ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




うな浜。新宿区荒木町7。2002(平成14)年5月6日

荒木町を南北に通っている車力門通りは真ん中あたりでクランク状に曲がっている。窪地を避けるために自然とそうなってしまったのだろう。窪地へ降りる階段が多数あることで有名な荒木町だが、そのメイン通りである車力通りは、台地の上に載っていてほぼ水平である。
南からきてクランクにかかる手前に「うな浜」といううなぎ屋があった。ネットを見ると界隈では有名な店だったらしく、今は無き懐かしの店として肉の万世とともに語られる存在らしい。『荒木町コミュの消え行く名店「うな浜」』によると、閉店したのは2006年2月24日。待合だった建物で、新派の「英太郎(はなぶさたろう)、英つや子親子」が住んだこともあるという。戦前は「三業組合事務所」があった場所だが、戦後焼け跡にうな浜になった建物を建てて待合の営業を続けたということだろうか?
現在は周囲の建物とともに開発されて「アクサス四谷3丁目」(2012年7月築、9階建て33戸)というマンションになっている。



うな浜。荒木町7。2002(平成14)年5月6日

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スナック 顔。新宿区荒木町3
2002(平成14)年5月6日

車力門通りの「福すけ(現・鶏ひで)」の、横丁を介して北の隣にあった家。長屋のように3軒の店が入れる家らしいが写真では「スナック 顔」だけが営業していたらしい。現在は取り壊されてTimesの駐車場になっている。写真中央の白い壁の家は沖縄料理の「琉球」。この家と店は今も変わらず、「沖縄民謡バー四谷琉球」の看板が出ている。

「車力門通り」の名称は2001年頃につけられた、割と新しい名称である。『四谷荒木町・今昔散歩~荒木町の重鎮が語るとっておき秘話~』で、「とんかつ鈴新」の鈴木洋一氏が商店会立ち上げの事情なども含めて語っている。
新宿通りからの車力門通りの入り口にはゲート代わりに街灯が建っていて、それに人力車のシルエットが飾られている。荒木町→花街→芸者→人力車、という関連から出てきたものだろう。人力車が坂道を行き来するのは大変だったと思うが、階段を歩いていったほうが早いと、あまり利用されなかったようにも思える。一方、「車力門」は大名屋敷の門に由来し、大八車で荷物を運ぶ人=車力から出ている。人力車を引く人は「車夫」である。今、観光地で人力車を引く人を「車夫」とは言わないように思うが、なんといえばいいのだろう。

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井上、のりすけ。新宿区荒木町3。2002(平成14)年5月6日

新宿通りから車力門通りに入ってすぐのところ。撮影したころは「車力門通り」の名称がつく前である。20年近く前の写真だが、写っている範囲では現在も建物は変わっていない。いずれも昭和30年代に建てられた感じだ。写真では奥から「福ひろ、幸兵衛、一、炭火串やき のりすけ(店は井上の横の路地)、割烹ふぐ料理 井上」などの看板の文字が読める。現在は店が「鶏ひで、燻製&網焼き 煙人、一、荒木町 道しるべ(鍋料理)、キッチンたか(洋食)」と変わってしまっている。
下の写真は上の写真のところから奥へ行ったところから撮った同じ家並み


福ひろ、幸兵衛。荒木町3。2002(平成14)年5月6日

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早稲田大学3号館。新宿区西早稲田1-6
2004(平成16)年11月9日

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学3号館(政経学部校舎)、建築年=昭和8年、構造=RC4階建、設計=桐山均一(早稲田大学営繕課)、一部地下(ボイラー室)」。政治経済学部の校舎といっていい建物。
元は2棟の建物で、戦後にその間をつなぐように増築した。1937年の校舎配置図では、南側が「本部使用校舎」、北側が「政法新教室」となっている。
ぼくは北側のほうは中庭からの1枚しか撮らなかったようだ。『都市俳諧blog>早稲田大学 旧3号館 その1』で、北側の建物の外観や増築部分、中庭の全景の写真が見られる。
2014(平成26)年9月に高層ビルに建て替えられたが、正面とそれに続く側面は旧3号館の外観が復元された。

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早稲田大学1号館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

正門の右(北)に建つ建物。現在、総合案内所、研究総合支援センター、アカウンティングセンター、入試センター、食堂、早稲田大学歴史館などが入っている。教室はないのかもしれない。
建物は『日本近代建築総覧』では「早稲田大学1号館(本部棟)(旧・法学部校舎)、建築年=昭和9年〈昭和10(1935)年とする資料が多い〉、構造=RC4階建・半地下あり、設計=桐山均一(早稲田大学営繕課)」。中庭のあるロの字型の平面で、寄棟屋根に赤い瓦を乗せている。半地下部分は東側の1/3程が地上に出ている。
『ウィキペディア>早稲田大学高等師範部』では1号館をかつての「専門部・高等師範部校舎」としていて、その校舎として建った建物らしい。



