ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




古澤歯科、ユカリ。大田区山王3-23。2009(平成21)年4月12日

池上通りの、環七通りとの交差点(春日橋交差点)から大森駅の方向の北へ、400mほどの距離の両側が同じアーケードが続いていて「山王三番街」という商店街になっている。三番街とは山王三丁目からきていて、「山王三丁目商店街振興組合」の結成は昭和39年9月。それ以前も昭和20年代後半から「大森新井宿三丁目会」の名称で活動していたという。昭和35年に建設したアーケードは平成10年に今のものに造り直された(山王三番街)。
その商店街に、戦前築と思われるモルタル仕上げの洋風意匠の看板建築を見つけた。三軒長屋の造りで、「池上通り古澤歯科」と「ユカリ」(陶芸教室)、そして右の店は閉まっていてなんの店だったかは不明。その、右の店は銅板張りで、これが正面の原型だったとすると、モルタル仕上げの2軒は後の改装なのだろうか? もしかすると、以外と新しい造形なのかもしれない。

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築地市場桟橋。中央区築地5-2。2017(平成29)年7月15日

隅田川に沿った桟橋を仮設新桟橋(写真の桟橋より張り出している)から撮った。桟橋の幅の2/3位は屋根(桟橋上屋)がかかっている。写真右のビルは仮設卸売場B1棟。
築地市場の桟橋は、元は小型漁船が多数接岸できるように、岸壁から突き出した小さな桟橋(縦桟橋)が9基と、大型船が横付けできる「横桟橋」、その間に「浮桟橋」があった。『J@Dの備忘録>散歩@築地市場(防潮堤と桟橋)』によると、写真の桟橋は「昭和44年~47年にかけて整備された」ということなので、櫛形に並んだ縦桟橋を撤去したのもその期間と思われる。
築地市場概説平成26年度版』には、桟橋の仕様として、「長さ366m(うち仮設新桟橋 165m) 幅 18m。※ 隅田川河口に面しており、50トン~200トン級の漁船の接岸が可能である。※ 平成25年中の接岸実績は83隻で、築地市場水産物取扱量483,951トン中、約83トンである」とある。
仮設新桟橋は船に対応したものではなく、トラックからの荷下ろしの為かと思われる。



桟橋上屋。2018(平成30)年2月17日

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隅田川防潮堤第4ゲート。中央区築地5-2。2017(平成29)年7月15日

築地市場の隅田川に沿った桟橋と市場場内を仕切っていた堤防に開けられたゲート。当然なのだろうが、市場の建物がほとんど解体された今も堤防は残されている。「カミソリ堤防」と言われたもので、いつの間にか隅田川テラスという遊歩道付きの堤防に替わってきて、近年はあまり見ることもなくなってきた。
写真の第4ゲートの扉の柱に「1972年3月/隅田川右岸防潮堤建設工事のうち/防潮扉製作据付工事/A型(5.5m)5門 B型(8.0m)2門/東 京 都/日立造船株式会社施工」と書かれた銘板が付いている。
防潮堤建設は1959(昭34)9月の伊勢湾台風が契機になって、1963(昭和38)年から着手、1975(昭和50)年に一応完成したようだ。確かに頼りない感じだが、津波を防ごうというものではなく、ジワジワと水位が上がる高潮対策なので、工事期間も考えるとこれでいこうということになったのだろう。水面が見えなくなったと不祥を買ったが、目的は果たしたようだ。



防潮堤第4ゲート。写真左端は水産物部第2本館、中央奥は低温卸売場(旧第1低温卸売場)。2006(平成18)年3月23日



第3ゲート(外側)。現在の築地大橋の北東の袂の位置にある。2006(平成18)年3月23日


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低温卸売場。中央区築地5-2。2018(平成30)年2月17日

第6卸売場と隅田川河岸の桟橋の間に建っていた建物で、建物の1階角に「低温卸売場」の文字が書かれている。市場解体の工程を知らせた地図には「旧第1低温卸売場」「WC・2F変電所」の記載が見える。
写真左の通路を奥に行くと、低温卸売場に続いて「第3卸売場」(水産物部新第3卸売業者売場)が建っていた。写真は撮っていないのでここに示せないのが残念だ。写真左奥の白い壁がそれ。



