ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




富士銀行志村支店。板橋区小豆沢3-6。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)の志村坂上交差点の東北角にあった富士銀行だった建物。現在は「NK志村坂上ビル」(1998年3月築、11階建)というオフィスビルが建っている。現在、富士銀行の店舗は同じ交差点の西北角、みずほ銀行志村支店(旧・第一勧銀志村支店)になっている。写真の建物は住所は小豆沢なので、小豆沢支店といったかもしれないが、この辺りの商店は都営三田線の駅名に倣って「志村坂上店」というのが大勢だ。
建物は2階建てに見える。戦後に建てられたものだが、戦前の銀行建築を引きずっているような外観のデザインで、なかなか厳めしい。昭和30年ごろまでに建てられた富士銀行の建物に共通するデザインかと見える。
富士銀行と第一勧銀、日本興業銀行が合併してみずほ銀行になったのは2002年4月だが、富士銀行志村支店はすでに撤退している。

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東京ゼンマイ。板橋区小豆沢3-4。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)の志村坂上交差点を東(小豆沢商友会の通り)へ入って、260m先を北へ曲がったところ。ばね(スプリング)を製造している工場だろう。現在、電話帳には出てくるがそれらしい工場は見当たらず、その住所は「ライオンズ志村坂上レジデンス」(2012年4月築、8階建52戸)というマンションだ。廃業したのかもしれない。

写真の道路を右(北)へ行くと下の写真の場所にぶつかる。古い平屋の家の横を入ると小豆沢公園。照明器は野球場のもので、今は1本の柱のものに造り替えられている。平屋の家には、鉢植えの木に隠れているが、玄関の脇に「天理教本梓分教會」という表札がかかっている。


天理教本梓分教會。小豆沢3-8。1988(昭和63)年11月3日

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トーハツ株式会社。板橋区小豆沢3-5。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)の志村坂上交差点を、志村銀座とは反対の東へ行ったところ。板橋中央総合病院の向かい側である。
トーハツは主に船外機と可搬消防ポンプを製造する会社で、会社のHPによると、1922(大正11)年、京橋区に「タカタモーター研究所」として設立され、翌年には発動機付揚水ポンプを国や東京市、電力会社に納入している。板橋に工場を設置したのは1937(昭和12)年。当時の社名は「タカタモーター製作株式会社」。1939年5月に「東京発動機株式会社」に社名を変更。1940年には「陸海軍の協力管理工場に指定され、我が国唯一の小型ガソリンエンジンの軍需工場として製品を順次開発生産し、大躍進する」とある。現在の社名「トーハツ株式会社」は1972(昭和47)年6月から。
グーグル古地図の昭和22・38年の航空写真に写っているのが戦前に建てられた工場建屋らしいが、1970年代後半にはそれらが建替えられている。写真の、奥に見える古そうな工場は1棟だけ戦前築の建物を残しておいたものと思える。
2012(平成24)年に板橋の工場はどこかに移され、工場の建物は全て取り壊された。現在は2000(平成12)年に建てられた本社ビルの他は敷地は更地になっている。写真の、スクラッチタイル貼りの2本の門柱が今も残されている。

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小豆沢1丁目の工場。板橋区小豆沢1-15。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)に「志村警察署前」という交差点がある。「福寿通り(都道445号)」と交わっている。交差点の西北角が凸版印刷で、工場の正門は西へ行った次の裏道との角である。写真は福寿通りを凸版とは反対の東へ行った、3本目の裏通りとの交差点。木造平屋の建物は倉庫にも見えるが、工場と見て、その名前が分からないのでとりあえず「小豆沢1丁目の工場」としておく。
現在は「ライオンズマンション志村坂上第2」(1990年9月築、7階建て76戸)に替わっている。写真を撮ってまもなく取り壊されたらしい。

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凸版印刷板橋事業本部。板橋区志村1-11
上:1990(平成2)年1月14日
左:1988(昭和63)年11月3日

