ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




山田歯科医院。千代田区神田須田町1-17
左:1987(昭和62)年8月31日。右:1989(平成1)年3月12日

竹むらの並びにある昭和初期に建てられた歯科医院とその住居と思われる。下の写真が現在の様子で、壁を塗り替えたり、柱や梁にあたるところのタイルが張り替えられたりしている。この改装は建築時の姿に近づけようとしてのことらしい。
東京DOWNTOWN STREET>神田須田町一、神田淡路町二~その二』に山田歯科医院が取り上げられている。それによると、正面は統一されたデザインだが、2棟の家からなるものだという。そのブログでも紹介されている『山田歯科医院』の「ギャラリー」には1953年撮影の医院の写真があって、分かりやすい。
医院と住居にはそれぞれ3階部分があるが、医院のほうは切妻屋根の妻側の正面に3階部分の壁と窓を立ち上げてあり、その後ろに屋根裏部屋があるだけのようだ。住居のほうは前面にベランダがあって、後方の3階部分はちゃんとしたもので、3階の上に寄棟屋根を載せている。



近影。2008(平成20)年3月18日

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いせ源。千代田区神田須田町1-11。1987(昭和62)年9月13日

有名なあんこう料理の店。創業は1830(天保1)年で、大正元年にあんこう専門店に転向したという。建物は1932(昭和7)年に建った入母屋造り風の一部3階建ての日本家屋。内部の造りが凝っていて、「2階の欄干に施された、菱形模様の彫り」とか障子の飾りなどが見どころらしい。「都選定歴史的建造物」(2001年選定)である。
路地の横手には新館のビルが建ったりしているのだが、建物の角から見る外観は今もまったく変わっていない。玄関上の2枚の看板が修復されたのと、それを照らす円錐形の傘の電燈が替えられたくらいだ。




上:竹むら。神田須田町1-19
1983(昭和58)年8月
左:中よし。2003(平成15)年3月23日

竹むらは1930(昭和5)年開業のお汁粉屋。建物も同年の建築で、正面に入母屋造り2階建てで店舗を、後ろに3階建ての住居を建てたものらしい。1・2階に屋根のような庇が出ている。やはり「都選定歴史的建造物」(2001年選定)である。
竹むらの隣はふぐ料理の「中よし」。現在は「パークウェル御茶ノ水」(2006年8月竣工)というマンションに替わったが、中よしは同じ位置で営業している。

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三井倉庫。江東区佐賀2-9。2003(平成15)年5月4日(6枚とも)

江東区佐賀2丁目は仙台堀川、大島川西支川、油掘川そして隅田川に囲まれた地域である。その中央を隅田川から入ってクランク状に流れて大島川西支川に合流する中ノ堀が地域を二分している。ほぼ倉庫が立ち並んでいて、佐賀稲荷のある辺りに住居や商店が固まっていた。といったところが昭和40年までの状態で、現在は油堀川が埋め立てられ、中ノ堀と仙台堀川の隅田川河口が埋められた。しかしまだけっこう水路が残っているともいえる。
写真左手前は松永橋交差点。左へすぐ大島川西支川に架かる松永橋、右奥が隅田川の方向。写真の倉庫は見るからに古そうで、昭和22年の航空写真にも写っているので、戦前からあるものと思える。倉庫の後ろは中ノ堀が鍵型に囲っている。
現在は三井倉庫が建てた「MSC深川ビル2号館」(2008年12月竣工)という倉庫兼オフィスビルに替わった。



三井倉庫。佐賀2-9

1枚目の写真と同じ倉庫。中ノ堀が大島川西支川に合流するところに架かる豊島橋から撮っている。道路沿いに2棟、縦に並んでいる。それと並行に同じ形の倉庫が4棟並んでいたのが、左写真の倉庫。元は道路沿いにも4棟が並んでいた。




三井倉庫。佐賀2-8

左上の写真は隅田川沿いの道路と豊島橋の道路の間にある道路から南方向を撮っている。「仲1」倉庫は隅切りされているので形がおかしい。昭和22年の航空写真を見ると、写真の倉庫は屋根が焼け落ちた状態のように見える。
現在は地図には「三井倉庫」となっているがオフィスビルにもなっているらしいビルに建て替わっている。
左下写真が中ノ堀。右に写っている倉庫が上写真の倉庫の裏側である。中ノ堀は奥で左に曲がっている。隅田川から写真のところまで埋め立てられのが1966(昭和41)年。1990年頃まで川跡には建物がなかったので、それと推定しやすかったようだ。

