ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




明治大学記念館。千代田区神田駿河台1-1。1987(昭和60)年1月1日

正面を東へ向けているので、午前中なら日が当たっている状態で撮れたわけだが、そのうちにと思っている間に建て替わってしまった。門の脇に「1号館」と書かれた表札がある。住宅地図を見ると、1号館は建物右翼(向かって左)のことで、その後ろに「体育館」とある。中央のドームがある部分が「大学本部」となっているが、普通はここが「記念館」、その後ろに「図書館」、左翼が「2号館」、その後ろが「短期大学3号館」となっている。
『日本近代建築総覧』には「明治大学、建築年=1932(昭和7)年、構造=RC+SRC4階建、設計=大森茂、施工=清水組、戸田組、大倉土木、大林組」だが、一般には1928(昭和3)年の竣工である。昭和3年には一応完成して使い始め、後方ではまだ工事が続いいていた、ということだろうか。
「グレコ・ローマン・奈良平安式」という建築様式だという〈記念館おわかれコンサート・プログラム〉。ぼくの語彙にはなかった言葉でよく分からないが、古代ローマ帝国のような建築様式に和風な要素を入れたらしい。外観から受ける感じは、なんだか要塞のように重々しい。ぼくの知っている明大を出た人達はかなり軽い感じがするのだが、それは関係ないか。また、どこが和洋折衷なのか、外からでは分からない。



明治大学1号館。1985(昭和60)年2月24日

手前の建物は、1977年の住宅地図で「駿河台給油KK(丸善石油スタンド)、メンズウエアクニイ、斉藤洋服店」。1986年9月には現在の「第二龍名館ビル」が建ってしまう。

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神田女学園。千代田区猿楽町2-3
左:1987(昭和62)年1月4日
上:1990(平成2)年5月6日

JR水道橋駅の近くにある私立の中高一貫女子校。校舎は2008年に建て替り、写真はその旧校舎である。『日本近代建築総覧』では「神田女学園、建築年=1935(昭和10)年、構造=RC3階建、施工=竹田組」。
神田女学園は〈ウィキペディア〉によると、1890(明治23)年、神田猿楽町に神田高等女学校として創立された。明治期の校舎は神田橋、神田仲町、神田花房町にも建てられているから、創業地が今の地かどうか分からない。現在の校名は1950(昭和25)年から。
写真の校舎は4階が違和感なく収まっているが増築である。そういえば建て替えられた7階建ての校舎も、うっかりすると昔のままの校舎のように感じられてしまうほど巧みな造りである。
都市徘徊blog>神田女学院〉に解体前の2005年に撮られた素晴らしい写真が載っている。この写真は神田女学園が制作したらしい動画〈神田女学園中学校高等学校の歴史〉にでてくる「旧校舎」の写真のようだ。


You Tube〈神田女学園中学校高等学校の歴史〉より
左:「猿楽町校舎(1935年~2006年)」、右:「猿楽町校舎(1945年11月)」

神田の猿楽町、神保町一丁目、三崎町などが焼けたのは昭和20年4月13日夜半から14日にかけての空襲のときだったようだ。神田女学園の向かいにあるカトリック神田教会の聖堂には火が入らなかったという。

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左:ナンバーナイン。墨田区墨田3-2。2013(平成25)年4月5日
右:『東京 懐かしの街角』より

東武伊勢崎線(現スカイツリーライン)東向島駅から高架の線路に沿って北へ、大正通り-いろは通りを超えて日の丸クリーニング店の横から1本東の裏通りに入る。その南北の通りは戦後にできたカフェー街(新玉の井)のひとつで、「花園通り」といった―『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)―。通りというより路地に近い道幅で、北へいくと東武線とは離れていき、隅田湯に突き当たる。その左右は東京大空襲での延焼を免れたと思われる範囲に含まれる。通りの名称は「玉の井カフェー組合」が付けたのだろうか? また、どのくらい通用したのか不明である。
上の写真の家はもちろん今は住宅だが、「ナンバーナイン」は既出の本の「昭和28年頃のカフェー街」にあった店名。はっきりとカフェーだったと判る、今や貴重な1棟である。白く塗りつぶされているが、飾りの柱にはタイルが張られている。昔の航空写真を見ると戦前から建っていた家とも考えられ、外観は戦後にカフェーとして使うために改修したものと思える。
右上の写真は『東京 懐かしの街角』(加藤峯夫、河出書房新社、2001年、2500円)からお借りした写真。「昭和43年8月●墨田区墨田3-2/玉ノ井」のキャプションがある。赤線が廃止されて10年後の写真だ。花園通りの南の始点に近い辺りから北を撮っている。写真中央の「荒木革漉所」がナンバーナインの隣で、その看板の後ろの四角い建物が、今でも「アムール」として営業している店の建物。カフェーだった店がバーなどに転業している。