低温卸売場の前のトイレ。右の赤いトラス構造物は防潮堤の防潮扉。2018(平成30)年2月17日

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本家ときわぎ。静岡県熱海市銀座町14。2004(平成16)年12月5日

熱海銀座通りの西側(山側)の入り口の交差点に面した、寺院かと思うような純日本建築の店舗が和菓子の「本家ときわぎ」。そのHP『和菓子ときわぎ』に、「大正7(1918)年、初代が熱海銀座の本町通りに「熱海 本家ときわぎ」を開店。後に銀座の四つ角に移転。昭和19年の熱海本町大火(3月6日、本町火災、郵便局など85戸焼失)で焼失。終戦後、昭和20年に京都から宮大工を招致して2年半をかけて昭和23年に現在の宮造りの店舗が完成した」とある。
「本町通り」はときわぎの交差点から南西に向かう商店街。「本町」とは熱海ニューフジヤホテルのある辺りの旧町名で、大湯間歇泉(おおゆかんけつせん)を中心にした、江戸・明治期の熱海の中心街。

昭和25年の熱海大火では、火は四つ角の向かい側まで迫ったが、そこで風向きが変わり、焼失を免れたという。焼けるものと覚悟して避難していた店の人が戻ってみると、店の二階に進駐軍の兵隊が大勢、バケツを持って立っていたそうだ。

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常盤木羊羹店総本店。静岡県熱海市銀座町9。2004(平成16)年12月5日

熱海銀座通りの西側(山側)の入り口の交差点に面した、この辺りでは珍しい木造日本家屋の店舗。同じ交差点に面して、やはり和菓子の「本家ときわぎ」の寺院風の建物があるから、同じ店かと思ってしまうが、元はどうか知らないが、別の店だという。『常盤木羊羹店総本店』によると、大正時代に初代・前澤鶴吉が創業、現在は四代目になる。昭和25年の熱海大火では熱海町9番地は焼けていない。『日商Assist Biz>常盤木羊羹店』には、昭和17年11月の清水町火災で店は全焼したが、京都から宮大工を招き、木造2階建て数寄屋造りの現店舗を建てた、とある。どうも戦後すぐの建築らしい。昭和25年の熱海大火以前の木造建築だから貴重である。
写真では常盤木羊羹店の右は「双美屋名産店」だが、常盤木がそこに増築して「茶房 陣」という店が2013年9月に開店した。



釜鶴ひもの店。熱海市銀座町10。2018年7月ストリートビューより

熱海銀座通りの中央部東側。手元にこれという写真がないのでGoogleマップのストリートビューからお借りした。右から、釜鶴ひもの店、Roca(カフェ)、小沢ひもの店、あおきひもの本店……。ひものの老舗が3軒並ぶ。
あおきひもの店は慶応2(1865)年創業、現在は五代目。釜鶴ひもの店は義民・釜鳴屋平七の三男鶴吉が創業し現在は五代目。小沢ひもの店は創業が和銅3年(710年)というから何代目になるのだか、1950年の熱海大火で文献が失なわれ、不明になってしまったらしい。これらの店のひものが、スーパーで売られるものとどう違うのか試してみたいが、ぼくの舌で分るだろうか。

「熱海銀座」の名称は「関東大震災復興時に東京の銀座から正式に継承したものであり、戸越銀座に次いで日本で2番目、東京外では初めて「銀座」の名を継承した」(ウィキペディア>熱海銀座商店街)というから、認定というか承認というか、賑やかな通りだからと勝手に名乗ったのではなく、歴史のある名称だ。「銀座町(ぎんざちょう)」の住所は、銀座通りのある町だからそう命名されたと思うのだが、いつ頃の起立なのだろう。

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三洋水産。静岡県熱海市銀座町8
2009(平成21)年2月20日

