ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




江戸川水門。江戸川区東篠崎地先。2003(平成15)年12月7日(下写真も)

「地先」とは現地の説明板の水門の設置場所としてあった所在地で、「その場所の近く」という意味。ちゃんとした所番地が決まっていないのである。水門と閘門が並んで造られたので「江戸川水閘門」の名称で言われる。「篠崎水門」とも言われるとか。昭和11年(1936年)6月~昭和18年(1943年)3月の工期で造られた。東京市の要望による内務省が主幹の工事だったようだが、設計者や施工者は分らない。荒川放水路の工事と関連する業者が想像される。
水門の目的は海からの塩水が上がってくるのを防ぐのが第一義で、特に金町浄水場の取水を確保するためらしい。水門には幅10.6m、扉高5mのゲートが5基並んでいる。
昭和45~47年(1970~72年)に地盤沈下とゲートの腐食などに対処するため、ゲートと操作室を改造した。特徴的な操作室はこのときに造り直されたものだ。現在は国土交通省江戸川河川事務所(水門下流左岸にある)から遠隔操作している。



水門と閘門の間の島は、旧江戸川の中州のようにも見えるが、元々は東篠崎と地続きだった土地である。江戸川と旧江戸川の分岐点は水門のすぐ上流にあるが、そこから水門のすぐ下流、江戸川区スポーツセンターの辺りまでは新たに開削した川だ。多分、水閘門の工事が完了してからそこに川を付け替えたのだろう。
河川事務所(旧江戸川左岸)の南にボートの係留所があるが、旧江戸川の旧流の跡である。
土木工事画報 昭和14年5月』に「江戸川水門工事に就て」の記事があり、そこに載っている航空写真で、本来の旧江戸川の流路が分る。

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飯島遊技場。静岡県伊豆の国市伊豆長岡1033。1998(平成10)年9月6日

現在、「一條」「金城館」「いずみ荘」といった旅館が面している「温泉場出逢い通り」の四つ角の西角にあった遊技場。伊豆箱根バスの「御幸町(みゆきちょう)」バス停がある。右後ろは「ときわ旅館」で、今は「一條」に替わって「スーパーコンパニオン付き宴会のお宿」だそうだ。
写真の遊技場(普通は射的場といいそう)はバルコニーの囲いの赤茶色のタイル張りの壁が目立つ。「ボットル」の表記がユニーク。

下写真は横へ回り込んだもので、隣の看板建築の商店が並んでいる。看板の「丸京商店」が読める。その両側に商品名が書いてあるのだが、目をこらすと「雑貨、文具」の文字がなんとか浮かんできた。店の左に写っている街灯は今も使われている。柱の上部、腕の下に針金を曲げて作ったアヤメの飾りが取り付けられている。「あやめ御前」にちなんだもの。
現在は2棟とも取り壊されて、駐車場になっている。


丸京商店。伊豆の国市伊豆長岡1033。1998(平成10)年9月6日

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洋風看板建築。静岡県伊豆の国市伊豆長岡1054。1998(平成10)年9月6日

伊豆長岡温泉に一泊のバスツアーで行ったときに、旅館にいったん入った後に町に出て撮った写真。ほんの少し歩いただけだったらしく写真は5枚しか撮っていない。上の写真がその1枚目で、「温泉場出逢い通り」という通りにあった看板建築の商店。そこから推定して、泊まったのは「山田屋」かもしれない。『ウィキペディア>伊豆長岡温泉』によると、山田屋旅館は2013年9月で閉館し、2018年には解体されている。
伊豆の国市は2005年4月に田方郡伊豆長岡町、大仁町、韮山町が合併して成立した。また「温泉場出逢い通り」という道路の愛称は、伊豆の国市が募集し2015年に選定した11路線の内のひとつ。撮影時はまだ田方郡伊豆長岡町(いずながおかちょう)で、もちろん温泉場出逢い通りの名称もない。
写真の建物は、戦前に建てられた看板建築のように見える。2階の窓の庇が壁とカーブでつながっている。現在は「ヴァンベール」(2001年7月築、3階建)というマンションになっている。



八百勝。伊豆の国市伊豆長岡1047。1998(平成10)年9月6日

1枚目写真の北に続く家並み。入母屋屋根の「八百勝」は、今も営業しているのかは分らないが建物は健在。その右の看板建築は袖看板の文字が「伊松商店」と読める。今は取り壊されて駐車場。さらに右の切妻屋根3階建ては「町重」という魚屋。

