ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
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路地の奥の三軒長屋、他/下谷2丁目
下谷・根岸
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2016-03-31 12:10:06
加藤パン店、民家。台東区下谷2-5。2014(平成26)年1月16日
坂本小学校の言問い通りの向かい側の、
鶯谷アパート
がある裏通り。加藤商店は日本家屋の前面を看板建築にしたものだが、戦後の建築のようだ。1966年の地図では「加藤燃料」で、炭屋だったのかもしれない。ストリートビューを見たら隣の家とともに取り壊されていた。
右写真の民家は加藤商店の横を入ったところにある民家。加藤商店と同時期の建築に思える。
西川流舞踊稽古所。下谷2-4。2014(平成26)年1月16日
取り壊された加藤パン店から言問い通りに出ると、その手前に北へ入る路地がある。写真の家はその路地との角にある。出桁造りなので戦前の建築だろうか。後ろの長屋風の家も戦前築の家のようだ。この路地は当ブログの『
木造民家/下谷2丁目
』ですでに登場している。その写真の右の家は二軒長屋だが、加藤商店と合わせてだろうか、取り壊された。
三軒長屋。下谷2-5
左:1991(平成1)年7月23日、右:2008(平成20)年5月7日
その路地の奥を覗いた写真。奥に見えているのは三軒長屋で、路地はその長屋の前で左右に通じている。左へ行けば金杉通りへ出、右は加藤パン店の横の路地と通じている。
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台東区立坂本小学校/下谷1丁目
下谷・根岸
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2016-03-30 20:01:03
台東区立坂本小学校。台東区下谷1-12
上:1989(平成1)年7月23日、左:同年3月19日
朝顔市で有名な入谷鬼子母神(新源寺)に隣接する小学校だが、1996(平成8)に入谷2丁目の大正小学校に統合され、坂本小のほうは廃校になった。坂本小は明治32年に下谷尋常小学校として創立された。現在、校舎は区の施設として児童クラブなどに使われているという。
『日本近代建築総覧』では「区立坂本小学校(旧入谷尋常小学校)、台東区下谷1-12-8、建築年=1926(大正15)年、構造=RC、設計=阪東義三(東京市)、施工=長谷川精次郎、表現派風「東京市教育施設復興図集」による」。早い時期の復興建築だ。
『
分離派建築博物館
>
表現主義の幻影を巡る
』によると、邦楽座(有楽町、1925年)の設計が「片岡松井建築事務所(阪東義三)」で「阪東義三は分離派の面々とは同級生でそのせいか表現派的でもある。……阪東義三の活躍は東京市の営繕課に籍を置いて復興小学校の設計に関与したことが知られている。」とある。
玄関やその右の階段室上部の放物線の造形が表現派風といわれる。校門もそれに含まれるはずだが、いつの間にか造り直されて、門柱が下の写真の円柱になってしまった。『分離派建築博物館』には元の校門を正面から撮った写真が載っている。
旧坂本小学校。2014(平成26)年1月16日
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雲形装飾のある家、スナックらん/東陽1丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-29 10:27:47
上:雲形装飾のある家。江東区東陽1-33
左:スナックらん、かにや。東陽1-26
1996(平成8)年1月7日
写真2枚とも洲崎橋跡から大門通りを南へ行ってすぐの洲崎橋南交差点を東へ入ったところにあった建物。
上の写真の家はカフェーだったと判る装飾をすっかり外してしまって残っている。今見るとなんの特徴もない住宅だ。写真では青いタイルを貼った両脇の柱、不揃いな3連アーチのベランダの手すり、その上の雲形に切った壁、といったなんとなく和風に見える装飾で外観を飾っている。
茂木アパート
のように入口も前面に3か所が並んでいたようである。洲崎遊廓を紹介する本やサイトには必ず登場する有名物件だった。