玄関の上に「凸版印刷株式会社情報・出版事業本部」とあり、現在の門の表札は「凸版印刷株式会社情報コミュニケーション事業本部」である。一般には「凸版印刷板橋工場」というかと思う。当ブログのタイトルは『日本近代建築総覧』の「凸版印刷板橋事業部」に「本部」を加えた。3階建ての白いタイル貼り壁面のビルが広大な工場の事務所棟。1938(昭和13)に完成した。設計・施工者は情報がとれなかった。塔屋の部分がアールデコ風のデザインで、その下の階は玄関が立派なので貴賓室でもありそうな感じだ。
凸版印刷>沿革』には、昭和初期の不況期にあっても、事業を拡大させてきた会社は、将来の印刷需要の増大を確信して、大工場を計画する。『公文書館の活用術! 館所蔵資料で知る「いたばしの工業」』によれば、板橋の約2万坪の土地に昭和9年に工場を建設したとしている。土地を獲得したのが昭和9年なのかもしれない。「沿革」には「総面積約6万6000平方メートル。工場の建物は4万平方メートルあり、洋風庭園と運動設備を備え、当時の工場のイメージを一新する近代的な工場でした。第1期工事が終了した1938年に操業を開始、すべて完成したのは1940年でした」とあり、その洋風庭園と玄関前のロータリーは竣工時のままらしい。
『館所蔵資料で知る』には「昭和15年10月、板橋工場内に陸軍の専属工場が設置される。その後、陸軍関係の仕事が増加し、また秘密にしておかなければならない印刷物を製造するための特別工場が必要になったこともあり、昭和17年に工場の増改築を行った」ともある。
戦後は、印刷機械の大型化に伴い、安い土地を求めて神田や小石川から中小の印刷工場が凸版板橋工場の周辺に進出してきたという。印刷業は下請が支えているような面がある。

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東神商事。中央区日本橋蛎殻町1-13。『SFマガジン1964年10月号』より

『SFマガジン1964年10月号 通算61号』の裏表紙の裏に載った広告。1964年というと東京オリンピックがあった年だ。雑誌の性格上、商品取引の広告などが載ることなどまずないのだが、どういうわけで掲載されたものか? 早川書房以外の広告は、表紙裏にミノルタカメラの一眼レフ「ミノルタSR-1」と、東神商事の上に、中滝製薬の「複合ワカ末糖衣錠」(モデルが日活の西尾三枝子)。この二つはたぶん広告の常連。当誌にはスタニスラム・レムの「ソラリスの陽のもとに」の連載が始まっている。
広告にある住所はかつてあった東京穀物商品取引所新東京穀物商品取引所(現在は「ザ・パークハウス日本橋蛎殻町レジデンス」(2013年8月築14階建て123戸)というマンション)の裏になる。
1969年の住宅地図に「食糧会館/東京穀物商品取引所」裏の向かいに「東神商事KK」と隣が「日本投資…(読み取れず)」で載っている。建物は関東大震災の後に建てられた看板建築だろう。現在は「第1テイケイビル」という5階建てのビルになっていて、そのビルの竣工が1984年である。写真の右端は「天音」という天ぷら屋で、この店の建物は変わっていない。
「赤いダイヤ」という言葉は戦前から言われていたのかと思っていたが、どうも梶山季之の小説『赤いダイヤ』(1962年刊行)から一般的になったようだ。

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小石川植物園本館。文京区白山3-7
1989(平成1)年5月7日

小石川植物園は「徳川綱吉が将軍職にあった貞享元年(1684年)に、子供の頃の綱吉の下屋敷であった白山御殿の跡地に作った薬園(小石川御薬園)を起源としている。明治になって、文部省博物館の附属となった時に小石川植物園と改称され、日本における最初の植物園となった。その後、明治10年(1877年)4月12日の東京大学創設後間もなく本学の附属となり、理学部の管理する施設となった」「本館には研究室や事務室、標本室などがある」(東京大学大学院理学系研究科・理学部>第1回植物園)。そういう施設だから、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」という。
本館の建物は1939(昭和14)年に建ったもので、RC2階建塔付、内田祥三(よしかず)の設計。内田は関東大震災後の東京帝大構内の復旧を主導し多くの建物を設計しているが、多くはゴシック様式を基調とする古風な建物で、「内田ゴシック」といわれるデザインある。植物園本館はモダニズムというしかないようで、アールデコとか表現派にはならないようだ。内田は1936(昭和11)年に「東京大学三崎臨海実験所本館」を建てていて、そこに出窓のような半円形の部屋を造っている。植物園本館の左右の翼先端の造形は、実験所で使ったデザインを再使用したのかもしれない。時計塔は実用からは外れて外観を整える役割しかない。内田はなかば遊びで設計していないだろうか。