早稲田大学1号館西側

1号館の西側中央にある玄関が立派で、正面玄関になる。現在、白い円柱について説明板があって「御影石円柱は、明治期の正門の門柱を加工したもの」とある。

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大隈邸門衛所。新宿区戸塚町1-104。2004(平成16)年11月9日

大隈庭園入口の脇に建っているというか置かれている、大隈邸の門衛所だった建物。元の大隈邸の入り口は大隈講堂の前、早大通りとの角のほうに門があったようで、その左側に門衛所があったと思われる。ネットで見られる大隈講堂建築中の写真に門衛所が写っている。門衛所を移してから講堂の建設を始めたのではないのが不思議だ。
門衛所が建てられたのは1902年(明治35年)。『早稲田大学校友会>記憶の中の早稲田>Vol.27(早稲田学報2016年2月号)』に、「明治35年の大隈重信邸」の洋館の水彩画が載っていて、手書き地図に「(大隈邸は)明治34年に焼失。翌年保岡勝也を中心に再建。昭和20年(5月の空襲で)焼失。」と書き込んである。大隈邸門衛所は明治35年に邸宅と一緒に再建されたものだった。保岡勝也は川越の旧八十五銀行本店と旧山吉デパートの設計者。門衛所についてはなんとも言えないが、文京区西方の平野家住宅が保岡の設計で、その洋館のハーフティンバーとドーマー(屋根の窓)が門衛所と共通している。また、佐賀県唐津の旧三菱合資会社唐津支店本館にも似たような装飾部分を感じる。

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大隈講堂。新宿区戸塚町1-104。2004(平成16)年11月9日

『ウィキペディア』によると、「高田早苗総長からゴシック様式で演劇にも使える講堂をという要望を受け建築学科の佐藤功一、内藤多仲(構造学)、佐藤武夫(音響工学の先駆者)らが設計に当たった。戸田組(現・戸田建設)の施工により1926年2月に着工、1927年10月20日に竣工した。」「大講堂は3階建てで1123席、地下1階は301席の小講堂」「7階建の時計塔がシンボル」。外観は「チューダー・ゴシック様式」としているが、『国指定文化財等DB 』では「ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品」。佐藤功一の代表作ということでは文句のないところだ。
時代のなかの大隈講堂』には「講堂の設計は、佐藤功一をはじめとする理工学部建築学科のメンバーによって進められ、仕切り直しとなった(コンペが行われたが実施に移せる案がなかったことや、関東大震災で中断した)デザインは、当時助教授であった佐藤武夫が中心となり、数か月間で講堂全体の設計図や照明など各意匠の図面を書き上げた。その際、高田早苗から出された、「ゴシック様式であること」、「演劇にも使えるように」という意見も盛り込まれた。」とある。
佐藤総合計画>佐藤武夫ギャラリー』によると、佐藤武夫は1924年に早稲田大学理工学部建築学科卒業すると、佐藤功一の引きですぐ助教授になり、講堂の実質上の設計担当者として指名される。よほど優秀な学生だったのだろう。
構造設計の内藤多仲(たちゅう、1886-1970)は講堂建設当時は早稲田大学教授。戦後、名古屋テレビ塔や東京タワーなどの鉄塔を多数設計した人。



塔屋の下に地下の小講堂へ直接入れる入り口がある。右写真は小講堂のロビー。

以下に当ブログで取り上げた佐藤功一の設計とされる建物を書き並べた。いずれも現存しない。
第一勧業銀行宝くじ部 千代田区丸の内 1928年
冨山房 千代田区神田神保町 1932年
第二帝興ビル 中央区新富 1925年
大東京火災 中央区日本橋 1931年
丸の内野村ビル 千代田区大手町 1932年
山丸証券 中央区日本橋兜町 1923年?
桜正宗ビル 中央区日本橋 1927年





大隈講堂の北側は溝が掘られている。地下室の明り取りだろう。ここまで行く人はあまりいないようで、ネットでは写真を見かけなかった。

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伊勢兼酒店。中央区日本橋人形町1-7。1987(昭和62)年6月7日

