ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




四軒長屋。台東区下谷3-2。1991(平成3)年9月23日

金杉通りの東の裏道にあった長屋。
写真の長屋があるのは下谷2丁目だとばかり思って地図で探したが、よく分からない。そのうちに写真右のほうに「二十原霊神」の文字の板が写っているのに気がついて、たいして期待もしなかったがネット検索をしてみた。『井戸人別館【東京翠影】』というブログの『【東京の井戸】台東区下谷3丁目 二十腹霊神の井戸(2007.11.11)』の記事が見つかった。下谷3丁目のほうはあまり歩いたような記憶がなく、以外だった。井戸人さんの記事では、長屋は取り壊されて更地になっていて、かつては路地の中にあった祠(ほこら)が斜め横から写されている。その祠の後ろには井戸が。
井戸人さんの記事からリンクされているブログ『東京雑派』『下谷『昭和』が消えた(2007.11.04)』、および『下谷 路地に花咲く淫祠(2007.04.15)』も拝見した。井戸人さんはこちらのマフィンマンさんの記事を見て、井戸を見に出かけている。4月の記事では長屋が建っていたときの祠の様子が捉えられている。マフィンマンさんは長屋と祠の間の隙間を抜けて長屋の後ろまで覗き込んでいる。
同記事によると、長屋は1928(昭和3)年に建てられたもの。2007年夏頃に取り壊されたようだ。



三軒長屋。2008(平成20)年5月8日

写真右の空き地が1枚目の長屋が建っていたところで、陰になってよく分からないが二十原(腹)霊神の祠も写っている。写真を撮ったときは、そういうことは知らなかったから空き地に注意することも無く、井戸も見ていない。三軒長屋には「建築計画のお知らせ」が貼られている。今もまだあるかどうか……。

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須藤板金工務所。台東区下谷3-1。1991(平成3)年9月23日

金杉通りの柳通り交差点と昭和通りの下谷2丁目交差点を結び通りの中間辺り。写真右奥へ行くと昭和通りに出る。写真左の家はトタン貼りの四軒長屋らしい。住宅地図では四軒長屋の右端が須藤板金工務所。その右のビルと茶色の看板建築の間に全得寺だが少し引っ込んでいるので見えない。化地蔵尊が安置されているという。「入谷のお化け地蔵」などともいうらしい。



ふくちゃん。下谷3-1。1991(平成3)年6月30日

1枚目の写真の右手に写っている建物。「ふくちゃん」はたこ焼き屋。店内でお好み焼きも食べられるそうだ。建物はペンキを塗り替えずにきて錆びてしまったような色合いだ。上部に「石川○金」の文字が。現在は建替えられが店は存続している。写真中央の阿部商会に「オーニング」の文字がある。なんだろうと調べてみたら布地やビニールの日除けのことだった。

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三好弥、モリタ、いたばし文具店。台東区下谷3-1。1989(平成1)年3月26日

昭和通り沿いの古い商店建築。写真左手はすぐ下谷2丁目交差点。右後ろのビルは台東区役所金杉出張所。中央後ろは区立台東小学校。三好弥は「ファミリーレストラン」をうたっている。有限会社モリタは看板に「木ヒール プラヒール スタックヒール」と読める。
ストリートビューを見ると、写真左の家は交差点に面した集合店舗建築で、その交差点の角になる家と写真左端の縞のテントの家が残っている。そこから右に並ぶ家は取り壊されて空き地になっているが、今頃はなにか建っただろうか。



江戸指物木村正。台東区下谷3-1。1991(平成3)年9月23日

昭和通りの下谷2丁目交差点を西へ入ったところ。根岸の柳通りへとつながる通りである。写真左から横山人形店、喫茶店モア、江戸指物木村正。江戸指物の家の右側に材料の板が立てかけてある。乾燥中なのかもしれない。
現在は江戸指物木村が3階建てのビルに建替えた。モアと横山人形店は建物とも変わっていない。

