ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




山王ホテル。千代田区永田町2-11。1989(昭和64)年1月4日(5枚とも)

外堀通りの山王下交差点から山王ホテルを撮った写真だが、肝心の建物が白く飛んでしまった失敗写真だ。通り沿いの木立は撮影時の住宅地図では「山王ホテル月極駐車場」で、その後ろが山王ホテル、さらに後ろがキャピトル東急ホテル。写真右のビルは「星が岡ビル」らしい。山王ホテルの正面玄関は写真で正面を向けている面にあったが、そこを撮っていない。フェンスのために撮れなかったのかもしれない。
ネット上では2・26事件で撮影された写真が何枚か見られるが、『 御光堂世界~Pulinの日記 2009.11.16』で、当ブログの写真と同時期の、廃墟になっていたホテルの写真を公開している。




山王ホテルは『総覧』には「建築年=1933(昭和7)年、構造=RC、設計=小笠原鈅、施工=大阪豊田組」の記載。
小笠原鈅はネットでは兵庫県池田市の「旧池田実業銀行本店(現・いけだピアまるセンター)」の設計者として出てくる。「鉄道院出身で大阪で活躍した」人だという。( 『文化遺産オンライン>いけだピアまるセンター』




山王ホテルの裏側の道路から撮影。左の写真は山王日枝神社へ上がる階段の道からの撮影。

現在、この辺りがどうなっているかは、ぼくは実際に見ていないこともあってへたなことは言わないほうがいいので省略する。

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古平(こだいら)ビル
台東区浅草橋1-30
1987(昭和62)年10月4日

江戸通りのJR浅草橋駅東口からすぐ北にあった古いビル。写真左、「人形のまるぎん」があるのが山上ビルというが、その間の横丁を入ると銀杏岡八幡神社が正面にある。輸入洋酒・食品の古平本店はネットで探しても見つからない。ただ、建て替わったビルは浅草橋古平ビルというからビル運営の会社に転業したのかもしれない。右の出入り口の上の文字は「株式会社中央通信社」。
写真右に玉木屋がある。新橋に本店がある有名な佃煮店の支店だと思う。浅草橋では佃煮の店は「鮒佐」が有名で、やはり江戸通りに店を構えている。玉木屋浅草橋店は、現在は玉木ビルに建替わって店は撤退したようである。今、ビルの1階はドトールコーヒー。

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浅草橋ビル。台東区浅草橋1-1
1987(昭和62)年10月4日(3枚とも)

浅草橋ビルは浅草橋(橋名)の北西袂に現存しているわりと有名なビル。江戸通りの向かいにはやはり戦前築と思われる 本格ビルがあるが、そちらは小さくてあまり目立たないようだ。
浅草橋ビルは『総覧』には「建築年=1928(昭和3)~1929年、構造=RC6、設計=曽禰中條建築事務所?、備考=雑居ビル/昭和42年改築」とある。見たところ6階部分は増築のようなので、「昭和42年改築」とはその増築を指すのかもしれない。
上の写真は浅草橋から北のほうを撮っている。写真左から、化粧品会館、浅草橋ビル(1階はマスダ増)、空き地(清水ビルという5階建てのビルがあった。その1階は「幼稚園制服製造卸」の清水商店)、浅草橋1丁目交差点、土屋テープ(軍手、靴下)、東屋商店(ニチボー毛糸の看板)、キャッロッセ、シモジマ。
浅草橋ビルは10年位前にテナントが出てしまったとき、いよいよ解体かと思わせたが、改装してきれいになり、婦人服の店が入った。そのとき6階の増築部分を撤去している。
東屋商店とその隣のキャロッセは日東ビル(1992年8月竣工)に替わった。



東屋商店。浅草橋1-9

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左:人形の昇玉。台東区柳橋1-24
右:杏花村。柳橋1-32。2003(平成15)年11月16日

原歯科医院のある一角で、空襲での焼失を免れた狭い区域である。原医院のほかにも何軒か建て替えられずに残っている建物が数軒ある。
角にある昇玉はその北隣のビルが本社だか本館。写真右の白い家は藤人形店。1986年の住宅地図では昇玉は「東芸柳橋営業所・フレンディー」で、本社ビルのほうは空白だからまだ建っていなかったらしい。写真は建物の横手で、当然正面も撮っているのだがどこにいったのか出てこない。
杏花村(中国満漢料理)は、やはり1986年の住宅地図では「信徳商店」。Googleマップで見ると今は堺耘閣というやはり中国料理の店だ。
杏花村の横の路地を入った隣が鳥茂という居酒屋。1階は店に合わせた和風の造りだが建物は角のアールに四角い板を重ねたような飾りをつけた洋風の看板建築だ。


鳥茂。柳橋1-32

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原歯科医院。台東区柳橋1-24。2003(平成15)年11月16日

都営地下鉄浅草橋駅のある江戸通りには人形の久月のビルなどがあるが、その裏手に空襲で焼けなかった区域がある。そのなかに原歯科医院の建物があり、写真では外壁を塗りなおしたばかりなのか、きれいな外観を見せている。『総覧』では「建築年=1928(昭和3)年、木造2階建、設計・施工=竹内工務店」である。
個人医院では建物を洋館として建てることは珍しくないが、銀行にも見えるような古典様式風な外観にするのはあまりないように思う。病院のようで治療に来る人には信頼感を与えるかもしれない。



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本格ビル。台東区柳橋1-4
1987(昭和62)年10月4日

江戸通りの浅草橋のすぐ北が浅草橋1丁目交差点で、通りの東側は柳橋1丁目。その交差点の角に「本格」という薬、化粧品、洗剤などの雑貨卸問屋の会社だか店が入っている小さなビルがある。昭和44年の地図ではやはり本格が入っているが「台東ビル」となっている。戦前の築だろうが詳細は不明。現在もほとんど変わらず現存している。









