ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜昭和シェル石油ビル。神奈川県横浜市中区山下町58。1987(昭和62)年8月9日(3枚とも)

本町通りの山下町交差点の角にあったビル。1990(平成2)年に解体されて高層マンションに建て替わった。
ビルの設計者はA・レーモンドとB・フォイエルシュタイン。施工は大林組、1929(昭和2)年の竣工である。
レーモンドはチェコで生まれたアメリカ人。ライトに学び、帝国ホテル建設でライトと来日して以来、日本にとどまり、モダニズム建築を多数残した。フォイエルシュタインもチェコの出身で、ペレ事務所にいたということだ。東京明石町の聖路加病院の計画案(この設計で工事が始まったらしい)が、レーモンドとの共同設計者として出てくる。オーギュスト・ペレは世界的に有名な建築家だというが、ぼくはなにかの本で目にしたような、という程度の認識だった。最近、テレビで世界文化遺産のル・アーヴルという都市を紹介しているのを見た。ル・アーヴルが第二次大戦後に再建されるとき、その都市計画と建物の設計をしたのがペレだった。
昭和シェル石油のビルは戦前のレーモンドの代表作といえるモダニズム建築であるが、フォイエルシュタインを介してペレの影響が見られるのだそうだ。『近代建築ガイドブック関東編』(東京建築探偵団、加島出版会、昭和57年)には「正面玄関脇2本の柱の扱いにそれ(ペレ調)がよく示されている」「(フォイエルシュタインは)後レーモンドと仲たがいしプラハで狂死した」とある。『ウィキペディア』には、レーモンドがライトの呪縛から抜け出すためにペレの作風に接近した、というような記述がある。
ビルの特徴などは、横浜都市発展記念館のパンフレット『ハマ発Newsletter第4号』が参考になる。中庭のあるロの字形の平面だが、中庭になるはずの中心部は天井がガラスの事務室だったそうだ。



昭和シェル石油は1985(昭和60)年に昭和石油とシェル石油が合併してできた。ビルが建設されたときはシェル石油の前身である、1900(明治33)年設立の「ライジングサン石油」。ロイヤル・ダッチ・シェルの日本法人として設立された会社で、その本社ビルである。戦後の1948(昭和23)年に「シェル石油」と商号を変更して再出発した。1955(昭和30)年には本社は東京へ移された。

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タチカワブラインド横浜支店。神奈川県横浜市中区山下町205。2002(平成14)年1月19日(2枚とも)

ストロングビルと横丁を介して並んでいた建物。現在はホテルの東横インが建っている。そのホテルの開業が2003年9月なので、タチカワブラインドの建物は撮影後じきに取り壊されたのだと思う。
あまり注目されていなっかった建物なのか、ネット上では『神奈川の近代建築>タチカワブラインド』しか見つからなかった。ぼくも1988年にストロングビルを撮ったときには、この建物は撮っていないから、そのときは割りと最近の建物と考えていたのだろう。
白い躯体に横長の窓を壁面左に、縦長の窓を右に配したデザインが秀逸だ。建築年は不明だが戦前のモダン建築といっても通りそうな外観である。これならインターナショナル風に陸屋根にしたほうがよかったと思うが、あるいは屋根は改修されたのかもしれない。



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ストロングビル。神奈川県横浜市中区山下町204。1988(昭和63)年8月6日

大桟橋通りの横浜公園の向かいにあった。2007年に解体されて現在はビジネスホテルの「ダイワロイネットホテル」の高層ビルに建て替わった。このビルの前面にストロングビルの外観が復元されている。
矢部又吉の設計で1938(昭和13)年に完成したオフィスビルである。ウィキペディアによると、矢部は横浜市元町の生まれで、川崎財閥との縁で川崎銀行などの建物を多く設計している。横浜では「日本火災横浜ビル(旧川崎銀行横浜支店)」(1918(大正7)年)や「三菱銀行横浜支店(旧第百銀行横浜支店)」(1934(昭和9)年)があった。東京日本橋にあった「日本信託銀行本店(旧川崎銀行本店)」(1927(昭和2)年)も彼の設計。
ストロングビルは重厚な銀行建築と違って、ぐっと簡素になっているがやはりルネサンス様式が感じられる。装飾は建物中央の玄関周りに集中させているが、全体のプロポーションが見ていて快い。