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村越書店。神奈川県小田原市本町1-12。1991(平成3)年8月23日

国道1号線の箱根口交差点を北へ入ったところ。東京から走って来てこの信号まで来ると箱根の取っ掛かりまで来たような気がするが、箱根口とは小田原城の出入り口の名前である。下の写真が分かりやすいが、写真左奥が藤棚交差点でその奥が南入口でお茶壷橋という古い石橋に見える橋から城へ入っていく。村越書店の後ろは小田原市立三の丸小学校。下の写真左の赤い車の辺りに箱根口門跡があるのではないかと思う。
国道1号線の裏道の角にあってけっこう目立つ店である。国道の一応は商店街の裏手の住宅地で、裏は小学校だから文具店ならともかく本屋はどうなのだろう。文具も売っているのかもしれない。再訪して下の写真を撮ったときまで本屋だとは気がつかなかった。



近影。2010(平成22)年7月9日

「装苑・ミセス」と建物右端の「たばこ・フコク生命」の看板がなくなっているが、建物はなにも手を加えた形跡がない。店主だろうか、おじさんが帰宅する生徒を見守りに店先に出てきている。

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さかい呉服店。神奈川県小田原市本町1-13。1991(平成3)年8月23日

国道1号線の御幸の浜(みゆきのはま)交差点角の呉服店。信号の表示は「御幸ケ浜」だが、現在は「御幸の浜」に変わっている。たぶん両方の言い方をしていたのを「の」を公式に採用したのかと思う。
左の日本家屋の家も、家の左端に看板を置いているから同じ店なのだろう。角の洋風の家は、今は建て替わったが店は存続している。左の家は、今は田代商店というかまぼこ・干物の店になっている。家は建て替わったのか改装したのかは判断しづらい。



横の看板は昭和3・40年の感じだ。客は店の奥の畳敷きで、番頭の出してきた反物を選ぶのだろか。「これをあわせにするわ。お式は10月だから急いで仕立ててくださいね」かなんか言ったりして。
写真右奥へいくと小田原城のお堀に沿ったお堀端通りに入る。写真後ろの松の樹は小田原市立三の丸小学校のものらしい。

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瀬戸商会・遊輪館。神奈川県小田原市本町1-10。2010(平成22)年7月9日

前の通りは国道1号線で、お堀端通りへ入る御浜の浜交差点の少し東のあたり。瀬戸商会の家は「瀬戸自転車店」の右から書き、旧字のレリーフと両端の柱上部に洋風の模様のレリーフが残っている。昭和10年頃までに建った看板建築だろう。2階窓の下のベランダ状のものはいつのものなのだろう? 



瀬戸タバコ店。2010(平成22)年7月9日

国道1号線の裏通りに面した出桁造りの商店。瀬戸商会の裏にあって、瀬戸タバコ店という。親戚関係だろうか? 店内にタイル貼りの台とガラスケースのタバコ売り場がある。元は酒屋かなにかだったような感じだ。

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スルガ銀行小田原幸町(さいわいちょう)支店。神奈川県小田原市本町1-10。1991(平成3)年8月22日

駿河銀行をスルガ銀行と表記するようになったのは1990年からで、2004年10月から正式な商号となった。東京では中央通りの日本橋北交差点の角というすごい場所に東京支店があり、そこが関連会社の本社でもある。
写真の建物は国道1号線沿い、相澤眼鏡店から西へ数軒離れたところにあった。写真右のジャノメミシンの看板はアオバビル。『都市風景への旅』によると1929(昭和4)年の建築。1929年の『小田原町詳細図』に、同じ場所に「駿河銀行」があるから駿河銀行として建ったものだろう。『小田原建築探偵>スルガ銀行』によると木造だという。この重厚な感じが木造だとは気がつかなかった。1999年秋に取り壊された。跡地はまだ空き地のままだ。
歩道の脇に石碑がある。小田原の町を歩くとわりとよく見つかる旧町名保存碑で、「本町(ほんちょう)」の石碑。



