ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




郡鶴荘。台東区谷中6-1。1990(平成2)年2月18日

言問い通りの谷中6丁目交差点の角にあったアパート。写真左端は一乗寺でその間を入っていくと野沢石材店のところで鍵形に曲がって三崎坂の上の通りに出る。写真右端の石塀は日本医科大学看護専門学校のグラウンドで、その向かいには桜木校舎があった。
建物は○○荘と名前がつくアパートの標準型というか珍しくはないが、今は建物の玄関を設けずに直接各戸に出入りできる形のものが普通になってきているようだ。


路地の奥の民家。谷中6-1。左:1990(平成2)年5月6日、右:2007(平成19)年12月1日

言問い通りから路地の奥に見えている家で、現在も右写真のような状態だが残っている。路地を家の前まで入ってみると路地はT字型に左右に通じているが両方ともすぐ行き止まり。
『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年)に収録されている。それによると、加藤という人の住居で、氏は古い生活用品などを集めたり周辺の歴史なども調べたりして郷土史家としても見られていたという。


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野沢石材。台東区谷中6-2。1989(平成1)年3月12日

言問通りを一乗寺の角で北へ曲がると正面に野沢石材の長屋が正面に見える。
写真右の白い塀は自性院という寺で「愛染かつら」ゆかりの寺だという。ぼくは「花も嵐も踏み越えて」の歌を知っているだけである。そこでついでに少し調べてみた。『愛染かつら』とは川口松太郎が昭和13年に書いた小説である。すぐ田中絹代と上原謙の主演で映画化されてその主題化が『旅の夜風』。話の筋は、大病院の御曹司津村浩三とそこの看護婦高石かつ枝とのメロドラマだ。自性院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だという。願い事を書いてその桂の木に結ぶと願いがかなうということで……というストーリーらしい。(「東京紅團>谷中自性院から「澤の屋」さんまで」を参照)
左:野沢石材。1984(昭和60)年頃
右:書画骨董箱。谷中6-2。1990(平成2)年5月6日

野沢石材の長屋は写真では五軒長屋だが、元は八軒長屋だったらしい。野沢石材店の隣は石田菓子店だった。野沢石材の新しくした看板がなぜか右から書かれている。現在、野沢石材と旧石井菓子店が3階建ての集合住宅に変わって、二軒長屋になってしまった。
右写真の家は1枚目の写真の右奥へ行った感応寺の門の先にある。柏湯の斜向かいだ。二軒長屋のような造りだ。現在は、「書画骨董箱」の看板の家がまだ残っている。

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長屋。台東区谷中6-2。2008(平成20)年9月10日

三崎(さんさき)坂の坂上から言問い通りへ通じている道路がある。その沿道には20年位前は古い民家や長屋が寺院と混じって立ち並んでいたが、今ではかなりの家が建て直された。写真の二軒長屋はまだ残っていて、今ではかなり目立つ建物になった。長屋の向かいは門に「東京七面山」の看板が懸かる寺がある。
2階の階高が低い。2階の床は1階の屋根のところより下がっているわけだが、古い形式の造りである。関東大震災以前に立てられた可能性があると思う。



民家。谷中6-2。1989(平成1)9月10日

長久院前の道路は言問い通りへ出る途中で鍵形に曲がる。写真の家はその曲がり角の近くにあった。法蔵院という寺の向かいになる。
この家は1階の屋根が平らである。普通に傾斜していた屋根を改装したものかもしれない。農家の造りのような印象を受けるが、どうも白壁のせいらしい。町家で漆喰の白壁を見せている家はあまり見た覚えがない。

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民家。台東区谷中6-3。1990(平成2)年6月17日

三崎(さんさき)坂の上、台東初音幼稚園の向かいから南へ、言問い通りへ通じている道路がある。車は北方向への一歩通行の、そう広くもない道路で両側には6・7軒の寺院が並んでいる。写真は三崎坂の通りから入ったすぐのところで、南方向を見ている。
昭和初期に建てられたと思われる古い木造の家や長屋が並んでいる。いちばん遠くの木立が長久院という寺で、アジサイが有名だという。
現在、古い家は1軒だけを残して建て変わった。



二軒長屋。谷中6-2。1989(平成1)年9月10日

1枚目の写真の奥から逆方向を見た。屋根が見えない二軒長屋とその左の家の間を入る路地が「はっさい先生路地」。NHKの朝の連続ドラマに出てくるところだというが、ぼくはドラマを見ていない。いつ頃の放映だったのか知らないが、会社勤めの身なら当然だ。


民家
谷中6-3
1989(平成1)年9月10日

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東洋高等学校。千代田区三崎町1-4。1988(昭和63)年10月10日

JR水道橋駅東口を出て白山通りを渡ったところにある。前の道路はJRの線路に沿って駿河台へ上がる皀角(さいかち)坂。学校の立地としては最適の場所だ。
東洋高等学校の創立は1906(明治37)年で「東洋商業専門学校」の名称だった。私立の男子商業高校だった。撮影時の住宅地図では「東商学園東洋高校」となっている。


1985(昭和60)年9月15日

写真の校舎は『日本近代建築総覧』では「S6、RC3、設計:大森茂、T10建設の部分あり」。
大森の作品には千葉県野田市にある興風会館(昭和4年)、文京区目白台の和敬塾本館(昭和11年)が現存し、明治大学の旧校舎(昭和5年)があった。

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山宝商事不動産部、人形町郵便局。中央区日本橋人形町1-4。1985(昭和60)年8月3日