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路地のお屋敷。大田区山王4-1
2009(平成21)年4月12日

当ブログ前回の「尾根道の洋館」の向かい側にL字形に路地が入っている。そこに瓦屋根をつけた立派な門を構えたお屋敷があった。建物は庭木に遮られてよく見えないが2階建ての大きな和風住宅で、門の近くに洋館が見える。「洋館付き住宅」というものだろう。玄関の横に洋間の応接室を造ってその外観を洋館風にするのが多いから、この家もそうなっていると思われる。
裏(南側)の庭が広く、その端は大谷石の石垣で、一段低い裏の道路に面していた。東方向の一方通行だが、西へ行くと弁天池(山王厳島神社)を回り込んで環七通りに出る道路だ。こちら側には門はなかったようだ。
ストリートビューで見ると、写真の住宅は2013年頃に取り壊され、2014年から2016年頃にかけて、8棟の住宅が建った。

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尾根道の洋館。大田区山王2-13
2009(平成21)年4月12日

池上通りの、大森駅の250m南から闇坂(くらやみざか)を上っていくと、台地の上から道はほぼ平坦になり西へ続いている。20mの等高線に乗っていて、標高21~22mほどだろうか。やがて環七通りの谷へ下りていくのだがこの道路の北と南は谷が入っていて500mほどの尾根道である。北の谷はジャーマン通りが通り、南の谷は弁天池がある。両方が環七通りの谷を造った内川の支谷だ。
写真の洋館はその尾根道の中程にあった。家の裏は大森テニスクラブのコート。
大森テニスクラブは大森射撃場の敷地にコートを造って1923(大正12)年に創立された。『大森テニスクラブ>クラブの歴史』によると、大森射撃場は1937(昭和12)年に「周囲も宅地化が進み、実弾射撃には適さない場所となったため、敷地の三分の二を分譲地とし、テニスコートだけを残して射撃場は鶴見の北寺尾に同年移転しました」とある。写真の洋館がそのときの分譲によるものとすると、昭和15年頃の建築になりそう。
2014年頃に取り壊されて、その後現在の3軒の家が建った。お屋敷の細分化は現在も続いている。

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K邸。大田区山王2-12。2009(平成21)年4月12日

当ブログ前回の日本家屋のお屋敷と同じ道路の並びにある洋館。『日本近代建築総覧』に「T邸(当書では個人名で載っている)、大田区山王2-12-5、建築年=大正13年、構造=木造2階建、設計者・施工者=金子竹三郎、備考=ライト式、青図あり」で載っている。
ネット上で『日本大学生産工学部第49回学術講演会講演概要(2016.12.3)』という資料が見つかった。タイトルは「山王地区におけるT邸の建築的特徴-東京都大田区の歴史的建造物-」で、建物の外観、室内の特徴が詳細に分る。
まず、建物の沿革が簡単に述べられている。建築主は銀座で金融業を営んでいたO氏で、昭和10年頃にT家の所有になった。戦後はGHQに接収され、解除後はドイツ人へ貸していて、昭和33年にT家が再び住むようになった。大正13年の図面が現存し、金子竹三郎の名前はその図面にあったものと思われる。1924(大正13)年の建築というと、八景園の宅地分譲と時期が一致する。



路上からは2階のハーフティンバーのスタイルが目に付くので、その様式の建物かと見てしまうが、1階の外観はよほど異なる。1階は基部に大谷石、壁をスクラッチタイル張りにして、2階との境は大谷石の帯が廻っている。2階の角の出窓も特徴的だ。屋根は寄棟、桟瓦葺むくり屋根。要所の窓には植物や鳥を描いた色ガラスが使われていて、一部は路上から観察できる。
ライト風の意匠は、南側のポーチや玄関ポーチに見られという。大谷石とスクラッチタイルから帝国ホテルに連想がいくのかとも思うが、そもそもその建材の使用が帝国ホテルの影響とも考えられる。

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山王のお屋敷。大田区山王2-12。2009(平成21)年4月12日

