ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




市川製作所。中央区勝どき2-1。1989(平成1)年11月26日

写真の家並みの裏側は月島川で、清澄通りの月島橋のすぐ南を東へ入ったところ。写真右は「勝どき二丁目児童公園」で、ストリートビューで見ると桜が満開だ。
1986年の住宅地図では写真左手の―たぶん倉庫だと思う―黒い建物も市川製作所だ。昭和20年代の火保図では「岡本工業KK」。現在は「クレアシティ勝どきアットステーション」(2002年10月築、8階建て42戸)というマンションに建て替わっている。
電柱に「門洋菓子店」の広告が取り付けてある。児童公園の向かい側は東仲通りという清澄通りの裏通りで、門洋菓子店はそこで健在である。その勝どき店では製造もしている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






正木記念館。台東区上野公園11
上:2007(平成19)年3月2日
左:2013(平成25)年11月6日

東京芸術大学美術学部に建っている日本の城郭のような外観の美術作品の展示館。『芸大大学美術館』には、「東京美術学校〈芸大美術学部の前身〉の第五代校長である、正木直彦〈1862-1940〉の長年にわたる功労(校長32年間〈1901-1932年〉在任、帝国美術院院長、各博覧会審査官等)を記念するために建設された近世和風様式の鉄筋コンクリート造」の建物。「1935(昭和10)年7月竣工、設計は金沢庸治」。
東京美術学校は1887(明治20)年に設立され1889年2月に現在地で授業を開始した。当時の校長は二代目の岡倉天心(在位:1890-1898)。日本画などの伝統美術の保護に力点を置いたようである。1896(明治29)年になって西洋画科が新設された。正木直彦も日本美術のほうが好きだったらしく、既出サイトには「2階は正木校長の希望によって日本画を陳列するための書院造の和室が…設けられました」とある。建物の外観のデザインも正木の希望だったのだろうか?


東京美術学校本館。『東京美術学校一覧 従大正2年至3年』(東京美術学校編集・出版)より

正木記念館の右にある和式の門は『日本近代建築総覧』に「旧東京美術学校本館玄関庇、建築年=大正2年、木造、設計=鳥海他郎」とあるもの。『東京都都市整備局>都選定歴史的建造物』によると「昭和47年の学校本館取り壊しの際、玄関部分のみ正木記念館中庭に移築。周囲とよく調和しており、移築保存の好例」、設計者は「文部省建築課(鳥海他郎)・大澤三之助・古宇田實」としている。
旧本館は平面が「日」形の木造2階建て、外観は残された玄関と同質な和風の建物だった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






芸大赤レンガ2号館。台東区上野公園12
1987(昭和62)年4月4日

『日本近代建築総覧』では「東京芸術大学体育室(旧東京図書館書籍庫)、建築年=1886(明治19)年、構造=煉瓦造2階建、設計=小島憲之、施工=服部浅五郎、小島憲之の現存するほぼ唯一の遺構という」の記載。『近代建築ガイドブック』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)では名称が「東京芸大体育小屋(東京図書館書庫)」。1970・80年代には体操道具でも保管していたのだろうかと思ったが、現在、建物の説明板が設置されて、それには「体育の授業」に使われたとしている。また説明板では「旧東京図書館書籍閲覧所の倉庫として建てられた」としている。同じ内容なのかもしれないが、書籍庫、書庫、倉庫、と表現が異なる。
東京図書館とは後の帝国図書館の前身で、明治5年に文部省が湯島聖堂内に設置した「書籍館」が大元である。ややこしい変遷をたどって1880(明治13)年に名称を東京図書館とし、1885(明治18)年に東京教育博物館と合併して上野に移転した。1897(明治30)年に帝国図書館が設立されて東京図書館はそちらに移管された。
設計者の小島憲之(1913-1998)については『近代建築ガイドブック』では「明治12年コーネル大学を卒業した最初期の日本人建築家。帰国後、工部大学校卒業者たちの活躍の影にかくれ、本格的な建築教育を受けた建築家であるにもかかわらず、作品は余りに少ない。むしろ、卓抜した英語力を生かし、教育者として名声を遺している。大学予備門(のちの第一高等学校)で夏目漱石など、彼の薫陶を受けた者は多い。」としている。
外観は3層だが2階建てとしているのは3階部分を屋根裏部屋としたようだ。



芸大赤レンガ2号館。2011(平成23)年11月9日

2010(平成22)年に耐震改修工事を行うとともに全面的に改修された。内部に鉄筋コンクリートの壁構造体を造り、空調、防火等の最新設備を導入している。1階は助手室、2階は修士研究室・博士研究室、小屋裏階は装演室・文化財センターとなったようだ(『赤レンガ2号館改修機械設備工事―東京芸術大学施設課』)。


芸大赤レンガ2号館裏側。2011(平成23)年11月9日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





