ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:東京活字。千代田区神田淡路町1-4
1987(昭和62)年9月13日
左:八七市商店。1988(昭和63)年8月14日

上の写真右奥へいくとすぐ神田志乃多寿司の角で、外堀通りに出る。その角まで、5軒の震災復興期の木造の家が並んでいる。東京活字の建物は壁がタイル張り。わりときれいに見えるのは近年の改装だからかもしれない。隣はしもた屋のようだ。
「花わ八七市店」の看板の店は慶弔贈花を主に商売しているようだが、『日本近代建築総覧』に「花市花店、建築年=昭和初期、構造=木造2階建、銅板張」の記載で載っている建物。江戸東京たてもの園に移築されて、やはり近所にあった 武居三省堂と並んで展示されている。その名称は「花市生花店」で、この表記が元のものだとすると「八七市」は花輪店になってからのものだろうか。看板に「創業七十八年」とあるから明治40年頃の創業らしい。
八七市の隣は銅板張看板建築といっていいようだが、1階の上に瓦屋根の庇が出ている。飲食店のような造りに見えるが、昭和30年頃の火保図では「○○軒(印刷の関係で字が読めない)」だから中華料理だろうか。『 都市俳諧blog>淡路町交差点そば(2007.04.25)』によると、住宅地図に「志のだ寿司」となっていたそうなので、神田志乃多寿司が取得していたらしい。

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大野質店。千代田区神田淡路町2-2。1987(昭和62)年2月1日

写真左のビルが外堀通りに面している神田志乃多寿司のビル。つまり写真の建物は志乃多寿司の裏手にあったもので、現在、白泉社のビルになっている場所である。白泉社は漫画を中心とした出版社で、年配者にはほとんど縁のない会社である。ぼくも今回初めて知った。白泉社ビルは1997年の完成らしい。
大野質店の建物は蔵造風にもみえるちょっと変わった建物だ。角に銅板の細工を施した壁のベランダがあり、建物の横は看板建築のようにしてなんとなく洋風。



左:旧三洋、上:きびや商店
1987(昭和62)8月31日

大野質店の隣の3階建ての洋館に見える建物は住居になっているようだが、昭和30年頃の火保図では「KK三洋」となっている家。洋風にした看板建築だと思うが、正面のデザインとその造りが凝っている。
その隣はきびや商店で二輪専門店。HONDAの看板で家の2・3階部分の正面が隠れてしまっている。1階の上部には細かいレリーフが見られるのだが、色からすると銅板らしい。プレスして模様を浮き上がらせたのだろうか?
きびやの隣は神田志乃多寿司。いなり寿司で有名な老舗である。この店がビルになる前の写真が、外堀通りの志乃多寿司の並びにある、これまた有名な 近江屋洋菓子店のHPの「歴史」に載っている。昭和30年より以前の時期に見える。この写真ではきびやは「丸米の自転車」の看板をあげている。1階欄間の看板はその当時からのものが残っていたのだろうか。

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マサミ産業。千代田区神田淡路町2-4
上:1987(昭和62)年2月1日
左:1989(平成1)年3月12日

加島屋酒店のある五叉路で、写真右の道路が松栄亭の向かいになり、外堀通りへ出る。左の道も同様に外堀通りへ出て、三角形の頂点にあたる角だ。
マサミ産業は看板に「製菓機械製造販売」とある。建物はいくつもの会社や店が入ってきたようで、今は2階建ての、1階を車庫にした建物に替わった。昭和30年頃の火保図では「喜久家」という食堂だ。
上写真右の白っぽい看板建築は「松林舎クリーニング店」で、昭和30年頃にはすでにあった店だ。今でも同じ建物で営業を続けている。松林舎の先、その並びには昭和初期に建ったと思われる古い家が何軒か残っている。「市川屋」という、やはり昔の看板建築の建物で「荒物金物雑貨」の店がある。昭和30年頃の火保図には「広セ雑貨」で載っている。

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萬代家。千代田区神田淡路町2-7。1983(昭和58)年8月(2枚とも)

