ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東海館、ケイズハウス伊東温泉。静岡県伊東市東松原町。2015(平成27)年1月19日

東海館は伊東温泉を代表する旅館だったのだろうが、1997(平成9)年に廃業、建物は伊東市に寄贈された。社内旅行などの団体客が絶えてしまうと大きな旅館の維持はむずかしいのだろう。それにしても市に寄贈してしまうとは、オーナーが古くからの当地の人だったからだろうか。伊東市は建物に保存改修工事を施して2001(平成13)7月に観光文化施設としての「東海館」を開設した。その歴史や見どころは『伊東観光協会>東海館』に詳しい。
東海館は1928(昭和3)年の創業。河合家別荘(木下杢太郎の縁者)の跡地に旧館(東側部分)を建てた。1933(昭和8)年の県道開通、1935(昭和10)年の熱海~網代間の伊東線開通による団体客を受け入れるため、1938(昭和13)年には新館を建てる。望楼は戦後の1949(昭和24)年に増築されたもの。1961(昭和36)年には狩野川台風で護岸の石垣が決壊、建物も改修しなければならなかった。『狩野川台風の爪あと』でその時の写真が見られる。


東海館。2015(平成27)年1月19日


ケイズハウス伊東温泉。伊東市東松原町
2015(平成27)年1月19日

東海館の隣の、やはり木造3階建ての元旅館。以前は「いな葉」という旅館だったが、2007(平成19)年6月に廃業、それをケイズハウスが買収して2010(平成12)年8月「ケイズハウス伊東温泉」を開業した。外国のバッグパッカーを対象にしたホステルである。玄関のガラス戸に「温泉旅館/以奈葉」の字を残しているのがいい。
建物は1925(大正14)年頃に「大東館」として建てられたもの。望楼のある西端部は昭和4年頃、3階は昭和12年頃の増築という。『じゃらんカメラ』によると、創業者は「大正末期に当時炭屋を営んでいた稲葉惣次郎」で、戦後、大東館を買い取ったのが東海館の創業者である稲葉安太郎ということだ。両人は親戚関係にある。戦後、大東館は現在地(末広町2)へ移転し、1948(昭和23)年4月に「いな葉」が開業した。
建物は1998(平成10)年に国登録文化財に指定された。東海館が伊東市の文化財にしか過ぎないのがどうも納得できない。

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小田原屋金物店旧店舗、丸加米穀店
静岡県伊東市東松原町
2015(平成27)年1月19日

東松原町(ひがしまつばらちょう)は伊東大川(松川)の河口から、いで湯橋までの北側に位置する。
小田原屋金物店は国道135号の旧道にあり、松川にかかる大川橋を渡るので写真の辺りは観光地図に「大川橋通り」とある。写真の店舗の向かい側にわりと新しそうな建物で営業しているので、出桁造りの家の方は閉めてしまったのだろう。

丸加商店(米屋)は大川橋通りの大川橋交差点を東へ、山喜旅館がある方へ入ったところにある。立派な出桁造り・寄せ棟屋根の建物だ。なまこ壁の装飾はやりすぎのような感じがしないでもない。繁華街からは外れた路地の中にこんな立派な店舗を構えているのが不思議だ。大きい旅館と提携しているのだろうか。



山喜旅館。伊東市東松原町。2015(平成27)年1月19日

松川の沿岸には大きな旅館がいくつか並んでいるが、山喜旅館は川から少し離れた場所にある。木造3階建て、入母屋屋根の大きな建物だ。山喜旅館は昭和15年の創業で、建物もそのときのもの。2階の窓は大広間(宴会場)のもので、3階の窓は客室の前の廊下のもの。設備が古くなってしまったためか、今は格安旅館として営業しているようで、合宿には適当という。

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優美堂額縁店。千代田区神田小川町2-4。1988(昭和63)年1月15日

靖国通りの小川町交差点の少し西。写真の家並みは、左から、ヴィクトリアスポーツ本館(写真では「Lady’s Sports」)、原久(はらきゅう)洋服店、足立商事、優美堂、ムラサキスポーツヤング館。
優美堂の富士山の看板が目を引く。これがほんとうの看板建築、などとつまらないフレーズが浮かんでしまう。看板の「額縁」の縁の字の編が木編なのが特徴。独自に作成した字なのだろうか。靖国通りの北側は、だいたいが空襲からの焼失を免れているのだが、小川町2丁目の2・4番地は焼失したようである。南の錦町からの火事が靖国通りを超えて延焼したのかもしれない。現在は看板の絵と字がほとんど消えかかっているのに修復する気はないらしい。閉店が危惧される。
原久洋服店はテーラーだから、主に注文を受けて制作する店なのだろう。学校の制服も受注しているから、経営も安定しているのだろう。商店街のサイトに「お茶の水に店を構えて80年」とあった。昭和10年頃の設立である。現在はヴィクトリアと一緒にフィールドクレストビル(10階建、1994年完成)を建てた。