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上:下見板看板建築。江東区佐賀1-13
1991(平成3)年11月10日
左:いながき商店。佐賀1-11
1989(昭和64)年1月1日

上写真は当ブログ前回の写真と同じ横丁を東へいった次のブロック。下見板の看板建築とモルタル仕上げの看板建築の二軒長屋である。かつてはこの2棟の後ろに長屋(たぶん四軒長屋)が2棟あったようだ。後ろのビルは倉庫があった跡に建てられたマンション。
下見板の看板建築といのはあまり例がないが、近年の改修によるものとも思える。現在は2棟とも取り壊されて駐車場にしている。
「いながき」は大島川西支川の御船橋の通りで、今も健在。隅田川沿いの通りから入ってすぐのところだ。食品店だろうか。2002年に撮った写真では「いながき」の文字は塗りつぶしてしまっていて、自販機を置いているだけかもしれない。

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民家。江東区佐賀1-12。1991(平成3)年11月10日

隅田川沿いの通りから佐賀町公園に突き当たる横丁に入ったところ。左の家が通りに面した二軒長屋の店舗。現在は3軒ともなくなって、駐車場(三井のリパーク)になっている。
下の写真は1枚目写真の右の家の隣。狭いながらも庭があり、板塀をめぐらした一戸建て住宅。現在、この家の敷地に小さなビルが2棟建っている。土地を半分売って、その資金でビルを建てたのかもしれない。深川のこの場所なら、銀行から借りて大きいビルを建てるよりも得策だったかもしれない。
この辺りの昭和22年航空写真では、空襲の焼失を免れた家屋の黒い瓦屋根、油堀川(現在は埋められて道路に)沿いの倉庫、佐賀町公園になった掘割などが見える。


板塀の住宅。佐賀1-12。1991(平成3)年11月10日

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旧下ノ橋たもと。江東区佐賀1-12。1989(平成1)年4月30日

佐賀1丁目と佐賀2丁目の間の、上を首都高9号深川線が走る道路は油掘川を埋め立てて造ったものだ。油掘川の隅田川河口に下ノ橋が架かっていた。写真はその橋の南のたもとになる場所から南東方向を撮ったもの。古い家が写っているが、戦前から建っているものと思える。交差点角の家はなくなっている。
現在は角に「深川タイヤ商会」の2階建ての家が建ち、右の看板建築の家は「深田商会」の4階建て事務所兼住宅に替わった。左の、正面がトタン張りの家は住宅に建て替わった。それ以外の家は今もまだ残っている。




日本救命器具。佐賀1-1
上左:1991(平成3)年11月11日
上右:1989(昭和64)年1月3日
左:2000(平成12)年2月19日

佐賀1丁目の隅田川沿いには、昭和50年頃までは、雑穀、肥料、油類を扱う小さな商社や事務所が並んでいたらしい。今はオフィスビルやマンションに替わってきている。「日本救命器具」の看板の家は、戦前に建てた洋風の事務所だろうか。2000年の写真では、隣の倉庫が改造されて「手打ちうどん・さぬき」になっている。現在は、たぶんマンションに建て替わったと思う。

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特許庁。千代田区霞が関3-4。1986(昭和61)年7月27日(5枚とも)

新聞で「特許庁が取り壊しに」という記事を見て、わざわざ出かけて撮影してきた。すでに業務は行われてはいないようで、敷地の西側から正面にかけて工事用のフェンスで囲まれていた。写真を撮っているおじさんがぼくの他に一人だけいた。
建てられた当時の特許庁は、商工省の外局で「特許局」だった。住所は東京市麹町区三年町一番地だったから、建物も「三年町庁舎」と呼ばれていたという(「特許庁写真集」)。1949(昭和24)年に通商産業省が設置されてその外局となり、特許庁となった。特許局が写真の新庁舎に移ったのは1934(昭和9)年8月27日。商工省の他の部局も一緒だったのかもしれない。昭和22年の地図では「特許標準局、石炭省」の記載がある。
『日本近代建築総覧』では「特許庁、建設年=昭和9年、構造=RC4、設計=大蔵省営繕管財局、施工=安藤組」。平面は中庭が二つある「日」の字形。外観はスクラッチタイルを張った、これという特徴もないような、官庁建築といったらいいだろうか。玄関上部にテラコッタの装飾を置いているのは、同時期に建った自治省(旧内務省)や文部省と同じで、外観も似ているような、そうでもないような……。







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さたけ、あけぼの商会。台東区台東3-1。2008(平成20)年3月1日

