52(1977)年に完成した(東京都建設局>扇橋閘門>パンフレット)」。閘門から東の川は水面の高さを-1mに調整している。地面の標高は-3~-2mといったところではないかと思う。

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西深川橋。江東区白河1、2
2006(平成18)年5月1日

西深川橋は小名木川(おなぎがわ)の、隅田川河口から東へ640mのところに架かる橋で、北の高橋、森下3丁目と南の白河1、2丁目の間を繋いでいる。
江東区>区道橋>西深川橋』によると、「橋長:56.1m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:1983(昭和58)年に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.9m」。竣工したのは1930(昭和5)年である。
1990年に東北の橋詰めに「GOMBESSA」というシーラカンスの像が作られた。これという特徴もなく、「西深川橋」といっても漠然としていて困っていたところにシーラカンスの橋という分かりやすい特色ができて便利になったように思う。



新高橋。白河4。2007(平成19)年5月29日

西深川橋の東が東深川橋、さらに大富橋(三ツ目通り)があって、その東に新高橋がかかっている。北の森下5丁目と南の白河4丁目をつなぐ。また新高橋のすぐ東で、南北に流れる大横川が小名木川と交わる。
江東区>区道橋>新高橋』によると、新高橋は「橋長:56.1m。架設形式:単径間鋼製トラス橋。架設年次:1979(昭和54)年5月に小改修。設計荷重:20t。全幅員:13.8m」。竣工したのは1930(昭和5)年である。西深川橋と外観と大きさが同じなので、同じ仕様で架けられたものらしい。

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万年橋。江東区常盤1。2006(平成18)年5年1日

万年橋は万年橋通り(江東区道第3124号線)の、小名木川(おなぎがわ)に架かる橋。江東区では珍しいアーチ橋である。小名木川は東が上流なので、最下流、ほぼ隅田川の河口付近にあり、北の常盤1丁目と南の清住1・2丁目の間を結んでいる。
『ウィキペディア>萬年橋』によると、「構造形式:1径間下路ブレースドリブタイドアーチ橋、鉄筋コンクリート床鈑。橋長:56.25m。幅員:17.2m。開通:1930年(昭和5年)11月19日。施工主体:東京市復興局、江東区。設計:鹿島組。橋桁製作:川崎造船所。施工:鹿島組」。
この辺りは近年、松尾芭蕉との関連で名所として整備されてきたが、江戸時代も名所だったらしく、葛飾北斎の富嶽三十六景「深川萬年橋下」、歌川広重の名所江戸百景「深川萬年橋」の浮世絵は有名だ。富士山を眺めるために来たとは思えない。隅田川と小名木川の眺め、橋そのもの、往来する船を見るのが主眼だろう。
写真で万年橋の奥に見えるのは「新小名木川水門」。1961(昭和36)年の竣工。写真では扉が3基あるが、2017年の耐震改修工事で北の1基は撤去され、上部の窓のある箱型のものも改装された。



万年橋。江東区清住2。2006(平成18)年5年1日

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水産物部第6卸売場。中央区築地5-2。2006(平成18)年3月23日

隅田川の桟橋に沿って細長く建てられた水産物部卸売場。1935年に築地市場が開場したときには「魚類第二卸売人売場」だったところで、その平屋の建物を3階建て(3階は増築?)に建て替えたものだろう。『築地市場』(福地享子+築地魚市場銀鱗会、2018年、2700円+税)の「1970年代の桟橋風景」の写真ではまだ建っていないようなので1970年代の建設かもしれない。
築地市場のメインイベントであるマグロのセリが行われたのが1階の第6卸売場である。2・3階は事務所で、主に水産部卸売業者が入っていたようだ。



水産物部第6卸売場。2018(平成30)年2月17日



水産物部新館。2018(平成30)年2月17日

第6卸売場の先端に続いて建っていた建物。1階は「第6卸売場」である。2階の「大都魚類」は水産部卸売業者7社のうちの1社。

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水産物部第2本館。中央区築地5-2。2018(平成30)年2月17日

貨物線のプラットホーム(水産物部卸売場)が終わったところに接して建てられたビル。正面は隅田川の桟橋に向いている。だいぶ古いビルに見えて、1950年代の建築かと思われる。「中央魚類」の看板がかかっている。中央魚類株式会社は水産部卸売業者7社のうちの1社。ビルの1階は「第2卸売場」。



プラットホーム末端部。中央区築地5-2。2018(平成30)年2月17日

第2本館の南に接している部分。写真右の、プラットホームの屋根の上に乗せられたような小屋は、築地市場解体工事要領の地図に、「第10・13変電所」とある。

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仮設卸売場A1棟。中央区築地5-2
2017(平成29)年7月15日

