ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



マツシタ印刷。文京区大塚6-10
1987(昭和62)年2月22日

坂下通りに「君の湯」という銭湯がある。入り口が千鳥破風、その後ろに入母屋屋根で瓦を乗せた、戦前に建てられたと思われる日本建築の銭湯だ。1986年の住宅地図では君の湯の左が「萩本酒店」(出桁造りの商家と思われる)と「大日本愛国党本部」で、その左が写真の「岸野/マツシタ印刷」である。萩本酒店の後ろは「愛国党寮」。マツシタ印刷を含めて少し広い範囲の写真を撮らなかったことを後悔することしきりである。
1974年の地図では、写真の建物は「□(サ?)ンバートKK東京営業所」その右に「愛国党本部」、その右に路地があって、萩本酒店、薬湯君の湯。サンバートと愛国党の後ろの家が「赤尾」さらに後ろに「愛国党」「愛国党寮」の小さい家、という記載。
ネットで大日本愛国党を検索しても大塚の本部がどういうものだったか分かる記述はほとんどない。「赤尾の人柄のよさは自宅・愛国党本部周辺の住民にも非常に慕われていた。」(ウィキペディア>赤尾敏)、「文京区大塚にあった敏の自邸は取り壊され、現在は駐車場になっている(管理は実業部門の一つ、赤尾興産が行う)。」(ウィキペディア>大日本愛国党)というのがあった。

写真の建物は『日本近代建築総覧』に「マツシタ印刷(株)(旧岸野商店)、文京区大塚6-10-11、建築年=大正14頃、構造=RC3階建」とある。正面中央の額縁に残る文字は「……製造所岸野商店」だろうか。肝心の上の文字が読めない。
現在は「エクセレントシティ文京大塚」(7階建44戸、2015年3月築)が建つ。

マツシタ印刷の左に路地が入っている。今のマンションの横から後ろへ曲がって坂下通りと平行になるが、音羽川(水窪川)の跡である。音羽川はここで坂下通りを東に渡り、春日通りに近づく。『大塚地区町会』の大塚坂下北町会の紹介記事に、「(開運坂を)降りた道路は、昔、監獄新道 と呼ばれた。その向側には川が流れ、橋が架かっていた。その名も泪橋と名づけられ、渡って出て来る人は巣鴨監獄の方をのぞみ涙ぐん だと伝えられている。」とある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





窪田邸。文京区大塚6-11。2011(平成23)年7月10日

坂下通りの開運坂交差点のすぐ北にあった住宅。割と大きい住宅だが普通のものにも見える。窓の庇に瓦が乗っているのや正面の壁から出っ張っている4本の柱が変わっている。改装されてはいるが古い建物のような雰囲気もあって、とりあえず撮影して後日調べてみたら、『日本近代建築総覧』に「窪田恒夫邸、文京区大塚6-11-8、建築年=昭和18年、木造2階建、設計=窪田 恒、施工=窪田組、備考=当時内部和式,S40一部様式増築」というのがあった。
1986年の住宅地図では「窪田恒夫」で後ろの家が「窪田荘」。1974年の地図では「開運荘(窪田恒)」。古い航空写真で見ると窪田邸はコの字型の平面で、後ろのアパートは戦後に建てられたものらしい。窪田邸が竣工した昭和18年というと太平洋戦争が2年目に入った年だが、家を新築するどころではないといった状況まではいっていなかったのかもしれない。また、資材のストックがあったのだろう。竣工時の外観はどんなものだったのだろう?
現在は「新大塚駅前学生マンション(カレッジエスクエア文京大塚)」(7階建30戸、2013年築)というマンションに替わった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )







レンガ蔵。文京区大塚5-14。2011(平成23)年7月10日

坂下通りの「大塚先儒墓所下」と「開運坂下」の両交差点の中間にあった蔵。レンガ造りなのか木造レンガ貼りなのか、そして質屋の蔵かと連想がいってしまうが、なにも判らない。とにかくとっくに役目は終えていたと思われるのに最近まで残っていた。
現在は「プレシス文京大塚」(8階建24戸、2014年1月築)というマンションに替わった。




