ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



喜代川。中央区日本橋小網町10
1984(昭和59)年(月日不明)

兜町から鎧橋を渡ってすぐの路地を北に入ったところにある鰻屋。2018(平成30)年に国の登録有形文化財に登録された。『国指定文化財等データベース>喜代川店舗』によると、建築年は昭和2(1927)年頃、構造は木造2階建、屋根は銅板葺一部瓦葺き、建築面積107㎡。「寄棟造の平入で正面南端に切妻屋根の玄関を付け、背面に角屋を出す。一階には厨房・客席と居室、二階に座敷五室を設ける。開発著しい都心部で良質な伝統木造建築の姿を留める希少な店舗兼住宅」と解説されている。
中央区>近代建築物調査>うなぎ 喜代川』には、「調理と飲食が分離していたかつて(昭和初期)の料亭建築の様式を今に伝える。客間ごとに細部まで異なる意匠とされ、凝った内部空間となっている」とある。
うなぎ喜代川』には、「喜代川」の名は江戸時代からあり、初代が小網町の地で商売を始めた明治7(1874)年を創業の年としている。
兜町が間近だから証券マンと証券会社に来る客が多く来ていたと思うのだが、株の売り買いが電子化してしまと、状況はすっかり変わってしまった。喜代川も兜町にばかり向いていられず、HPには「人形町の老舗」を謳っている。
建物は2014~2015年に大修理を行った。瓦屋根を銅板葺に葺替え、建物を持ち上げてRCの土台を置いて柱を入れ替え、耐震工事までおこなった。『株式会社キャルハウス>プロジェクトKとは』で、その詳細が分る。

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小網神社。中央区日本橋小網町16
上:1985(昭和60)年1月
左:1982(昭和57)年7月4日

『東京都の近代和風建築』(編集:東京都教育庁地域教育支援部管理課、2009年)によると、64坪の境内に社殿と神楽殿(と社務所)があり、社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる。幣殿は本殿と拝殿をつなぐ部分。本殿と幣殿は、拝殿の後ろにあり、正面からは見えない。木造平屋建、複合形式、銅板葺で、昭和4(1929)年に再建された。
「本殿は切妻造で棟の上に仙木、鰹魚木をのせている。拝殿は入母屋造で、千鳥破風、唐破風を重ねた重厚なもの」「向拝には、優れた技法による登り龍、下り龍、獅子、ばく、鳳凰、波等の彫刻が施されている」「神社に残る棟札には、昭和3年12月18日上棟祭とあり、棟梁内藤駒三郎をはじめ5名の大工の名前が記されている」「道路際に建つ神楽殿は、変形した敷地に合わせて五角形の平面形態」とある。
かつては神社の後ろは東堀留川で、その河岸地(東万河岸(ひがしよろずがし))だった。戦後まもない昭和24年8月までに戦災残土で埋め立てられた。なお、平成28(2016)年に屋根を葺き替えている。
小網神社のHP』 には、「日本橋地区では唯一現存する戦前の神社建築で、中央区有形文化財に指定されています」とあり、「御由緒」のページに、内藤駒三郎の正装した写真と、大正期の神社の写真が載っている。その建物は白塗りの蔵造りのように見える。

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三田商店東京支店。中央区日本橋小網町17。1996(平成8)年5月6日

日本橋川の江戸橋と鎧橋の間を、北に入っている東堀留川という掘り割りがあった。旧石神井川の河口部にあたるもので、自然河川の跡を利用した掘り割である。敗戦後昭和24年8月までに戦災残土で埋め立てられた。三田商店のビルの裏側はその東堀留川だった。
三田商店のビルはきれいに改装されていて、そう古い建物には見えないが、1930(昭和5)年に建ったもの。『中央区>近代建築物調査>株式会社三田商店東京支店』には「辰野金吾と建築事務所を運営したことで有名な、葛西萬司の建築作品として貴重」「堀沿いの建物であり、堀に対して正面性を持ったデザインとし、護岸が設けられていた」「創建時は水平庇をまわす初期インターナショナルスタイルの典型的建物であった」と説明されている。
三田商店は、本社が盛岡にあるセメント、ガラス、住宅設備機器などを販売する会社。1894(明治27)年に「三田火薬販売所」として創立した。東京支店を置いたのは1901(明治34)年で、現在地の向かい側(日本橋区堀江町4)という。
創業者の三田義正は、貴族院多額納税者議員(1922-1925)を務めた。1926年、旧制岩手中学校(現・岩手中学校・高等学校)を創設。1927年頃、現在の盛岡市菜園・大通り商店街の基礎をきずいた(ウィキペディア)。つまり盛岡の名士である。設計者の葛西萬司は盛岡市の出身だから、三田義正とはつながりがあったのかも知れない。


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福田屋書店、太田屋茶店、埼玉県川越市久保町4、6。1989(平成元)年9月18日

喜多院不動通り商店街に、路地を挟んでよく似た外観の洋風店舗が並んで建っている。最近発売された『川越の建物 近大建築編』(2021年、仙波書房、税込2200円)によると、福田屋書店と太田屋茶店は共に、隣の大工棟梁が1929(昭和4)年に建てたもので、頭領の家も洋風なモルタル造りだったという。
福田屋・太田屋とも石造り風の壁が人造石の洗い出し仕上げ。2階の窓の上部両端に並ぶレリーフは「スワッグ」という名称だという。

喜多院不動通り(久保町通り)は、昭和3年に拡幅された。そのため、この通り沿いの古い家は昭和4年頃の建築が多い。

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マツモト洋品店。埼玉県川越市久保町4。1989(平成元)年9月18日

