ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




馬場精肉店、香取飯店。江東区亀戸3-59、58。2005(平成17)年4月23日

亀戸香取勝運商店街(香取大門通り)にあった商店。石川海苔店の北隣が「中沢つけもの店」があった駐車場、その隣が写真左の「馬場精肉店」。ストリートビューを見ると、2013年7月には建物が取り壊されていて駐車場になっている。2022年9月のSVでは後のビルと一緒にビルの工事中だ。
写真右の「香取飯店」2010年1月のSVで、すでに駐車場。『食べログ』に残っていた2005年の口コミには、「味はそれはもう絶品…店内には、この店を訪れた有名人の写真やら、雑誌の記事やらがベタベタ貼ってある…このお店のおじさんは台湾で修行をしてきた方で、…オーダーをとるおばさんと、厨房で頑張るおじさんと息子さん…お店を飾る満艦飾の飾りも、すべておじさんの手作り」だという。
2002年放送の『出没!アド街ック天国』で20位、その解説に「昭和39(1964)年開店。ご主人川畑さんは北海道松前町出身です。香港と台湾の料理学校を卒業しています」とあった。

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丸誠青果店。江東区亀戸3-59。2005(平成17)年4月23日

亀戸香取勝運商店街(香取大門通り)から西へ入る路地で、写真左の突き当たりに「スーパーサンケイ」がある。建物は左から「菅原硝子、丸誠青果店」、通りに出る角が「石川海苔店」。ストリートビューを見ると、石川海苔店になったのは2014年頃で、その前は「プレドール」というパン屋だ。撮影時もそのパン屋だったのかもしれない。石川海苔店の建物はレトロ商店街を目指した事業に乗って、2011年頃に看板建築に改装された。2022年のSVでは、再度改装されてごくあっさりした外観になっている。
丸誠青果店は2016年頃に建て直されて、住居の外観に替わった。ただし、「マルセイ」の袖看板が玄関の上に付いているのは、どこかに店舗があって事務所にしているのか、昔の看板を単に飾っているだけなのだろうか。
写真右奥の通りの向かい側は「川銀ビル」。2011年頃には「江戸まち茶屋」の看板を挙げて、甘酒や団子を出す甘味処になった。2017年のSVでは看板は外されているから廃業したのだろうか。


石川海苔店。左:ストリートビュー(2010年1月)、右:同(2014年6月)より。

「スーパーサンケイ」は地元では有名なスーパーマーケットだったらしい。紹介しているサイトがいくつかあって、それによるととにかく商品が安かったという。賞味期限間近のものを格安で販売するのはテレビでよく見るが、ここでは社長の保証で賞味期限切れのものも販売したようだ。
会社情報サイトに、設立は1986(昭和61)年12月とあった。2016年11月に閉店。『東京Deep案内>亀戸「サンケイスーパー」のモッタイナイ商品棚』によると、建物の老巧化が廃業の理由の一つで、築70年というから戦後まもなくに建てられたものだったらしい。

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坂本青物店。江東区亀戸3-60。2005(平成17)年4月23日

蔵前橋通り(都道315号)と明治通り(都道306号)が交差するのが「亀戸4丁目交差点」。そこから南へ450mで総武線亀戸駅である。その交差点から蔵前橋通りの1本西の、北へ向かう横町の入り口に鳥居が立っている。亀戸香取神社の参道で、「香取大門通り」の商店街である。近年は「亀戸香取勝運(かちうん)商店街」を名乗っている。『江東おでかけ情報局>亀戸香取勝運商店街』によると、「江東区で最も古い歴史を持つ商店街で、元々は香取神社の境内だったという参道に端を発し、明治の頃から発展してきた」という。
スカイツリー(2012年開業)の観光客を呼び込もうと、商店を看板建築にして、昭和30年代の商店街を再現して観光地化する事業を始めた。香取大門通り会会長の発案で、江東区も後押ししたようである。2011(平成23)年春に一応の完成をみた。レトロな商店街が注目される時勢だから、悪くない発想とは思うが、買いたくなる商品が必要だろう。亀戸天神からの客が回ってくればいい、というところかもしれない。
上の写真は看板建築に改装するまえの商店の並び。右から、「坂本商店(八百屋)、丸定(味噌)、カトリ美容室、すみれ緑花園」



