ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




赤木屋証券ビル。中央区日本橋2-7。2010(平成22)年5月8日

日本橋交差点から東南の方向を見た、再開発される前の街並み。写真左が永代通り、右が中央通り、右奥に日本橋高島屋が写っている。ここに永代通り沿いに「東京日本橋タワー」(35階地下4階、2015年4月竣工)と、その後ろに中央通りにも面して「日本橋高島屋三井ビルディング」(地上32階、地下5階)が来年6月には完成予定である。写真に写っているビルのほとんどが今はない。
それらのビルを『ビル図鑑』や、まだ残っている不動産サイトなどを参照して見ていく。写真左から、「東京大同生命ビル」(地上9階地下2階、1976年築)、「竹扇(ちくせん)ビル」(地上9階地下2階、1972年築)、「協立ビル」(地上7階地下2階、1963年2月築)、そして交差点角の「赤木屋証券ビル」で昭和63年6月竣工。「あかきや」と読むらしい。向かいにあった「白木屋」を意識した社名かもしれない。
中央通りへ回って、「日本橋交差点ビル」(地上9階地下1階、1971年1月築)、「日本橋東洋ビル」(地上9階地下2階、1969年12月築、1979年の地図では「三和銀行日本橋支店」が入居している)、「第二山本山ビル」(地上9階地下2階、1962年築)。


日本橋富士ビル。日本橋2-5
2007(平成19)年6月7日

1枚目写真の第二山本山ビルと高島屋の間である。地上8階 地下2階で1956年の竣工。写真右の横丁との角は写真では「みずほATMコーナー」。1979年の地図では日本橋富士ビルが「日本橋富士銀行ビル」で、富士銀行日本橋支店となっている。富士ビルの「富士」は富士銀行から来ていた。
写真右端にうなぎの「美国屋」のビルが写っている。


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武蔵。中央区日本橋2-5。左:1983(昭和58)年12月、右:2007(平成19)年4月22日

日本橋高島屋の北に姿を現してきた「日本橋高島屋三井ビルディング」(地上32階、地下5階)は来年6月には完成予定である。そのビルの住所は日本橋2丁目5・6番地になるが、その間に路地が南北に通っていた。写真はその路地の両側にあった飲食店などだ。戦後すぐに建てられた長屋風の仮建築がビルに建て替えられることなく、再開発が始まるまで残っていたらしい。飲み屋街というほどではなかったが、この辺りではちょっと異質な空間だった。

上左写真は路地の中から南の方を撮っている。正面奥が高島屋。上右写真は路地の北側の入り口。武蔵の路地を挟んだ向かいにカレーの店があって一度入ったことがある。
下左写真の「南ばん」は中華料理の店。下右写真は北の方向を撮っている。ドアの開いているのが「羅苧豆 (ローズ)」という喫茶店。


南ばん、羅苧豆。日本橋2-5・6。2013(平成25)年5月19日

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川口酒店。中央区日本橋2-9。1983(昭和58)年12月

昭和通りの裏、日本橋高島屋百貨店のそばにある、現在では穴子料理の『日本橋 玉ゐ』(2005年開店)になっている商家。伝統的な出桁造りの家だから戦前に建ったものだろうと決めつけていたが、昭和28年に建てられた酒屋である。建主に「酒屋とはこういうもの」という固定観念があったのか、あるいは以前の家に愛着があってそれを復元したのだろうか。『中央区>近代建築物調査>日本橋 玉ゐ 本店』でも「典型的町家の構えを良く残している。戦後、伝統的な町家様式で建てられた建築として興味深い」としている。
川口酒店の隣が「川口屋」という居酒屋だ。川口酒店との関係は判らないが、看板の「大関」「サッポロビール」が同じ。1986年の地図では「川口ビル」で、撮影後じきにビルに替わったようである。
写真左の3階建てのビルは「フタバビル」(1966年1月築)で現存する。

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久安橋。中央区日本橋3。1991(平成3)年9月15日(3枚とも)