開運坂下の四軒長屋。大塚5-30
上:2011(平成23)年7月10日
左:2006(平成18)年12月6日

レンガ蔵から北へ少し行くと「開運坂下」という信号がある。その角のモルタル壁の看板建築の四軒長屋。越後屋酒店と洋菓子のバンビが店を開いている。右端の1軒はファサードが他と異なるので建て直しているかもしれない。
今、ストリートビュー(2016.01)を見たら越後屋が住居に建て替わっていた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





伊藤理髪店。文京区大塚5-14。1987(昭和62)年2月22日

坂下通りの「大塚先儒墓所下」交差点にあった銅板貼り看板建築。大塚先儒墓所(おおつかせんじゅぼしょ)は吹上稲荷神社の裏にあり、一つ南の信号、坂下通り交差点のほうが近い。
写真右の出桁造りの家(二軒長屋らしい)は1986年の地図では「ソーコ」で、1974年の地図では「吉田紙器印刷KK坂下寮」。銅板貼りの二軒長屋は両方ともしもた屋のようだ。床屋の看板建築は今も残っていて、1974年の地図では「伊藤バーバー」。その左(北)にモルタル壁の看板建築にした長屋。その中の1軒が残っている。
現在、出桁造りの家は「シルバーピア坂下通り」(平成6年開所)という施設も入るマンションに、銅板貼りの二軒長屋は「トゥールモンド文京」(3階建6戸、2010年3月築)というマンションに替わった。


銅板貼り看板建築。大塚5-14。2006(平成18)年12月6日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





小山酒店。文京区大塚5-14。2011(平成23)年7月10日

坂下通りの松本たばこ店の向かい側。小山酒店の建物は平屋かと見えてしまうが、看板の後ろに二階の窓が隠れていそうである。一階の天井も低いのだろう。昭和22年の航空写真を見ると、右の看板建築の家との二軒長屋だったようだ。『Kai-Wai散策>酒屋の軒下園芸(2005.09.15)』で、店を開いていた時の様子を写した貴重な写真を見ることができる。都内では最小の売り場面積の酒屋の一軒だろう。その「こんな感じ」に写っている自転車と上の写真の軒下の自転車とは同じものかもしれない。
現在は写真の古い3軒の家とその後ろにあった家をまとめて「ブランヴェール」(6階建て30戸、2013年8月築)というマンションに替わった。



ヨコタ理容院。大塚5-14。2006(平成18)年12月6日

1枚目写真右のヨコタ理容室の横の路地。手前のヨコタ理容室の後ろは玄関が二つあるアパートのような民家で、戦前からあるものだろう。その家の奥の入り口が店にしたように改装されている。なんの店か分からないが1986年の地図に「マロニエ」とある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





荒才酒店。文京区大塚5-22。2011(平成23)年7月10日

不忍通りから坂下通りに入って170m、春日通りの大塚五丁目交差点からの道路が坂下通りに出る交差点の西側の角が「荒才酒店」。その「坂下通り」交差点の方からの写真も撮ればよかった。建物は戦後のものらしいが、看板建築風の2軒の家を使っている。その左の方は「丸若ベーカリー」だった家である。写真左の出桁造りの家は「魚兼」という魚屋だったようだ。
現在、魚兼だった家は取り壊され、その左の家は建て替わり、荒才酒店との間にある家は取り壊された。また、Googleマップの航空写真を見ると、荒才酒店が建て直しの工事中である。



伊藤鉄工所。大塚5-22。2011(平成23)年7月10日

魚兼の隣が高島産業のビル、その隣が写真の町工場。1986年の地図に「伊藤鉄工所」とあるが今は操業している様子はない。右に1軒おいて「大正湯」という銭湯があった。1974年の地図では「大松湯」で、1980年前後にでも改名したらしい。いつ頃取り壊されたのか分からないが、今は時間貸しの駐車場だ。


松本たばこ店。大塚5-25
2006(平成18)年12月6日

荒才酒店から150m程北へいったところに残る出桁造りの家。昔の航空写真を見ると、左の家との二軒長屋だったようだ。その家は1974年の地図では「子守豆腐店」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