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長崎金物店。千代田区神田小川町3-2。1988(昭和63)年1月15日

前の通りは靖国通りで、写真右の二階建ての建物が平和堂靴店、中央の角のビルは小川町薬局。間の横町を北へ入ると太田姫稲荷神社の横を通るお茶の水仲通り。写真左の茶色の看板建築が長崎金物店。
平和堂靴店(神田小川町2-4)は熱心な顧客が多かったようで、ネット上で閉店を惜しんだ書き込みがいくつも見られる。大正12年創業としたサイトもあった。建物は戦後のもの。10階建ての平和堂ビルに建て替えられたのが1993年9月、閉店したのは2006年3月だ。今はビルの名称も「いちご神田小川町ビル」と変わってしまった。「靖国通りから平和堂靴店の角を入って」というふうにも使われた。
長崎金物店と小川町薬局は昭和25年頃の火保図にすでに出ている。戦前築の看板建築と思われる長崎金物店は、ビルに建て替えられて「長崎商会/かなものや」として続いている。その左の看板建築は撮影時はスキーショップだったらしい。現在も建物はそのまま残っていて立喰寿司の「魚がし日本一」になっている。
写真左端は石田ビルというが、その左の路地を入ると「天心館ビル」がある。『ビル業界四季報第525号』の「株式会社天心館」によると、昭和46年に建てた3階建てのオフィスビルを平成17年に5階建てに建て替えたものだ。天心館は「戦前は江戸川橋牛込天神町にて旅館を経営していたが、戦火で家屋を焼かれ、戦後に現在ビルが建つ神田へと落ち着き旅館経営を再開した。……昭和28年に、「株式会社旅館天心館」を設立、宴会場を兼ね備えた学生向け旅館として経営を行っていた。当時は明治大学や中央大学の「バンカラ」が飲んで騒ぐ活気ある学生街だったという」。1986年の住宅地図の「旅館天心館」という記載は会社名で旅館だったわけではないらしい。

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祝学生会館開館絵葉書カバー、絵葉書表のフォーマット

駿河台にあった中央大学が八王子市の多摩キャンパスへ移転して、駿河台校舎閉校式が行われたのは1980(昭和55)年3月22日だ。当日は雪が降ったそうだ。ぼくは当時まだ古い建物を写真に残そうなどとは思いつかず、自分で撮った写真はないので、1967(昭和42)年に中央大学が発行した絵葉書を紹介する。「学生会館開館」を記念したものだが、この学生会館とは生協などが入った「小川町校舎」のこと。発売したものなのかどうかは知らない。ぼくが入手したのは在学証明書を取ったときに窓口でくれたのだ。以下、説明文の英文は絵葉書の表側から。

中央大学二号館 2nd Building
The oldest building on the campus. Classrooms for the Departments of Law, Economics and Commerce are located in the building.
『日本近代建築総覧』では「中央大学、神田駿河台3-9、建築年=1926(大正15)年〈8月15日〉、構造=RC3階建〈地下1階〉、設計=阿部美樹志、施工=大倉土木」。4階は増築したもので、中央大学公式サイトの年表に「1952(昭和27)年9月14日、駿河台校舎本館4階増築工事(一般教室3、大学院研究室2、一般学生研究室1)落成式・暖房装置竣工式を挙行」とあるのに当たるのではないかと思う。


中央大学三号館 3rd Building
The Auditorium. Built in commemoration of the University’s founding, seating 3,000.
『総覧』では「中央大学講堂、神田駿河台3-11、建築年=1935(昭和10)年、構造=SRC4階建、設計=阿部美樹志、施工=大倉土木」。ゴシック様式の建物は二号館や図書館に合わせたものだろうが、昭和10年に建てられたとは思えない外観だ。ぼくは見ているわけだがまるで覚えがない。関心がないとそういうものなのだろうか。創立50周年を記念して建築された。普通は「大講堂」といったらしい。


