ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





富士見町教会。千代田区富士見2-10
上:1982(昭和57)年4月
左:1985(昭和60)年8月4日

JR飯田橋駅西口の向かい側にある富士見町教会は、「飯田橋駅西口地区市街地再開発事業」によって建て替えられ、最近、南に隣接した東京警察病院の跡地に新教会堂が完成したようなので現教会堂(写真左)は取り壊されたかもしれない。写真の現教会堂の完成は1985年で、写真は建って間もない頃だ。30年もしないうちに建て替えられたのである。
上の写真は1984年頃に解体されたと思われる旧教会堂。木が邪魔で建物の外観はよく分からない。建物は塔屋右の中央部分が後ろへ伸びていたようだ。『日本近代建築総覧』では「建築年=1929(昭和4)年、設計=山本拙郎、施工=大倉土木」。山本拙郎(1890-1944年)は「あめりか屋」という住宅供給会社で住宅の設計をしたことで知られた人らしい(ウィキペディア)。
写真後ろのビルは東京警察病院で、2008年に中野区中野に移転した。

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出桁造りの民家。台東区東上野4-23
1991(平成3)年6月30日

東上野4丁目の北端に上野学園大学があるが、その南の向かいにある出桁造りの元商家だったと思える家。上野学園は今調べたばかりだが、音楽の専門学校だ。2007年に建ったばかりの高層ビルの校舎で、かつての敷地の北半分は高層オフィスビルになったようだ。
写真の家は現在は外壁などが改修されて、横の下見板や正面2階の銅板貼りの戸袋は見られなくなったが、瓦屋根は残っていて外観はそのままである。
その家の右隣はビルだがさらにその隣が下写真の家。正面左の看板建築との二軒長屋らしい。この通り沿いの長屋の後ろに四軒長屋があるのが路地沿いに見えている。
その路地の手前が台東保険所。当ブログでは、かつてそこにあった六軒長屋奥富の長屋を記録している。


二軒長屋。東上野4-23。2013(平成25)年8月3日

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四軒長屋。台東区東上野4-10
左:2009(平成21)年4月17日、右:2006(平成18)年11月29日

昭和通りの1本裏の通りに今も残っている看板建築にした四軒長屋。右写真の左に写っている、たぶんトタン貼りと思われる看板建築の家はなくなって時間貸し駐車場になった。
この裏通りを北(右)に行くとすぐ、有名な地下鉄の踏切がある通りに出る。下左写真はその通りに出て昭和通りの方の向かい側。波トタン貼りの家は1階が住居、2階はなにかの製作所だったものだろうか。今は取り壊されて1台分の時間貸し駐車場になっている。
下右写真は踏切の際の建物。戦前から建っているのだか戦後まもなく建てたものなのか、判断しづらい。写真左に踏切が写っている。銀座線の車庫(上野検車場)があり、2本の線路が道路を横切っている。


左:三階建て民家。東上野4-26。2006(平成18)年11月29日
右:居酒屋げんき。東上野4-11。2009(平成21)年4月17日

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上:三陽代理店。台東区東上野4-17
1991(平成3)年6月30日
左:看板建築の民家
2008(平成20)年3月2日

旧下谷小学校の北の裏通りや横丁に、関東大震災後に建った商家や長屋が残っている。旧町名は神吉町(かみよしちょう)で、台東区成立前は浅草区に属した。どう考えても上野(下谷)である。幡随院が昭和15年に小金井に移転するまで、上野学園のすぐ東にあった。幡随院→幡随院長兵衛→浅草、だから、そのイメージでむりやり浅草区に組み入れたように思える。
ここに出した写真の家はいずれも現存する。上の写真の家は看板建築風の洋風の外観の家。窓のガラスに「日動火災海上保険/株式会社/三陽代理店」とある。現在はこの文字はない。
左写真は1枚目写真の家の横の路地の家。看板建築にした二軒長屋だ。
下の写真は1枚目写真の家と四つ角に対して対角線にある看板建築の五軒長屋。現在もほとんど写真のままの外観で立っている。