同和病院(今は特別養護老人ホーム「かんだ連雀」が建っている)の北に接していた旅館の萬代家(ばんだいや)。今は「第二萬代家ビル」に建て替わって、その1階で「割烹・萬代」として営業している。そのビルの竣工は1986年5月で、日本旅館の建物は1985年7月には取り壊されて間組によるビルの建設工事が始まっていた。
萬代の創業は1877(明治10)年だとネットには出てくる。それ以外の情報は探せなかった。創業時が旅館だったのか料理屋だったのか待合のようなものだったのか、不明である。写真では主に料理屋として営業しているような感じだが、「旅館」の看板も出している。戦前は万世橋駅のすぐ前で、市電のターミナルのように言われた須田町もすぐ横手という繁華街で、この辺りには食べ物屋と共に旅館も多くあったようである。
『東京案内記』(木村毅編、黄土社書店、昭和26年、280円)の「旅館一覧」に「万代家、部屋数:和室26、収容人数:50人、一般料金:800円」と掲載されている。萬代家の裏の路地の向かい側(神田淡路町2-6)にあった2軒の旅館も載っている。「大黒屋、和1・洋5、35人、800円」「佐々喜、和1・洋7室、50人、950円」。この2軒は、1986年の住宅地図では「聚楽大黒寮」と「東京グリーンホテル」。東京グリーンホテル淡路町は『庭のホテル』によると、1938(昭和13)年に開業した旅館佐々喜が1970(昭和45)年にホテルを新築して改名したものだ。



萬代家の裏手

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同和病院。千代田区神田淡路町2-8。1986(昭和61)年12月30日

『日本近代建築総覧』には「同和病院(旧東京医師会館)、建築年=1929(昭和4)年、構造=RC5階建、施工=大倉土木」で、戦前は東京医師会館だった建物。
以下、『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編、読売新聞社発行、1991年、2000円)による。
建て主は東京医師建築信用購買利用組合で、この組合は大正13年に125人の医師が参加して設立された。『保険・相続・税金2000年度コラム/ある男の不幸』というサイトには「関東大震災後の病院復興を目的として東京都衛生局の主導で設立された」とある。組合の目的は医師の貯蓄や診療所建設資の融資、資材の販売などで、建物は社交クラブであるだけでなく、組合業務をここで行った。一階の事務室は金融機関そのもので、地下には巨大な貸金庫がいくつも残っている。4・5階は一部吹き抜けで、700人収容のホールである。
組合は戦時中に強制解散となり、戦後は連合軍に接収されたのち、昭和24年に同和病院が建物を引き継いだ。
それから約50年が経過し、1998年12月に同和病院は明和病院と改称して神田須田町1-18に新病院を建てて移った。『 廃景録>消えた近代建築>同和病院』によると、解体されたのは1998年暮れである。



左:1987(昭和62)年9月13日、右:1987(昭和62)年

同和病院には小川三知(おがわさんち)によるステンドグラスが施された。ネット上では『収蔵庫・壱號館>同和病院』でその写真を見ることができる。また、東京医師会館は小川三知の実弟である小川剣三郎が設立したという。
不忍池の南、台東区上野2丁目に黒沢ビルという建築ファンには知られた建物がある。1階には小川眼科医院が入っているが、これが小川剣三郎が開業した医院である。黒沢ビルは元は小川眼科病院として昭和6年に建ったものだ。このビルも小川三知のステンドグラスが有名である。



左:1983(昭和58)年8月、右:1986(昭和61)年12月30日

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加島屋酒店。千代田区神田淡路町2-8。1983(昭和58)年8月

靖国通りから北へ入る横丁と外堀通りから東へ入る横丁が交わる五叉路の角。銅板貼りの看板建築の酒屋、それを囲むような後ろの古いビルは昭和4年に建った同和病院、さらに奥に見えている入母屋造りの屋根は旅館の萬代家。
1986年に撮った下の写真では、加島屋は正面を改装してしまっている。コンビニ風にしたほうが客が入りやすいと思ったのかもしれない。確かにそういう傾向はありそうだ。
現在では加島屋と同和病院の一角は「かんだ連雀」という特別養護老人ホームのビルに替わって、加島屋は向かい側の角にビルを建てて移った。同和病院の跡地を千代田区が買い取って特別養護老人ホームを建て、多摩同胞会という社会福祉法人に運営を任せているらしい。かんだ連雀の開設は2004年4月。同和病院は2000年頃に取り壊されたのではないかと思う。そう古い話ではない。



