ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




精工舎。墨田区太平4-1。2002(平成14)年1月3日

蔵前橋通りと四ツ目通りが出会うのが太平四丁目交差点で、そこから見た精工舎の全景である。写真右手奥へいけばJR錦糸町駅、左手奥が亀戸天神のほうだ。右に事務所棟、左に西館が写っている。解体直前で事務所棟の時計台の時計はすでに外されている。記念物としてどこかに移されたのだろうか? 精工舎の敷地は、現在は「オリナス」の名称で再開発され、交差点角にはオリナスタワーという高層オフィスビルが建った。
精工舎は服部時計店(現・セイコーホールディングス)の時計製造部門で、1892(明治25)年の創立。翌年、現在地に移った。『goo地図>古地図>明治地図』には柳島町24、現在の蔵前橋通り沿いに「精工舎」の書き込みがある。写真のように大きい工場になったのは関東大震災後で、陸軍用地の払い下げを受けて拡張したものだ。『明治地図』には「陸軍兵器廠錦糸掘倉庫」という書き込みもある。




精工舎事務所棟
上:1994(平成7)年10月15日
左:1992(平成4)年4月26日

昭和5年に完成した事務所棟。設計は日本の鉄筋コンクリート工学の開祖といわれる阿部美樹志。阿部は札幌農学校土木工学科を卒業後、鉄道院に入り、東京-万世橋間の高架橋などに従事している。アメリカから帰国後1920(大正9)年、阿部事務所を開設し、小林一三をパトロンに得て梅田阪急ビルなどの阪急グループのビルや鉄道施設、東京では 日比谷映画劇場 有楽座、東京建物ビル(八重洲)などを設計している。
施工者は一社ではなかったらしく、『東京建築回顧録』(読売新聞社編、読売新聞社、1988年)には、「工事は、竹中工務店、大成建設など、日本のトップに立つ建設会社が担当した」とある。




1992(平成4)年4月26日

TIMEKEEPER 精工舎事務所棟』によると、昭和52年に新館ができて事務所はそこに移り、この建物は昭和56年に「セイコー時計資料館」となった。「時計塔の機械はドイツ製重錘式であったが、平成7年に最新の水晶式に変更」されたそうだ。

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法恩寺橋。墨田区石原4、太平1。1988(昭和63)年10月10日

蔵前橋通りの大横川に架かる橋。橋の東、太平1-26に平河山法恩寺という寺があることからの橋名である。大横川は江戸時代初期に通船・排水のために掘られた運河。最初の法恩寺橋の架橋は1659(万治2)といわれ、大横川の開削時に架けられたものだ。明治初期の地図でも橋の位置は現在と変わらないから、蔵前橋通りの道筋は架橋の時点ではすでにあったらしい。

現在の橋は 『BRIDGE WATCHING』 によると、大正13年4月~14年11月に架橋された震災復興橋で、設計は復興局。「ラーメン橋台付鈑桁」という橋梁形式になるそうだ。昭和57年11月に中央部分を「単純鈑桁」に架替えている。架替え前がどんな外観だったのか気になる。左の写真は『東京の橋 生きている江戸の歴史』(石川悌二著、新人物往来社、昭和52年)にあった写真。上の写真と同じような写角で撮られている。橋の中央に橋桁があったようだ。中央部分の欄干は今のものより簡素である。



法恩寺橋。墨田区太平1。1988(昭和63)年10月10日

大横川は現在では大横川親水公園として整備された。完成は1993(平成5)年4月1日。写真ではまだ工事中だ。
親柱のデザインは東京中央電話局(設計=山田守、1925年)の塔屋に似ている。 『分離派建築博物館』には、「・・・山田守は震災後に復興局橋梁課嘱託の命を受け、山田の配下にあ った山口文象(当時岡村蚊象)が嘱託技師の立場で実際に多くの橋の設計に携わったことが知られている。山田の作風が橋を設計した山口に何らかの形で伝えられ反映されたことは想像に難くない。」という記述がある。

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内田株式会社本所倉庫。墨田区石原4-26。1988(昭和63)年10月10日

蔵前橋通りの錦糸中学校入口交差点の角に建つ銀行だった古いビルである。『日本近代建築総覧』では「内田KK本所倉庫(旧安田貯蓄銀行)、墨田区石原4-26-11、建築年=大正14年」という記載。小さいながらも古典様式のいかにも銀行らしい建物だ。鉄筋コンクリート造なので、空襲での焼失を免れた建物なのだろう。現在も残っていて、「BLUE CORN」の看板がかかっている。カジュアルな男子洋品店らしい。
このあたりの蔵前橋通りは、1971(昭和46)年3月に廃止されるまで都電が走っていた。大塚駅前―錦糸町駅前の16系統で、近くでは、石原町一-石原町二-石原町三-太平町三の停留所があった。町名の石原町は1966年に住居表示実施でただの石原となった。緑町、亀沢町、太平町、錦糸町なども同様で、住所はしだいにただの記号と化していくように感じる。

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江戸市。中央区築地4-14。1989(平成1)年11月5日

写真左奥のビルはマンション「モンテベルデ築地」で、晴海通りの門跡橋際に建っている。写真はそのビルの横を入った築地東通りである。木造2階建ての看板建築と日本家屋の商店が並んでいる。現在ではそれらの店舗はみな建て替わってしまったようで、少なくとも正面上では同じ建物は見当たらない。
1986年の住宅地図では、左奥から「大倉、銀食、中央食品、江戸市、ライオンズマンション築地」だが、写真では数年たって変化しているようで「・・・若林食品(有)、ナカタニ、銀食、江戸市、㈱みの屋海苔店」となっている。ライオンズマンションは引っ込んでいて、その前にみの屋があるのだと思う。ナカタニ・銀食の裏は妙泉寺があるが、平成3年にビルになった。裏から見るとビルの屋上にお寺が乗っているように見える。