沙羅書店
神奈川県横須賀市上町(うわまち)1-45
2014(平成26)年2月28日

上町銀座商店街のオッペン化粧品の隣が沙羅書店という古書店。見ての通り古書店にしては間口が広い。但し奥行きはなく、裏に見えている家は「上町深田町会」の別の建物である。新しくなったアーケードの日よけのテントに「創業昭和24年」と書かれている。中に入ってじっくり書棚を見まわしたいのだが、時間を取られるし重い本を持ち歩くのもいやで、旅先ではまず古書店は無視する。店の様子は『古本屋ツアー・イン・ジャパン>沙羅書店』というサイトにレポートされている。本を積み上げているのは古本屋らしくていいのだが、この店はやりすぎだろう。もう少し整理して客が本を探しやすくしたほうがいいように思う。仕入れた本はなるべく多く店頭に置きたいという気持ちはよく分かるのだが。



東栄不動産。横須賀市上町1-45。2014(平成26)年2月28日

沙羅書店の隣は「極真空手横須賀道場」。しかしアーケードに吊るされている看板は「Bay Leaf(月桂樹の葉)」で、それが以前の店である。『食べログ』にまだ投稿記事が残っていて、インド料理のレストラン、つまりカレーの店だった。2006年1月に開店、2011年6月頃に閉店したようである。
極真空手道場の隣は「東栄不動産」。洋風の看板建築だ。『神奈川の近代建築探訪』では「日本共産党事務所」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





オッペン化粧品。神奈川県横須賀市上町(うわまち)1-45。2014(平成26)年2月28日

柳屋衣料品店とその南に続く上町銀座商店街。関東大震災後の昭和初期に建てられたと思われる銅板貼りの看板建築が2棟並んでいる。その左の家は空き店舗に見えるが「TANTI」の看板がアーケードから下がっていて、アーケードの日よけにもその文字が見える。今はその看板と日よけは外された。『神奈川の近代建築探訪』の写真を見たらメンズショップ(男性用衣料)だった。オッペン化粧品営業所のほうもTANTIとよく似た正面だが、上部の壁の模様と二階の窓の形が異なる。TANTIの窓は改修されているので、元はオッペン化粧品のような縦長の洋風な窓だったのかもしれない。



オッペン化粧品。横須賀市上町1-45。2014(平成26)年2月28日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





柳屋衣料品店。神奈川県横須賀市上町(うわまち)1-45。2014(平成26)年2月28日

県道26号(三崎街道)は上町1丁目交番交差点の辺りが平坂の頂上になる。写真の左奥がその交差点で、右のバス停は京浜急行バスの「平坂上」バス停。別の路線のものだと思うが写真左手にも平坂上バス停がある。
「柳屋」という衣料品店が3軒の家(写真右枠外にもう1軒ある)を使って長く続いている。柳屋は横須賀市を中心に展開している衣料品店で、写真の店は「上町店」。昭和25年11月にこの地に創業している。
下の写真は柳屋の裏手。民家が並んでいるわけではなく、表側の建物とは異なるのかもしれないが、やはり柳屋のもの。倉庫か従業員の寮だろうか。
この裏通りは上町と深田台の境界になっている。三崎街道の旧道になるのかもしれない。



柳屋の裏。横須賀市上町1-45。2014(平成26)年2月28日



三浦ドライクリーニング店。1枚目写真の右手の家並み。古い看板建築が並んでいる。
横須賀市上町1-45。2014(平成26)年2月28日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





タンジ理容店、ブックス2106。神奈川県横須賀市上町(うわまち)1-1。2014(平成26)年2月28日

平坂の中ほど、東側に並ぶ古そうな店舗。今、ストリートビュー(2017年1月撮影)を見ると、看板建築にしているタンジ理容店はアーケードに吊るされた看板がなくなっていて、廃業した様子だ。



宮城整骨院、トコロ薬局。横須賀市上町1-12。2014(平成26)年2月28日

1枚目写真の並びで数軒南(坂の上)のところ。宮城整骨院の看板の文字が家の大きさと釣り合わないし、子供の習字のような書体も気になる。ドアの貼紙は「休憩中」。
トコロ薬局は切妻屋根の家を看板建築風にしてもので、そう古い家ではないかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