1986(昭和61)年6月22日


松栄亭
1988(昭和63)年8月14日

旧連雀町には古くからある料理屋の老舗が多くあるところで、松栄亭もその一つに数えられている。創業は1907(明治40)年。写真の店舗ではとても有名店には見えない。ただの下町の洋食屋で、パイプの椅子にかけさせられるような感じすらある。それが評判を聞けば、そういう店舗だからこそ味に期待がもてるということになる。
建物は二軒長屋のようで、屋根の上の看板は増築した三階の壁である。
現在は写真左の同和病院の位置にずれたが、ビルに建て替わってますます盛業中だ。

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パチンコ・ラタン。神奈川県横浜市中区福富町東通。1988(昭和63)年8月6日

福富町は歓楽街で、特殊浴場(ソープランド)が多いが、また普通の飲食店も多い地区だという。伊勢佐木町に隣接する福富町東通はまだ歓楽街という感じは薄いようだ。今は伊勢佐木町のほうが福富町化してきている、と言えるかもしれない。福富町がどんな感じの町なのかは、『 はまれぽ.com>横浜のここが気になる(福富町)』や『 東京DEEP案内>福富町(1)(2)』がとても参考になる。
写真のパチンコ店は、地図では「第11末廣ビル」。写真右奥に松坂屋本館と別館をつなぐ連絡橋がみえる。ストリートビューでは空き家で、テナント募集の張り紙が出ている。現在はどうなっているのだろう?

下の写真は第11末廣ビルの向かいにある雑居ビルで、地図には「イセフクビル県公社福富町共同住宅」とある建物。戦後の復興期の建築で、横浜市が指導して建てられたRC4階建ての共同ビルの一つのようにみえるが、「県公社」というのはなんのことだろう?


イセフクビル
2009(平成21)年4月5日

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キヨビル。神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-76。1988(昭和63)年8月6日

イセザキモールの街並みの代表的なひとつで、4階建ての小さなビルが並んでいる。戦後の進駐軍による接収が解除された後の、1960年前後に建ったものだと思う。ビルのテナントは替わったが写っている建物は今もそのままだ。
1階角の「コージツ」は1963(昭和38)年に創業した好日山荘が1985(昭和60)年に社名を変更した登山・スキー用品の店。その伊勢佐木町店といったのだろうか、いつからいつまであったのかは知らない。現在は「オンディーヌ」という婦人靴専門に替わっている。
下の写真、平山ビルの右のビルは中華料理の「榮濱櫻」が入っているが、現在は回転ずしの店に替わった。


平山ビル
2003(平成15)年2月8日

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山口ビル。神奈川県横浜市中区末広町2-4。2003(平成15)年2月8日

地図に「山口ビル」とある建物で、イセザキモールに向いた中村ビルの裏側にある。「餃子の店、北京料理・萬里」、「珈琲館・きゃんどる」、路地奥の店は「洋食レストラン・横浜亭」。横浜亭は、中村ビルを撮った写真から、2002年では「居酒屋・あじろ」という店だった。
2階建てだから木造のようにも見えるが、屋上があり、角の入り口の造りをみるとRC造のようにも見える。また、横浜亭は地下室にある。引っ込んだ入り口とタイル張りの柱と壁の具合は、普通のビルを見るような気がする。戦後まもなく、不燃性を意識してRC造にした建物という可能性が高いのだろうが、どうも気になる建物である。



近影。萬里が居酒屋の「たまや」に替わっている。入り口部分が改装されてタイル張りが隠されてしまった。2009(平成21)年4月5日

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中村ビル。神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-4
左:1988(昭和63)年8月6日、右:2003(平成15)年2月8日

イセザキモールにある古そうなビル。『日本近代建築総覧』に載っているが「建築年=昭和、構造=RC4階建て」としか記載がない。このビルの周辺には横浜松坂屋、エクセル伊勢佐木、不二家ビルといった戦前に建てられたビルが残っている(横浜松坂屋は建て替わった)ので、このビルも戦前に建ったものとみてよさそうである。
1階角の「Hamaya」というたばこ屋が今も変わっていない。もしかして大家だろうか。1988年の写真ではビルの裏手にある「イセザキドラッグ」がいつからか表通りの左側に入り、2002年まであった。現在は2003年の写真にある「あかしげ薬局(男女精力剤専門店)」に替わっている。

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