ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



吉村米店。荒川区東日暮里4-36。左:2001(平成13)年3月10日、右:1991(平成3)年6月30日

米屋の前の道は音無川沿いの柳通りから北に入る路地で、奥でカーブして東に続いている。「東京下谷根岸近傍図(明治34年)」に「おまじなひ横丁」とある路地である。江戸時代に病気治療のまじない師が住んでいたことに由来するらしい。
この1・2年のことだと思うが、吉村米店は隣の路地の入口角にあった青山荘というアパートとともになくなって、今はコイン駐車場になっている。



吉村米店。2006(平成18)年4月9日

吉村米店は狭い路地に面しているので正面の写真はうまく撮れない。上の写真は向かいの青山マンションの敷地に入っての撮影。
このお米屋さんはHPを作っていた。「下町のお米屋よしむら」の会社案内には「1905(明治38)年に松村屋米店として創業、1940(昭和15)に吉村米店に名称変更、1991(平成3)年に店舗精米工場移転」となっている。移転といっても道1本くらいらしい。

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東日暮里四丁目南交差点。荒川区東日暮里4-36。1991(平成3)年6月30日

写真手前の左右の通りは尾竹橋通りで左手(北)へ行くとJR三河島駅の脇を通る。右手はじきに言問通りにぶつかる。三河島駅-言問通りの間は「改正道路」として大正15年10月に開通した。「東京下谷根岸近傍図(明治34年)」にある「三河島道」を改修して造成したようだ。その地図には、写真の交差点の左手前の位置に「笹乃雪」があり三河島道に「さヽのゆき横丁」の記載がある。現在は尾久橋通りとの交差点の角にある有名な豆腐料理の店だ。
写真右の一方通行出口の道路は根岸の柳通りから来る道で、かつては音無川が流れていた道だ。三河島道には初音橋が架かっていた。音無川が区の境で南が台東区根岸、北が荒川区東日暮里になる。
当ブログでは根岸4交差点から東日暮里4南の間も「柳通り」で通すことにする。『生粋の下町東京根岸』という本では「柳通りから三河島駅前通りに抜ける道」としているが、そんな長い名前では大変だ。
写真の駐車場には現在、ビルが建った。写真中央に見えている煙突は誠工舎東京工場のもの。




柳通り沿いの民家
東日暮里4-36
上:1991(平成3)年6月30日
左:2001(平成13)年3月10日

柳通り沿いの家の中でも目立つ家だ。写真右の家は左の家が借家として建てたものらしい。
今は右の家はなくなり、大谷石の塀はコンクリートブロックのものに替わった。たぶんこの1・2年での変化だ。



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中央区立十思小学校。中央区日本橋小伝馬町5。1985(昭和60)年6月2日

現在は「十思スクエア」という主に高齢者の福祉サービスを行なう中央区の施設になっている。十思スクエアは平成13年1月の開設だ。
元は区立十思小学校で、写真の校舎は昭和3年12月の完成。設計:東京市、施工:鴻池組、という。平成2年3月で東華小学校と合併して日本橋小学校になり、廃校になった。十思スクエアになるまでは区役所の出張所になっていたようだ。
写真はまだ小学校だった時期で、校舎の正面には校章が付いている。写真中央の植え込みの囲いは、現在は取り除かれた。車の出入りのためである。右に枝を伸ばしているのは入学の記念撮影には欠かせない桜。



北西角から見る。1990(平成2)年2月4日



石町(こくちょう)時の鐘。1985(昭和60)年6月2日

石町時の鐘を吊るした鐘楼である。十思小学校に隣接する区立十思公園にある。なにを見たのだか憶えていないのだが、昭和14年の竣工らしい。横網町公園(墨田区)にある東京都復興記念館が連想される。
櫓には床下からはしごを引き出して上るようだが、現在では外階段が、また櫓の低い囲いには鉄パイプの手すりが取り付けられた。こんな小さいものでも少しは改修の手が入るのである。

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正則学園高等学校。千代田区神田錦町3-1。1986(昭和61)年6月8日

正則学園のHPには「昭和8年12月3日、新校舎落成」「平成15年7月18日、新校舎改築工事開始」とあり、写真の校舎が使われていた期間が分かる。
敷地の制約などがあるのだろうが教室の立方体を積み上げたような外観だ。玄関口の枠を全体のデザインに溶け込むようになんとかすればスマートに見えそうだが。



錦城学園高等学校。千代田区神田錦町3-1。1992(平成4)年5月4日

『日本近代建築総覧』には「S10、設計:復興建築助成会社、施工:深井工務店直営」とある。正則学園の校舎より遅く竣工しているようだが、戦前の建物であることはすぐ分かる。校舎の後ろに校庭がある。

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一橋講堂。千代田区一ツ橋2-1。1983(昭和59)年11月(門の写真以外4枚とも)

『日本近代建築総覧』には「S7、設計:文部省、施工:清水組」とある。肝心の正面の写真は手振れを起こしているようでぼけているうえ、蔦に覆われて細部がさっぱり分からない。代わりに「建築家から見たマンションについての本音を公開します>懐古写真館>旧一ツ橋講堂」を紹介しておく。
昭和59年撮影の写真はたまたま門が開いていたので進入した。講演会でもあったのかもしれない。
現在は学術総合センターという23階建ての高層ビルに換わったが、そのビルの竣工は平成12年らしい。旧講堂はもしかして平成7・8年頃まで残っていたのだろうか?



