ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




カトリック築地教会。中央区明石町5。1987(昭和62)年1月15日

古代ギリシャの神殿の外観をした教会は珍しい。1927(昭和2)年の完成で、当時の東京大司教(教区長)ジャン・ピエール・レイの要望によるという。構造は木造モルタル塗りで、そのつもりで見ても石造りに見える。門の脇に設置された東京都選定歴史的建造物の説明板(東京都生活文化局 平成8年3月)には「設計者 ジロジアス神父、石川音次郎」とある。この二人がレイ大司教に言われてパルテノン神殿の写真でも見ながら図面を引いたのだろうか?
門と塀も聖堂と同時のものに見える。門柱はイオニア式だがやはりギリシャ建築様式にしている。
書籍の資料やちょっと古い地図などでは建物の名称が「築地カトリック教会」となっている。教会のHPは「カトリック築地教会」なので、それに合わせるようになったということだろうか?



カトリック築地教会。2009(平成21)年12月19日

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中央区立明石小学校、東棟。中央区明石町1。2009(平成21)年12月19日

建て替わる前の、大正14年建築の明石小学校の校舎は、南に開口部のあるコの字型の平面で、上の写真は玄関のある東側の棟。
復興小学校の中でも、出入り口のアーチ、円柱の柱形、庇のようなパラペットと壁をつなぐカーブなど、外観のデザインに凝った建物だ。日本建築学会が中央区に出した『東京都中央区に現存する復興小学校7校舎保存要望書』(2010年2月)によると、設計の主任技師は原田俊之助(大正5年、東京高等工業学校卒)という人で、中央区の小学校では中央小学校(旧鉄砲洲小)と泰明小学校も担当している。デザイン的特徴として、「断面円形の柱形を外部に見せ、その上部のパラペットがカーブを描いて張り出している点が特徴的で、そのほかにも随所に曲面を用いて、建物の外観全体がきわめて軽快な 造形感覚でまとめられている。とくに東立面は、南側に2 階建ての特別教室を配することで校庭への採光に配慮しつつ、3 階建ての普通教室部分との高さの違いを、両者の間に4階建ての階段室を配することで造形上巧みに処理している。パラペットの曲面と階段室のアーチ形とが複雑に組み合わさるこの部分は、設計者がとくに意を凝らしたところである。復興小学校のなかでも、 表現主義的な傾向が顕著な傑作といえる。」としている。



明石小学校、北棟と西棟。1989(平成1)年10月15日

施工者の「竹田組」は、現在は「平塚竹田組」という神奈川県平塚市にある会社になっている。明治35年に竹田源次郎により創業(中央区銀座)、昭和55年に㈱平塚竹田組に組織変更したそうだ。創業地の「銀座」には、当ブログの「竹田ビル/新富1丁目 」がリンクされている。この建物は『日本近代建築総覧』に「日鉄工業K.K.、中央区新富1-4-8、建築年=昭和2年、木造2階建、設計・施工=竹田組」となっているもの。竹田組の事務所として建てられたらしい。建物横の新富橋を渡れば銀座だから、だれもが知っている銀座としてもかまわないだろう。
竹田組が手掛けた復興小学校を『日本近代建築総覧』から拾い出してみると、佐久間小学校(神田和泉町、昭和8年)、城東小学校(八重洲4、昭和4年)、明石小学校(明石町1、大正14年)、松葉小学校(松ヶ谷1、昭和4年)、浅草小学校(花川戸1、昭和5年)、氷川小学校(赤坂6、昭和5年)、檜町小学校(赤坂8、昭和8年)、四谷第五小学校(新宿5、昭和9年)があった。


明石小学校、西棟と体育館。1989(平成1)年10月15日

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中央区立明石小学校。中央区明石町1。1987(昭和62)年1月15日