熱海銀座商店街の北、西側の街区。路地との角の、通りの側の2・3階に窓のないビルには、三洋水産(飲み食い処)、花菱(洋品)、稲田時計店が入る。以下奥へ、いけしま(池島、バッグ、小間物)、レンタルスペース ツユキ、スズイチ(洋品)がアーケードから下がる看板から読み取れる。ストリートビューで見ると、池島商店は2010年頃には閉店した様子だ。ツユキは2019年頃に「お肴野郎 清介(きよすけ)」という魚料理の店が入った。スズイチはやはり2019年頃に「熱海銀座おさかな食堂」に替わった。そこのHPに、スズイチは「100年以上続く老舗のアパレル店舗」とあった。
三洋水産の角を入った路地に「ロマンス座」という映画館があった。2014年のストリートビューではガラス戸に「ロマンス座」と書かれた洋品店があり、そこが入り口だった。『振り返ればロバがいる>熱海市立図書館を訪れる』によれば、1951(昭和26)年11月開館、2002(平成14)年1月閉館。




熱海陶苑。熱海市銀座町8。2009(平成21)年2月20日

1枚目写真の奥へ移動して同じ方向(北西)を撮った写真。左端にちょっと写っているのがスズイチ洋品店。以下右へ、熱海陶苑、パチンコ世界、フジワラ眼鏡店。
熱海陶苑は2016年頃にゲストハウス友欄(ゆうらん)というホテルに替わった。パチンコ 世界は現在は「サンアシベ」と、店名が替わっている。

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club polaris。静岡県熱海市銀座町7。2015(平成27)年11月20日

熱海銀座商店街の中央部西側、銀座町(ぎんざちょう)7番地の全域が写っている。店は右(北)から、club polaris、小宮袋物店、パインツリー(喫茶)、スカイホール(パチンコ)だった店、高橋呉服洋服店。建物は2・3階だがRC造に見える。1950(昭和25)年4月の熱海大火の後、昭和30年頃に建てられたものと思うが、耐火を意識して建てているのだろう。
ストリートビューで現在の様子を見ると、スカイホールだった店がマルヤという宿泊施設・カフェになっている(2015年11月開業)。ここは少し古い商店街の地図に「丸屋喜助商店」となっているから経営者は変わっていないのかもしれない。高橋呉服洋服店は廃業した様子だ。




上:スカイホール。銀座町7。2009(平成21)年2月20日
左:高橋呉服洋服店。銀座町7。2015(平成27)年11月20日

シャッターに商店街の地図を設置している建物には、アーケードに「パチンコスカイホール」の看板が下がり、壁には「PARLOR SKY HALL」の字が残っている。
高橋呉服洋服店は角に塔屋のような飾りをつけて、今では割とレトロな外観だ。写真のように1階は改装されて、店は廃業したかと思える。今は「コミュニティスペース ひまわり」の看板が玄関の脇に出ている。2009年の写真では店舗の一部が写っている。

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古石場住宅(東京市営古石場アパート)
上:4・3号棟、左:3号棟
江東区石切場2-14。1992(平成4)年3月20日

うっかりすると、関東大震災後に建てられた同潤会アパートかと思ってしまうが、東京市が建てた中産階級向けの集合住宅。第1期工事の1~4号棟と浴場・食堂は大震災の半年前、大正12年3月に竣工している。第2期工事の5号棟は大正15年2月の竣工。
ネットで見ることができる資料に「住宅総合研究財団 研究年報No.24(1997)」の『戦前公共集合住宅における住環境形成の分析を通した環境運営計画の構築』という論文があるので、以下、それを参照する。
1~4号棟は鉄筋コンクリートブロック造、5号棟はRC造、いずれも3階建て。設計は東京市。『日本近代建築総覧』には施工者として「島藤建設工業」が載っている。
1・3・4号棟は「2室構成の階段室型住棟」(各階2戸で構成される階段室を1単位としている)、2号棟は「1室構成中心の中廊下型住棟」(各階に共同便所がある)、5号棟は「2室構成の階段室住棟」(2つの階段室からなり,各階4戸の住戸で構成される)の3タイプからなるという。また、各棟の屋上には共同の洗濯場兼物干場がある。
昭和20年の東京大空襲では周辺は焼け野原になり、5号棟に焼夷弾が落ちて1階と3階は丸焼けになったという。昭和28年4月、東京都は建物と土地を居住者に払い下げた。

1999(平成11)年に解体され、2002年7月に「ウエルタワー深川」という35階地下2階304戸のタワーマンションが完成した。



裏の工場跡地から見た2号棟(左)と5号棟。1992(平成4)年3月20日

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