らむーる。墨田3-2。2013(平成25)年4月5日

コメントに寄せられた情報によると、ラムールは『東京 懐かしの街角』の写真のプランタンの手前で営業していたが、昭和29年頃に現在地に移ったという。建物はそのときに建てたものかもしれない。その昭和43年の写真では「アリスバー/ラムール」の看板が写っている。

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民家、スナック・のり子。墨田区墨田3-4。2013(平成25)年4月5日

『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、2010年、2800円)によると、昭和20年3月10日の東京大空襲では火が南の本所の方から北へ伸びてきたが、いろは通りで延焼が止まったという。昭和22年の航空写真を見ると、いろは通りの西側に焼け残ったように見える地区がある。また、当書では「…玉の井館、啓運閣よりも北側…」「…現在の隅田湯よりも南側…」は残ったとしている。
当記事の写真の家は、いろは通りにあった「グルメシティ東向島店」(戦前の寄席「玉の井館」、戦後は昭和45年頃まで映画館「玉の井大映」、最近、マンションに建て替わった)の裏手にある家で、空襲での延焼を免れた建物、としてもよさそうなものだ。



アパート。墨田3-4。2008(平成20)年12月6日

1枚目写真の左奥に見えている家。正面は出桁造りのような形だが、そんな立派な構造ではないようだ。2階建ての部分の後ろに平屋がくっついて、何世帯かで使っているようなのでアパートなのだろう。正面にはドアが2個並んでいる。

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こみや婦人子供服店
墨田区墨田3-9
2013(平成25)年4月5日

玉の井いろは通りの鐘ヶ淵通りに近い辺り。こみやの建物は戦前の看板建築かと思わせるが、この辺りは空襲で焼き払われたと思われるので、戦後の建築だ。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、2010年、2800円)の「昭和28年頃の玉ノ井界わいの住宅地図」には、「マスヤ洋品」で載っているが、同じ店だろうか? 昭和の洋品店の商品展示のやりかたはどこも似ている。商品はみんなパッケージから出して広げてしまうようだ。見本として見せているようではない。
こみやと横町を挟んで並んでいる松永寝具店は、業種からして古そうな店で、戦後すぐに創業したか再開した店のように思える。赤線があった時代は繁盛しただろうと容易に想像できる。



松永寝具店。墨田3-42。2013(平成25)年4月5日

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加藤陶器店、益・々
墨田区墨田3-5
2009(平成21)年3月29日

玉の井いろは通りは完成時には大正通りとよばれた。現在も墨堤通りの白髭橋東詰交差点のすぐ北から東へ向かい、東武伊勢崎線(現東武スカイツリーライン)のガードを潜っていろは通りに接続する通りが大正通りだが、完成時にはその大正通りの東半分だったわけだ。西の半分は大正4年に竣工し、その後大正7・8年に鐘ヶ淵通りまでが完成した。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、2010年、2800円)によると、昭和27年に現在のいろは通りに商店会が結成され、その名称を「玉の井・いろは通り商店会」としたために通りの名称もそれにならって変更したという。
写真は玉の井いろは通りの西の起点に近い辺り。写真右奥のビルの右にY字路の角の交番がある。瓦屋根の2軒は戦後すぐに建てられたものではないかと思う。その当時は加藤陶器店、中屋酒店、荻原硝子店と並んでいた。
写真では中屋酒店だった家は1階にカラオケ喫茶「益・々」、2階に韓国家庭料理の居酒屋「どんどん」が入っている。写真では判らないが、「益・々」のテントには以前の店だったらしい「歌え!BanBan」の文字が読める。今、ストリートビューを見ると、テントは白く塗りつぶされて「カラオケ喫茶・彩花」の看板が自販機の前に置いてある。2階に出ている「益・々」の袖看板はそのままだ。


