ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




永楽屋、井筒屋。中央区日本橋蛎殻町1-6。1985(昭和60)年4月28日

前の通りは新大橋通り。永楽屋はワイシャツの仕立て屋。現在も建物とも健在である。井筒屋は昭和30年頃の地図では飲み屋。



看板建築の民家。日本橋蛎殻町1。1985(昭和60)年10月10日

どこの家だったか忘れてしまった。写真に看板とか住居表示板などの文字情報がないと推測のしようがない。実は今になって写真の整理を始めるとそういうのがけっこう出てくるのである。


八角形の窓の家
日本橋蛎殻町1-1
2004(平成16)年1月1日

言いように困るがかなり特異なデザインだ。以前は運送店だったようだ。家の正面(写真左側)の道路はかつての箱崎川の河岸になる。

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民家と瀬戸物倉庫。中央区日本橋蛎殻町1-5。1985(昭和60)年10月10日

新大橋通りの東の裏通りになる。写真右の日本家屋は純粋な住宅で、この辺りでは珍しい。体育の日の祝日なので国旗を出している。
隣の倉庫には陶器が保管されているのを目撃したことがある。古今・お江戸日本橋の「蛎殻町」に『明治から大正期にかけて蛎殻町には、箱崎川の水運を利用した船荷が陸揚げされたため、稲荷堀の通りには雑貨問屋が並び、1丁目には瀬戸物問屋が集中していました。』の記述がある。人形町の瀬戸物市はそれを引き継いでいる。昭和35年頃は、瀬戸物市は新大橋通りの東側、水天宮交差点からかつての富士銀行の辺りに展開していたのを憶えている。
倉庫の隣の角の家は15年位前(撮影時の)に「ファミリー」という喫茶店になった。



雪印牛乳蛎殻町販売所。日本橋蛎殻町1-5。1985(昭和60)年10月10日

新大橋通り、銀杏八幡の向かいの横丁。写真右端にわずかに銀杏八幡の銀杏の木が写っている。雪印牛乳の建物は新建材で改装されてしまったが現存し、商売も続けているようだ。戦前の地図では「料リヤ」となっている。
後ろの大阪屋は商人宿。写真のビルに建て変わったのは昭和45年頃だったと思うが、このビルも昭和62年にはなくなってしまう。以前の建物は和風の二階建てだったが、持ち主は建替えなければよかったと思ったことだろう。大相撲の触れ太鼓がやって来ていた。



雪印牛乳蛎殻町販売所。1987(昭和62)年頃

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黒田産業。中央区日本橋本町2-3。1986(昭和61)年1月12日

一階を石張り、その上をタイル張りにして最上階の窓をアーチ型にした外観は古いビルの一様式だろうか。折衷主義という言葉があるが、それかもしれない。看板建築のデザインにも同様なものがある。なんとなくありふれたビルのような気がしているうちに、今やどこにも見られなくなった。



黒田産業。1986(昭和61)年1月12日

場所は中央通りと昭和通の中間。住宅地図には「黒田産業㈱、カタバミ㈱、キング化学㈱」の記載。

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繊維会館(旧博文館)。中央区日本橋本町3-9。1986(昭和61)年12月30日

清水組の設計施工で1932(昭和7)年3月の完成。出版社の博文館のビルとして建ったもの。博文館というと現在は自由日記や手帳で知られているが、戦前は書籍雑誌の大出版社だった。「新青年」という雑誌が有名だ。



繊維会館正面玄関。1985(昭和60)年4月14日


繊維会館
1985(昭和60)年4月14日

建築当時の写真を清水建設200年作品集で見ると、左の写真とほとんど変わりないようだ。地下室の採光スペースの前の鉄棒の柵までよく似ている。左写真の壁の色はピンクだが、その色までは分からない。

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大江戸(うなぎ)の横丁。中央区日本橋本町4-3。2006(平成18)年10月28日

昭和通り沿いの大江戸は「知る人ぞ知る老舗」だからご存知の方も多いと思う。ぼくは知らなかった。店の脇の横丁が上の写真で、ご覧の通り看板建築が六軒ほど並んで残っている。実は撮影日に発見してびっくりした。
写真右端が大江戸の店舗で続く二軒のタイル張りの建物は大江戸が使っているようだ。次の白い建物は、住宅地図では「ミカ」という店だったらしい。


左:宮下商店(自販機コーナー)、浅田商店(釣具)。右:正楽。日本橋本町4-3。2006(平成18)年10月28日

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帝都高速度交通公団ビル。台東区東上野3-19。1986(昭和61)年頃

「東京メトロ」というのは「東京地下鉄株式会社」の愛称らしい。2004(平成16)年4月1日の設立になる。写真右の建設中のビル(住宅地図では「(仮)交通営団文明軒共同ビル」)が新しい本社ビルになる。東京地下鉄の前身、帝都高速度交通公団の通称「営団地下鉄」がいまだに耳になじんでいる。帝都高速度交通営団の設立は1941年で、すぐに銀座線を運営していた「東京地下鉄道」と「東京高速鉄道」とを統合する。
写真のビルは東京地下鉄道が1931(昭和6)年12月に完成させたビル。壁面全体を使った大時計を備えていた。
当の写真だが、もう一歩前に出て撮れば正面の上部まで撮れただろうに、後でちゃんと撮ろうなどと思っているうちにモノがなくなってしまった。毎度のことである。



