ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




加登屋。神奈川県足柄上郡山北町山北1825。2016(平成28)年4月22日

川村屋呉服店から東へ3軒先の加登屋。戸袋の看板に右から書きで「和洋御料理」とある。『4travel.jp>丹沢・大山旅行記(2010.04.09)』によると、元は旅館。山北町に出張してくる商人や会社員を相手の駅前旅館だったのだろう。料理店も今は営業していない。



村越木材。山北町山北1825。2016(平成28)年4月22日

加登屋から1軒おいた並び。切妻屋根の先端を折り曲げたような屋根は「はかま腰屋根」という。それが2棟並んでいる。「村越木材」だった建物。駅前商店街の通りから県道76号までの広大な敷地に木材を置いて営業していたようだが、たぶん10年前くらいには廃業してしまった様子だ。今は写真の2棟を残して敷地はだだっ広い駐車場のようになっている。写真の右の棟が事務所、左が住居と思える。下の写真が事務所の裏側。
古い航空写真を見ると、県道沿いに大きな倉庫のような建物がある。たぶん製材所だった建物だろう。『写真撮っけど,さすけねがい?>2011年4月12日 御殿場線 桜の山北 春爛漫』に、村越木材の、木材を立てかけて置く屋根のある置場と、一部だが県道沿いにあった建物が写っている写真がある。この写真も貴重だが、町営マンション「サンライズやまきた」建設のため取り壊された飲食店などが記録されているのが凄い。


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横山酒店。神奈川県足柄上郡山北町山北1927。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口から東西に御殿場線と平行に通っているのが「山北駅前商店街」。駅前広場に対して洋館風の「タケイ美容室」と「木川薬局」の間を県道76号線に出る通りが北に向かっている。そこを境に商店街は東西に分けられる。「東大通り」のほうは、県道74号にぶつかる400mほどの通りかと思うが、西大通りより商店街という感じは希薄である。
駅前のタケイ美容室の隣が、出桁造りの「横山酒店」。『横須賀建築探偵団>建築探偵のアングル38』によると、タケイ美容室と同じく1928年(昭和3年)に建てられという。2階の屋根の下に出桁造りにしたような庇があって、屋根が二重に見える。



川村屋呉服店。山北町山北1927。2016(平成28)年4月22日

山北駅前商店街の東へ行った、県道76号へ出る横丁との角が「趣味のきもの」と書かれた白い暖簾がしゃれている「川村屋」。横の壁は1階が石積みだか石貼りだかで、2階が漆喰だかモルタル塗りで、右から書きで「川村屋」のレリーフがある。老舗なのだろう。正面横に蔵が付いている。



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露木米店。神奈川県足柄上郡山北町山北2799
2016(平成28)年4月22日

県道76号線(主要地方道山北藤野線)の、山北駅入口交差点から西へ620mのところ。露木米店の店舗の右に富士急湘南バスの「萩原中」バス停がある。米店は正式には「露木勝兵ヱ商店」で、入り口のガラスドアには「スーパーかつべえ」とあり、食品全般をそろえているらしい。会社の HP には「明治28年創業」をうたっている。
なんとも変わった屋根で、なにも知らなければ最近建ったコンビニかとも見えてしまう。『神奈川の近代建築探訪』の「露木勝兵ヱ商店(スーパーかつべえ)」には「全体を赤いトタンで囲われ、屋根もまた、黒のトタンで葺かれていますが、ふっくらとドーム状に仕上げられていて、その四隅には突起状の装飾があります」とあり、その通りの写真である。現在では屋根と壁がきれいに塗り直されている。突起物の装飾が取り外されたのが残念だ。『神奈川の近代建築探訪』では、店の方の話で100年くらいは経つ建物と聞いて、昭和はじめ頃のものかと推定している。
店のHPに、大正初期とする写真が載っている。それが現在の店舗とほとんど同じ外観でである。明治末に建てられた建物ということになりそうだ。その写真では前面が8枚のガラスの引き戸で、屋根の下と庇の間の壁には横長の回転窓が4枚並んでいる。なによりドーム状の屋根が不思議で、どこから出てきた形なのだろう? 明治期に建った洋風の店舗建築だとすれば、なんとも面白い建物が今に残っていることになる。



露木米店の後ろ。住居だろうか? 店舗だったようにも見える。角にあるタバコ自動販売機は初めて見るタイプだ。右上に硬貨投入口、その下に釣銭が出る穴。選択ボタンは前に出ている部分の上の縁に並んでいるボタン? 傾斜している面に見本が入っていたのだろうか? 商品は押したボタンの下に出てきたのだろうか?