リビングフルタ。墨田3-8
2008(平成20)年12月6日

いろは通りの中ほど。生活用品のフルタは1968年の地図では「古田金物店」である。写真左の平屋の家は『玉の井 色街の社会と暮らし』の昭和28年頃の地図に「橋本とんかつ屋」と出ている、その店舗だった建物らしい。間の路地を奥へいくと東清寺/玉の井稲荷がある。参道だった道かもしれない。

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グルメシティ東向島店。墨田区墨田3-6。2009(平成21)年3月29日

写真のスーパーマーケットは「玉の井いろは通り」にあった。わりと最近の写真だから今もそのままと思っていたが、2013年11月に取り壊されて、今はマンションに建て替わったらしい。グルメシティは東向島駅の向かいに移った。
いろは通りの建物は、以前は「玉の井映画劇場」だったが、元々は昭和の初め頃に建てられた「玉の井館」という寄席が戦火を免れて、スーパーとして使われてきたものである。『玉の井 色街の社会と暮らし』(日比恆明著、2010年、2800円)によると、昭和一桁の時代に「玉の井館」という寄席が建てられた。東京大空襲からの焼失を奇跡的に免れ、戦後すぐはゴム工場になったが、昭和22年に建物は転売されて映画館として再出発する。東映のチャンバラ映画を中心に上映したようである。映画館が斜陽になると、建物は再度転売されてスーパーマーケットになる。その年代は不明で、当書は昭和37~45年としている。1987年の地図では「青楓チェーン玉ノ井店」である。
『東京文学画帳』(小針美男、創林社、1978年、1600円)に「町の映画館(玉の井文映)」のペン画が載っている。「昭和34年5月18日」の日付で、建物の前の広場の右前に切符売り場の小屋がある。映画館の名前は「玉の井文映」としている。ネット上でもこの名前でいくつかのサイトを見受ける。
ぼくは玉の井周辺は空襲ですべて焼き払われたと思っていたから、映画館だった建物が昭和の初めに建てられたものだったと知って驚いている。Goo古地図の昭和22年の航空写真には確かに写っている。その北西に少し黒っぽく写っている家々も焼け残ったのだろう。


グルメシティ東向島店の裏側。2013(平成25)年4月5日

『玉の井 色街の社会と暮らし』の記述によれば、永井荷風も当時「玉の井館」だった写真の建物を見ていることになる。「寺じまの記」(昭和11年)は、浅草雷門からバスに乗って玉の井に出かけ、一軒のカフェーに上り込んで女と話をしてくる顛末を書いている。
荷風が乗ったバスは墨堤通りから大正通りに出て東武電車の踏切を超えると「劇場(向島劇場、活動小屋)前」で、荷風は次の「玉の井車庫前」で降りる。現在は東武電車のガードをくぐるといろは通りに変わる。荷風は車から降りて先の商店街を観察し、左側の玉の井館という寄席を見る。「その隣に常夜燈と書いた灯りを両側に立て連ね、斜めに路地の奥深く、南妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって…」と書いた日蓮宗啓運閣と祠は今も同じ位置にある。荷風は向かいの車庫のはずれに「ぬけられます」と横に書いた灯りを見てその下を潜っていく。

追記(2015.09.30、2022.09.01訂正)
いつも貴重な情報を提供していただいているキューピーさんから、寄席の玉の井館と戦後に映画館になってからの変遷について、以下のように教えていただいた。
寄席の玉の井館は、大正12年頃の東京市にあった興業所のリストにすでに載っている。
戦後、「玉の井映画劇場」の開館が昭和24年の大晦日。それが倒産して昭和26年には「玉の井文化劇場」に。それが後に東映のチェーンに入って「玉の井東映」。昭和41年に閉館した。それを近所で柔道場を開いていた青山という人が買収してスーパーを始めた。その「スーパー青楓」は後にダイエーに買収されて、いつからか店名も「グルメシティ」になった。


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井筒商会。中央区日本橋小網町12。1987(昭和62)年5月24日