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旧東京医学校本館。文京区白山3-7。1989(平成1)年5月7日

小石川植物園(東京大学理学部附属植物園)の西端に建っている擬洋風の建物は「東京医学校本館」として現在の東大構内に建てられたもの。「明治9年(1875)に竣工した木造二階建の建物で、明治政府が諸官庁の建築工事を管掌させた工部省営繕局の設計になる」(国指定文化財等データベース)。『日本近代建築総覧』では「東京大学医学部本部(旧東京医学校)」の建物名で、設計者は「西郷元善」となっている。龍岡門を入った右手に建てられたという(近代建築写真室@東京>旧東京医学校本館)。
「明治44年(1911)に前半部が赤門脇へ移され、史料編纂掛(後半部は神田錦町の学士会館)の建物となる。この際の平面規模の縮小と共に、屋根の上の搭屋、車寄の上の手摺などの形状が変更され現在見るような姿となった」(東京大学総合研究博物館>小石川分館)。このときの建物はグーグル古地図の航空写真で確認できる。同地図の明治の地図では「第一醫院本室」と記載されている。
「昭和3年(1928)以降は営繕課や施設部の建物となる。昭和40年(1965)に解体され、44年に理学部附属植物園(小石川植物園)内の現在地に再建され、45年に国の重要文化財の指定を受ける」。
平成13年(2001)11月に、「東京大学総合研究博物館」の「小石川分館」として開館した。



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彰栄保育福祉専門学校。文京区白山4-14
1988(昭和63)年3月13日

彰栄保育福祉専門学校は、一般に「幼稚園の先生」と言っていると思うが、「幼稚園教諭」を養成する専門校。学校のHPによると、「122年前アメリカから派遣された1人の婦人宣教師により作られた幼稚園教諭養成塾から始まります」ということで、「1896年(明治29年)東京幼稚園保姆養成所として開設。後に東京保姆伝習所と改称」したという、歴史がある学校だ。彰栄幼稚園は1898年(明治31年)の設立。1917年(大正6年)に「保姆養成学校」として東京府の認可を受ける。1954年(昭和29年)に「東京保育女子学院」と改称し、1976年(昭和51年)に専修学校となり「彰栄保育専門学校」と改称した。現行の名称は1992年(平成4年)から。
写真の本館?は、『日本近代建築総覧』に「東京保育女子学院、建築年=昭和7年、RC3階建、設計・施工=清水組、外壁一部タイル張、竣工時写真有り」で載っている。
周囲は空襲で焼き払われた地区で、本館も火が入ったと思われる。現在、写真の門は改修されて、レンガの門柱と飾の入った門扉、および塀になっている。あるいは昔のものに復元したのだろうか。

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京華女子中学・高等学校
文京区白山5-13。1988(昭和63)年3月13日

京華学園は「京華女子中学・高等学校」、「京華中学・高等学校」、「京華商業高等学校」の3校があり、それらを統括するのが「学校法人京華学園」ということなのだろう。キャンパスは二つに分かれているが、いずれも白山通り沿いでごく近くにある。京華女子中学・高等学校は私立の中高一貫の女子校。
京華学園は1897(明治30)年に本郷龍岡町に「京華尋常中学校」として創立されて、一昨年に創立120周年を祝っている。1909(明治42)年に「京華高等女学校」を設立。このとき校舎は白山(当時は小石川原町)に建てた。昭和6年に校舎(木造2階建?)が火災で焼失。ということは関東大震災では倒壊しなかったわけだ。それを建て直したのが写真の校舎で、1933(昭和8)年1月に完成した。『関根要太郎研究室@はこだて>京華女子中学高等学校』によれば、「木田保造により再建された鉄骨鉄筋コンクリート製校舎」で、設計者も「木田保造率いる木田組」ではないかと推定している。
木田保造(1885-1940年)については、ぼくは初めて知ったが、やはり『関根要太郎研究室@はこだて>木田保造について』に解説されている。函館の東本願寺函館別院(1915年)を手掛け、当時まだ工法が確立していなかった鉄筋コンクリート造で完成させている。函館には木田が施工した建物が10余棟が現存し、建築界にはかなりの貢献をした人らしい。

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