人形町通りの甘酒横丁交差点から甘酒横丁とは反対の西へいったところ。通り沿いに、快生軒(喫茶)、来福亭(洋食)、玉ひで(鶏料理、親子丼)、小春軒(洋食)と有名な老舗が並んでいる。写真は玉ひでの横の向かい。家は手前から「伊勢兼酒店、喫茶レモン、笠原家、友和工業㈱」。
いずれも看板建築のような外観だが、戦後の建築と思われる。昭和22年の航空写真では、通りの北側が、甘酒横丁から小網町まで、建物疎開になった跡のように見える。
伊勢兼酒店は「伊勢兼ビル」(1992年1月築、8階地下1階)に建て替わった。酒店はいつのことか判らないが廃業している。
レモンは昭和48年の開店という。それ以前は「池田屋」という肉屋だった。今も「昭和の喫茶店」という位置づけで営業が続いている。「中央区芳町1-4」の住所が入ったマッチはまだ在庫があるのだろうか。
笠原家と友和工業は「笠原ビルディング(笠原歯科)」(1991年8月築、9階地下1)になった。「日本橋グリーン歯科」の笠原院長がHPで生い立ちを語っている。笠原氏の祖父は昭和9年に両国から当地へ移ってきて肉の卸商を始めたが10年ほどで亡くなった。「空襲による延焼を防ぐ為、店は強制取り壊しとなり、閉店」という記述がある。戦後笠原氏の御父上が菓子店を始め、昭和40年頃笠原氏の母上が亡くなって廃業したと思われる。当時笠原氏はまだ高校生だった。そこから努力しての現在があるのだと思う。

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伊藤万年筆店。中央区日本橋人形町1-2。1988(昭和63)年4月24日

芳町通りの小舟町交差点から人形町交差点へ向かって150m程のところ。写真右にすぐ、東堀留川に架かっていた親父橋があった。東堀留川は敗戦後に戦災残土を放り込んで埋め立ててしまった。埋め立て完了は昭和24年8月。
写真の家並みは左から、サイボー㈱東京支店、㈱サン商事(日除けに「事務用品・ゴム印」)、伊藤万年筆店、五葉産業㈱(「日本文芸」の袖看板、2階の窓に「日本梱包株式会社」)。昭和30年頃の火保図では「埼玉紡績KK。石原、ペン伊藤S。五業産業」となっている。埼玉紡績はサイボーの旧社名だから、その当時から写真のうちの3社は同じ会社が続いてきたわけだ。サイボーのビルは1981年7月の竣工。
2階建ての3軒は昭和22年の航空写真に写っているから戦前からの建物かもしれない。現在はまとめて「ERVIC人形町」(1990年2月築、9階地下1階、1階に「なか卯」)というオフィスビルになっている。

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中村眼鏡店、中村屋化粧品店。中央区日本橋人形町1-4。1992(平成4)年4月26日

写真の通りは人形町通りの人形町交差点から小舟町、江戸橋北交差点へ向かう芳町通りで、人形町交差点からすぐ西のところ。建物は左から、中村時計店、コスメドール中村屋(化粧品)、路地、岡電業社、大橋印房、ロータリーギフト人形町店(金券ショップ)、立花外科医院。左端は「人形町センタービル」(1994年3月築、9階地下2階)の工事現場。
これらの店のほとんどが昭和30年代の火保図に載っている。当時の住所は「芳町一丁目8番」で「中村時計、中村屋洋品。岡電キ、増田メガネ、岡クリーニング、大橋印房。立花外科」という記載。
大橋印房」は江戸初期の創業で「江戸日本橋四日市(現在の日本橋一丁目)に創業。代々「大橋素十」と号し、徳川幕府御用達印判師として大橋出雲守の名を戴き、幕府公印を始め諸大名の印判製作に当たる」としている。現在地には明治元年ごろ移転した。
中村屋の後ろの壁に看板建築の装飾のようなものが見える。建物本体は昭和初期のもので、後に前面を増築したものと思われる。
現在は、中村時計店と中村屋が取り壊されて14階建て店舗・マンションを建築中、岡電業社と大橋印房は変らず、金券ショップ(閉店時は「マタハリ」)は2018年5月に「ALO Kebab」というケバブの店に替わった。立花外科は「ガラ・ステージ日本橋人形町」(1999年11月築、12階地下1階59戸)になって、そのビルで医院は続いている。




岡電業社、大橋印房。1996(平成8)年5月6日

上から見ると、通り沿いの建物とその後ろの建物とで三角形の区切りが浮かび上がる。芳町通りを斜めに通したため、古い町の境が変な具合に取り残されたのが今に残っていると考えられる。芳町通りを整備した年代は調べていないが、明治30±10年と思われる。
左の地図は「大正元年 日本橋地籍地図」(『中央区沿革図集[日本橋編]』(平成7年、中央区立京橋図書館)。芳町通りは親父橋の通りの両側を広げるかたちで整備された。また、親父橋から人形町交差点に直接つながるように少し斜めに引かれている。そのため、新芳町と芳町は町域の半分近くが道路になってしまった。写真の三角形の場所は明治・大正期では「日本橋区芳町四ノ二」という住所になっていたらしい。
芳町通りを境に、北を芳町二丁目、南を芳町一丁目としたのは関東大震災後のことで、1976年には日本橋人形町一丁目に変更され、「芳町」は住所としては消滅した。「芳町通り」も公認の名称ではないから、地元の人でないと通用しないかもしれない。

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