埼玉県道15号川越日高線は久保町(くぼまち)を東西に通っていて、「喜多院不動通り商店街」になっている。写真の家並みは川越街道との交差点・松江町交差点から東へ130mほどのところ。2016年頃まで写真のままの家並みだったが、今は「パレステージ本川越」(2019年2月築、15階建て61戸)というマンションに替わった。
出桁造りの重厚な家は商家だったと思われる。写真では1階が黒く潰れてしまったが、細かい格子状の桟のガラス戸が8枚はまっている。
写真右は看板建築にした二軒長屋で、マツモト洋品店とまえじま理容店。袖看板に「久保町大通り」とある。

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みこもり(和守)煎餅。埼玉県川越市連雀町15。1989(平成元)年9月18日

大正浪漫夢通りと、立門前(たつもんぜん)通りの交差点角にあった煎餅店。写真右の角は当ブログ前回の大野屋洋品店だ。
最近発売された『川越の建物 近大建築編』(2021年、仙波書房、税込2200円)によると、「1920年(大正9年)の築。木造トタン張りの洋風建築で、煎餅店として長年使用されたが、2008年(平成20年)に閉店。2018年(平成30年)に解体に至った」ということで、つい最近まであった建物だ。
二階の縦長窓と石積み風の模様を入れたトタン張りの壁を持った、洋風の建物である。1920年に建ったときから洋風の外観だったのだろうか? みこもり煎餅は1928(昭和13)年創業、としたサイトがある。看板には「川越店」とあるから、本店が別にあったのかもしれない。ネットでは「発狂くん」という煎餅に関することが多い。商品名として商標登録しているのだが、今でも許可されるだろうか。建物後ろは「フォトアイ」というDPE店が入っている。

写真右は高松屋菓子店と田中屋履物店。こちらの建物は、コーニスを巡らし、その上にペディメントのような飾りを置いている。壁は白いタイル張り。洋館といっていい造りだ。みこもり煎餅と同時に解体されたらしいが、そのときは屋根が落ちたひどい状態だった。

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大野屋洋品店。埼玉県川越市連雀町13
1989(平成元)年9月18日

南北方向の「大正浪漫夢通り」と、蓮馨寺(れんけいじ)山門から東へ延びる「立門前(たつもんぜん)通り」との角にある洋品店。大正浪漫夢通りは、かつてはその北半分が「銀座通り」という全蓋式アーケードのある通りだった。また、中央通りの裏通り的存在だったのと、南の、駅に近いほうに客が移って、川越有数の繁華街だったという銀座通りは衰退の一方だったようだ。
「蔵造りの町並み」で一番街などに観光客が訪れるようになると、銀座通りもなんとかしようと考えたのだと思う。多く残っていた洋風看板建築の店を生かして、大正ロマンをテーマにした商店街を目指して、リニューアル(の反対?)を始めた。アーケードを取り除いたのが1995(平成7)。
大野屋洋品店もそれに合わせて外観を改装した。今の1階の洋風の造りはそのときのものである。写真は改装前のもので、写真右に銀座通りのアーケードが写っている。1階がどのような外観なのかさっぱり分らない写真だ。
最近発売された『川越の建物 近大建築編』(2021年、仙波書房、税込2200円)に、銀座商店街のゲート(アーチ)の全部を納めた写真が載っている。それに写っている大野屋は、赤い車の後ろは大きなガラス窓のショーウインドーで、今の建物とあまり変わりないように見える。
当書によると、建物は1930(昭和5)年の建築で、木造3階建て。2階は後退していて、洋風の石造り風の外観とは異なり、「二重菱」もようの横長窓が和風にも見えて、そのミスマッチが魅了、とも言っている。
大野屋は大正時代から続く衣料品店で、現店主は3代目。

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興津郵便局。千葉県勝浦市興津2601。1988(昭和63)年8月7日

国道128号(外房線と海岸の間の旧道)の上総興津駅の辺りで、興津駅前交差点から西へ200mくらい行ったところに興津郵便局がある。郵便局の建物は、今は建替わって機能的になった感じだ。田舎の郵便局なら写真の古い建物で十分だろう、などというと叱られるのだろうが、つい思ってしまう。
写真の建物は外観から見て、戦前に建てられた洋館風の木造の建物だろう。玄関両脇の円柱と上にアーチの飾りを施した縦長の上げ下げ窓。玄関の庇の下には右から書きで「興津郵便局」の字。4個ならんだ2階の窓は縦長の上げ下げ窓。建物両端の柱形上部のレリーフ。正面中央上部の小さな郵便マーク。平面的な感じだが、それなりに見所はあったようだ。
写真右の大黒屋酒店は今も健在。建物左の一階部分は取り壊して駐車場になっている。



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魚希鮮魚店。千葉県勝浦市興津2636。1988(昭和63)年8月7日

国道128号(外房線と海岸の間の旧道)の上総興津駅の辺りの家並み。当ブログ前回の塩谷酒店の写真の左端に写っている家が、上写真の右端にわずかに写っているビーチボールを売っている店。ストリートビューで見ると、この家は廃業したようだが建物だけはそのまま残っている。写真右の平屋の看板建築風の家は、両端の飾りがなくなっているが残っている。
魚希鮮魚店は2018年に取り壊されて、今は空き地のようだ。つい最近まで建物は写真の姿で残っていたわけだ。その左の家は残っているが、さらに左の自販機を置いてある家はなくなって駐車場になっている。

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