左:中央大学四号館、右:五号館
4th Building : Lecture theaters and smaller rooms for seminars.
5th Building : Classrooms chiefly for use by the Literature Department, 32 study rooms for the faculty and language laboratory facilities.
四号館は1964(昭和39)年の4月の竣工。6階建地下1階、大階段教室3・小階段教室4・普通教室25。五号館は同年8月の竣工。10階建地下2階、研究室32・視聴覚教室1・ヒヤリング教室2・普通教室21・図書室1他。


左:中央大学学生会館、上:理工学部校舎
The Students’ Union : Center of campus activity. Club rooms, meeting rooms, a dining hall, the Co-op and the Health Service.
学生会館は小川町校舎のこと。中央大学公式サイトの年表に「1966(昭和41)年6月 30日、学生会館完成(小川町校舎、地下1階・地上6階、延2197.9坪)」「1967(昭和42)年 1月 28日、学生会館入館式を学生会館6階大集会室で挙行」とある。
1978(昭和53)年3月に敷地・建物をトヨタ自動車工業へ売却、今も「トヨタお茶の水寮」として使われている。中央大学の遺構といっていいものだろうか。

Korakuen Building : Classrooms for the Department of Science and Technology. 96 study rooms, 118 laboratories.
理工学部校舎は後楽園キャンパス(文京区春日1)にある。写真の校舎が現在の1号館なら残っているのだが。

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榎本歯科医院。千代田区神田駿河台1-2。1985(昭和60)年2月24日

手前の通りは撮影時では大正海上火災保険本社ビル(現三井住友海上火災保険駿河台ビル)の敷地の西南の角の辺りで、その向かい側である。写真は取り壊しになるのも間近い頃だったらしく、1986年の住宅地図では「神田駿河台ビル(1986年竣工、7階建て)」に替わっている。写真の通りを左にいくとすぐ太田姫稲荷神社があるので、写真左の日本家屋はその宮司の家かもしれない。その奥のビルは馬事畜産会館だが、2003年に会館は中央区新川に移転している。
写真の洋館は『日本近代建築総覧』に「建築年=昭和3年、木造2階建て、設計=宮村次郎(大林組)」と出ている建物。
この洋館は『東京-昭和の記憶->神田淡路町~小川町p2』 に1977年に写された写真が載っている。割と広い範囲が写っている。洋館とNTT駿河台ビルの間に写っている3階建ての家は1977年の地図では「割烹福八」。

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日本大学理工学部1号館
千代田区神田駿河台1-8
上:1988(昭和63)年1月15日
左:1985(昭和60)年2月24日

写真の校舎は2001年1月に解体されて建て替えられた。新1号館は2002(平成14)年12月に竣工、ガラスカーテンウォールの7階建て(街路側は5階建てなので容量は大きくなったようには見えない)の、大学の校舎らしからぬビルで、旧校舎の重厚な趣から一転している。先代の形態を残そうとして変なものになるのよりも、いっそう潔いかもしれない。
旧1号館は『日本近代建築総覧』では「建築年=1929(昭和4)年、構造=RC6階建、設計=日本大学、施工=新工務所」である。『 日本大学理工学部一号館の記録』によると、設計者は「第1回卒業生の長井郁郎、江崎伸一、足立宗四朗ら」としている。理工学部は「1920(大正9)年、日本大学高等工学校(土木、建築)設置」が始まり。長井らが今の制度と同じ18歳でそこに入学したのだとすると、当時長井は27歳になってしまう。ほんとうに30歳余りだったのだろうか? 
既サイトでは、外観は、ポインテッドアーチや柱の垂直線を強調したゴシック様式に、スカイラインの装飾帯による水平線の協調というルネッサンス様式を加えた折衷様式、としている。また、竣工時は外壁は白タイルだったというのが興味深い。『 消えた近代建築>日本大学理工学部一号館』では、「外壁の茶色のタイルは、昭和40年代の学生闘争後の修復時に貼られたものらしく」と推定している。このサイトには向かい側のビルから見下ろして撮った写真があり、休憩所になっていた屋上や、引っ込んでいて路上からは見えなかった6階の形が分かる。
都市徘徊blog>日本大学理工学部1号館』によると、ポインテッドアーチの正面玄関は新1号館のエレベータホールに保存展示された。このサイトの旧1号館の写真は東側の全部が入るように写されていて、その坂道を歩く学生と思われる若者やパーキングメータにずらりと止まっている車もとらえられていて、当時の雰囲気が伝わってくる。



