ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鈴木たばこ店。中央区湊1-2。1987(昭和62)年1月15日
写真右が亀島川の南高橋、左奥へ行くと桜川に八丁堀橋が架かっていたところから八丁堀四丁目に出て鍛冶橋通りにぶつかる。


協友社。湊1-7。1987(昭和62)年5月3日
1枚目の写真から東へ、南高橋の近くの湊1丁目交差点。鉄砲洲稲荷が間近にある。
角のアパートのような建物は、区役所の出張所が置かれたことがあるらしい。

籠平山崎製作所
湊1-9
1987(昭和62)年12月20日

桜川の河口に架かっていた稲荷橋から南高橋へ、亀島川沿いの道があるが、そこに建っている(たぶん今も)。下見板の看板建築らしいが、見た目どおりの洋風の建物なのかもしれない。2階だけ見ると西部劇の町に並んでいる家みたいだ。

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片山・松本邸。中央区入船1-7。1987(昭和62)年12月20日

窓が少なくて倉のようにも見える。どうも戦後の建築のようだ。昭和20年代の地図では「両国郵便局第一寮」となっているが、一時的に借りていたものだろう。



松本家のポンプ。1986(昭和61)年6月15日

1枚目の写真のバイクの後ろに写っているポンプ。始めてみたときは「井戸がある」と思ったがよく見ると井戸のポンプが置いてあるだけのようだ。写真では青く塗られているが1年半後の1枚目の写真では赤く塗りなおされている。「津田式」と浮き彫りされている。津田式ポンプは大正9年に津田喜次郎が発明し、戦中から昭和20年代に全国に普及したものだという。台になっているコンクリートブロックに松葉と本の字が掘り込まれている。松本家で使っていたものに間違いない。

左:久長商店。入船1-6。1987(昭和62)年12月
右:CP計画。入船1-5。1986(昭和61)年6月15日
久長商店の建物は住居に改装されている。工具店だったらしい。住宅地図に「CP計画」とある家はたぶん「中川医院」として建ったものだ。

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新大橋通り入舟町1丁目交差点。中央区入船1-2。1985(昭和60)年9月8日

中央区湊、入船(旧住居で湊町、入舟町)は、ほぼ空襲での消失を免れていて、バブル以前は戦前そのままの町並みをあちこちに見ることができた。
左右の通りが新大橋通りで東側を見ている。写真左にすぐ、桜川(現桜川公園)に中乃橋が架かっていた。写真右の通りは築地川(現首都高都心環状線)の新金橋から亀島川の新高橋に通じている。
交差点に面した建物が興味深いが、住宅地図では「大黒堂稲荷山」。あるいは「大黒堂」と「稲荷山」か? なんだか判らない。戦後すぐの地図では「昭和産業KK」。アップで1枚、記録しておけばよかった。


玉晃商店、スエキ。入船1-6。1987(昭和62)年1月15日

1枚目の写真の中央のマンションの横(東側)を裏通りが通っていてその交差点の角。
玉晃商店の角のショーウンイドウに「両面テープ」の文字が読めるから梱包品の卸商だろうか? 戦後すぐの地図では「兼吉商店(八百屋)」と「香露園茶店」。

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千代田ビル(旧梅田ビル)。中央区八重洲2-3。1985(昭和60)年11月10日

東京駅八重洲口の間近、外堀通りと中央通りを結ぶ横丁にあった。
「千代田ビル」というのは住宅地図での名称。「梅田ビル」が一般的なようだ。設計は岡田信一郎。「近代建築ホームページ」の「岡田信一郎―作品」のリストによると「梅田ビルヂング」の名称で昭和3年10月の完成。同じ年に鎌倉国宝館や上野公園の黒田記念館が完成している。
梅田ビルの外見の特徴は3列の出窓とアールデコの装飾なのだが、ファサードのデザインに設計者はどのくらいかかわるものなのだろう? 出窓にした分、壁面が敷地から引っ込んでいる。


丸い穴を開けた囲い。1985(昭和60)年11月10日

左:1985(昭和60)年11月10日、右:1985(昭和60)年4月14日
4月に撮影したときにはまだ1階でレストラン「シャンティー」が営業している。
玄関両脇の柱のレリーフが「これぞアールデコ」という模様だ。玄関上部の硝子に「千代田ビル/旧梅田ビル」の表示があったようだ。

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洋風長屋。千代田区神田司町2-10。1986(昭和61)年6月8日

司町の北東の角付近から南のほうを見ている。道路の向かいは多町である。洋風の三軒長屋があって青いトタンと思われる板貼りの家があり、写真左の洋風のモルタル壁の家が司アパート。

左:松永商店。司町2-10。1987(昭和62)年1月1日
右:司アパート:司町2-12。1986(昭和61)年6月22日

司アパートの写真はもう少し撮る角度を考えればいいのに、と思わずにはいられない。中途半端な写真で恥ずかしいが、「司町二丁目町会」に「懐かしい神田の建築物」として建物全体を納めた写真を見ることができる。キャプションに『……(女優の)故清川虹子氏も住んでいたとか。……』とある。


トタン張りの家。1987(昭和62)年9月13日

1・2階とも高い位置に窓があるから、町工場か食品加工でもしていたような感じがする。外に籠がたくさん出してあるから、あるいはまだなにか作っているのかもしれない。司アパートの建っていた所が更地になっている。
まことに失礼だが、増築しているわけではないのに九龍城の写真が思い浮かんでしまった。