五軒長屋。東上野4-15。1989(平成1)年7月23日

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銅板貼りの洋館。台東区東上野4-10。1988(昭和63)年頃

昭和通りの東上野交差点を東に入ったところに今も残っている民家。純日本風の入母屋造りの屋根の下にアーチの飾り付きの洋風の窓、壁は看板建築風の銅板貼り、という不思議な家である。構造は日本家屋のものかもしれないが外観からは洋館に分類するしかないようだ。白く塗った窓枠は建築時からのものらしいが、今はアルミサッシのものに交換された。



日の出、あらい。東上野4-12。2008(平成20)年3月2日

1枚目写真の家の前を東に行くと角が イワナガという床屋の看板建築の四軒長屋がある。その角を北に入ったところ。左写真右奥のあずき色の看板建築が岩永理髪店、奥のコンクリートの建物は旧下谷小学校。「パン&コーヒー」の「あらい」の隣はスタンダードな銅板貼り看板建築。上の壁に店名が書いてあるが錆びていて読めない。1986年の住宅地図では「日の出」

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太洋商会。台東区東上野4-1
上:1987(昭和63)年頃
左:1988(昭和63)年5月1日

浅草通りの比留間歯科医院の一つ東のブロックで、後ろに台東区役所、右に上野公共職業安定所(現・ハローワーク上野)がある。大通りに面して看板建築の商店長屋があったが、今は徳雲会館(台東区が運営する葬儀場)という3階建てのビルに替わった。同じビルに臨済宗徳雲院という寺もあるからその寺がビル化したものらしい。ということは写真の長屋は徳雲院の家作だったのだろう。
店は写真左から、新井テーラー、太洋商会(看板に「製紙機 包装紙」「TAIYO BAGGING MACHINE …」と読める)、理容アマノ、傘の遠藤商店。理容アマノは比留間歯科医院の隣へ移った。

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比留間歯科医院。台東区東上野4-1
上:2006(平成18)年11月29日
左:1989(平成1)7月23日

浅草通りの上野駅に近いところで、比留間歯科医院のかわいい洋館はよく目につくし、ネット上にもよく登場する。『日本近代建築総覧』では「建築年=1929(昭和4)年、構造=木造3階建、設計=自家設計、施工=早川(大工)」である。『東京レトロ散歩>東上野「比留間歯科医院」』によると、設計は「初代院長の比留間作次郎氏」、施工は「早川洋建築工房(改築)」だそうだ。
瓦は日本家屋のものだがちゃんと残っていて、とにかく保存状態がいい。家主はよほど建物に愛着を持っているのだろう。3階にあたるところにも窓があるが、屋根裏部屋のもので、実質は2階建てだ。歩道との境のモルタル壁の塀は昭和50年代の改築によるもので、以前は低いコンクリートの柱を立てて鉄棒を通した柵だった(『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年、1900円)掲載の著者による昭和51年6月のスケッチによる)。



ミイズ美容室。左:1989(平成1)7月23日、右:1988(昭和63)年5月1日

比留間歯科の隣に看板建築の二軒長屋があった。今は長屋の左側はマンションを建築中、右の理容天谷(あまや)は建て替わった。
パーマのミイズ美容室は建物が取り壊されるまで営業は続いていた。理容天谷は以前は少し浅草よりにあったのが移ってきたもので、1枚目写真に見える壁の金文字は旧店舗にあったものだ。上の写真ではたばこ屋に見える。ミイズの左は「ミチノク」の看板があるが、1階は喫茶エルムで、取り壊しの前は沖縄料理の「琉王」、二階が焼肉の「あ・うん」になっていた。

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角の八百屋。中央区日本橋蛎殻町1-15。1987(昭和62)年6月