明石小学校の建替えに関しては、卒業生や日本建築学会などの保存運動があったが、中央区は「子供の安全で利便性の高い環境」のために強行した。地元の人にしても、古い建物より新しいほうがいいと考えている人が半数以上はいるのだろうと思う。地域の歴史に関心を向ける人も、また少数派ではないかと思う。ぼくは不便な環境で勉強するのも、いろいろな対応力が身に付くのではないかという気がする。
明石小学校のHP の沿革を見ると、昭和50年頃からまめに改修や塗装工事などをおこなっていて、建て替えなどは考えていなかった様子がうかがえる。いったん改築の計画がもちあがると止められないのかもしれない。
旧校舎の取り壊しは2010(平成22)年9月に始まり、11月末には更地となった。5階建ての新校舎が完成したのは2013年1月。



明石小学校、正門と玄関。1989(平成1)年10月15日

校舎は『日本近代建築総覧』では「明石小学校・幼稚園(旧東京市明石尋常小学校)、建築年=大正14年、構造=RC3階建て、設計=東京市、施工=竹田組、「東京市教育施設復興図集」による」。その『東京市教育施設復興図集』(東京市役所編纂、昭和7年)では、起工:大正14年6月15日、竣工:大正15年8月28日。総工費は458,236円。

昭和25年頃の火保図では「Deterch Ment」という記載で、北に隣接していた「区立第二中学校」が「都立京橋高等学校」と「中央区立明石小学校」となっている。米軍に接収されていたらしい。『図説占領下の東京』(佐藤洋一著、河出書房新社、2006年、1600円)では、「Patients Mess (49th Gen Hosp)、東京陸軍病院付属施設」で、接収日の記載はないが昭和28年7月14日に返還されている。



明石小学校、玄関ホールとそこからの廊下。2009(平成21)年12月19日

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文豪屋敷。板橋区板橋3-6。1990(平成2)年1月14日

まったくの逆光でなにが写っているのかよく分からないが、手前が「文豪屋敷かに屋敷駐車場」。駐車場にはイチョウの木があって、コンクリート塀の奥が「文豪屋敷」という料亭。駐車場は文豪屋敷が、隣の家だったところを借りていたのかもしれない。写真右が道路で、道路沿いに板塀をめぐらし、画面右端が門。場所は国道17号(中山道)の板橋区役所前駅のすぐ北で、旧中山道の南の裏手になる。
文豪屋敷の前の道路は、国道17号から斜めに入ってカーブするとすぐまた国道に出てしまう。国道が引かれたために切り取られてしまった道路だと判る。千川上水が流れていた道である。千川上水は西から流れてきて、この辺りで南東に向きを変えたのだが、そのカーブする部分が新旧中山道の間に残っているということだ。

文豪屋敷は『板橋区の近代建築―住宅編』(板橋区近代建築調査団編集、平成7年、板橋区教育委員会発行)から引用すると「木造2階建て、外壁はモルタル・下見板張り、寄棟屋根、明治30年頃の建築」で「現当主が個人の住宅を35年前(昭和35年頃)に購入し、平成3年飲食店として改装、増築した」「購入当時、現在中山道が通っている場所には、千川上水が流れており、そこには資材置場や水車等が点在していた。街道沿いの商店街以外はほとんど野菜やトウモロコシを栽培する畑だった。収穫物は、神田市場へ出荷していたようである」。

『東京ダウンタウンストリート1980's>板橋一丁目~千川上水と谷端川、下板橋駅~その二』に文豪屋敷が取り上げられている。「今は〈文豪屋敷の跡が〉大きな駐車場になっていて、大木が残されているのだが、かつてはここに喜奈古屋という料亭があった。そして、上水に水車が設けられていて名物になっていたという」とある。

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板橋書店、美容室ステップ、満盛。板橋区板橋3-25。1990(平成2)年1月14日

宮歯科医院と並んでいた商店。建っていたところは、現在、観明寺(かんみょうじ)の駐車場になっているので、観明寺の家作だったと思われる。板橋書店(古書店)、美容室ステップ、満盛(まんせい、居酒屋)の3店。
観明寺は、明治になって衰退した板橋宿の賑わいを取り戻そうと、明治6年に成田山新勝寺の不動尊を勧請して、縁日を開いたという。それが「出世不動尊」で、「板橋宿不動通り商店街」の由来だ。
満盛の横のお堂は、庚申塔を収めている。近年立てられた脇の説明板によると「寛文元年(1661)に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては都内最古。昭和58年に区の指定有形文化財になった」。現在は写真右端の石畳の参道の両脇に門柱が建てられたので、お堂は少し奥へ移された。