新大橋通りの蛎殻町交差点から鎧橋に向かってすぐの、小網町郵便局の横を入ったところ。現在は、白い3階建てのビルの井筒商会から通りの角までが「日本橋小網町ビル」(1993年竣工、9階建)というオフィスビルに建て替わっている。
写真で井筒商会の右は、1986年の地図で、しもた屋、小林金物店、魚射商事
井筒商会は戦前の火保図に載っている。ビルも戦前に建てられたもののようだ。


桃乳舎。日本橋小網町13
1985(昭和60)年6月7日

1枚目写真のところから左へいったところに今も同じ建物で営業している洋食屋。実に状態のいい看板建築である。『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁地域教育支援部管理課編集、2009年)によると、桃乳舎は明治37年(1904)にミルクホールとして創業。写真の建物は昭和2年(1927)に建てられた。外観はスクラッチタイル貼りの外壁、2階の窓を洋風の柱やアーチ、バルコニー風の手すりが囲んでいる。上部中央の桃のレリーフが目を引く。

桃乳舎の右は鳳林堂という文具店。今、ストリートビューを見ると取り壊されて空地になっている。取り壊された店舗は改修されて特に見るべきものはなかったが、昭和初期の看板建築のようだった。
日本橋“町”物語>日本橋小網町』に、「大正6年の小網町」の店を列挙したなかに「スワン万年筆の鳳林堂」が上がっているが、その店かもしれない。

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廣屋。中央区日本橋小網町2。1987(昭和62)年2月1日

「廣屋は地廻り塩も扱い、かつ醤油問屋の大店で、箱崎橋北詰の行徳河岸の角地にあった。元禄期に銚子でヤマサ醤油の醸造を始めた廣屋儀兵衛店が、原料の塩の確保と醤油の販売を目的に、享保の頃、廣屋吉右衛門に小網町で店を開かせたのに始まるという」(『日本橋小網町街並み商業史覚書』白石隆、2003年2月)。廣屋は屋号で姓は「浜口」。
廣屋は江戸時代から小網町に店を持った醤油問屋の大手で、最近まで酒類などの食品卸を中心に営業してきた会社である。廣屋の左のビルはヒゲタビルで、ヒゲタ醤油の本社である。銚子に工場がある会社で、ヤマサ醤油とは同族。
写真の駐車場は箱崎川(現在は埋め立てられて駐車場など。上を首都高6号線が走る)沿いの道路との角で、その道路が江戸明治期の行徳河岸である。行徳からの塩を陸揚げしていた場所だ。そちらに曲がらず写真右へ行けば箱崎橋。下の写真がわかりやすい。『中央区立図書館>地域資料室』から無断でお借りした。

上左写真は「新川一の9番地から鎧河岸を見る」のタイトルで京橋図書館が昭和32(1957)年に撮影した写真。手前は日本橋川で箱崎川が合流するところに箱崎橋がかかっている。日本橋川の鎧橋から箱崎川までが鎧河岸である。写真中央の建物は日本橋清掃事務所、その右に廣屋のビル。鎧河岸沿いの3棟の倉庫は廣屋の倉庫だ。
上右写真は「日本橋川と箱崎川との合流地点」で、京橋図書館が昭和43(1968)年5月に撮影した写真。左写真から10年後だが、ほとんど同じ光景だ。廣屋のビルが変わったように見えるのは4階を増築したため。

廣屋は2006年にK&Kの国分に買収されてその傘下に入った。国分も江戸時代に醤油の卸業者として始まり、廣屋と競ってきたようである。現在、廣屋のビルのあったところと日本橋川沿いの倉庫があったところにはマンションが建っている。

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醤油会館。中央区日本橋小網町3。2004(平成4)年1月1日

醤油会館の旧ビルが写っている写真だが、そのビルの左端がかけている残念な写真だ。キッコーマン東京支店があった四つ角の南側。撮影時ではキッコーマンビルはまだ建っている。1986年の住宅地図では角の2階建ての家はキッコーマンで、その左の燃料庫は中野燃料。すでにキッコーマンが隣接する土地を取得していたらしい。1979年の地図では角は岡村商店。昭和30年頃の火保図でも「岡村、中の炭S」で、コンクリート造3階建ての醤油会館も記載されている。醤油会館が3階建てだったとすると、4階は増築したのだろうか? 
建て替わった醤油会館(日本橋SOYICビル)は2008年3月の竣工で、角の家もそのビルに含まれてしまった。1・2階が醤油会館で3~7階は賃貸オフィス。

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