一橋講堂・南側


一橋講堂・北側の前部と出入り口。1983(昭和59)年11月

右写真の階段手すりの上部はテラコッタかもしれない。同じ材料が建物本体の基部に使われている。



一橋講堂の門。1984(昭和60)年8月4日

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藤寺横丁の平屋。台東区根岸3-12。2006(平成18)年4月9日

音無川があった通り(柳通り)の南の裏通りからさらに南に入る路地がある。その路地はすぐ西へカーブして曲がるのだが、写真の家はその曲がり角にある。写真右奥へ行くとすぐ円光寺の山門が右側に現れる。根岸や下谷にあるカーブした細い道はだいたいが江戸時代からある古い道である。「東京下谷根岸近傍図(明治34年)」に「ふぢでら横丁」とある道で、円光寺には「圓光寺/藤デラ」とある。外からも藤棚が覗ける。
写真のような家を撮るのは住んでいる人に申し訳ないようで気がとがめるのだが、なくなってしまえばそれまでである。記録せずにはいられない。


路地の長屋
根岸3
1991(平成3)年6月30日

詳しい場所は忘れた。円光寺の周辺だと思う。

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四軒長屋。台東区根岸3-24。1991(平成3)年6月30日

写真中央右よりに見えている木が松の湯のものだと思う。写真の長屋は、元はもっと長かったのが、西端の家が取り壊されて4軒になってしまったのだろうか。切り口が真新しい。現在も残っている。


左:金子豆腐店。根岸3-12。2001(平成13)年3月10日
右:金子豆腐店の隣の家。1991(平成3)年6月30日

場所は松の湯の向かい。金子豆腐店はトタン板のような屋根、アルミサッシの窓など、外観を構成する材料はかなり取り替えられている。豆腐屋の看板がないから商売はやめたのかもしれないが、近所の人を相手の商売なら看板など不要だろうからなんともいえない。

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松の湯。台東区根岸3-23。1991(平成3)年6月30日

柳通りの根岸四丁目交差点の南から、柳通りと平行に尾竹橋通りへ通じている裏道に面して松の湯があった。向かいは西蔵院の墓地。『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988)に「東京下谷根岸近傍図(明治34年)」の一部が載っている。その地図の松の湯の地点に「湯や」の記載があるから100年くらいは続いている銭湯なのかもしれない。取り壊された後は住宅が5軒建った。




吉田総合研究所。根岸3-23
上:2005(平成17)年11月5日
左:2001(平成13)年3月10日

上の写真で左端は松の湯があったところ。使われていないガレージがあり、門と板塀が続く。門のわきの看板は「吉田税務会計/経営管理事務所・吉田総合研究所・政治経済法律教育」。大きい庭木に遮られて中の建物は見えにくい。左写真は道路間際に見えている洋風の家(写真の’92.1.1の日付はカメラのセットミス)。
『東京の町を読む』(陣内秀信・板倉文雄他著、相模書房、昭和56年)によると、吉田邸はかつて料亭だった。日本家屋に洋風の応接間とビリヤード室が附属している。1階の平面図と正面の立面図が載っている。門を入ると洋館を右に見てまっすぐに民家のような玄関に入っていくようだ。現在も建物はそのまま保持しているらしい。

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竜雲堂雑貨店。台東区根岸3-9。左:1991(平成3)年9月23日、右:同年6月30日

竜雲堂の前は区立根岸小学校の裏の細い道。右写真の左奥へいくと言問通りに出る。左写真の後ろのビルが根岸小学校だと思う。
梶川商店の看板がある平屋のシャッターに「梶川竜雲堂」と書いてある。店の看板では東芝が目立つので電気店かと思ったが、「東芝乾電池・電球・文化家庭日用品・チリ紙・洗剤」などを売っている。「チリ紙」とは懐かしい。



平屋の民家。根岸3-9。1991(平成3)年9月23日。竜雲堂の並びだったと思う。

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増見東京営業所。中央区日本橋大伝馬町3。1990(平成2)年2月4日

江戸通りの南の裏通りで、写真左手へ行くと通りを渡った先に宝田恵比寿神社がある。
増見(ますみ)株式会社は写真の建物をビル化して盛業のようだ。大阪が本社のインテリアの会社である。創業は戦後なので写真の建物は増見が建てたものではない。写真右の鈴木医院は大正元年地籍図に載っている。
増見の左に並ぶ看板建築のうち、左端の三善(みよし、定食・酒)がビルに換わったが他の4軒は今も残っている。



1枚目の写真の左端辺りから撮ったもの。1987(昭和62)年9月13日

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