芸大赤レンガ1号館。台東区上野公園12。1987(昭和62)年4月4日

東京芸術大学音楽学部の構内にレンガ造りの建物が2棟残っている。小さいほうが赤レンガ1号館。『日本近代建築総覧』(1980年)では「現空家、前電話交換室(旧上野教育博物館書籍閲覧所書籍庫)」で、上野に創建された教育博物館の書籍閲覧所の書籍庫として1880(明治13)年に建てられ、その後芸大の電話交換室として使われていた建物である。教育博物館とは現在の国立科学博物館の前身で、1877(明治10)年の創立。芸大の前身である東京美術学校と、同音楽学部の前身である東京音楽学校は1887(明治20)年の設立で、前者は1889年、後者は1890年の開校なので、それに伴ってレンガ館は東京美術学校に移管されたのだと思う。当時は現在の音楽学部の敷地の半分以上が美術学校のものだった。
建物の改修の履歴やどう使われてきたかは『赤レンガ1号館改修工事 データサイト』というサイトの「建物の変遷」に詳しい。それによると、関東大震災で被災したのを修復するさいに、外壁をモルタル塗にした。1965(昭和40)年に付属図書館ができて書庫の役割を終え、電話交換所にした。1978(昭和53)年に管理棟ができると電話交換所はそちらに移転、建物は解体される危機に。そこで保存運動に乗り出したのが前野まさる氏をはじめとする教師や学生で、このときにモルタルの外壁をはがしてレンガの壁に戻っている。
設計者の林忠恕(ただひろ、1835-1893)については、『近代建築ガイドブック』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)では「新国家の主要施設を造った代表的官僚技術者」、『建築探偵術入門』(東京建築探偵団著、文春文庫、1986年)では「工部省営繕組織の有能な技術者として数々の官庁建築の建設に携わった」としている。



芸大赤レンガ1号館正面。2011(平成23)年11月9日

レンガ壁の表面は傷だらけである。モルタル塗にする際、接着をよくするためにつけられたという。玄関の扉は、元は窓の鉄扉雨戸と同様のものだった。下の写真の建物右端に入り口がある。2号館とをつなぐ渡り廊下があった跡だ。1枚目の写真では側面の窓がふさがれているが、今は修復された。


芸大赤レンガ1号館裏面。2011(平成23)年11月9日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





上野図書館。台東区上野公園12。1987(昭和62)年4月18日

2000(平成12)年5月に、上野図書館から「国際子ども図書館」に替わって暫定的にオープンした明治期のルネサンス様式による建物。帝国図書館として1906(明治39)年に建設された。1947(昭和22)年12月に国立図書館と改称し、翌年6月開館。1949(昭和24)年4月からは新設の国立国会図書館の支部上野図書館となる。名称が長いので通称「上野図書館」だ。
明治39年に建てられたのは入り口を含めてそこから右側。鉄骨煉瓦造地下1階地上3階建。『日本近代建築総覧』では設計者は、久留正道(1855-1914)真水英夫(1866-1938)他、施工は(文部省営繕組織の)直営。久留と真水については『国際子ども図書館』の『…について>建物の紹介>100周年記念展示会』の「建築家の記録」に解説されていて、岡田時太郎の名前もある。日露戦争のため予算がつかず、中庭のあるロの字形平面のうち東の部分のみの竣工だった。昭和4年に入り口より左の部分がRC造で増築された。



上野図書館裏側。1987(昭和62)年4月4日

現在はテラスなどが新設されて、裏側からは帝国図書館だった外観は見られない。下の写真で左の7・8階建てのビルのように見えるのは昭和26・27年に増築された書庫。1996(平成8)年に解体された。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




黒田記念館。台東区上野12
1987(昭和62)年4月4日

黒田記念館は創建時から一貫して黒田清隆の作品を陳列する記念館の役割を担ってきたのだが、建物を所管していた東京国立文化財研究所は、平成12年2月に東京国立博物館の平成館の裏手に新館を建てて移った。その後内部を建築当時の姿に修復する工事がなされ、平成13(2001)年9月に再開された。平成19年4月に組織の再編成により東京国立博物館に移管された。
建物は、設計=岡田信一郎、施工=竹中工務店、構造=RC2階建て一部地下、1931(昭和3)年10月15日の竣工。ルネサンス様式を基調とした外観のデザインで、スクラッチタイルの外壁。スクラッチタイルは日本独自のものらしいのだが、華やかな様式建築をスクラッチタイルで落ち着いたものに見せようとしたのだろうか。岡田は上野公園に府立美術館(建て替えられた)と芸大美術学部陳列館をも設計していて、『台東区史』(区史編纂専門委員会編集、台東区発行、平成14年)では「岡田のギャラリー三部作」と称している。
中に入ったことはないが、アールヌーボー風の階段の手すりが見どころの一つだという。岡田信一郎の弟子である建築家金沢庸治(1900-1982)のデザインだ。金沢の建築作品は日本の城のような外観の芸大正木記念館(昭和10年)がある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