関鉄次郎商店。山北町2796。2016(平成28)年4月22日

露木米店の裏手にある平屋の看板建築。セメントなどの土木建築資材の卸売業の店。あっさりした外観だが、前面中央の看板と軒灯は貫禄がある。昭和初期の建物だろうか?

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電話線専用橋のレンガ小屋。中央区本石町3-1。1985(昭和60)年12月31日

外堀通りの日本銀行新館の向かい側にあった正体不明のレンガ小屋だったが、『東京路上細見2』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)にこの物件が述べられていた。工事中の新常盤橋の仮設橋から見た光景に「電話線専用橋六号線」を挙げた後、次の記述があるので、引用する。

(外堀通りを新常盤橋から旧常盤橋へ)少し行くと右手に明治時代さながらの赤レンガ積みの小さな箱小屋がある。人の背丈ほどの高さに色あせた青色の三角屋根を葺き、そう大きくはないが頑丈な観音開きの鉄の扉がついている。よく見ると〶マークがある。うしろを調べると、さっき見えた電話線専用橋があった。おそらく中継所か何かであろう。それにしても、こんな古めかしいものが現在でも活用されていようとは思わなかった。

活用はされていないように見える。小屋は歩道のすぐ脇にあり、河岸からは10数メートル離れている。電話線は小屋から地下に入ったのだろう。専用橋を日銀の方へ延長すると本町通りへつながるが、あるいは架橋した場所と関係するのかもしれない。本町通りは日銀新館を建てるときに新館の北に付け替えられたので、今は専用橋を延長しても日銀新館に突き当たってしまう。
現在、小屋は跡形もなく、「中央区立本石町公園」となっている。ベンチがいくつか置かれているだけでほとんどただの原っぱ。レンガ小屋があったのは公園の隅になる場所で、邪魔になるわけでもなく、残しておけばそんな公園でも名所になったと思うのだが。

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新常盤橋。中央区日本橋本石町4。1984(昭和59)年6月24日

新常盤橋は江戸通りの日本橋川に架かる橋で、大手町2丁目(写真手前)と日本橋本石町3・4丁目の間を渡している。写真奥のビルは新常盤橋交差点角の「協栄生命ビル」。その右に常盤小学校がわずかに見える。現在の橋は架けなおされたもので、1988(昭和63)年3月に完成した。
大正12年の関東大震災より前に架けられて、昭和末までに残っていた橋は都内ではごく少なく、新常盤橋はその貴重な橋の一つだった。『東京の橋』(伊東孝著、鹿島出版会、昭和61年、2200円)では、「三 新常盤橋―ファサード保存と橋の拡築」という節を設けて述べられているので、紹介する。
新常盤橋は1920(大正9)年3月に架設された3径間(3連アーチ)のコンクリート造アーチ橋。「円形で抜いてある高欄や橋灯をかねた石の袖柱、および帆船の船首をモチーフにした(と思われる)橋脚の水切りに特徴がある」。『帝都復興事業誌 土木編上巻』には、「復興事業によって架設された橋で、1927(昭和2)年12月着工、1929年2月竣工」で、建築費が他と比べて非常に安いのが気になる、という。『日本土木史 大正元年~昭和十五年』には、関東大震災で「クラウン付近に河川方向に亀裂をみたが、十分に安定状態にあって墜落の危険は絶無…」とある。そこから筆者は外観保存しなが拡築したのではないか、と考える。解体工事中の現場へいって調べると、橋は下流3分の1程度拡築されていた、と分かり、土台の松杭の状態から橋の架かっていた場所の地盤のよさを確認する。
ストリートビューで日本橋川をいく船から撮った画像がある。それを見ると現在の橋の4本の親柱から、川との間の柵に、旧橋のコンクリートの欄干が使われているようである。


『東京の橋』より
キャプションは「特徴的な新常盤橋の高欄と水切りデザイン」

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中央区立常盤小学校。中央区日本橋本石町4-2。2005(平成17)年12月12日