喜月和菓子店の向かい。写真右奥が人形町通り。清心丹薬局は道路の角にあり、その向かいに日本家屋の1階を改装した「久仁喜」という料理屋が写っている。郵便局の建物は清心丹薬局(高木商店)だったもの。清心丹薬局が貸しているのだと思う。
高木清心丹は『江戸東京学事典』(三省堂、1987年)の「江戸創業老舗一覧」に「創業:享和元年、初代は高木興兵衛。四代目(明治期)が開発した清心丹は銀色、3mm位の大きさの丸薬」とある。明治大正期には広く一般的に知られた大衆薬だった。昭和40年頃まで製造されていたらしい。
近代文学にも清心丹が登場する作品が幾つもあるようで、「東京人形倶楽部 あかさたな漫談」というサイトに「「せ」は清心丹のセ」というタイトルの文章があって詳しく記述されている。



人形町郵便局、清心丹薬局。1988(昭和63)年10月30日

写真左手前の空地は北浜本店と喜月が取り壊された跡。清心丹薬局の一角もじきにまとめて開発されて1994年に人形町センタービルが竣工する。清心丹薬局はそのビルの同じ位置で商売を続けている。郵便局は大観音寺の裏に移動した。


人形町郵便局
1988(昭和63)年10月30日

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喜月(和菓子)。中央区日本橋人形町1-5。1988(昭和63)年1月24日

芳町通りの1本南の裏通り。写真左手へいくとすぐ人形町通りに出る。北浜人形町本店の隣。特注の瓦をのせているから建物本体にも相応に金をかけているのだろう。現在は「喜月ビル」に変わった。


北浜本店
日本橋人形町1-5
1986(昭和61)年頃

北浜のHP によると。関西料理の店だが関西から進出したわけではなく、京都の織物などを扱う繊維問屋が多い日本橋なら関西人の客が見込めるということで、人形町の辺りに開業したということらしい。兜町にも近く、蛎殻町の東京穀物取引所はすぐそばである。大阪でいえば北浜のような場所だというのが店名の由来だという。
写真の建物は昭和30年頃の火保図に「ふくや」とある旅館だったもの。写真左の洋風の家は戦前の火保図に「坂田屋」とある。北浜のHPには道路の角に立つ日本家屋の建物のほうから撮った写真が載っている。

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石井理髪店、魚熊商店
中央区日本橋人形町1-19
上:1982(昭和57)年4月18日
左:1992(平成4)年4月26日

当ブログ前回の中村眼鏡店の角を入った横丁で、上写真左奥の建物は芳町通りの向こうの人形町3丁目になる。上写真右の建物は銅板貼りの家だったようだが、人形町郵便局だった家。「石井美容」の文字が残るのが石井理髪店だった家で2軒長屋のようだ。以下、高良金網、魚熊、中村眼鏡店。

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中村眼鏡店。中央区日本橋人形町1-19。1983(昭和58)年5月

人形町通りの人形町交差点で交差する芳町通り(金座通り)に面する。人形町交差点のすぐ西のところ。『日本近代建築総覧』には「T13頃、木、施工:広中組、モルタル・タイル張3階」。
『下町残照』(村岡秀夫著、朝日新聞社、1988年)に、店主の話で、「普通の家が2千円で建った時代に2万円かけた、総桧で、一流の書家に書かせた看板の文字を大理石の板に彫り、金箔をかぶせた」とある。同書に写真のある「弊店の沿革」という刷り物によると、明治28年8月に現在地で開業している。
塔屋は明治時代の擬洋風の西洋館を見るような感じがするが、その横にある波型の装飾のせいか、中国風にも感じられる。




上:1987(昭和62)年3月8日
左:1988(昭和63)年1月24日

建物横の上部の看板の文字は「中村嘉」「眼鏡店」。正面には一枚の板に「中村嘉兵衛商店」の文字が右から書いてある。3階のひし形の窓は横の対角線を軸に回転して開く。

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みどりや靴店。中央区日本橋人形町1-19。1983(昭和58)年5月

人形町通りの人形町交差点の南東、人形町1丁目のほうを見たところ。いまだに角の古い建物が残っているから、25年経った今も景観はあまり変わっていない。
写真左から、伊勢茂ビル、中島牧野ビル、ロン(喫茶)、ナカジマパッケージ(包装用品)、みどりや靴店、愛群(中華料理)、蛇の目鮨、昭和ワニス本社ビル、中村眼鏡店。今も撮影時と変わらずに商売が続いているのは、伊勢茂ビル1階の伊勢茂商店(日用雑貨・小物)、中島牧野ビル1階の中島商店(ネクタイ)、ロン、みどりや靴店、昭和ワニスといったところだろうか。



ロン。1991(平成3)年3月24日

写真の建物は矢島洋品店として建てられたものだと思う。喫茶店のロンは矢島洋品店だったのが1965(昭和40)年に商売変えしたものだ。1962(昭和37)年5月営団地下鉄の、同年9月に都営1号線(現・浅草線)の人形町駅が開業した。この立地で飲食店をやらぬ手はない、ということだったかと思う。矢島商店の創業は天明元年(1780年)で馬具商として始まったという。『大正元年日本橋地籍図』に「矢島洋傘帽子店」として出ている。同図には「伊セ茂商店」も載っている。
ぼくは最近は入っていないのだが、今も開店当時のスタイルでやっているようで、それが却って売りになっている。スターバックスでは注文の仕方も分からない、という人もいるわけで、普通の喫茶店(今は少数派だから「普通」ではないかもしれない)も少しはないと困る。

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