ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鷹岡東京支店。千代田区神田須田町1-3
左:1986(昭和61)年6月22日、右:1987(昭和62)年2月1日

靖国通りの須田町交差点に建つ 鷹岡株式会社東京支店のビル。『日本近代建築総覧』では「鷹岡東京支店、建築年=昭和10年、5階建て、設計者=谷口忠」。鷹岡は毛織物の卸商社として明治18年に創業した。本社は大阪で、1935年に東京支店のビルを新築して開業したという。現在も建築時のままの外観を保つように使っているようである。
須田町には戦後になってからだと思うが、最盛期には300軒からの羅紗屋が集中した。昭和30年頃の火保図を見ると鷹岡のある1丁目3番地だけで、25・6軒のビルや家屋のうち、11軒に「ラシャ」の字が入り、生地店やボタン店が5軒ある。この地図では鷹岡は「鷹岡ラシャS」となっていて、その隣の黄色いテントの「米川」は「米川ラシャS」という記載である。「羅紗街」という言葉もあったらしい。
ラシャとは厚手の毛織物の総称で、ふつうはスーツの生地に使う。ビリヤード台に張ってある布をラシャという以外にはあまり使わない言葉のような気がするが、昔は羽織や軍服に多く使われた。戦後はみんなが背広を着るようになり、近所のテーラーでしつらえたわけだが、テーラーは須田町の羅紗屋で布地を仕入れたのだろう。ちなみにぼくが初めて背広を作ったのは、日本橋蠣殻町の中央区役所出張所の向かいにあった「テーラー・フクイ」。



靖国通り。1989(平成1)年2月26日

25年前位になる景観である。写真右に建て替えられる前の5階建ての東洋ビルが写っている。この1階が、屋上に看板がある「TEA ROOM TOYO」だろう。

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石田サイクル。神奈川県小田原市国府津3-1。1989(平成1)年8月13日

国道1号線沿いの商店街もこの辺りまで来るとアーケードが設置されていない。数軒の家を間に置いて2軒の自転車がある。どちらも見ごたえのある立派な看板建築だったが、建て替えられてしまった。
石田サイクルのファサードはバロック的な要素をデザインの基礎に置いているように思える。商店建築でバロック様式を取り入れた建物はほとんど見かけない。日本人の趣味に合わないせいでもあったろう。その希少な例が国府津に実現していたのだった。
解体されたのは2007年3月で、『 小田原万博探偵ブログ(2007.05.14)』が報告している。


大川輪業
小田原市国府津3-2
1989(平成1)年8月13日

こちらの看板建築も壁面の飾りがにぎやかだ。デザインの様式を特定することもないが、無理に考えればゼツェッションだろうか。壁面中央の縦長の枠は店名のレリーフが入っていたのだろうか。『小田原建築探偵』では昭和2~3年に建てられたとしている。石田サイクルより以前に解体されている。

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I邸。神奈川県小田原市国府津3-11。1989(平成1)年8月13日

東海道本線の国府津駅は1887(明治20)年に開通した。じきに箱根湯本までの小田原馬車鉄道も開通して、終着駅乗換駅として、また別荘地としての国府津駅周辺の発展が始まったようだ。1889(明治22)年、東海道線が御殿場経由で全通したが、現御殿場線は急勾配のため、機関車を増結しなければならず、どの列車も必ず国府津駅に停車した。明治期に建てられたらしい扇形機関庫は車中から何度かみたものだが、なにぶん昔のことで記憶はかすれている。
関東大震災後の復旧も早かったのだろう。現在、その頃の国府津の賑わいを象徴する建物が、写真の、かなり正面の幅がある看板建築である。以前はこの建物に匹敵する看板建築が何軒かあったが、だいぶ減ってしまった。『 小田原建築探偵』によると、元は呉服店だったという。



I邸後ろの洋館。2012(平成24)年4月6日

I邸の後ろ、国府津保育園の横に木造らしいが立派な洋館があり、国道からも横の駐車場の奥に見えている。

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公益社書店。神奈川県小田原市国府津3-10
左:1989(平成1)年8月13日、右:2012(平成24)年4月6日

国道1号線の国府津駅に間近の本屋。建物は見たところ鉄筋コンクリート造のビルにしか見えない。もしそうなら、この辺りでは戦前築のビルはほとんど見かけないので、かなり貴重な物件かもしれない。今気が付いたが、建物上部のレリーフは、「公益」の文字を植物で飾ったものだ。
公益社書店の右は、Google地図で「魚半倉庫」で、その店舗は公益社書店の数軒左にあるらしい。左写真の撮影時では魚半倉庫の建物がなんだったのか分からないが、その建物の前に魚半のトラックが止まっている。