『日本近代建築総覧』では「区立常盤(ときわ)小学校(旧東京市常盤尋常小学校)建築年=1929(昭和4)年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=大林組」。
2010年に日本建築学会が中央区に出した『復興小学校7校舎保存要望書』によると、復興小学校をRC造で建てるにあたって、東京市は設計規格を作成した。その思想は、まず児童の健康と安全を図るもので、採光・通風(窓面積)、室内換気(天井高)、廊下幅・階段幅等を決めている。校舎はL字型平面を基本とするが、敷地面積が小さい場合はコの字型にしている。また、片廊下型の平面をもつ桁行 2.85m×梁間 6.90m(普通教室の 1/3の大きさ)の構造ユニットで、平面計画と構造計画を一体的に行うという設計システムを用いている。
校舎のデザインについては特別の規格は作らず、各設計担当者に任されたようで、学校ごとに特色が出てくる。常盤小は「要望書」に「L字型校舎と体育館を組み合わせた、江戸通りに開くコの字型の平面……隣接する常盤公園に面して、校舎と体育館の間にアーチ形の表玄関を設け、公園と一体的にデザインされていた(現在は後に増築されたプール等により校舎と公園は完全に分離されている)。柱形を外に見せない点は設計規格と異なるが、立面は水平線を強調したデザインでまとめられ、1階窓下までを粗石仕上げ、2 階窓下に胴蛇腹(現存せず)を設ける3層構成となっている」などとある。
「表現派風の意匠が随所に残っている」(『スーパーガイド 建築探偵術入門』(東京建築探偵団著、文春文庫、1986年、480円))のが外観の特徴と言われる。柱型を見せない平面的な立面が、設計者がこだわったところのように思える。



常盤小学校。左:2005(平成17)年12月12日、右:1985(昭和60)年12月31日



白旗稲荷神社。日本橋本石町4-5。1985(昭和60)年8月4日

常盤小の裏手にある神社。境内の「白旗稲荷神社来歴」に、「昭和49年2月、東北・上越新幹線東京駅乗り入れのための用地買収に応じ、現在地(本石町4-5-16)に移転現在に至る」とある。移転してくる前は写真の裏通りの左手、通りに出る角にあった。
写真右に「クラブ枯淡」が写っているが、今は建て替わった小さなビルに「天ぷら 板忠」が入っている。

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日本銀行本店別館(2号館)。中央区日本橋本石町2。1985(昭和60)年8月4日


日本銀行本店別館(3号館)。1986(昭和61)年2月16日

日銀本店別館は1938(昭和13)年に完成した。本館の増築部分で、完成時は本館を半分取り囲むようなL字型平面で、階数も5階建てなので、増築と言っても本館よりは床面積ではだいぶ広かったのではないかと思う。設計は長野宇平治。鉄筋鉄骨コンクリート造5階・地下1階建。外観のデザインは辰野金吾が設計した本館にほぼ忠実に倣っている。
別館の工事の内容については『日本銀行>広報紙「日銀」>2011冬28号「昭和期の本店増築と本館改修」』に分かりやすくまとめられているので、以下、その内容の一部を紹介する。
増築が決定されたのは1927(昭和2)年8月のことで、当時の日銀総裁は井上準之助で、二度目(昭和2年5月就任-昭和3年6月退任)。井上は1932(昭和7)年2月9日に小沼正に暗殺された。この血盟団事件のもう一人の犠牲者、團琢磨(三井合名理事長)の暗殺現場が、別館向かいの三井本館である。
増築は1~3期に分けられ、各工期で完成した建物を1~3号館と呼ぶ。1号館は1929(昭和4)年に起工、昭和7年に完成した。本館の裏に建てられた。新館建設のため、1970(昭和45)年と思われるが、取り壊された。その解体工事が大事で、発破用の火薬8トンを使ったというから乱暴な話だ。新館をもっと高層にして1号館を残せなかったかと思う。
2号館は別館の北側、中央の玄関を含む部分で、1935(昭和10)年の完成。別館南側の3号館は昭和13年に完成した。


日本銀行本店別館。1986(昭和61)年2月16日

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日本銀行本店本館。中央区日本橋本石町2。1986(昭和61)年2月16日

日本人による最初の本格的な西洋式の様式建築として、建築史の上でも最重要物件である。以下、主に『三幸エステート>都市の記憶>日本銀行本店本館』を参照して、日銀の役割などは別の機会に勉強することにして(たぶんしないと思う)、ハードの方、つまり建物について述べる。
本石町の金座跡地に本店を建てる計画が起こったのは、明治15年に設立されて6年後の明治21年。「明治23年(1890)9月より7年の 歳月をかけて明治29年(1896)2月に現在の日本銀行本店本館の建物が竣工する」。設計は東京駅が有名な辰野金吾。施工は分業請負。構造は「煉・石張・地上3・地下1」。「1階部分はほぼ完全な石造りで、2~3階部分は煉瓦を素材として外側に薄く裁断した花崗岩を貼り付けてある」。
外観は「様式は、ルネサンスともバロックともつかぬちぐはぐな折衷と評せられるが……」(『近代建築ガイドブック』〈東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円〉)、
「ルネッサンス様式にバロック的手法を加えた大建築で……」(『スーパーガイド 建築探偵術入門』〈東京建築探偵団著、文春文庫、1986年、480円〉)、
「構成的には装飾味の強いネオ・バロック建築様式だが、壁面などを中心にルネサンス様式の意匠が採り入れられており、……」(都市の記憶)、
などとある。ぼくなどにはよく分からないが、見る人が見ればなんとなく違和感を持つらしい。