看板建築化した商店。ストリートビュー(2022.02)より。

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まりっぺ稲荷町店。台東区東上野5-1。1989(平成1)年7月23日

清洲橋通りの、上野下アパートがあった交差点の南の角にあった、洋風にした看板建築。左(南)にすぐ浅草通りとの稲荷町交差点である。ストリートビューを見ると、2018-19年に取り壊されて、今はTimesの駐車場。「おすし・おにぎり・サンドイッチ」のまりっぺは建物が解体されるまで営業していたようだ。
地下鉄駅名や交差点名になっている「稲荷町」は、北稲荷町と南稲荷町を合わせた俗称のようである。下谷神社が下谷稲荷神社といっていたところからの町名という。1964(昭和39)年に現行の東上野3・4・5丁目に替わった。つまらない地名になってしまったものだ。
まりっぺの建物の左に永昌寺(えいしょうじ)の山門が開いている。柔道発祥の地として知られる。嘉納治五郎は1882(明治15)年に永昌寺の書院を借りて講道館と名付け、柔道の指導を始めた。『東京路上細見3』(酒井不二男著、平凡社、1988年、1900円)によると、「姿三四郎」のモデル西郷四郎が初年入門者。昔は寺の庭に小さな池があって、「姿三四郎が飛び込んだ池」などといわれていたとか。


2008(平成20)年9月5日

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上野下アパート。台東区東上野5-4。1988(昭和63)年5月1日

同潤会上野下アパートの写真はネット上でいろいろと見ることができるが、昭和の時代のものは珍しいかもしれない。とはいっても解体直前の写真でも同じ光景だろうが。
同潤会アパートの中では最後まで残っていた上野下アパートだが、2013(平成25)年6月に解体工事が始まり8月までには終わったらしい。竣工は1929年(昭和4年)4月。RC4階建、清洲橋通り沿いの1階に店舗が入った1号館と、その後に東西に長い2号館があり、2棟で76戸。2号館は南側に3箇所の階段室が突き出ていて、4階が階段室の壁面まで張り出しているのが特徴。また、両端に南側に突き出した日当たりの良さそうな部分がある。


1989(平成1)年7月23日


2008(平成20)年9月5日
1号館1階には4店の店舗がある。南角の「バーバー巴里」は1960年頃の開店らしい(想いのままに 気の向くままに>建造物文化遺産を訪ねて)。建て替わった「ザ・パークハウス上野」(2015年9月築、14階地下1階建、128戸)でも、同じ位置に「パリー」の看板で営業している。


2003(平成3)年10月24日

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川井純治商店。台東区東上野6-3。2008(平成20)年9月5日

浅草通りの北の裏通りで、国際通りから昭和通りまで通っている通り。その坂東報恩寺という寺の向かい側。
2階の窓の形から蔵造りの建物と思える。洋風の外観にしたコンクリート造りだろうか。1階の出窓のような窓と、その下の小さな窓が不思議な造形をしている。奥行きは正面の幅より狭い。蔵の横に戦後の増築と思える部分があり、そちらは工場のように見える。
現在は「ホステル蔵」(2段ベッドで36床)と「薬膳カフェ&バー 蔵」に替わった。ストリートビューを見ると、2018年4月の画像が建物の改修中なので、その年にホステル蔵に替わったものらしい。そのHPによると、「昭和初期に貴金属の交換所として使用された希少な蔵創りの建造物」「昭和初期にヨーロッパの小さな要塞を模して造られた建物で、倉庫や、実際の交換場所、および加工工場がありました」とある。また、『第3回 台東区景観まちづくり賞』の解説には「大正時代から戦火をくぐりぬけ、地域の風景を形づくってきた商店」とある。



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木村豆腐店。台東区東上野6-3。2008(平成20)年9月5日