久安橋(きゅうあんばし)は東京駅八重洲口から東へ、新川2丁目へ向かう八重洲通りの、首都高の上に架けられている橋。首都高はかつての楓川(もみじがわ)である。昭和5年に竣工した震災復興橋梁で、鉄筋コンクリート製の1スパンのアーチ橋。そもそも八重洲通りが今の幅に拡幅されたのが震災復興事業によるもので、久安橋から東の八丁堀、新川の部分は新設されたものだ。
1962(昭和37)年に楓川が埋め立てられ、首都高が開通すると久安橋のところに室町ランプが設けられた。そのせいかと思うが、欄干のL字形の延長部分が取り除けられてしまった。その後1991(平成3)年に欄干などを造り直す工事がおこなわれて現在の姿に替わった。ぼくは橋を架け替えたのかと思っていたが上部を綺麗にしただけのようだ。元の欄干はよごれていたし、貧弱すぎるとみられたのだろうか。どうも余計な事をしたように思えてしかたがない。



八丁堀1丁目の方から撮ったもので、対岸は日本橋3-15。





竣工記念絵葉書。昭和5年3月。土木図書館所蔵。『土木学会附属土木図書館>戦前土木絵葉書ライブラリー 』より。



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明治座。中央区日本橋浜町2-31。1990(平成2)年5月27日

1958(昭和33)年3月に開場し、1990(平成2)年6月まで使われた旧明治座。当ブログ前回の歌舞伎座で吉田五十八(いそや)を知ったわけだが、彼の作品の中に「1958年 明治座復興増改築(東京都中央区/現存せず)」があり、これなら写真を撮っているので、ついでにそれを公開するわけである。閉場する1か月前の撮影だ。垂れ幕では「明治座5月薫風公演/花は散らない」の最終日で、次の上演は高橋秀樹の「桃太郎侍」。そして6月28日、高橋英樹特別公演をもって閉場となる。

元々、明治座は久松警察署の向かい側、浜町川に向いたところにあったが、関東大震災後、現在地に移って1928(昭和3)年3月に新装開場した。この洋風の劇場の写真は割とよく目にする。昭和20年3月10日の空襲で、明治座に逃げ込んだ人々が大勢焼け死んだことはよく知られている。何人の人が亡くなったのかはっきりしないようだが、『東京都の空襲被害データ』では、「明治座避難者数百名焼死」とある。中央区全体ではこの日の死者は1275人だ。
戦後の復興は、新田建設や浜田屋(料亭)が中心になって株式会社明治座を設立したことから始まる。松竹から所有権を譲り受け、劇場を再建して1950(昭和25)年12月に開場。この時の建物の写真をいまだに見ていない。それが1957(昭和32)年4月に漏電による火災で焼失。写真の建物は焼失した建物の基礎の上に建っているという。



明治座(南東側の正面)。1990(平成2)年5月27日



明治座(北西側の裏面)。1990(平成2)年5月27日

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永井印刷。中央区日本橋人形町1-4。1987(昭和62)年5月31日

手前の通りは芳町通り。左へ行くとすぐ人形町通りとの人形町交差点。現在はパチンコ百億のビルを中心に周囲の家屋をまとめて「人形町センタービル」(1994年3月築、9階地下2階)が建ち、百億もそこの1・2階に入った。それが昨年2月15日で閉店して、今はローソン、磯丸水産(海鮮料理)、トレーニングジム等になっている。
永井印刷は『大正元年日本橋区地籍地図』に写真とほぼ同じ位置、当時の元大坂町に「永井活版所」の記載があるがはたしてそれなのかどうか。昭和30年頃の火保図では「三葉印刷KK」である。



永井印刷、清心丹薬局。日本橋人形町1-4。左:1990(平成2)年12月16日、右:1986(昭和61)年9月7日

左写真の永井印刷から奥へ、相模屋豆腐店、清心丹薬局住居、同店舗。百億の左後ろの縦長窓は人形町郵便局。永井印刷の、横丁の向かい側の塔屋のある建物は中村眼鏡店だった家。
右写真は清心丹薬局のほうから芳町通りのほうを撮ったもの。

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萬武染工所。中央区日本橋人形町1-5。左:1985(昭和60)年4月29日、右:1986(昭和61)年10月12日

人形町通り商店街の1本西の裏通りにあった銅板張り看板建築の家。左写真の白い壁の家が現在は日本橋人形町郵便局が入るビルになっている。
後ろは入母屋屋根の3階建て。普通は前にあるベランダが横についている。写真ではなんの商売をしているのだか分からないが、出入り口左の出窓のような部分の壁(右写真ではベンチが立てかけてある)に「萬武染工所」の木の看板が下がっている。『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年、1500円)によると、昭和60年の取材では店主は6代目。江戸時代は「おん紅どころ、萬屋武兵衛」と称した。廃業する前は絹糸を染める仕事を主にしていたという。
1987(昭和62)年に取り壊して現在の「萬武ビルディング」(6階建てオフィスビル)が1990年5月に完成した。
左写真右の家は料理屋だか料亭のように見える。昭和30年頃の火保図に(当時の住所は芳町1丁目6番地)「吉鶴」というそれらしい名前があるが、住宅の記号がついている。