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志村印刷。千代田区神田司町2-10。1985(昭和60)年2月24日

外堀通りから横丁を東に入るとすぐ目に付く。一応三軒長屋だと思うが、壁が小豆色の志村印刷と白の民家の二軒で使っているらしい。いまだに健在である。写真左の家並みはビルに変わった。

左:トミタ羅紗店。神田司町2-10。1987(昭和62)年12月31日
右:花与生花店。神田司町2-8。1987(昭和62)年9月17日

左写真は1枚目の写真の左奥へ行ったところで双葉(おむすび・御茶漬)の入る栄ビルが両方の写真に写っている。
花与の左の路地を入ると外堀通りの桃太郎のところに出る。


秀美堂製本所。神田司町2-16。1989(平成1)年2月26日

花与の向かいになる家並み。写真右の日本家屋が秀美堂製本所。横山計器(株)、新井氷室の看板が読み取れる。

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ライフ。千代田区神田司町2-8。1987(昭和62)年12月31日

前の通りは外堀通り。写真左の桃太郎と間口の大きいライフの銅版貼りの看板建築が目を引く。ライフの角の円柱に看板が付けられていて、文字は「スーチル家具、事務機器、内装工事、特価販売、(株)ライフ」。


ライフ。2007(平成19)年1月4日

現在、桃太郎の建物は取り壊されて駐車場になっている。ライフ(旧中村商店)とその隣の建物は残っているが商売は廃業したようだ。
外堀通りとそこから入る横丁とは直角に交差していない。建物本体を横丁に合わせると外堀通りに面した方は三角形に敷地が余る。この建物はその敷地に1階部分だけを張り出すように建てている。

桃太郎
1987(昭和62)年12月31日

小さな袖看板を出しているだけだが和菓子屋である。建物の壁面にはほとんど装飾は施していないが、屋根裏部屋に見せている3階の壁は銅版を亀甲模様にしている。
『看板建築』(藤森照信・増田彰久著、三省堂、1988年)に間取りが載っている。それを見ると、1階は手前半分が店舗(売り場)で奥が厨房。2階は住居で前は8畳間に押入れと床の間と仏壇が付く。奥は6畳間と階段・押入れ・便所。3階は手前の半分だけで、物置にしている。後ろは物干し。

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千代田区立神田小学校。千代田区神田司町2-16。1988(昭和63)年6月5日

神田小の創立は校舎の建った昭和4年のことだという。昭和41年に神竜小学校(内神田に跡地の石碑があるらしい)と合併している。1993(平成5)年4月に千桜小学校(神田東松下町)と合併して千代田小学校になっている。現在の校舎(神田さくら舘)は平成7年12月に着工し平成10年3月に完成した。


神田小学校。1987(昭和62)年12月31日


神田児童公園。神田司町2-2。1987(昭和62)年12月31日

復興小学校に付随した古い児童公園だ。丸い穴が空けられた塀は開園当初からのものと思われる。千代田小の建設と合わせてだと思うが、この公園も造りなおされて塀も無くなってしまった。
奥に外堀通りからの入口が開いている。

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三紀。千代田区神田司町2-2。1987(昭和62)年1月1日

前の通りは神田警察通りで、司町交差点からすぐ東にあった。入口の引き戸の文字は「中央ヤマトハカリ株式会社」と「株式会社三紀」。
アーチ型にした窓の両側に人物像を乗せている。コリント式オーダーのレリーフもあるから、おそらく西洋の神話の神だか人なのだろう。

三紀
1986(昭和61)年4月6日

左の男性の像は西洋の風貌だが、右の女性像は普通の日本のおばさんに見えてしまう。ビーナスだとしたらずいぶんと親しみやすいというか、庶民的というか……。

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東京ビル。千代田区神田司町2-2。1987(昭和62)年1月1日

神田司町(つかさまち)には2丁目しかない。現住居表示になる前は司町の南に1丁目があったが、内神田1・2丁目に変わった。「2丁目」の表示をなぜ残したのかは知らないが、たぶん住民の希望だったのだろう。旧神田司町1丁目の町会は今でも「司一町会」である。
司町を東西に分断するように南北に外堀通りが通っている。その東側が偶数番地、西側が奇数番地で、神田の番地の配列は大通りを境に偶数と奇数に分ける方式が多いようだ。
写真のビルは外堀通りと神田警察通りの交差点の角にあった。「神田警察通り」という名称はわりと最近の命名だと思うが、東へ行ってJR神田駅の北でガードを超えると「神田平成通り」と名前を変えて岩本町の大和橋で靖国通りに合流する。

東京ビル
1987(昭和62)年1月1日

『乱歩と東京』(松山巖著、PARCO出版局、1984年)に左の写真とほぼ同じアングルの写真が載っている。それを見ると、円柱の上部に葉の飾りが置かれているからコリント式オーダーだったのを、剥落する前に削り取ってしまったらしい。また、2階の棒チョコを並べたような飾りのある窓の周囲の壁がタイル張りで、モノクロ写真なので推定だがスクラッチタイルかもしれない。だとすると壁面全体もタイル張りだったのかもしれない。

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