2枚目写真の家は、洋風看板建築の飲食店に見えるが、やはりカフェーだった建物なのだろうか。現在は「ガーラシティ東陽町」(2007年2月築、10階建て36戸)というマンションに建て替わった。
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茂木アパート/東陽1丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-27 16:13:19
上:茂木アパート。江東区東陽1-37
左:バー ニューボン。東陽1-36
1996(平成8)年1月7日
大門通りから歩道のある割と広い横町を入って大賀(現在は住宅)のあった先にあったカフェー建築。3か所の入口の庇の瓦、各入口の両側にタイルを貼った円柱が残っている。現在は「シャンテ東陽町」(2006年1月築、5階建て15戸)という小さなマンションに替わっている。写真右の早川壮は現在。
旧赤線の入口だった洲崎橋(今は跡)から見てもっとも奥に都営洲崎アパート(全5棟、1965~67年築)がある。その裏は塩浜運河で、昔だったら波打ち際だ。都営団地になる前は警視庁洲崎病院があった。昔の航空写真を見ると中庭のある四角いビルのようで、1958(昭和33)年の区分地図でも病院マークに「元洲崎病院」とある。
ニューボンは洲崎アパートの1号棟の向かいの裏通りを入ったところにあった。今は住宅に建て替わっている。
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大賀荘、明治企業/東陽1丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-24 12:03:23
大賀荘。江東区東陽1-38。1996(平成8)年1月7日
大門通りの東陽一丁目交差点を東に入って、裏通りとの交差点角にあった洲崎パラダイスのカフェー建築。「大賀楼」または「タイガー楼」という店だった建物で、2か所に残る「大賀」の文字は「たいが」と読むらしい。洲崎(すさき)の赤線街(洲崎パラダイス)では大手だったというから写真左の日本家屋も大賀に含まれるのだろう。『
東京紅団>洲崎遊廓跡を歩く
』の「昔の写真」を見ると、その写真とあまり変わらない外観だ。赤線廃止後は大きな改装をしないでアパートして使われてきたのだろう。『東京紅団』には昭和29年の洲崎パラダイスの規模を「カフェー220軒、従業婦800人」としている。昔の写真はその頃のものだろうか。
1993(平成7)年の地図では「大賀荘/㈲光運輸」。現在は3軒の建売住宅と思われる家に建て替わっている。
明治企業深川倉庫。東陽1-38。1996(平成8)年1月7日
写真右の日本家屋が大賀だった建物。白い壁の建物には「明治企業㈱深川倉庫」の看板がかかっている。3階部分は増築だろう。『東京紅団>洲崎遊廓跡を歩く』の「昔の写真」にわずかに写っている建物と思われる。その写真では「明治○○」と読める看板も写っている。カフェーだった建物としていいのではないかと思う。
現在は「ミオカステーロ東陽町」(2004年5月築、8階建て28戸)というマンションに建て替わった。写真左の早川荘は今も残っている。
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弁天マーケット/東陽1丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-22 16:45:29
弁天マーケット(旧サンエス)。江東区東陽1-28。1996(平成8)年1月7日
「洲崎(すさき)パラダイス」といった赤線街にあった「サンエス」というカフェーだった建物。『赤線跡を歩く』(木村聡、ちくま文庫、2002年、950円)では「大通りに面したマーケット。東陽弁天商店会の中ほどにある」としてあるので、かってに「弁天マーケット」とした。東陽一丁目は1967(昭和42)年の町名変更からで、旧町名が「深川洲崎弁天町」だ。前の通りは「大門(おおもん)通り」で、アーケードの天井からは「東陽弁天商店会/アーケード通り」の看板が下がる。その通りに面して「八百周」という八百屋、横町側には魚屋や食品店など5軒くらいの商店が入っていた。2012年4月に取り壊され、現在はマンションに建て替わっている。
YouTubeに『
記録映画『赤線』・洲崎パラダイス 1958
』というのがあって、1958(昭和33)年の大門通り沿いの町並みが見られる。そのカラー映像ではサンエスは、通りに面した壁(写真ではアーケードで隠れている)に白く「SSS」の文字が入っている。鮮明でないのが残念だが貴重な映像記録だ。