日大歯学部大学院。神田駿河台1-8。1987(昭和62)年1月1日

理工学部1号館とYWCAの間に建つビルは今も健在だ。今の表札を見ると「日本大学歯学部/総合歯学研究所」「1号館」「日本大学大学院/歯科研究所」と英語表記のものの4枚がある。昭和30年代の建築らしいからいつ建て替えられてもおかしくないのだが。今は外壁のタイルが張り替えられてわりときれいな外観である。

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鈴蘭荘。墨田区墨田3-7。左:2009(平成21)年3月29日、右:2008(平成20)年12月6日

玉の井本通りにあった玉の井のカフェーだった頃の外観をよくとどめた一軒として、サイトでよく取り上げられている建物だ。2013年には取り壊されて、今は住宅に建て替えられている。『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)の「昭和28年頃のカフェー街」の地図では、「第二ナンバーナイン」で、「 ナンバーナイン」が花園通りにあった。「鈴蘭荘」は1968年の住宅地図から。



左:関口食品店、右:喫茶ナナ。墨田3-7。2013(平成25)年4月5日

鈴蘭荘の隣だが鈴蘭荘は取り壊されて側面が見えている。ベランダがあるのでカフェーだった面影が感じられる。店名は1985年の住宅地図から。その地図では鈴蘭荘は「野沢クリーニング」だ。「昭和28年頃のカフェー街」の地図では、「花園」で、喫茶ナナとした石張りの壁の家が「弁天」。その家も今は住宅に建て替えられた。
これらのカフェーは赤線廃止後はバーなどに転業したようで、1968年の住宅地図には「バーパリ―、コーヒーナナ、バーリウ」の記載になっている。

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憩。墨田区墨田3-12。2013(平成25)年4月5日

玉の井が赤線街だった頃は「本通り」の名称があった通りの中ほどの角の家。写真右側は本通りから北へ入る路地で、「銀座通り」といった。銀座通りの左右の家は、昭和22年の航空写真に写っていて、戦前の建物としていいのかもしれない。
『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)の「昭和28年頃のカフェー街」の地図では、写真の家は「憩」というカフェーだ。また、『赤線跡を歩く』(木村聡、ちくま文庫、2002年)の「不動産屋とお好み焼屋のある路地」の写真の家と思われる。その写真では角の入口は左右にタイルを張った円柱で飾られており、左右に開くドアの入口の欄間に「土地建物売買管理」の看板がある。



左:出桁造りの家。墨田3-12。2013(平成25)年4月5日
右:九十九。墨田3-12。2008(平成20)年12月6日

左写真は本通りにある出桁造りの家。1枚目写真の左端に写っている。たぶん戦前築の家で、この辺りでは古い日本家屋と分かる外観を残した家はほとんど見かけない。
右写真は銀座通りから南の本通りの方を撮ったもの。『玉ノ井 色街の社会と暮らし』によると、「赤線時代の玉の井ではここが一番の繁華街」だった。50m足らずの路地の左右に19軒のカフェーが立ち並んでいたという。「昭和28年頃のカフェー街」の地図では、写真左奥から「憩、三恵、美よし、マサミ、タンゴ、天竜、サロン山田」となるが、写真の家と対応させるのは困難だ。写真の奥に見える紺の日よけが「九十九」という飲み屋で、『赤線跡を歩く』の写真では「お好焼/美好」の看板が写っている家らしい。カフェーだったときの店名を引き継いだのだろう。九十九から緑のタイル張りの庇の家までは三軒長屋になるしい。

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三軒長屋。墨田区墨田3-13。2008(平成20)年12月6日

「本通り」にあったスナック・カドの横を北へはいったところで、赤線街だった頃は「花園通り」といった路地である。3軒の古い家が並んでいるが、よく見ると1階上部のモルタル壁が2軒分共通で、古い航空写真を参照すると3軒長屋である。『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)の「昭和28年頃のカフェー街」の地図では「松鶴、ロマンス、末廣」というカエーだ。ストリートビューで見ると、取り壊されて整地されているから、今頃は住宅が建ったかもしれない。


壺。墨田区墨田3-14
2008(平成20)年12月6日

三軒長屋から少し南にいった向かい側。看板に「おでん/お茶漬/壺(つぼ)」の文字が残っている。現在は完全に塗りつぶされてしまった。切妻屋根を直交させた特徴的な屋根は、昭和22年の航空写真に見えるので、戦前築の建物らしい。「昭和28年頃のカフェー街」の地図では「スミダ」というカフェー。

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