豊洲へ移転前の築地市場には、大きくカーブを描く水産卸売場の外側に「仮設卸売場」が建てられていた。A-1、A-2、B-1、B-2の各棟で、1995年頃の建設である。主要部分は鉄骨の2階建てで、1階は柱と屋根だけの売場、2階も事務所の空間を仕切っただけのものだったと思われる。仮設卸売場A1棟は主に加工品が、A2棟では主に冷凍物が売られていたようだ。1枚目写真にある「千代田水産」のHP(丸千千代田水産の歴史)に「1995(平成7)年|本社を仮設事務所(A1棟)に移転」とあり、A1棟の建築年が判った。



仮設卸売場B棟。中央区築地5-2。2017(平成29)年7月15日

左写真はB2棟で「活魚卸売場」の看板がある。2階はA2棟と渡り廊下でつながっている。写真左のビルの先がB1棟。
右写真はA2棟(左)とB2棟(右)の間から水産卸売場のほうを見たもの。



仮設卸売場配置図(Googleマップ航空写真に加筆)

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暖房汽罐室。中央区築地5-2。1990(平成2)年4月7日
右:『東京市中央卸売市場築地本場・建築図集』より

右の写真は『東京市中央卸売市場築地本場・建築図集』(東京市役所、昭和10年1月、非売品)にあったもの。その「第二章 建築物及設備概要」によると、「地下貯水槽及ポンプ室並ニ暖房汽罐室」は「総て鉄筋コンクリート造にして、地価貯水槽は900立方米の貯水量を有し、場内三ヶ所に設けたる深井戸より来る水を蒸留し、魚類部売場に給水し、尚場内建物内外の通路洗浄用に供す。ポンプ室並暖房汽罐室は、鉄筋コンクリート造平屋建とす。」「煙突(高さ30米)一基」とある。
左の1990年に撮った写真では、RC造の汽罐室はまだ残っていて、その上に小屋を乗せているようにも見える。1979年の住宅地図には、この辺りに「中央精米/丸八船舶食糧」とした建物が書かれているので、それかもしれない。

下の写真は『「鮮魚列車」が走った築地市場 83年の歴史に幕』(2018.10.06の朝日新聞の記事)にあった写真で「1982年4月、朝日新聞社ヘリコプターから」撮られたもの。煙突があった場所がよく分かるので引用した。


1982年の築地市場

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三田演説館。港区三田2-15
2011(平成23)年9月13日

福沢諭吉がspeechを「演説」と訳して門下生数名を率いて研究実践を始めたのが明治6年、翌7年6月に「三田演説会」の第1回演説会を開き、ついで演説会堂を建てた。開館式は明治8年5月1日。当初は図書館(旧館)と塾監局との中間辺にあったが、関東大震災後の大正13年に塾監局を建て直す際、現在地に移築された。[慶應義塾豆百科] No.31 三田演説館)。移築前の写真は、『 Keio Times>塾監局が見つめる歴史』の旧塾監局(煉瓦講堂)の写真にわずかに写っている。
なまこ壁の外観はどうしても蔵に見える。木造、寄棟の瓦葺きで内部は洋風。正面玄関と横に2か所ある出入り口、上げ下げ窓は洋風だ。「擬洋風建築」とも言われる。「当時ニューヨーク駐在の副領事でのちに日銀総裁を務めた富田鉄之助から送られてきた、米国の種々の会堂の資料を参考にして設計された」([ステンドグラス] 慶應義塾草創時代の熱き弁舌がよみがえる 「演説」発祥の場所)。
三田演説館が建っている小丘を「稲荷山」という。三田キャンパスは江戸期は島原藩の中屋敷で、稲荷山はその庭園の築山だったと思われる。お稲荷さんの祠(ほこら)が置かれていたのだろう。

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慶應大学第一校舎、正面中央部。港区三田2-15。2011(平成23)年9月13日

三田キャンパスの中央部に東西に長く伸びている建物が第一校舎。1937(昭和12)年に建った、SRC3階建てだが、1965年に4階が増築された。曾禰中條建築事務所の設計で戸田組の施工。同じ設計者、施工者による明治大正昭和の、時代が異なる建物が固まって建っているわけだ。
建った時代が時代だから装飾もなく四角い箱を寄せ集めたような地味な外観だ。壁から突き出ている付柱の列が装飾の役割をもっているようで、その間の縦長の窓もあって古い建物であることは一目で分かる。





上:第一校舎、正面南側右の部分。2011(平成23)年9月13日
左:第一校舎、北の裏側。2014(平成26)年4月23日

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慶應大学塾監局。港区三田2-15
2014(平成26)年4月23日

塾監局(じゅくかんきょく)は1926(大正15)年9月に竣工したRC3階建て地下1階の建物。曾禰中條建築事務所の設計で戸田組の施工で、そこは図書館と同じだ。ゴシック様式ともいわれるがロマネスクにも見える。パラペットの形から中世ヨーロッパの城郭が連想される。関東大震災後の建築だが大正期の特徴が見えているのかもしれない。
塾監局という部署は大学の総務、人事、経理、管財、入学、教育支援など事務全般を扱う総本部をいうが、この名称は明治初期にはすでに使われていたらしい。そのへんのことは『 Keio Times(特集)>塾監局が見つめる歴史』に詳しい。

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