清洲橋通りの稲荷町交差点から北へ2本目の横町を東へ入ったところ。木村豆腐店は右の家と合わせて3軒あるいは4軒長屋だったのだろうか。店は建物と同程度の昔からある店のような感じだ。なべを持って買いにいかないといけないのではないか。
豆腐屋の右は、1986(昭和61)年の住宅地図に「タカクボストアー東上野店」とある店。1966(昭和41)年の地図では「高窪酒店」。塗りつぶした看板になんとか「タカクボ」と読み取れる。今は自販機だけの営業らしい。

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上:大伸ゴム商工、小林彫刻
台東区東上野6-12
左:須藤石材店。東上野6-11
2008(平成20)年9月5日

浅草通りの北、清洲橋通りの東が東上野6丁目。上写真は区立上野小学校(旧清島小学校)の南東角から向かい側を撮ったもの。古い航空写真から、空襲からぎりぎり免れた戦前築の、寄棟屋根の四軒長屋と見える。手前の家は「大伸ゴム商工」の看板が出ている。「業態:ゴムベルト・ゴムホース・工業用ゴム製品製造業」としてある会社情報サイトがあった。その隣は長屋の元の外観が残っている。「金属彫刻 小林彫刻」の右は「活版印刷 サイトウ(斎藤)印刷」
ストリートビューを見ると、2019年5月には建物はなくなってコインパークになっている。2020年3月ではビルの建築中。現在では「ブラウ東上野」(2021年1月築、15階建32戸)というマンションになっている。

須藤石材店は1枚目写真を右奥に行ったところの、典型的な看板建築。今も写真のままのようだ。

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山口家住宅。千葉県佐倉市新町216。2002(平成14)年5月5日

佐倉市立美術館の横を南へ入るとすぐ「裏新町通り」に出る。その西北角にあるのが「山口家住宅」。白漆喰壁の袖蔵と出桁造りにも見える店蔵がくっついて並んでいる。両者の屋根が一体になっているのは珍しいという。袖蔵の建設は棟札から1896(明治29)年10月で、店蔵はその後の増築とされる。
Deepランド>裏新町から宮小路』によると、松井天山が描いた昭和3年の鳥瞰図には「山口屋文具店」となっている。また、昭和48年の住宅地図には「ユニオンジャック、スナック山口」とあったそうだ。

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佐倉市立美術館。千葉県佐倉市新町210。2002(平成14)年5月5日

佐倉市立美術館は1994(平成6)年11月の開館。新町通りに面した「旧川崎銀行佐倉支店」を「エントランスホール」として活用し、美術館本体はその後に建つ5階建(地下2階)のビルである。
旧川崎銀行佐倉支店(1927年、川崎第百銀行に改称)、は1918(大正7)年の建設。矢部又吉の設計、煉瓦造り2階建(2階部分吹き抜け)銅板葺き、外壁タイル張り。施行は神谷平吉。
矢部又吉(1888-1941)は妻木頼黄のもとで働いた後、ドイツのシャルロッテン工科大学に留学した。「川崎財閥のひとつの日本火災等の重役を務めた早川鉄冶の長女・富見と結婚した縁もあり、川崎財閥系の建築物を多く手がけた(ウィキペディア)」。佐倉支店の建築様式は「ドイツ的なネオルネッサンス様式の影響が見られる。セセッション様式の影響も(こうほう佐倉2004(平成16)年2月)」と言われる。


川崎銀行佐倉支店は佐倉市立美術館に落ち着くまで、いくつもの施設として利用されてきた。
「第百銀行佐倉支店」だった1937(昭和12)年に建物は佐倉町に売却されて「佐倉町役場」になる。1954(昭和29)年に佐倉市が成立すると「佐倉市役所」に。いつの頃か知らないが、吹き抜けの1階だった内部に2階フロアを造ったり、後に増築してしのいでいた。新庁舎が完成した1971(昭和46)年からは「中央公民館」。1976(昭和51)年に公民館は鏑木町に移転し「市立図書館」に替わる。図書館が佐倉郵便局だった建物に移った1983(昭和58)年から3年間の休館があって、改修工事の後、1981(昭和61)年から1992(平成4)まで「佐倉新町資料館」となった。5階建の美術館本体を建設して、1994(平成6)年11月に「佐倉市立美術館」が開館した。

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