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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




H邸。大田区山王2-35。2009(平成21)年4月12日

ジャーマン通りのすぐ裏手にあった洋館。ジャーマン通りがいつ開通したのか、ネット上では調べられなかったが、1963年の航空写真にはあるので、1960年頃だろうか。
大森テニスクラブのテニスコートの辺りから入っている池尻川支流の谷は、ジャーマン通りの手前から東からの谷と合流して西へ向かう(散歩の途中>26大森山王の池尻川跡をたどる)。ジャーマン通り南の東西の路地は川を直線に整備した用水路の跡らしい。『goo地図>古地図』の1947年の航空写真ではその路地は黒く写っていて、水面が写っているのだろう。上写真の車止めのある路地がそれ。
都市徘徊ブログ>H邸』によると「構造・階数:木・1、建設年代:戦中〜戦後まもなく、解体年:2011(平成23)」。撮影時では建物は破損したところがあちこちに見られ、空家だったと思われる。


右写真の出窓は建物東側側面のもの。窓の上部は海をモチーフにしたステンドグラスが5枚はまっている。庭木が邪魔で側面の全体は撮れなかったが『都市徘徊ブログ』には、木が伐採されていてきれいに写っている写真が載っている。
右写真の左に車が写っている。それを見たときはまだ住んでいる人がいるのかと思ったが、この車は「日産ブルーバード312型」のようだ。1961-63年に発売された車だから、動かなくなって久しいと思われる。



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有限会社しみず。大田区山王2-22
2009(平成21)年4月12日

当ブログ前回の「階段下の家」の隣(上)にあった家。表札は「有限会社しみず」で、Googleマップでは「しみず文法具店」としている。店舗ではないから、会社の住所となっているのだろう。昭和22年の航空写真に写っている建物のようなので戦前築の民家と思われる。
2022.10のストリートビューでは、家は取り壊されて整地されている。マンションが建つのだろうか。

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階段下の家。大田区山王2-22
2009(平成21)年4月12日

JR大森駅西の台地は大森テニスクラブのテニスコートの東が最も標高が高いらしく、地形図に23mの記載がある。そこから北へ谷が入っていて、池尻川の支流になるらしい(散歩の途中>26大森山王の池尻川跡をたどる)。谷の西側の裾沿いにジャーマン通りに出る道路がある。その道路から台地へ上がる道は2本あるがいずれも階段。周囲は高級住宅街で、割と広い敷地に建つ立派な家が目立つ。
写真の家は南の方の階段(家の後ろにある)の下にあった。すでに空家かも知れない。ストリートビューで見ると、2016年頃に取り壊されて駐車場にしているようだ。

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金森邸。大田区山王3-34
2009(平成21)年4月12日

当ブログ前回の鹿島邸の裏にある斬新な外観の住宅。南から谷が入り込んでいて、その斜面に立地している。
『日本近代建築総覧』に「金森誠也邸、建築年=昭和9(1934)年、鉄筋煉瓦造3階建、設計=金森誠之(自家)、備考=鉄筋煉瓦は工学博士である設計者の特許 ○」で載っている。
金森誠之(かなもりしげゆき、1892-1959)はウィキペディアによると、河川技術者、内務官僚。1915(大正4)年、帝大土木工学科を卒業、内務省に入省。東京土木出張所に勤務した。川崎河港工事に携わり、その時の「川崎河港水門」(1928年)が現存する。
金森邸は唯一の建築設計。「法面地に建てられているので三階建てのようにみえるが、実際は地下一階、地上二階で得意の鉄筋煉瓦構造」(ウィキペディア)。

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鹿島邸。大田区山王3-34
2009(平成21)年4月12日

京浜東北線の大森駅の西を、平行して池上通り(都道421号)が走っていて、駅の周辺は商店街になっている。通りの西はすぐ台地が迫り写真の屋敷もその台地に乗っている。標高は20mに近いと思われる。
写真の洋館は『日本近代建築総覧』に、「鹿島泰子邸、建築年=昭和8年、木造2階建、設計者=村田、備考=設計者は三菱地所重役」で載っている。戦前からの高級住宅地だった山王を忍ばせる1件だ。補修がしっかりとされているのか、戦前築の家とはみえない程きれいな状態だ。

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麻布郵便局。港区麻布台1-6。2011(平成23)年9月13日

麻布郵便局が入っていた「日本郵政グループ飯倉ビル」は現在、再開発で超高層ビル(64階建、高さ325m)の建設中だ。計画は1989(平成元)年からで、2019年8月着工、2023年3月竣工予定という。
麻布郵便局の建物は「逓信省貯金局」の庁舎として1930(昭和5)年に竣工した。設計は大蔵省営繕管財局、施工は銭高組。RC4階地下1階建。平面は中庭のある「円」形。巨大な官庁建築で、外壁はスクラッチタイル貼りだったと思われるが1984-87年の改修でタイルは全面貼り替えられている。各所にアールデコ風のデザインが見られる。
建設当時の住所は麻布区飯倉町6丁目、旧住所は港区麻布飯倉町6-13。外苑東通りを都電が走っていたときは麻布郵便局の前に「飯倉片町」電停があった。都電は33系統(四谷3~浜松町1)、明治45年開通、昭和44年10月廃止。
1943(昭和18)年から逓信省の本庁庁舎となり、戦後、1949(昭和24)に逓信省は廃止されて郵政省が新設されると郵政本省庁舎となり、霞が関に移る1969(昭和44)7月まで使用された。その後「飯倉分館」として使われてきた。2007(平成19)年10月、郵政民営化後は、郵便局株式会社→日本郵便株式会社(2012年10月)が「日本郵政グループ飯倉ビル」の名称に換えて所有した。(『ウィキペディア>麻布郵便局』、『ザ・AZABU Vol.16(2010.12)』)