写真左へ行くとすぐ新大橋通りに出る。高層マンション「リガーレ日本橋人形町」の向かい側だ。写真右手の看板建築風の家は、以前八百屋(店名不明)だった。今は全面ガラス張りのビルに建て替わっている。5階建てのようだがこの幅でビルが建つのか! と感心する。民善酒店はコンビニ風の看板は取り払ってしまったが、商売は変わらず続いている。隣は間野歯科医院。その隣は平和商会が取り壊されて空地になっている。現在はこの2軒分のところが「小林洋行ビル2号館」に替わった。
写真の通りは蛎殻町1丁目と人形町1丁目の境になっている。昭和22年の空撮写真を見ると、通りの蛎殻町側は家1軒分が白く抜けている。強制疎開で取り壊されたのかもしれない。角の八百屋も間野歯科も、戦後になって建てられた家屋だろう。



飯田歯科医院。日本橋蛎殻町1-15
左:1984(昭和59)年9月、右:1987(昭和62)年6月7日

新大橋通りの裏の路地。写真の家はビルに替わっている。そのビルに飯田歯科の看板があるので、ビルに替わってからある期間開業していたわけだ。現在は看板の「歯科」の字を消している。「飯田」はそのままだから「飯田ビル」の看板に直したということらしい。
左写真右の建物は飯田歯科のものらしい。さらに奥の建物は国鉄日本橋寮で、戦前は旅館だった建物。

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三軒長屋。中央区日本橋蛎殻町1-14。1987(昭和62)年2月1日

新大橋通りの銀杏八幡の横を入ったところにあった看板建築の三軒長屋。写真から、後東電気商会とあけぼの(「PEPSI/フルタ」の看板が置いてあるので喫茶店だろうか)が確認できる。この長屋の奥行きはそう長くなく、正面1戸分程度だ。今はその敷地のままで4階建ての小さなビルに建て替わっている。
後東電気に白鴎高校へ進んだ秀才のお嬢さん(といっても今は70歳に近いはずだが)がいたが、お元気だろうか。



民家。日本橋蛎殻町1-14。1990(平成2)年2月4日

1枚目写真の三軒長屋の左角を曲がったところにあった家。会社兼住宅の家屋と思われるが、地図では個人住宅のようである。家の左横は路地。現在は写真右の駐車場を含めて5階建てのビル(豊玉香料株式会社)に建て替わった。1枚目写真の三軒長屋の左の1戸は1986年の住宅地図では「豊玉」。同じ会社なのだろうか。

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東京穀物商品取引所。中央区日本橋蛎殻町1-12。2010(平成22)年10月28日

1929(昭和4)に、渡辺節の設計で建てた「東京米穀商品取引所」を建て替えたビル。1990年頃の建設ではないかと思う。旧ビルを引き継いでいることを、イオニア式オーダーを並べて主張している。この頭柱が1基屋上庭園に置かれた。
東京穀物商品取引所(会社)は2011年3月で写真のビルを引き払って日本橋堀留町へ移り、結局は2013年2月に解散した。米やトウモロコシなどの商品先物取引を扱っていたが、その取引量が減少して会社存続ができなくなったということだ。
穀物商品取引所が出た後、じきにビルは取り壊されて今はマンションが建つ。わずか25年足らずの寿命だったことになる。米相場は戦前の話だろうが、取引所の存在が蛎殻町の成り立ちに想いを向ける契機にはなっていたのだが。



加茂鶴酒造東京支社。日本橋蛎殻町1-12。1987(昭和62)年5月31日

東京穀物商品取引所のすぐ近くにあり、2012年に建て替わって、今は10階建てくらいのビルになった。
加茂鶴酒造は広島市に本社があり、写真の建物はその東京支社である。蔵をイメージした外観は倉庫のように見えるが、実態はオフィスビルなのだろう。当社のHPに「1949年(昭和24年)東京出張所開設」とあり、そのときに建てたビルである。

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