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理容 浪花軒。中央区日本橋人形町2-26。1982(昭和57)年8月29日

写真左のタクシーが走ってくる通りは芳町通りで、左端に写っているビルは「NTT茅場兜電話局」の新館。そのビルの手前、浪花軒の向かい側には、大正14年に建った旧館があった。写真手前の通りは大門通り。
当ブログ前回の太田屋染物店の左のビルの二階が浪花軒という理髪店なのだが、写真の浪花軒はその旧店舗である。大門通りの斜向かいに移ったわけで、昭和61・2年のことである。写真の建物は戦後すぐ、間に合わせに建てられたバラックが残っていたのかもしれない。正面の写真を撮っておかなかったのが残念だ。現在は「オリコ人形町ビル」という9階建てのオフィスビルが建つ。
店のHPには「since1887」とあり、明治20年創業である。『大正元年日本橋区地籍地図』(中央区沿革図集[日本橋編])に、写真と同じ場所、浪花町一八番地に「理髪浪花軒」で記載されている。
浪花軒の後ろに日通のマークがある建物は「日本通運人形町支店/ヤマトインターナショナル東京支店人形町別館」。日通が建つ前は「人形町大映」と「人形町武蔵野館」という2棟の映画館が並んでいたところだ。昭和40年頃にはなくなっていたような気がする。現在は「NEX人形町ビル」(1991年7月築、12階地下2階)というオフィスビルに建て替えられた。

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太田屋染物店。中央区日本橋人形町2-7
1987(昭和62)年5月31日

当ブログ前回の小林果実店の建物の大門通り側の隣の家。モルタル仕上げの看板建築だが、商売にふさわしい和風の表面のデザインが施されている。モダンなデザインにも見えるが、和風のファサードの看板建築は割と珍しいと思う。軒下の中央のマークは富士山の下に「太長」の字を入れたものらしい。その下の字は、1行目が読めなかったのだが、samatsutei様にコメントでご教示いただき、「美術/染物あらひはり」と判明した。
バイク呉服屋の忙しい日々>洗い張り職人 太田屋・加藤くん(1)(2013.05.19)』に太田屋のことが紹介されていた。甲府市の松木呉服店から発信しているブログである。洗い張りの仕事がどういうものかなんとなく分かるが、同時に着物を着ることが贅沢なものなのだな、ということも分かる。当記事によると「太田屋」という屋号は初代が修行した浜町の店の名前で、明治25年に暖簾分けしての創業である。今は四代目という。需要を見込んで芳町の花街に出店したわけだ。創業時から戦前までは大変な忙しさだったのではないかと想像できる。
太田屋は、今は近くだが甘酒横町の裏手に移っているが健在。マークの文字が「大増」と変わっている。

下の写真は太田屋を中心にした家並み。写真右端が芳町通りとの交差点で、その角に小林果実店、同じ建物の青い日よけは「パーラー桃山」、街路樹で隠れた太田屋の左は「純喫茶Doll」。上の写真ではドールがビルに建て替わっている。



純喫茶Doll。日本橋人形町2-7。1985(昭和60)年4月28日

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小林果実店。中央区日本橋人形町2-7
上:1985(昭和60)年4月28日
左:1986(昭和61)年8月24日(?)

芳町通りと大門通りとの交差点。1986年の住宅地図では電話局前交差点とあるが現在はその表示板はない。当時は小林果実店の斜め向かい側はNTTの茅場兜電話局だった。
小林果実店はたぶん明治期の創業である。『大正元年日本橋区地籍地図』(中央区沿革図集[日本橋編])に、写真と同じ場所、住吉町九に「小林果物店」で記載されている。
交差点に向いた隅切り部分が正面で、芳町通り側の面がないから、かなり細い建物だ。同じ建物の後ろは、当時の地図では「桃山」というスナックだか喫茶店だったらしい。
いつ廃業したのか分からないが、今は2枚目写真の中央内科クリニックのビルの下屋のような平屋の建物が建って、その医院が使っている。


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