横丁奥から。東陽1-28。1996(平成8)年1月7日
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清洲寮/白川1丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-20 16:34:18
清洲寮。江東区白河1-3。2006(平成18)年5月1日
清洲橋通りに独特の存在感を示す清洲寮。高層マンションがいくら建とうが清洲寮があるかぎり、ランドマークの地位は揺るがないだろう。
清洲寮の後ろには霊巌寺と深川江戸資料館がある。霊巌寺には寛政の改革を行った老中松平定信の墓がある。その松平定信は白河藩主なので、白河町の町名になったという。その成立は1932(昭和7)年だから割と新しい。深川江戸資料館は江東区役所の跡地に建てられたもので、今も江東区役所白川出張所が同居する。区役所は昭和49年に東陽町に移転した。現在「深川資料館通り」といっている通りは、資料館ができる以前は「区役所通り」あるいは「元区役所通り」といっていた。『東京風土図 城北・城東編』(サンケイ新聞社編、現代教養文庫、昭和44年、560円)には昭和35年頃の事情を書いていると思われるが「区役所通りは、道幅こそ狭いがにぎやかな商店街だ。夕方近くになると買い物客で道は埋まり、郊外新開地の「○○銀座」風景である。」とある。電車通り(清澄通り)を渡った旧東京市営店舗向住宅の商店も賑わったのだろう。深川警察署、保険所、中央図書館も近くにあり、行政の中心地でもあった。
現在は清洲橋通りと清澄通りに地下鉄の大江戸線と半蔵門線の清澄白河駅ができて、清澄庭園、深川江戸資料館、深川飯、あるいは最近できたカフェなどの観光の中心地に変わった。
清洲寮。1989(平成1)年11月26日
外壁が白く塗られていた時期の清洲寮。『日本近代建築総覧』では「清洲寮、江東区白河1-3、建築年=昭和8年、設計=大林組下村某」。「寮」といっても会社や学校の寮ではなく、普通のアパートである。
『
合理的な愚か者の好奇心>謎の集合住宅「清洲寮」(2007.01.14)
』というサイトに、2006年暮れの朝日新聞の「わが家のミカタ」という記事が紹介されている。調べてみると「わが家のミカタ」というコラムは2006年4月から2009年3月まで全国版の生活面に掲載した住宅コラムで、単行本(岩波書店、2310円)にもなっていた。『謎の集合住宅「清洲寮」』によると、現オーナーの祖父が「当時ヨーロッパで最新の集合住宅を見てきた工務店主に頼み」建てたという。工務店主とは大林組の幹部なのだろうか? 地下鉄の開通(大江戸線=2000年12月、半蔵門線=2003年3月)で好立地に変貌、家賃も安くてレトロ好みの若者に受けて、今は全66室の三分の二が若者という。古いアパート=高齢者、という常識とは無縁らしい。それもメンテナンスをまめに行うこととも関連するのだろう。
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旧東京市営店舗向住宅(2)/清澄3丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-18 11:48:35
上:旧東京市営店舗向住宅>末広電話店、西村塗料店。江東区清澄3-3
1988(昭和63)年12月31日
左:取り壊された2軒。1989(平成1)年11月26日
旧東京市営店舗向住宅が並ぶ清澄通りは、その真ん中あたりでくの字に曲がっている。上の写真の右で長屋が切れているのはその曲がり角になっていて北へ続く家並みが見えないからだ。
末広電話店(一階の縦書きの文字では「末廣」)は「電話売買」とあるが電話機を売っているわけではない。ましてや携帯電話やスマホも関係ない。電話加入権の売買だ。電電公社時代の制度なので、今も廃止されたわけではないらしいが、撮影時には店は廃業していたのかもしれない。
写真の棟の右の2軒は取り壊された。右端の家は2枚目の写真で「はがき、封筒、チラシ、納品、請求書、領収書、シール」の文字が読めるので帳票などの印刷屋だろう。
1枚目写真の棟は北から数えて5棟目なので第5棟とすると、上の写真は第6・7棟。写っている店は三登屋金物店、丸越肉店(現在、「天竜」という小料理屋)、小川商事(現在は「Sacra Café」)など。1988(昭和63)年12月31日
サンケイ新聞深川販売所、中華料理しん、エチゼンヤ文具店。1988(昭和63)年12月31日