豆玉堂。千葉県野田市野田599。2006(平成18)年4月29日

流山街道の野田郵便局の少し北の辺り。昔は街道沿いが商店街で、その背後に工場でもあったのだろうか? 広い駐車場になっている。写真右の家は和菓子の豆玉堂。その後ろの寄棟屋根の平屋が豆玉堂の住居なのだろう。流山街道を右(南)いって野田郵便局の手前に「野田せんべい・あられ」の米澤屋がある。日用品の店はだいぶ減ってしまったのに和菓子の店が意外と残っている。
写真左奥に錆びついた屋根の工場のような建物が見える。それが下の写真の青果市場。写真ではすでに廃止されているようだ。現在は取り壊されて、Googleマップの航空写真で見ると長方形の跡地が土のままの茶色に見えている。入り口のところの二階部分に「㈱□青果市場」とある。□の字は昔の地名でも入るのだろうか? 電話帳に「丸共市場・千葉県野田市野田600」というのがあったが、それが正式な会社名?



青果市場。野田600。2006(平成18)年4月29日


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





大塚邸。千葉県野田市野田359。2006(平成18)年4月29日

市立中央小学校の向かいにあったちょっと魅惑的な小さな洋館。現在は取り壊されて跡地はいまだに空地のようだ。
この建物については『千葉県の近代産業遺跡近代建築>失われた近代建築』に載っている。サイトの管理者が建物の住民から聞き取ったと思われるデータで、「総覧未掲載/大塚邸(旧平山歯科)/木造1/建築年=昭和8年/設計者=平山祐秋(自家設計)/施工者=不明」の記載。
写真の平屋の家は歯科医院の診療所だったのだろう。母屋が裏にあったのかもしれない。窓枠や玄関のドアなどかなり改修されているが、下見板の壁と縦長の窓は建築時からあったのではないかと思う。屋根が日本家屋のものだが、元からなのかどうかは判断が付かない。コンクリートの低い柵と門が残っているのがとてもいい。



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





野田市立中央小学校。千葉県野田市野田611。2006(平成18)年4月29日

野田市立中央小学校は戦前に建てられた「三年館」と「七年館」の校舎が残っていて使われている。写真はどれも三年館のもので、七年館は道路からは離れているうえ、昭和40年に建てられた新校舎と管理棟の陰になっているので、学校の敷地に入らないとちゃんと写真を撮れない。
関根要太郎研究室@はこだて>千葉県野田市立中央小学校』によると、設計者は不明、施工は大林組、三年館は1928(昭和3)年3月の、七年館は1932(昭和7)年7月の竣工。『千葉県の近代産業遺跡>近代建築』の『「千葉県近代建造物実態調査報告書」の現況』によると、「キッコーマン(株)が寄贈したもので、当初昭和記念館と呼ばれていた。道路側ファサードにはそのことを示すように、柱型上部に亀甲紋の入った装飾が施されている。」とある。



野田市立中央小学校。2006(平成18)年4月29日

中央小の南を東西に通っている道路を「東町(あずまちょう)通り」という。中央小の校門の前にそれを示した標識が立てられている。またこの通りの街灯には「中央東会」の標示板が付いている。
東町通りの大谷石の校門は昭和25年に作られた(教育資料館の「学校の沿革」)。その門の左右に低い土手を築いて生垣にしている。昭和28年にプールを造って、「プール堀上の土で、東町側の土手を築き、完工する」とある土手だろう。そうすると、学校の向かい側を「東町(あずまちょう)」といったのだろうか?
写真の辺りは現在、駐車場になってしまって土手もなくなっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





片岡ミシン商会。千葉県野田市野田630。左:2006(平成18)年3月18日、右:同年4月29日

流山街道にある野田郵便局の南の交差点。一時代前といった感じの少し古い店構えの商店が街道の両側に並び、アーケードも残っていて今も商店街の形を保持している一角だ。左写真の左は佐藤商会(楽器、レコード、音楽教室)で、片岡ミシン商会との間の路地には「野田市立中央小学校」の看板がさがった古い門柱がある。路地の突き当りが中央小だ。
片岡ミシン商会の建物は日本家屋の前面を看板建築にした店舗で、路地を入ると店の裏側や住居などが眺められる。「糀屋(こうじや?)」という屋号がついている。



片岡ミシン商会隣。野田630。2006(平成18)年3月18日

片岡ミシン商会と並んで2軒の商店があったようだ。撮影時には廃業していて建物だけが残っていた。資料がないので店名も業種も分からない。現在は住居に建て替えられている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