ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




大衆食堂みよし。江東区福住1-5.1991(平成3)年11月10日

戦時の空襲で深川、本所などの隅田川の東側は壊滅的な被害を受けた。江東区もほぼ焼き払われたといっていいが、佐賀1丁目と福住1丁目の一部が焼失を免れている。この辺りは江戸期から物資の集散地で運河が発達していた。現在では大島川西枝川が残るのみだが、油掘川や永代通りなどが延焼をくいとめたのかもしれない。
上の写真は大島川西枝川に架かる御船橋(みふねばし)の袂から東方向を見ている。佐賀1・2丁目および福住2丁目は現在ではマンションやオフィスビルが増えてきたが、まだ倉庫街という感じは残っている。それに比較して福住1丁目のほうは古い航空写真を見ても木造家屋が密集していたようで、住宅街・商店街といった感じが強い。
角にある「大衆食堂みよし」は健在。自ら大衆食堂を名乗る店は今では少なくなったと思う。「大衆」というと、あまり聞かなくなったが大衆酒場、大衆演劇、大衆路線といった熟語になる。同じような意味でも「公衆」だと公衆衛生、公衆電話、公衆トイレ……。どうも公衆の「公」には「公私」の「公」の意味合いが出てくるようだ。
みよしの隣は四軒長屋で、1軒だけ3階を増築した家がある。


民家。福住1-6
1991(平成3)年11月10日

この家の裏は大島川西枝川で、写真左手の植え込みは御船橋袂の空き地。現在は3階建ての家に建て替わった。

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誠商会倉庫。足立区千住3-86。1990(平成2)年4月20日

北千住駅西口からJRと市街の境界に沿って少し北に行ったところ。看板のある「山路医院」は今もあるが、そこへ入る路地に近い。この辺りは現在では「千住ミルディスⅠ番館(北千住丸井)」になってしまった。写真右の金網の柵の右は貨車を止めておく線路があったが写真では取り外されている。荷物の上げ下ろしもここでやっていたと思われる。それと関連して周辺に倉庫も建てられたのだろう。
下の写真のレンガ倉庫は、上の写真の倉庫の向かい(写真手前)にあったもの。撮影時の住宅地図では写真右端のモルタル壁の家とも「熊倉産業」および写真左奥が「ブックスくまくら」。写真後ろは「北千住ターミナルビル」で、建ったばかりだと思う。



熊倉産業。千住3-85。1990(平成2)年4月20日


民家。千住3-77
1990(平成2)年4月20日

撮影時の地図では、北千住駅西口からの「きたろーど1010」商店街にあった東海銀行千住支店の裏であるが、現在では駅西口のテラスの端から見下ろす位置になる。現在、駐車場の角にある平屋のコインロッカーの小屋が、写真の民家があった場所に建っている。

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左:石鍋商店。足立区千住3-62。
上:お休み処千住街の駅。千住3-69
2012(平成24)年7月14日

宿場町通り(旧日光街道)商店街に残る古い商店建築で、出桁造りの商家、和風長屋の店舗、銅板貼り看板建築、と形の異なる建物が千住3丁目の割と近いところに今も見られる。
立派な出桁造りの建物は石鍋商店。見たところ婦人服の店のようだが、老舗の毛糸屋だそうだ。
「お休み処千住街の駅」は2010年10月にオープンしたばかりの観光案内所および休憩所。「足立区観光交流協会」(区の組織なのだろうか)が運営している。元魚屋の店舗だったという。建物は二軒長屋のようで、その右側は民家になっているが、以前は「石川洋装店」。



渡辺優文堂書店。千住3-43。2012(平成24)年1月15日

安田屋呉服店、梶野履物店、渡辺優文堂書店と並んでいて、いずれもかなり古くからある店のようだ。
優文堂の横の路地を入ると千代乃湯という銭湯があったが、2004年9月で廃業した。ぼくは見ていない『 東京の銭湯 千代の湯』に記録されている。今は取り壊されて駐車場になっている。

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大橋眼科医院。足立区千住3-31。1983(昭和58)年10月