麻布郵便局
上:2011(平成23)年9月13日
左:2014(平成26)年4月23日

左写真は東京タワーより撮影。麻布郵便局の後(写真右)の低層のビルが建っている場所は、一段低い谷地形で、「我善坊谷」という名前がある。住所は麻布台1~4、旧住所は「麻布我善坊町」。再開発の地域なので、今はビルも住宅も取り壊されて高層ビルの建設中。
「我善坊(がぜんぼう)」という妙な地名の謂れが気になるが定説はないらしい。一応、誰だか分らないが座禅をする坊さんからという説と、龕前堂(がぜんどう、荼毘所)からという2説があるという。

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岩﨑家玉川廟。世田谷区岡本2-23。2000(平成12)年1月27日

静嘉堂文庫と同じ敷地の「岡本静嘉堂緑地」の丘陵の上にある納骨堂。岡本静嘉堂緑地は南の丸子川と北の谷戸川に挟まれた半島状の場所。現地の案内図に「国分寺崖線の一角にあり、もとは岩﨑家が所有する庭園であったものです。昭和20年頃までは庭園として維持管理がなされていましたが、その後、人の出入りもなく、ほぼ自然状態のままにあったため、貴重な自然が残されています。」とある。
岩﨑家廟は、1910(明治43)年に岩﨑小彌太(三菱財閥四代目総帥)が父である岩﨑彌之助(二代目総帥)の三回忌に合わせて建設した。設計はジョサイア・コンドル。静嘉堂文庫を設計した桜井小太郎の師だ。そうすると、施工は上遠組(『北寺尾散歩(3)上遠牡丹園』)が連想されるのだが、これはなんともいえない。

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静嘉堂文庫。世田谷区岡本2-23。2000(平成12)年1月27日

静嘉堂文庫美術館は南の丸子川と北の谷戸川に挟まれた海抜30mほどの丘陵に建っている。丸子川は江戸初期に整備された六郷用水。台地の裾に沿って流れているので、南の野川との間の田畑に水を供給していたのだろう。静嘉堂文庫のすぐ東で、丸子川に合流する小川が谷戸川。谷地形を流れてくる自然河川だ。
静嘉堂文庫美術館は三菱の岩﨑彌之助と岩﨑小彌太の父子二代によって収集された東洋古美術品を中心に収蔵した美術館。最も有名な収蔵品は「曜変天目」の茶碗で、見学者のほとんどはそれが目当てと思われる。ぼくはここでそれを見たのかどうか覚えていない。
「文庫」は大正13年(1924)、小彌太が岩崎家納骨堂があった地に洋館を建てて古典籍を収蔵した。RC2階建てスクラッチタイル貼り。イギリスの郊外住宅のスタイルである。本の閲覧・研究の為の施設で、「書斎建築」というそうだ。設計は桜井小太郎。施工は『日本近代建築総覧』に上遠喜三郎とある。
桜井小太郎(1870-1953)はジョサイア・コンドルの設計事務所で指導を受けたコンドルの弟子。また、イギリスに留学して建築を学んでいる。岩﨑小彌太も明治33年イギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業した。静嘉堂文庫の外観は二人の趣味が一致した結果だ。
施工の上遠喜三郎は、早稲田大学會津八一記念博物館や同演劇博物館の施工者、上遠組のこと(『北寺尾散歩(3)上遠牡丹園』)。



静嘉堂文庫南側。写真左に収蔵庫。洋館の裏側にある収蔵庫は1930(昭和5)年に建てたものらしい(『静嘉堂』)。2000(平成12)年1月27日

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路地のお屋敷。大田区山王4-1
2009(平成21)年4月12日

当ブログ前回の「尾根道の洋館」の向かい側にL字形に路地が入っている。そこに瓦屋根をつけた立派な門を構えたお屋敷があった。建物は庭木に遮られてよく見えないが2階建ての大きな和風住宅で、門の近くに洋館が見える。「洋館付き住宅」というものだろう。玄関の横に洋間の応接室を造ってその外観を洋館風にするのが多いから、この家もそうなっていると思われる。
裏(南側)の庭が広く、その端は大谷石の石垣で、一段低い裏の道路に面していた。東方向の一方通行だが、西へ行くと弁天池(山王厳島神社)を回り込んで環七通りに出る道路だ。こちら側には門はなかったようだ。
ストリートビューで見ると、写真の住宅は2013年頃に取り壊され、2014年から2016年頃にかけて、8棟の住宅が建った。

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尾根道の洋館。大田区山王2-13
2009(平成21)年4月12日

池上通りの、大森駅の250m南から闇坂(くらやみざか)を上っていくと、台地の上から道はほぼ平坦になり西へ続いている。20mの等高線に乗っていて、標高21~22mほどだろうか。やがて環七通りの谷へ下りていくのだがこの道路の北と南は谷が入っていて500mほどの尾根道である。北の谷はジャーマン通りが通り、南の谷は弁天池がある。両方が環七通りの谷を造った内川の支谷だ。
写真の洋館はその尾根道の中程にあった。家の裏は大森テニスクラブのコート。
大森テニスクラブは大森射撃場の敷地にコートを造って1923(大正12)年に創立された。『大森テニスクラブ>クラブの歴史』によると、大森射撃場は1937(昭和12)年に「周囲も宅地化が進み、実弾射撃には適さない場所となったため、敷地の三分の二を分譲地とし、テニスコートだけを残して射撃場は鶴見の北寺尾に同年移転しました」とある。写真の洋館がそのときの分譲によるものとすると、昭和15年頃の建築になりそう。
2014年頃に取り壊されて、その後現在の3軒の家が建った。お屋敷の細分化は現在も続いている。

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