きつね寿司の入る看板建築。東上野3-19。1986(昭和61)年頃

この建物は思った以上に長く存在していた。玉生商店(切手・印紙・たばこ)、きつね寿司、丸越書店の三軒が入っている。玉生商店のテントの上の金文字は「喜昇堂」と読める。きつね寿司は建物が建ったときからずっと入居しているらしい。
tansei.net>近代建築で、きつね寿司のこと、および両側の商店が退去した後の写真が見られる。



丸越書店。1988(昭和63)年頃

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まつの屋旅館、たつた旅館。台東区東上野3-14。1987(昭和63)年頃

古い家が並んでいるが、見たところ戦後の建物だろう。たつた旅館の右のビルは秋田県東京宿泊所。写真左の赤い自動車の後ろが松の湯。その右の家に三味線のばちの形の看板がかかっているが「富士琴三弦」と書かれている。



トンネル長屋。東上野3-12。1989(平成1)年7月23日

酒井不二雄(当ブログ「西町小学校、旅館晴花園/東上野2丁目」参照)が「トンネル長屋」と名付けた五軒長屋。トンネルは塞がれている。「たこやき」の提灯と「氷」の旗を揚げているのは華屋。手前角の家には「岩井眼鏡店」の看板がまだ残っている。後ろの煙突は松の湯。



松の湯。東上野3-12。2006(平成18)年11月29

建物は代わったが酒井不二雄がかよった銭湯である。『東京路上細見3』には、「戦災で半分焼け、戦後、建て替えた」とある。

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西町小の北側向かいの看板建築群。東上野3-11。1987(昭和62)年頃

写真右の道路の右側に西町小学校があった。現在は永寿総合病院である。

宮崎衣類店。1987(昭和62)年頃

上段と同じ家並み。写真右端は上野眼科医院。
ライオンのレリーフは宮崎衣類店の建物のもの。上段写真では電柱の陰になって見えないので別に示した。



西町小の北側向かいの五軒長屋。東上野3-11。1987(昭和62)年頃



上段と同じ長屋を東の角のほうから。1987(昭和62)年頃

この洋風長屋は宮崎衣類店の建物(一枚目の写真)と同じデザインだ。軒の飾り帯、二階の窓の上の半円の装飾、一階の軒を庇のように少し張り出しているところなど。



長屋の現状。2006(平成18)年11月29日

東角の一軒がビルに変わって四軒長屋になってしまったがいまだ健在である。以前は一軒一軒が違う色に塗り分けていたが、今はすっきりとクリーム色一色で、上品になった。このほうが建築時の状態に近いのかもしれない。商売のほうも地味になっていなければいいのだが。

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区立西町小学校。台東区東上野2-23。1986(昭和61)年頃

現在は廃校になり跡地に永寿総合病院が移ってきた。生徒の受け入れは、1990(平成2)年4月開校の平成小学校と上野小学校らしい。平成小は台東4丁目の竹町小学校と台東1丁目の二長町小学校が統合してできた学校で、旧竹町小の場所にある。また上野小は東上野4丁目の下谷小学校と東上野6丁目の清島小学校が統合してできた学校で旧清島小の場所にある。
廃校になった西町小の情報はネットではほとんど得られない。区立小だったのだから西町小のホームページを台東区のホームページにでも残しておくべきではないのか。



区立西町小学校・西側。1989(平成1)年2月12日

写真は2枚とも公開するようなものではないが、他にない。後でちゃんと撮ろうという気でいたのだろう。学校はなくならい、と当時は考えていた。
酒井不二雄が西町小の出身である。ボールペンによる細密画で東京の古い家を描く画家で、彼が『東京路上細見3-上野・御徒町・谷中・入谷・根岸』(1988年、平凡社刊)を書いている。一部を引用させてもらう。
 西町小学校が現在地に移ったのは、昭和4年(1929)、私が5年生になった年のことだ。当時、都内各所にできた復興小学校のひとつとして、西町小学校も、耐震耐火構造で新築されたのだった。鉄筋三階建てのがっちりした校舎は、ごてごてした装飾など何ひとつなくすっきりした直線的な外観をもち、円柱の曲面がアクセントとなっていた。木造バラックの校舎に慣れていた児童全員、その堂々たる新築校舎に歓声をあげたものだ。(以下略)

同書で挙げている卒業生は、池波正太郎、鹿島孝二(作家)、橋本禎造(凧づくり)、中原ひとみ(女優)、萩本欽一など。



旅館晴花園。東上野2-20。1988(昭和63)年頃

写真左の道を奥にいくと昭和通り。この辺りから北へ小さい旅館が集中している。井伏鱒二の小説、上野の「駅前旅館」の背景である。

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田村医院。中央区日本橋小舟町13。1985(昭和60)年4月29日



コーナーの玄関。1986(昭和61)年1月12日





左:東面。1987(昭和62)年頃。右:玄関脇の窓。1986(昭和61)年7月27日

『日本近代建築総覧』にある堀留町の田村医院だとすると昭和7年の建築。
個人医院の建物は概して個性的で、洋館も多い。その点、田村医院のビルは一見普通のビルだと見られてしまうかもしれない。建築様式からすると白い箱型の筐体・大きい窓でインターナショナルといえるかもしれない。しかしよく見ると装飾もけっこう施している。軒周りを飾る装飾タイルの帯、正面2階の窓の植物のレリーフ、横面の丸窓、1階の大きいタイルの縁の飾り帯、「小児科田村医院」の文字を入れたタイル、それにステンドグラスなど。そしてなにより、建物の角にもってきた玄関のデザインがすごいと思う。



正面1階窓のステンドグラス。1986(昭和61)年7月27日



田村医院。1987(昭和62)年頃


2017.01.23追記
某氏よりいただいた正面1階窓のステンドグラスの写真

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