北千住駅西口から国道4号線に向かう「きたろーど1010」という商店街にある西洋館の医院。これだけの建物だから注目される。北千住の名物建築といっていいだろう。以下、『東京建築懐古録』(読売新聞社編、読売新聞社、1988年、1600円)による。
昭和57年に建ったRC3階建ての家である。つまり上の写真は竣工して間もない頃だ。ぼくは撮影時はなにも知らなかったから古い洋館と信じて撮っている。写真右のビルは三菱信託銀行千住支店、写真左は「稲葉園(茶)、希宝軒(中華)、山崎商店、マキ靴店」の長屋(現在はマンション)だったらしい。
建て替える前は、大正6年に建った洋館の医院があったが、その家のイメージを引き継ぐように建てたものである。医院の経営者である鈴木氏は、「三角屋根のお医者さん」の家を小学生たちが並んで写生しているのを見て、自分の少年時代の西洋館への憧れを再認識したらしい。氏は昭和30年頃かららしいが、建て直すときに使おうと、取り壊される古い洋館の部品を集めることを始めた。4基の街灯は昭和通りにあったもので高さを1m縮めてある。医院の入り口の上のバルコニーは東大赤門前にあったたばこ屋のもの。集めた部品は100か所から千点以上というが、全部は使いきれないだろう。どこかにしまってあるのだろうか。
この医院で検眼なんかをした子供がディズニーランドへ行ったら、「ここはお医者さんの家なの?」と聞くのかもしれない。

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左:石黒のあめ。足立区千住3-19。2012(平成24)年1月15日
右:宿場通りの石黒のあめ。千住3-54。1990(平成2)年4月30日

サンロード商店街の「石黒のあめ」は北千住の名物といっていいようで、ひいき客もけっこういるようである。槍かけだんごにしても、千住にはそう高価な名物はないので安心だ。昔ながらの手作りの飴を量り売りする昭和8年創業の老舗である。店の奥で製造しているのだろうか。石黒のあめはほかにも何軒かあるようで、当ブログでも市川の 『石黒の飴』を紹介した。
上右と下の写真は宿場通りにあった「石黒のあめ」。現在の店とどういう関係になるのかは知らない。本店と支店の関係なのか、店主は別でどこか大本から別れた分家のようなものなのか。宿場通りの店舗は現在ではマンションに建て替わっている。



1999(平成11)年5月1日。写真右の出桁造りの家は旧飯田時計店。

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増英かまぼこ店。足立区千住3-20。2003(平成15)年1月12日

千住3丁目と4丁目の境を、旧日光街道と現日光街道を結ぶ通りが「サンロード商店街」。戦時中に建物疎開(強制疎開)で建物が取り壊されて防火帯になっていたのを、戦後に建て直された建物がまだかなり残っていてレトロな雰囲気がある。残念ながら賑わっているとは言いかねる。
増英かまぼこ店は通りの五叉路の角にあるおでん種の店。おでんも売る。ぼくは知らなかったがネットで見ると地元では有名な人気店らしい。現在、建物はビルに建て替わった。店のHP 『マルイシ増英』によると、昭和25年4月に開業している。写真の建物を建てて店を開いたのかと思う。昭和27年2月には千住河原町に工場を設ける、と順調だ。2007年12月に新装開店ということだから写真の旧店舗は2006年頃に取り壊されたようだ。


星野クリーナース、旧スナック白鳥
千住3-21。2012(平成24)年1月15日

増英かまぼこ店の横を南に入ったところ。久保田生花店と星野クリーナース(クリーニング店)の間に看板建築があり、かなり古そうな建物に見えて気になる。建物疎開からギリギリ免れた、戦前に建てられたものではないかとも思われる。1989年の住宅地図では「スナック白鳥」。

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金勝堂時計店。足立区千住4-4。1988(昭和63)年12月11日

宿場町通りから入る千住3丁目と4丁目の間の通りは「サンロード」という商店街であるが、昭和30年代かと思える建物の商店が並んでいる。宿場町通りは昔の日光街道だった面影を残す古い家もまだ何軒か残っているが、サンロードではそこまで古い家は見当たらない。とはいえ、昭和30年代の家並みだからレトロ感はこちらのほうが勝っているかもしれない。
戦時中に建物疎開になった地区と思われる。サンロードの両側ともだが、主に北側を50m位の幅で防火帯を設けたようである。戦後、そこに建て直された家が今になってもまだかなり残っていて、ちょっと懐かしい街並みを造りだしている。