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新丸ビル。千代田区丸の内1-5。2003(平成15)年12月13日

正式には「新丸の内ビルディング(ビルヂング)」で、写真のビルは今では「旧新丸ビル」ということになるが、当ブログでは撮影時の名称を使うことにしている。
新丸ビルは戦前に起工されたが戦争のために工事は中断され、完成は1952(昭和27)年11月18日である。設計は丸ビルと同じ三菱地所、施工は清水建設。規模も外観も丸ビルとそっくりで、東京駅から見ると行幸通りをはさんで左右対称の景観を作っていた。たぶんそうなるように設計したのだと思う。



2003(平成15)年12月13日

ビルが完成した昭和27年というとサンフランシスコ条約調印の1年後で、この年に発効している。朝鮮戦争のおかげで戦後の復興が始まった頃だ。ぼくはすでに小学3年生で、まだ空き地のようだった建築現場を見たように記憶しているが気のせいだろうか。年表を見ると、木星号墜落、白井義男、ヘルシンキオリンピック、リンゴ追分、テネシーワルツ、君の名は(ラジオ、映画)、明神礁、水爆実験、コメット号(ジェット旅客機)、シーラカンスなどは覚えがある。



南側と西側。写真右奥に東京駅。前の道路は行幸通り。1986(昭和61)年頃

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丸ビル。千代田区丸の内2-4。1986(昭和61)年9月23日

霞が関ビルが1968(昭和43)年に完成するまでは丸ビルが日本を代表するビルだった。丸ビルは「丸の内ビルディング」あるいは「丸の内ビルヂング」の略表だが、『日本近代建築総覧』や『近代建築ハンドブック』では「丸ビル」で表記している。設計=三菱地所部(技師長=桜井小太郎)、施工=フラー社(ニューヨークの建設会社)で、1920(大正9)年7月に着工、1923(大正12)年2月に完成している。「東洋一」の規模の先進的なオフィスビルで、1・2階の誰もが利用できるビル内の商店街が話題を呼んだ。機械力を駆使した施工法は当時の日本の建設会社には衝撃だったという。工程表による進捗管理や厳格な労務管理も模範になったようだ。
完成半年後の関東大震災では倒壊はしなかったもののかなりの被害を出した。構造設計にもかかわったフラー社の責任らしい。その改修工事が終わるのは1926(大正15)年7月で、3年もかかっている。こちらの日をビルの完成日としている資料もある。その後、1935(昭和10)年にも外壁などの改修工事が大林組で行われている。ビル上部にあった庇状の出っ張りはこのときに取り去られた。



南側(写真右奥に東京駅)。1986(昭和61)年9月23日


上:正面玄関と階段
1997(平成9)年4月5日
左:正面玄関上のタイルのレリーフ
1985(昭和60)年11月4日

上の写真を撮った1997年4月5日は丸ビルが閉館したその日である。たまたま近くにいたので寄ってみた。翌日の新聞記事によると来館者は300人を越えたというが、少ないといっていい。
外壁のタイルは貼り替えて3・4年しか経っていないのできれいだ。

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相澤眼鏡店。神奈川県小田原市本町1-10。1991(平成3)年8月22日

当ブログ前回の国道1号線の本町交差点を曲がって西へ向いた辺り。店は左から、ベレッサ(喫茶)、中村文林堂(文具)、相澤時計店、浜寿司、現・風月堂。
小田原建築探偵メガネのアイザワ』でこの建物の昔の写真が見られる。ぼくは想像力が貧しいせいか、建築当時の姿がどうだったのかはあまり考えたりはしない。そういうこともあってこの昔の写真はけっこう衝撃だった。このファサードが今は……、というわけだ。



近影。2010(平成22)年7月9日

アーケードがなくなったのと文林堂の建物がなくなっている。その他の建物は残っているが浜寿司は看板を下ろしてしまっている。この写真では分からないがベレッサは今もちゃんと営業している。

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