1988(昭和63)年8月6日

玄関上の筆記体の英字は「Storong & Co.( Far-East) Ltd.」。ビルのオーナー会社である。ストロング極東株式会社の前身は、明治4年に横浜居留地に支店を開設した英国のG・ストラウス商会だという。
下の2002年に撮った写真では玄関の左の窓は「APOLLO PLACE」の文字の日除けがあって、店の出入り口に改修されている。そうすると、右側の出入り口も改修されたものだろう。
玄関の外燈と下に置かれた石の球体は現在の復元された建物にもそのまま使われていると思う。



2002(平成14)年1月19日

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聖母美術院。文京区本郷1-1。2007(平成19)年4月7日

駿河台から神田川越しに撮った最近の写真。赤く塗られた建物の横と後ろの木立は元町公園で、その後ろには元町小学校だった建物が見える。建物の前の外堀通りがお茶の水坂で、左手の水道橋方向に下がっている。建物右の横丁が建部坂(たけべざか)。本郷1丁目と2丁目の境である。江戸時代には元町公園と小学校の地は旗本建部氏の屋敷があったという。
正面中央の玄関上に「財団法人聖母美術院」の文字がある建物は「聖母美術院ビル」というらしい。聖母美術院は文化庁が所轄する特例民法法人で、「美術に関する調査研究を行うと共にその普及を図る」のが目的だそうだがHPでは実績が分からず、実態が分からない。なぜ「聖母」なのだろう? ぼくは今まで、美術教室のようなところと思っていた。
建物は入り口上部のアーチの飾りや壁と一体になった窓の庇などで、かなり古いものに見える。形と色で、小石川植物園にある旧東京医学校本館(1877(明治10)年)が思い浮かぶ。

左:1988(昭和63)年10月14日、右:2000(平成12)年11月23日

1986年の住宅地図ではこの建物に「聖母美術院、お茶の水医院、トーキョー書店、アテネ書房」の記載。
建築散歩>27/本郷1・2丁目へ』では、入り口の階段が歩道に飛び出ているのに注目している。言われるまで気がつかなかったが、確かに変だ。歩道を広げたために階段が取り残されたのなら、外堀通りを整備する前からあった階段になる。まったくの空想だが、聖母美術院の設立が1923(大正12)10月30日、つまり関東大震災直後で、その建物として回りの整備が整わないうちに建ててしまったのかもしれない。元町公園を造るときにはこの建物をどかすのも大変なので、よけて造園されたとすれば、建物の立地も説明できそうなのだが。

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昭和第一高等学校。1988(昭和63)年10月10日(3枚とも)

駿河台から神田川越しに撮った昭和第一高校の写真。手前は神田川の護岸工事だろうか。工事の塀の後ろには外堀通りが通っているが隠れてしまった。写真左は都立工芸高校、写真右の木立は元町公園。写真右奥に「研数」の看板があるビルは1979(昭和54)年に完成した研数学館の本郷校舎。研数学館は2000年に予備校を廃止して、本郷校舎は現在、昭和第一高校が買い取って学校の別館になっている。
屋上のパラボラアンテナは特注で立てたものだろうが、かなり目立つ。現在ではだいぶコンパクトになって、それでも家庭用のものより大きいものに替わった。
時計塔のある校舎は『総覧』では「昭和第一高等学校本館、建築年=1931(昭和6)年、構造=RC4、設計=木田保造、施工=木田組」である。ぼくは木田保造の名前は知らなかったが、『関根要太郎研究室@はこだて』というブログに彼の設計、あるいは施工になる建物が取り上げられている。『建築家・木田保造について(2007.08.14)』で木田保造の経歴が解説されており、『昭和第一高等学校(2009.02.20)』もある。



上の写真は昭和第一高校の手前にある駐車場。現在は2階建ての駐車場になった。撮影時では古い塀が残り門柱に「医学修士 堀内信」の表札もある。古い航空写真を見ると駐車場の敷地には洋館が2棟並んでいたようで、病院があったらしい。写真の門は病院の院長の自宅だったのかもしれない。

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ふじや旅館。文京区本郷1-28。1988(昭和63)年2月21日