熊谷ビル。柳橋1-3。1987(昭和62)年10月4日

本格ビルから東へ入ってすぐの向かい側にあったビル。これもやはりなにも判らない。現在は「トーワビル」というビルに建て替わっている。

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亀島橋。中央区八丁堀2。1984(昭和59)年6月17日

八丁堀1丁目と2丁目から新川2丁目へ、亀島川を渡す橋。道路は八重洲通りである。写真の親柱は八丁目2丁目になる。震災復興橋梁の1本で、1929(昭和4)年12月に完成した。大震災以前は、このあたりの大通りは現・平成通りと鍛冶橋通りの2本で、大震災後の道路整備で新大橋通りと八重洲通りの2本が新たに通された。橋の構造は「鋼鈑桁コンクリート橋」とか「上路2ヒンジソリッドリブアーチ」と資料に出ている。施工は横河橋梁製作所。
東京駅八重洲口のほうから亀島橋を渡る車は新川に用がなければたいていは永代橋から深川方面に向かう。それが現在は隅田川に中央大橋が架けられて佃島のリバーシティにまっすぐいけるようになり、車の流れも変わったかもしれない。
亀島川には5本の橋が架かる。現在は南高橋を除いて4本の橋が架け替えられた。高橋が1983年、霊岸橋が1985年、新亀島橋が1995年、そして亀島橋が2002年である。架け替え前の橋を写真に撮ったのはこの亀島橋の1枚のみで、残念無念だ。

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大島屋。中央区八丁堀2-22。1984(昭和59)年6月17日

お神輿が行く通りは新大橋通りで、右手にすぐ八重洲通りとの八丁堀交差点。写真右端のビルはその交差点角に建つエンパイヤビル(1972年竣工)。エンパイヤ自動車(株)という自動車部品などを扱う商社の本社がある。その左へ大島屋新館(うなぎ)、大島屋、末広ビル、ヨンゴー。
大島屋は戦後すぐの創業である。ご主人の大島一雄氏が『わが町・八丁堀私の八丁堀』に「わたしの戦後史」の題名で寄稿しておられる。それによると、氏は昭和21年3月に中国から引き上げてきて、築地で働き始める。当時はすべて統制品で、川魚なら統制が解けるのも早いとみてうなぎ屋を始めたという。仕入れたうなぎを亀島川の生簀に飼っていた時期もあるらしい。
ぼくはここで食べたおぼえはないが、うなぎが2段に入っている丼は話には聞いていたから有名だったのだろう。そのうちに、と思っているうちにいつのまにか廃業してしまったようである。


よし田。八丁堀2-22
1984(昭和59)年6月17日

エンパイヤビルの裏の路地。写真手前は元は喫茶店か洋食屋だったような造りの民家。以下、奥へ「よし田(鳥料理)」「コーヒー・BOB」その2階に「並木刺繍店」「とみ(居酒屋?)」鈴らん通りに出る角が「マルイ洋品店」。
写真に写っている範囲は、よし田が「蕎麦・如月」に替わったが、建物はそのまま。BOBと並木刺繍は変わっていない。現在でも同じような写真を撮ることができる。

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内外印刷(株)
中央区八丁堀2-22
1984(昭和59)年6月17日

場所は当ブログ 『直井整骨療院』(現・鈴らんビル)の横丁。内外印刷はぼくの叔父が社長、父が専務でやっていた会社。写真ではこの辺りから築地・入船・湊にかけてよくみられる零細な印刷所に見える。実際には奥に深く、しかも奥でL字型に続いていてけっこう面積はあるのである。印刷所としては中規模。建物の右側は8畳くらいの事務所。2階は社長宅。
内外印刷のことは父からはなにも聞いていない。まさかこんな記事を書くことになるとは思いもよらなかった。富山から出てきた祖父が創業したのだが、やはり八丁堀でだったのか、あるいは本籍地の茅場町でだったかもしれない。昭和25年頃にこの建物を建てて蛎殻町から移ったようである。ぼくが知っている納入先は国鉄と気象庁。ぼくの家にはずっと国鉄のカレンダーが架かっていた。
写真はお祭りで、子供のいる親戚が久しぶりに集まったときのもの。この後、じきに建物を取り壊して1985年12月には現在の内外ビルが建つ。したがって、すでに内外印刷は実質的には操業はしていなかっと思う。





現在の内外ビルの1階は 珈琲屋めいぷるがビルの竣工とともに開店した。マスターは中南米のコーヒー園にまで買出しだか視察だかにいく人である。店も落ち着ける造りなのでお勧めする。ただし店内は禁煙。

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日本大学第一中学校・高等学校
墨田区横網1-5。
上:1988(昭和63)年10月30日
左:1988(昭和63)年4月10日

日大第一中学は「日本大学中学校」の名称では大正2年に神田三崎町に創立された。大震災後、JR両国駅の北の現在地に校舎を建設して移った。そのときの校舎が写真の建物だ。『総覧』では「日本大学第一高等学校、横網1-5-2、建築年=1924(大正13)年、構造=SRC、設計・施工=鹿島組」。
古い航空写真では敷地の西と北にL字型の校舎が校庭を囲むように建っていたようだが、撮影時にはその校舎は解体されていたのか、見た記憶はない。まだ残っていた南側の校舎はスクラッチタイルの外壁だが装飾はほとんどない四角い建物。3階の窓がずいぶんと高いところまで開いている。3階はたぶん講堂になっていたのだと思う。
1枚目写真左奥は昭和56年12月に完成した創立70周年記念本館校舎。

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