清洲橋通りの佐竹通り南口交差点のそばで、写真の二軒長屋の裏は佐竹商店街。現在も建物は残っていて、看板もそのまま。ただし営業しているかどうか。
下の写真はビルを1棟おいた並びで、銅板貼りの二軒長屋と右のマッサージの看板の家は今もそのまま。屋根の形が異なるが、あけぼの商会の長屋を各戸1間づつ縮めただけ、といったようなよく似た外観である。長屋は撮影時のときもすでに空き家のような状態だ。今は写真左の松下第三ビルとその裏側の佐竹商店街の商店が取り壊されてTimesの駐車場になっている。取り壊された商店街の店は、どんな店だかは知らないが「ようらん、小松屋、富士長」と思われる。


二軒長屋。台東3-1。2008(平成20)年3月1日



白秋。台東3-2。1987(昭和62)年3月8日

佐竹商店街の南口の近く。写真右の中華料理の「白秋」は、1986年の住宅地図では「カミヤ」なので、開店して間もないのだろう。その並びは「ハッピー堂」「割烹玄海」。写真左は「山下陶器店」「トラヤ文具店」など。
写真ではまずまずの賑わいだが、商店街のこの辺りは、現在はかなりひどい有様で商店街の体をほとんどなしていない。ビルに建て替わっているのはいいが、建物が取り壊されていたり、シャッターを下ろしてだいぶ経つような店が目立つ。

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左:あとう(仏壇)。台東区台東3-27。2008(平成20)年3月1日
右:スクラッチタイル張りの蔵。台東3-30。1989(平成1)年1月29日

「あとう」は佐竹商店街にある、仏壇の制作をしている店。写真は横の路地から撮ったもの。佐竹商店街とその周辺は空襲での焼失を免れているので、ぼくは古そうに見える建物は、戦前に建ったものと考えている。あとうの建物はかなり改装されているが、タイル張りの壁や窓の庇、丸窓などから戦前に建てられたものではないだろうか。
右写真の蔵は、やはり商店街から横丁に出たところにある。写真右のナショナルの看板は、表側が佐竹商店街に向いた「ヨシダラーデン」という電気店で、戦前から続く店だ。その店の商店街側の隣は「吉田モスリン店」という看板の「吉田呉服店」。この2店は住宅地図ではまとめて「吉田商店」となっている。同族の経営によるものではないかと思う。その裏手の蔵が、吉田商店が使っていたものなのだろう。裾が石張り、壁がスクラッチタイルを張った、他には見たことがない造りである。「ヨシダラーデン」という妙な店名は、万世橋の「ラジオガァデン」を思い起こすが、出現したのはヨシダラーデンのほうがよほど古い。『 佐竹商店街』の「佐竹界隈・昔の写真展」の「戦前の売出し案内」に「ラヂオと電気器具―ヨシダ・ラーデン」の広告が載っている。



左:石原装美。台東3-32。1989(平成1)年1月29日
右:カメラのサン。台東3-32。2008(平成20)年3月1日

石原装美は竹町公園の向かい側にあった。今は9階建てのマンションに変わっている。
「カメラのサン」は石原装美と同じ通りの並び。一昔前のグラフィックな装飾がだいぶ痛んできている。「フジカラー」や「DPE」の文字からすると、デジカメやそのプリントは扱っていないようだ。

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上左:三階建て看板建築。台東区台東3-4
   1989(平成1)年2月12日
上右:二軒長屋。台東3-4。1989(平成1)年1月29日
左:ダイヤ。台東3-3。1988(昭和63)年4月10日

「徒竹町大通」の佐竹商店街に近い辺りから北へ入ったところ。上左写真の銅板貼りの家は堂々の3階建てで、その右の家も、元は銅板貼りだったのだろう、やはり3階建て。現在は左の家の左半分がビルに建て替わっているから、二軒長屋形式だったと思われる。あるいは、2棟に見えるが合わせて四軒長屋?
上右写真は左上写真の右手すぐの並び。木造二軒長屋を含めて今も変わっていない。ぼけた写真を出さずに撮りなおしてくればいいのだが、億劫である。
左写真の家は上右写真の向かい側にあった。住宅地図では「ダイヤ」となっている。正面からの写真を撮っていなかった。現在は4階建てのビルに替わった。


看板建築四軒長屋
台東3-24。1989(平成1)年1月29日

上の3枚の写真の場所から北へいったところで、現在も、写真右の長屋のうち、路地の角の1軒が取り壊されたくらいで、あまり変わっていない。長屋の左隣に長屋と同じような洋風のデザインの看板建築があり、向かい側にも5・6軒の古い家が並んで残っている。

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