左:鈴木屋酒店。小田原市国府津3-8
右:朝日配管。小田原市国府津3-10。2012(平成24)年4月6日

公益社書店を挟んで、その並びにある商家。古い木造日本家屋の商店建築というと、出桁造りが多いような気がしていたが、鈴木屋の入母屋造りの店を見ると、こういう造りの商店もけっこう見かけるような気もしてくる。江の島の土産店、箱根の日本旅館、小田原の料理屋なんかが連想される。ただし出桁造りとは、屋根の造りが異なるだけのようにも思える。

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左:三浦屋靴店。神奈川県小田原市国府津3-7。1989(平成1)年8月12日
右:蔵。小田原市国府津3-7。2012(平成24)年4月6日

三浦屋靴店は国府津の国道1号線沿いの商店街にある洋風看板建築。「三浦靴店」でネットには出てくるので営業しているようだが、店名の看板がない。
右写真の蔵は下の近影の写真の左に写っている蔵。奥行きがかなりあるので木造モルタル塗りの倉庫にも見えるが、窓を見ると壁が厚い。自転車の預かり所になっていた。



近影。2012(平成24)年4月6日

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ヒノデストア。神奈川県小田原市国府津3-7。1989(平成1)年8月12日

JR国府津駅から国道1号線に出る角に、今も神戸屋ふるや店の昭和10年頃の看板建築が建っているが、そのもう一方の角にあった建物がヒノデストアという店舗だった。現在は周辺の建物もなくなって、駐車場になっている。とにかく駅前だから普通なら飲食店などが入ったビルが建ちそうなものだが、集客が期待できない感じはある。

国道1号を箱根に向かっていて、この建物が目に飛び込んできたときにはびっくりした。そのときはそのまま通過したのだが、気になってしかたがなかった。それから1・2年経って、やはり車で国府津を通ったときに、強引に国道に車を止めて急いで撮ったのが1989年の写真で、家族を車に待たせてのことでもあり、10枚足らずしか撮影していない。当時は国道の両側ともアーケードがあって、いかにも商店街という感じがした。
ヒノデストアの写真は以下のサイトで見ることができる。
小田原建築探偵 ヒノデストア』このサイトによると建物が解体されたのは2005年5月である。
神奈川の近代建築>小田原市> 国府津駅付近の看板建築郡その1
ポトポト海岸散歩>国府津駅前~国府津海岸』2004年11月の撮影。
ちえのわハウス>小田原市国府津周辺風景』2002年5月の撮影。



ヒノデストアがなんの店だったのか分からない。1枚目の写真は営業中のようで、店先に商品が出ているのだがそれがなにかまでは判らない。雑な置き方で、処分品だろうか?



ヒノデストアの隣も洋風の看板建築だった。看板がないからすでに店は廃業しているようだ。

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神戸屋ふるや店。神奈川県小田原市国府津4-2。1989(平成1)年8月13日

JR国府津駅から国道1号線に出る角にあるパン屋。2004(平成16)年6月9日に国の有形登録文化財として登録された。
文化遺産オンライン>神戸屋ふるや店』では「建築年=1935年頃、タクシー会社の車庫兼社屋として建てられたもので、現在では車庫部分を店舗として利用されている。木造であるが、外壁はモルタルで洋風石造建築を模しており、隅の円柱、窓周り、軒部等に特徴的な意匠を備えている」という解説。一方で『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では、「旧富士屋自動車停車場」という旧名称があって「国府津は大正から昭和初期に政財界人の別荘が多く建てられ、彼らの送迎用ハイヤーの車庫として建てられたもの」とある。
富士屋自動車株式会社とは、箱根町宮ノ下の富士屋ホテルのHP『 富士屋ホテルチェーン>ホテルヒストリー』や、『 HOTEL CONCIERGE>クラシックホテルズ>富士屋ホテル第6回』などにある会社ではないかと思う。それらサイトによると、富士屋ホテルが送迎用の車両で別会社を興したもので、1914(大正3)年8月の設立。1919(大正8)年6月、国府津―箱根間の運転を開始した。小田原電鉄の自動車事業と激しい競争をしていたが、1932(昭和7)年8月に両者は合併して「富士箱根自動車」と改称した。
神戸屋ふるや店の建物が昭和10年頃の建築とすると、建設時の名称は正確には「富士箱根自動車停車場」なのだろうか? 昭和9年12月に丹那トンネルが開通して、国府津は鉄道の要衝としての地位から転落する。国府津―小田原間でバスやタクシーを使う客もいなくなってしまっただろう。