JR東海道本線の大森駅のすこし北から線路に沿って南へ続く大田区山王1~3丁目は、線路の西はすぐ台地になっている。写真の住宅は大森駅に間近の、海抜20mの線を越えたあたりで、そこからすぐ西の大森射的場跡の碑のところが23mでこの辺りでは最高地点のようだ。
大森駅の西の高台には、「八景園」という遊園地があった。海の眺めや桜・梅の花を楽しみ料理屋もあるという場所。1884(明治20)年の開園で1万坪くらいあったらしい。そのうち、そんな優雅な楽しみは廃れて、たぶん海岸よりの享楽的な方へ人気が移ったのかと思うが、大正末には閉業、1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけて区画分譲されて住宅地になった。写真の住宅がそれによるのかどうかは知らないが可能性はありそう。昭和22年の航空写真に写っているので戦前からある家だろう。クリーム色の壁の部分は増築した部屋だろう。
家の裏(南)は闇坂(くらやみざか)で、1枚目写真左の白い塀(今はより高級感のある煉瓦塀に改修されている)は「大森山王館八景園」というマンション。
2016年頃に取り壊されて現在はマンションと3階建て住居に替わった。



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MADマンション。千葉県松戸市松戸。1984(昭和59)年4月22日

松戸ビルヂング(1974年築、20階建、伊勢丹の事務所棟)にあったホテルニューオータニの宴会場(回転レストランではなかったような気がする)で法事の会食をしたときに、そこから撮った写真。松戸駅東口の南側が写っている。
画面中央辺りのビルが「MADマンション(通称)」(1973年築、5階建20戸)。現在のグーグル地図では手前にマンションが建って隠れてしまっている。一時は半分が空室になってしまっていたらしいが、最近「MAD City」の活動で、いろいろ工夫して改善されているらしい。
画面右下に「第一家電松戸店」が見える。第一家庭電気は1970年代には国内最大手の家電量販店で1989年には200店舗があったという。事業を広げすぎたのだろうか、2002年に破産した。


1枚目写真の下に続く範囲。画面中央辺りのビルの屋上に「ビジネス・旅館・家月」の看板が読める。

グーグル地図より。1984年の写真に見える建物をマークしてみた。全部ではなく気がついたものだけ。

1.松戸ハイム(1973年11月築、11階建163戸)。2.高橋ビル(中華蕎麦 とみ田)。3.太陽生命松戸支社。4.大橋工務店。5.塚ノ越県営住宅(「塚ノ越」は地名らしい)。6.菊池司法書士事務所。7.3階建て民家。8.平屋の民家。

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東府屋玩具店。松戸市松戸1818。2005(平成17)年1月25日

JR松戸駅西口から少し西へ行くと南北の商店街の通りに出る。旧水戸街道(県道5号)だ。その交差点から南へ300mほどで坂川を渡している春雨橋になる。写真はそこの交差点(橋は写真の右手)で、角は駐車場で次いで東府屋と帝国堂時計店の二軒長屋が並んでいる。どちらも戦前から続く商店で、建物も戦前からあるものかと思う。
現在は両者とも「ルフォン松戸ザ・レジデンス」(2015年1月築、14階建93戸)というマンションに替わっている。
東府屋玩具店は写真では「東府屋人形店」「東府屋玩具人形店」「おもちゃ屋東府屋」という3種類の看板の文字があげられている。その後看板は書き換えられて「東府屋人形店」だけに変わり、ぼくは雛人形の専門店かと思っていたが、『表の家>松戸駅付近のおもちゃ屋さんについて』によれば、昭和40年代では子供にとっては唯一の「松戸のおもちゃ屋」だったらしい。

『昭和の松戸誌』(渡邊幸三郎、崙書房出版、平成17年、1905円)に、1992年の調査による昭和12年の家並み図が載っていて1軒々々の簡単な解説もある。それによると、帝国堂の長屋のもう1軒は「つるや」で、写真手前の駐車場になる前の店は「橋本屋」。
解説文を引き写すと「○つるやは松戸最初の洋服小売店。「つるや」のネオン。今は廃業。○津田帝国堂は時計屋で、旧郡役所通りから昭和13年移転。その前の店は不祥。健在。○附木屋東府屋は隣の橋本屋と兄弟、江戸期以来の老舗。東府屋は昔は豆腐屋、当時はおもちゃ屋。健在。○橋本屋は当時荒物雑貨店。今は民芸品店として健在。どちらも曾宮姓。」
昭和12年当時は松戸ではネオンは珍しかったのだろう。「旧郡役所通り」は写真右の車が入っていこうとする道路。

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