江戸市の別アングルの写真があったので追加する。(2012年7月4日)

江戸市
1991(平成3)年5月5日

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秋山ビル。中央区築地4-13。1987(昭和62)年9月15日

築地場外では珍しい鉄筋コンクリートのビル。昭和10年頃の火保図に「大石、コンクリート造3階建て」と記載がある。この地図では場外のビルはこれだけしか載っていない。昭和25年の火保図では「大石ビル、早川歯科、秋山肉店」。秋山畜産は戦後にビルに入居して業績を伸ばして、昭和40年頃にはビルを買い取ったかと想像できる。


大山商店
築地4-13。1986(昭和61)年6月

秋山ビルは築地中通りだが、大山商店は築地東通りで、秋山ビルの裏の位置だ。現在、建物は建替えられたようで、「築地寿司清新館」になっている。隣の高砂商店も今は「築地青空三代目」というすし屋になって、建物は改装されている。

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諏訪市場。中央区築地4-10。1989(平成1)年11月5日

築地場外の築地中通りで、写真右手が晴海通り。1986年の住宅地図では左から「中富、ヤマハチ、諏訪市場、江戸屋、ダイワ、夕月築地総合卸売市場」。江戸屋海産第一とダイワは同じ日本家屋の家に入っているが、現在はその家が消失して空き地になっている。
諏訪市場に入っている店は、現在では入れ替わっているが、諏訪商店(佃煮、惣菜)、山本商店(豆)が変わらない。


丸井屋商店
築地4-10。1991(平成3)年5月5日

同じ場外の10番地だが、こちらは築地横町で写真右奥は新大橋通り。現在、丸井屋商店(料理道具の店だったらしい)は廃業し、「すしざんまい」になっている。丸井屋の右は藤本商店(青果)、魚がし銘茶、石橋商店(野菜)で、この3軒はビルに建替わった。

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鶴亀。中央区築地4-13。左:1986(昭和61)年6月、右:1999(平成11)年11月

築地場外の晴海通りの裏の路地(築地横町)で、山野井商店の向かい側。3階建ての銅板貼り看板建築の四軒長屋のようだが、3階建ての建物を長屋というのも変なので集合店舗といえばいいだろうか? 左写真の撮影時である1986年の住宅地図では、右から「小川、今田屋、江戸屋、亀鶴、金武、浜田」浜田の横が「禧選」という記載である。現在も変わらないのが「まる一 浜田商店」(生めん類、トーフ類、納豆)と「禧選商事」(雑穀、パン粉)だ。


まる一 浜田商店
2011(平成23)年11月7日

2011年7月13日の火事から4ヶ月たったが、まだそのままで、1階では商売もしているようだ。火事は午後9時頃空き店舗より出火、店舗5棟約200平方メートルを焼いた、ということだ。この建物の全体が写っている写真として掲載したが、こんな写真を出さなければならないのは残念。

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山野井商店。中央区築地4-12。左:1986(昭和61)年6月、右:2011(平成23)年11月7日

圓正寺の床店の並び。左の写真左奥の銅板貼り看板建築がその床店で、その右から、「マルミ屋、山野井商店、久住」。写真右端が横丁との角にある下の写真の東栄築地。現在は「築地乾物」と替わっている。
マルミ屋はモルタル塗りの看板建築のようだが、今は取り壊されて空き地になっている。山野井商店は屋号が熊出屋、料理道具の店である。料理人が築地に仕入れに来るときに持ってくる竹製の籠を売っている。久住食品店は鰹節店。



東栄築地。左:1986(昭和61)年6月、右:2011(平成23)年11月7日

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上:圓正寺。中央区築地4-12
1987(昭和62)年9月15日
左:床店。1991(平成3)年5月5日

築地場外市場に圓正寺という寺がある。場外の地は関東大震災までは58もの寺がぎっしりと立ち並んでいた。それが現在では3ヶ院が残るばかりらしい。寺町の名残は、晴海通りからの3本の横丁と1本の裏の路地も昔の参道のままである。その裏の路地は晴海通りの方に寄りすぎている感じだが、晴海通りによって削られたせいだ。
上の写真では、圓正寺の右側が銅板貼りに見えるが、本堂とは別の建物で、圓正寺の家作の長屋形式の店舗である。「床店」と表現した本があったと思う。1軒あたり、幅1間、奥行き1.5間位の面積かと思う。
入っている店は1986年の住宅地図では、圓正寺の角から(左写真、左奥から)「カネサ(カネサ水産)、三光水産、長浜や(長濱谷商店)、都、さかもと、中村、谷沢、甲州屋」。

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加藤商事。神奈川県三浦市三崎1-12。1994(平成6)年5月2日

日の出通り商店街の中ほどの東側。現在も家並みは変わらないが、写真手前、角の家は改装されたのだと思うが、建て替わったように真新しく見える。薄くなった看板の文字からガラス屋で、店名は「加藤商事」と無理に読み取った。
写真左端のビルが2枚目写真の丸福玩具店。



大津屋商店。三崎1-12。2007(平成19)年11月17日

写真右が丸福玩具店。写真中央の店も花火を売っているのでやはり玩具店かと思ったが、店先に出ているのは菓子のようで、駄菓子屋だろう。地図では「大津屋商店」。その左は北条湾の魚港に出る横丁で、その角のタバコ販売機を置いている家は蔵造りの店舗だ。

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