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宮歯科医院。板橋区板橋3-25。1990(平成2)年1月14日

旧中山道を下ってきて国道17号(中山道)を板橋郵便局前交差点で超えると、板橋3丁目である。旧中山道は「板橋宿不動通り商店街」になる。うさぎの親子?が乗った「板橋宿」とあるゲートをくぐって少し行くと通りの北側に「観明寺(かんみょうじ)」がある。その隣に写真の洋館が今も残っている。割と賑やかな商店街の中にあるのに、どういうわけかあまり知られていない建物のような気がする。
『板橋区の近代建築―住宅編』(板橋区近代建築調査団編集、平成7年、板橋区教育委員会発行)から引用する。建築年・設計者・施工者は不明。外観は3階建て、モルタル吹付けの外壁、寄棟屋根、瓦・スレート葺きの屋根。「現当主の父親が、大正元年、当時の安田貯蓄(現協和銀行)の建物を購入した。昭和12年、内部をほぼ全面的に改造し、歯医者を開業した。外装は、当時の原形を留めているが、傷みのひどかった屋根は、戦後スレート葺に変更した。/1階は診療室。2階は、銀行として使用されていた際は会議室、現在は洋間として使用している。3階は現在、物置となっている。内部の鉄製螺旋階段や屋根上の避雷針は、戦時中に接収された。」
明治期に建てられた銀行だった建物ということだ。2階建て塔屋付きだろう。2・3階の壁面は溝付きの鉄板を貼ってあるように見える。当書に診療室と思われる写真が載っていて、その天井の梁を見ると、RC造ではないかと疑われるのだが、明治の建物となるとやはり木造か? 医院は廃業したが、現在も1枚目写真と変わらない外観である。




旧宮歯科医院。2018(平成30)年6月21日

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巣鴨信用金庫板橋支店。板橋区板橋1-42。1900(平成2)年1月14日

旧中山道の埼京線板橋駅の北の踏切を西へ渡ると板橋区になる。1999年の区分地図に「駅前本町通り」とあるが、今はその商店街の街灯に「平尾宿」の旗が下がっていて、そこに「いたばし縁むすび通り」と書かれている。その通りをしばらく行くと「板橋1丁目」交差点で、写真はその交差点角にあった「巣鴨信用金庫板橋支店」。右奥へいくとすぐ国道17号(中山道)に出る。その反対方向は東武東上線下板橋駅へ向かう。
巣鴨信金のビルは昭和38年の航空写真に写っている。今は「ユニティフォーラム」(1992年8月竣工、7階地下3階建)というマンションに建て替わって、そこに店舗をおいている。

下の写真は巣鴨信金と同じ交差点に面している「細田ガラス店」。ガラス食器の店らしい。戦後の昭和20年代に建ったものかと思うが、看板建築にした外観になんとなく昭和初期の雰囲気が感じられる。


細田ガラス店。板橋1-34。2018(平成30)年6月21日

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吉田町第一名店ビル。神奈川県横浜市中区吉田町4。2009(平成21)年4月5日

ぼくが「防火帯建築」という言葉を知ったのはわりと最近である。戦前築の建物を見て回っていた30年前には、目にはしていてもなんの関心も向かなかった。それが、街路に沿って長い、3・4階建てのビルが横浜の街の景観を特徴づけているらしいと気が付いて、ネットで調べてみると、横浜の戦後の復興に関わる歴史的な建物であった。気が付いた時には、すでに建て直された防火帯建築もかなりの数になったようで、それらを記録できなかったのが残念だ。
吉田町(よしだまち)には「吉田町本通り」に沿って4棟の防火帯建築が連続して並んでいる。伊勢佐木町の方から「吉田町第一名店ビル」「No1吉田ビル」「吉田町第二共同ビル」「吉田町第三共同ビル」。No1吉田ビルと第二共同ビルはくっついているから全部で3棟に見える。
吉田町第一名店ビルは『横浜の防火帯建築と戦後復興』によると、「8人の建築主と神奈川県住宅公社による共同再建型の併存住宅として建てられ昭和32年3月に入居が始まる」とある。また「数年前からバーや飲食店が入居するようになり通りの雰囲気がかわりはじめ、築50年を過ぎた古いコンクリート長屋を活かしたまちづくりが地元町内会・名店街会の若手メンバーを中心に進められている」ということで、写真では下りたシャッターが目立つが、これから変わっていくのかもしれない。