日本銀行本店本館。1986(昭和61)年2月16日

辰野金吾の作品で、ぼくが見たことがあるものを以下に書き出してみた。
日本銀行本店(1896年、東京都日本橋区)、日本銀行大阪支店(1903年、大阪府大阪市)、国技館(1909年、東京都墨田区、1982年に解体)、奈良ホテル(1909年、奈良県奈良市)、日本銀行小樽支店(1912年、北海道小樽市)、中央停車場(現・東京駅、1914年、東京都千代田区)、大阪市中央公会堂(中之島公会堂、1918年、阪府大阪市)。

本石町は「ほんごくちょう」と読むが、『東京文学地名辞典』(槌田満文編、東京堂出版、昭和53年、4900円)では「ほんこくちょう」。『改訂東京風土図』(サンケイ新聞社編、教養文庫、昭和41年、560円)も同様だ。いつのまにか、大勢に押されて変わってしまったのだろうか?



日本銀行本店本館。1986(昭和61)年2月16日

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誠屋洋服店。千代田区神田神保町1-32。1985(昭和60)年8月4日

白山通りの神保町交差点から少し北にあった商店。戦後間もない時期に建った建物だと思う。誠屋洋服店は古い航空写真で見ると、何軒かの家をまとめて看板建築風のファサードにしたものらしい。写真では左側が2軒の別の店(1986年の住宅地図では「エビヤ」と「たつや」)になっている。「牛丼三二〇えん」の幟はどちらの店なのだろう? 誠屋の右は中華の「来々軒」と「三共薬品」。三協薬品の右が横丁との角にある「山久ビル」で、「山久洋服店」が建てたビルと思われる。昭和30年頃の火保図には「KK誠屋洋服店、来々軒、山久S服ヤ」が載っている。
Site Y.M. 建築・都市徘徊>Tokyo Lost Architecture>誠屋洋服店』で、1996年に撮影した誠屋の写真を見ることができる。店は1990年頃に閉店したという。いつのことか分からないが、木造店舗は取り壊されて「トヨタレンカー」になっていた。現在は、2018年8月に「出版クラブビル」が建った。
誠屋洋服店をネット検索すると昭和30年代の「千代田区広報」に名前が出てくる。「千代田区商店コンクール」の結果の記事で、商店の部の優良賞を受賞している。当時の店主・古屋直成氏がそういうことに熱心だったらしく、毎年応募しては優良賞を獲得していた様子である。なにを見て決めていたのかというと、「都商店コンクール」(誠屋は千代田区の代表の1店)では「店舗の構成、商品の陳列状況、採光照明、サービス、経営上の特徴」となっていた。

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カトリック神田教会。千代田区西神田1-1。1987(昭和62)年1月4日

『ウィキペディア』や『カトリック神田教会』などによると、神田教会は、明治政府がキリスト教の取り締まりを緩めるとすぐに活動を始め、明治7年には猿楽町に聖堂を建てたのを創立の時期としている。カトリック築地教会と共に最も古い教会だ。
現在の教会堂(聖フランシスコ・ザビエル聖堂)は昭和3年(献堂式は12月9日)に建設された。設計はスイス人建築家マックス・ヒンデル、施工は宮内初太郎。RC造2階建。「外観はロマネスク様式、内部はルネサンス様式という二つの建築様式を融合した建築物(ウィキペディア)」。
2002年「カトリック神田教会聖堂」の名称で国の登録有形文化財になった。『国指定文化財データベース』の解説文では、「バシリカ形式の三廊式聖堂で、半円アーチを基調とした開口部、ロンバルド帯風の軒蛇腹、四葉をモチーフとした胴蛇腹が外観を飾り、半円アーチのヴォールト天井と玄関脇に集会所を設ける平面を特徴とする」とある。
神田教会の周囲は昭和20年5月13日と20日の空襲で焼き払われた。司祭館やその他の建物は焼け落ちたが、聖堂だけは火の海に囲まれながらも風向きが変わり、ほとんど無傷で残ったという。



カトリック神田教会。1987(昭和62)年1月4日


カトリック神田教会。1983(昭和58)年9 月11日

一見、1枚目の写真と同位置から撮ったものに見えるが、こちらは裏側。『アクトデザイン凛太郎のブログ>神田神保町・猿楽町・駿河台辺りの散策(2008.01.17)』でも指摘しているが、前後が同じ外観というのは他に見たことがない。コンクリートの塀を廻らしているが、現在は鉄柵に替わった。

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