旧東京市営店舗向住宅の南端の棟で第8棟になる。現在は写っている店はやめたか別の店になっている。「中華料理 しん」は現在、第6棟に「中華 しん」があるから、移ったらしい。
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旧東京市営店舗向住宅(1)/清澄3丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-17 11:01:57
旧東京市営店舗向住宅。江東区清澄3-3。1991(平成3)年6月16日
清澄庭園の東の縁に沿って2階建ての長屋風店舗が並んでいる。RC造の洋風の建物で、6軒長屋が基本のようで8棟。関東大震災の復興事業として東京市が建設して、1928(昭和3)年に48戸が竣工した。
各店舗の間口は二間半。各棟の二階の左右角にアールデコ風の幾何学模様のレリーフの飾り、パラペットの軒蛇腹、各戸2階の3列の縦長窓とその間の柱、店名の文字を入れるための1階上の2本の太い平行線の間の壁、といった造りが共通だったようだ。
今は正面は個々に改装され、屋上に小屋を増築している家も多い。元々は東京市の賃貸住宅だったが、戦後1953(昭和28)年に居住者に払い下げられた(『
achitects composite>江東区散歩4
』)。その値段は『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年、1942円)では、15万円。それ以降、改装と増築が始まったわけだ。
上の写真は北端の棟から南の方向を見た街並み。25年前のものだが現在も店の看板を除けばほとんど変わらない。右端は歯科医の看板が出ている。工具店の木谷商店の左は茶舗の「よしの園」。隣の笠川表具店は現在も看板は残っているが廃業したようだ。
上:藤屋商店。清澄3-3。1988(昭和63)年12月31日
左:引き戸の家。清澄3-3。1989(平成1)年11月26日
1枚目写真の左端よりやや右といった辺り。上写真右の食料品とタバコの店が藤屋商店。現在は別の店に替わっている。壁がすっかり汚れてしまっている家がほぼ建築時の外観をとどめていると思われる。現在、この家は取り壊されて小さな緑地になっている。
1階が古い引き戸の家は撮った写真を見る限りではこの一戸だけだ。ガラス戸の桟が2階外壁の装飾に合わせたもののようである。戦火を免れて残ったものなのだろうか? 二階の窓も古いままだ。
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三野村合名会社/清澄2丁目
深川・向島・葛飾
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2016-03-15 12:20:57
三野村合名会社。江東区清澄2-8。2006(平成18)5月1日(4枚とも)
清洲橋通りの清洲橋と地下鉄の清澄白河駅の中間にある2階建てRC造の小さな事務所ビル。現在の看板は「三野村株式会社」だが、資料などでは「合名会社」としてあるのが多いのでここでは建物名として合名会社を使う。
この建物は『東京建築懐古録』(読売新聞社編、読売新聞社、1988年、1600円)に取り上げられている。以下、それによる。
三野村合名会社は三野村利左衛門(1821-1877)がその晩年に一族の資産を運用するために設立した会社。この人は有名とは言えないと思うが、当書には「江戸から明治初期に活躍した実業家。三井家につかえ、第一国立銀行の副頭取を務め、三井銀行の設立に活躍するなど三井財閥の基礎を作った。」とある。三菱の岩崎弥太郎のような人物らしい。「岩崎弥太郎が築いた清澄庭園の北側に豪華さを競うように三野村家の広大な邸宅があった。」とあり、その邸宅跡の碑のようなビルといえるかと思う。
役員会議事録に「中村琢治朗氏に顧問を委託し、吉田安太郎氏を建築技師として雇い、設計にあたらせた」という記録がある。テラッコッタで飾られた玄関を入ると正面に石造りの階段。左手に事務室で、壁にはめ込まれた建築時からの大金庫がある。他に会長室、応接間、宿直室など5つの小部屋。二階は重役室が三つと大会議室、という間取り。建築当時の調度品が多く残るという。
3月10日の東京大空襲では200人の人がこのビルに逃げ込み、必死に防火にあたってビルが残った。鉄線の入ったガラスが割れずに火が入らなかったという。
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