春日通りの真砂坂交差点から南に入る横丁で、弓町本郷教会のある通りのひとつ西側の通りである。写真右の黒い瓦屋根の塀は「旅館朝陽館本家」で、現在もこのままの建物で営業している。青い瓦屋根の塀がふじや旅館で、現在は駐車場になっているが瓦屋根の塀の右側の部分が残っている。
写真左にはビルに「本郷館本館」の看板があり「ホテル本郷館」だ。この辺りは昔からだったのかどうかは知らないが、旅館が多く集まっていた。撮影時の住宅地図を見ると、本郷館本館の向かいに「旅館しみず別館」と「ホテル本郷館新館」、東洋学園大学のほうに「旅館天龍」というぐあい。現在もあるのは朝陽館だけのようだ。
ふじや旅館の前の通りの両側は空襲で焼き払われた地区なので、朝陽館もふじや旅館も建物は戦後まもなく建てたものだろう。『naucon97会場候補地(本郷編)』というサイトで1997年6月の撮影になる、ふじや旅館の玄関、本郷館、しみず別館の写真が見られる。

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都立工芸高等学校。文京区本郷1-3。1988(昭和63)年頃

都立工芸高校は外堀通りの水道橋交差点に正対して校門があり、校庭が前面にあってその奥に校舎が見えていた。校舎までは距離があったから長い正面の全体を眺めることができた。
『総覧』では「都立工芸高等学校(旧府立工芸学校)、建築年=1928(昭和3)年、構造=RC3、設計=東京府、施工=高梨定吉」。
『都立工芸高校100年の歩み』によると、1907(明治40)年、東京府立工芸学校として京橋区築地に開校している。震災後の1927(昭和2)年、新校舎が完成して現在地に移転。1962(昭和37)年からおよそ10年間にわたり改修工事が入っている。現在の校舎は1993(平成5)年から工事が始まり、創立90周年の1997(平成9)年に完成した。



水道橋上から撮った校舎の横側が写っている写真。三角の切妻のようなパラペットのためか、古典様式の建物にも見えるが、滝がかかっているような付け柱の壁面は表現主義を感じさせる。1988(昭和63)年10月10日(下も)

撮影時から20年経って水道橋交差点の景観はすっかり変わってしまった。当ブログには、後楽園GYMがあった西北側と木造2階建ての店舗が並んでいた西南側を記録してあるので、ついでに紹介しておく。
『後楽園GYM(2008.08.03)』

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いわしや。文京区本郷5-27。1988(昭和63)年2月21日

赤門ビルと法真寺への参道を挟んで建っていた。垂直の柱のような装飾を施した正面は横も同じだが、その横の部分が狭いので木造の建物かもしれない。横の壁面に「いわしや器械店」の文字がかすかに読める。株式会社いわしやは大正3年創業の医療器具・用品を製作販売する店。
現在は建替えられて、3階建てだが「赤門前岩田ビル」という。


1988(昭和63)年1月30日

上の写真でいわしやの右の黒いルーバーで覆われた建物は桑原博愛堂。やはり医療機器の商店で、看板の文字は「アモン医療機器 株式会社桑原博愛堂」。アーチ窓の塔屋が見える。『日本近代建築総覧』に記載があって「建築年=大正中期、構造=RC3、外壁タイル貼」。現在もまだ残っている。元のファサードを見せて欲しいものだ。

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赤門ビル。文京区本郷5-26。左:1988(昭和63)年2月21日、右:1988(昭和63)年1月30日

東京大学の赤門の向かい、本郷通りに面して建っていたビル。『日本近代建築総覧』には「建築年=昭和初期、構造=RC4、外壁煉瓦貼」。外壁が煉瓦貼だったとすると煉瓦風のタイルが貼ってあったのだろうか。正面の間口は小さいが、けっこう奥行きがある。
廃景録消えた近代建築』によると、2003(平成15)年5月に解体された。現在は1階がナチュラルローソンの「東大赤門前ビル」という3階建ての建物になっている。

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TS邸。神奈川県鎌倉市御成町9。1998(平成10)年5月16日

神奈川の近代建築>鎌倉市>TS邸』によると、「大正13年建築の木造平屋、ハーフティンバー風の飾り、モルタル掻き落としの仕上げ」の洋館。2005年に解体されたという。
御成小学校の校門の向かいという立地だが、小学校が建つ以前の御用邸だった時代から建っていた家である。もっとも御用邸が大震災で崩壊した後は、建物は再建されなかった。
現在建っている「鎌倉御成町マスターズハウス」(2007年2月竣工)はTS邸とその北にあった屋敷と合わせた敷地に建てたものだが、建設反対運動が出ないように外観のデザインなどにも考慮したらしい。「鎌倉近代美術館」(1951年)を設計した板倉準三が設立した「板倉建築研究所」が総合設計監修している。

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