吉田町第二共同ビル。中区吉田町5
上左:2003(平成15)年2月8日
上右・下:2009(平成21)年4月5日








吉田町第三共同ビル。中区吉田町6。左: 2009(平成21)年4月5日、右:2003(平成15)年2月8日

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都南ビル。神奈川県横浜市吉田町10
左:1988(昭和63)年8月6日
右:2010(平成13)年7月8日

吉田橋側のイセザキモール入口からすぐ北が吉田町(よしだまち)で、都橋へ向かう通りに、タイル張りの外壁の風格のあるビルが建っている。都南(となん)ビルという元銀行だった建物だ。写真の側が表とすると、裏側の方が広い大通りに面しているのだが、1・2階の外装を改修しているので、こちらを正面と決める。
『日本近代建築総覧』では「都南ビル、中区吉田町1-10、建築年=昭和3年(1928)、構造=RC5階建、設計=西口為蔵、施工=山口組(長野県松本)」。昭和5年(1930)竣工が正しいらしい(『 YOKOHAMA xy通信>No.352』)。「都南貯蓄銀行本店」として建てられたもの。
既サイトによれば、都南貯金銀行は貯金銀行法により、神奈川県下の23の貯蓄銀行と4の普通銀行が合併して1921(大正10)年12月に弁天通に設立された。吉田町に本店を移したのが1928(昭和3)年。
1945(昭和20)年、大都市に残る9貯蓄銀行が合同し日本貯蓄銀行(協和銀行の前身)が設立されるが、都南貯蓄銀行は日本貯蓄銀行にはいかず、横浜興信銀行(後の横浜銀行)と合同して消滅した(横浜銀行>会社情報>歴史>創立90周年記念誌「地域とともに141年 横浜銀行の歩み」)。
写真の「静岡相互銀行」が都南ビルに横浜支店を出したのは1954(昭和29)年。1989(平成元)年8月 に普通銀行に転換、「株式会社静岡中央銀行」に商号変更した。静岡県沼津市に本店を置く第二地方銀行である。2005(平成17)年4月26日に磯子区丸山に移転した。

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不二家伊勢佐木町店
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-6
2003(平成15)年2月8日

現在の店名は「不二家横浜センター店」である。「伊勢佐木町店」のほうが分かりやすいだろうと思うのだが、横浜の繁華街として伊勢佐木町がまず思い浮かぶのは古い人間になってしまった。今では伊勢佐木町のネームバリューはランクをだいぶ下げてしまった。「伊勢佐木町ブルース」のヒットは50年も昔のことだ。
建物は『日本近代建築総覧』では「不二家、建築年=昭和13年、構造=RC7階建、設計=A.RAYMOND、施工=戸田組」。『不二家HP』 では、伊勢佐木町店新築開店は1937(昭和12)年2月であり、階数も6階建て地下1階。
レーモンドによる「モダニズムの粋」と言われる外観は、とても戦前の建築とはみえない。伊勢佐木町に並ぶ戦後のビルと並んでも、それ以上に新しいビルに見えてしまう。レーモンドの起用が不二家の創業者・藤井林右衛門の企図だとすれば、まだだれも洋菓子など食べない時代にそれで事業を起こした先見性が、建物に現れたのかもしれない。
不二家のHPを見ていたら、「フランスキャラメル」の発売は1934(昭和9)年と出ていた。戦中もあのパッケージで売られていたとは思えないが、どんな経過で、復活したのはいつなのだろう? 今は発売していないから、なんの話か分からない人もありそうだ。

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