竹沢フォット、一初。千住4-19
2003(平成15)年1月12日

金勝堂は今は「サン治療院」になっている。建物も建て直されたように思える。
一初は以前はせんべい屋だったようだ。「DPE写真材料」(「料」の字はなくなっている)の竹中フォトはショーウインドーに古いカメラを置いている。フィルムのDPEを請け負っているのかと思うが、こういう店を利用するのが本当の贅沢というのだろう。

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松岡自動車販売。台東区三ノ輪2-11。1989(平成1)年2月19日

淨閑寺の山門の前の通りの、淨閑寺のはす向かいにあった洋館。この辺りは台東区と荒川区の境で、音無川-思川の細流をその境界としているので、明治通りに出るまでは、細い通りが境界になったりしている。「三ノ輪の淨閑寺」といわれるが、淨閑寺の住所は荒川区南千住2丁目である。
この辺りで写真のような本格的な洋館は珍しいと思う。街中でこういう洋館があると個人医院であることが多い。この建物も医院だったものかもしれない。見たところ建築時から改装などはあまりしてこなかったようである。菱形の窓の桟には、なんとなく大正時代の雰囲気を感じさせるものがある。日本家屋のガラス戸なんかにも菱形の桟は使われていて、洋風のような和風のような……。欧米ではどうなのだろう。
いつ取り壊されたのか知らないが、今は駐車場になっている。

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ますや。台東区三ノ輪2-13。1989(平成1)年2月19日

前の道路は写真の辺りでは明治通りの裏通りだが、右へ行くとじきに明治通りを超えて土手通りと合流する。左後方のマンションの右に淨閑寺があり、写真左端、マンションの向かいに写っている小さい小屋のようなものは「台東区設置公衆便所」。古い家並みの裏はすぐ道路で、写真の家屋はかつての山谷掘りに建っている。昭和初期の建築と思われる看板建築もあり、この辺りでは土手の取り崩しと堀の埋め立てがほぼ同時に進められ、家屋もすぐに建ってしまったということだろうか。この家並みには居酒屋が多い。写真には「田吾作」と「ますや」がある。その間の看板建築の家は、1986年の地図では「河原堂」。



酒処あっちゃん。2005(平成17)年7月23日

ますやから右へいくと居酒屋の「みやび」「あっちゃん」の長屋がある。四軒長屋なのだろうか。長屋の右端の店は料理屋のような造りだが、住宅地図では「蓑」。写真右端の住宅は「石梅石材店」。
右の写真は長屋の裏側で、その前の道路は山谷掘りの河岸の道だった跡だ。明治の地図を見ると、山谷掘りの水源である音無川は写真の辺りで田圃への用水を分流している。それが思川(おもいがわ)で、田圃の中をジグザグに流れて明治通り沿いを隅田川へ向かう。用水といっても今でもその流れの跡が台東区と荒川区の境である。

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松井産業。台東区三ノ輪2-14。1989(平成1)年2月19日

場所は明治通りの大関交差点付近の裏通りだが、三ノ輪2丁目交差点で明治通りに合流する。裏通りはそこからまっすぐ土手通りに沿っていく形で続いている。まさにこの裏通りが吉原土手の北の端になるところだった。この辺りでは「三ノ輪土手」と呼ばれたという。
長屋構造でモルタル仕上げの看板建築と出桁造りで二階前面にベランダを設けた日本家屋の商店が並んでいる。関東大震災後に東京の下町に多く建てられた小さな店舗の代表的なタイプである。
営業しているのかどうか分からないが、写真から店名を読み取ると、看板建築は「栄基礎」と「松井産業」(ガラス戸に「サッシ」の字がある。ガラス屋か)。出桁造りの家は住宅地図では松井産業。家の右に材料や道具を置くために屋根を架けている。写真の建物はたぶん現存している。

2005(平成17)年7月23日

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