近影。2012(平成24)年4月6日



ふるやの主屋。2012(平成24)年4月6日

神戸屋ふるや店の裏だか隣には、一部を洋館風の外観にした日本家屋の住宅が建っている。登録有形文化財として登録された名称は「神戸屋ふるや店店舗及び主屋」で、その「主屋」ではないかと思う。

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鈴木質店。足立区千住4-22。1988(昭和63)年12月11日

写真手前は「千住ほんちょう公園」で、日光街道千住宿の雰囲気を感じるように、入口やトイレが和風に造られた公園。撮影時の住宅地図では「千住四丁目児童公園」で、蛸の滑り台などはその名残かもしれない。なにかで、建物疎開の跡地が公園に替わった、と読んだような気がする。現在の公園はわりと最近整備されたもので、おそらく「サンロード商店街」を「宿場通り」としてイメージチェンジしたのに連動したものかと思う。
写真の洋風の外観の蔵は鈴木質店の蔵。現在、質店は廃業したらしいが蔵は残っている。写真右、木の後ろに住居があり、左手前の平屋は店舗になるのではないかと思う。この家は建て替わって立松歯科医院の建物になった。


鈴木質店の蔵
1999(平成11)年5月1日

『千住の蔵>千住の蔵の姿』に、この蔵と同じタイプの「千住旭町の質店の蔵(コンクリート蔵)」が説明されている。千住旭町の蔵は昭和10年頃に質屋の蔵を専門に造る大工が建てたという。「建物の意匠が似ている4丁目の質屋さんの方が先で、昭和初期に建てられたそうです」とあるが、その4丁目の質屋が鈴木質店に違いない。
大震災後の昭和初期からと思うが、洋風の質屋の蔵を設計した建設会社だか工務店があって、戦後のある時代までかなりの数が建てられたのではないかと思われる。



鈴木質店の蔵を建てたのと同じ業者の施工と思われる質屋の蔵。
左:ながさわ質店。荒川区南千住1-32。2007(平成19)年1月27日
右:青木質店。江戸川区南小岩8-21。2005(平成17)年3月9日

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旧・石山商店。足立区千住4-17。2012(平成24)年1月15日

旧日光街道の宿場通り商店街の絵馬屋から50m位南の家並み。写真の3軒の商店はいずれもシャッターが下りているが、左端の花家惣菜店は時間が来れば開店するのだと思う。その右は中華ニュートントンと石山商店(業種は不明)だったが廃業している。石山商店のファサードは、昭和初期と思われる建設時の造りが残っているようだ。



沼尻米店、八古屋。千住4-23。2012(平成24)年1月15日

1枚目の写真から数軒南にいった向かい。平屋の小さい家は「八古屋(858、やこや)」という店で、そのHPでは立ち飲み屋ということである。以前は五福堂というはんこ屋だった。数年前だと思うが、五福堂は横山家住宅の北にあるヤマダヤ洋品店だった家に移った。角の柱は五福堂の袖看板が付いていたものと同じ柱かもしれない。
『東京いま・むかし』(桐谷逸夫著、日貿出版社、平成8年、2987円)には、1994年2月19日の日付の絵が載っていて、五福堂印章店のご主人から聞いた大震災前と思われる街道の様子などが書きとめられている。店舗は大正時代に建てられたものという。

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吉田絵馬屋。足立区千住4-15。1990(平成2)年4月30日

横山家住宅の向かい側にある東京下町で唯一の絵馬を制作販売する店というか工房である。現在の職人は吉田晃子氏で八代目。建物は江戸後期のものらしい。ここで作られる絵馬は「千住絵馬」と称し、経木に胡粉を塗りその上に泥絵具で描く。図柄は決まったものが40種ほどあり、代々受け継がれている。
上の写真は周囲がビルに替わる前で、左手前から、ガレージ(現・千住四丁目マンシオン)、絵馬屋、近藤葬儀社・溜屋(現在はビル化して溜屋嘉正会館、平成6年オープン)、北千住郵便局(現在はやはりビル化)。
近藤葬儀社は、 そのHPによると、元々は1706(寛永2)年に綾瀬の近藤家から分離して、旧日光街道に薬問屋として開業した。1706(寛永2)年の洪水のとき、屋根瓦に鳳凰が舞い降りたので、水の溜りの屋根にかかったということで「溜屋(たまりや)」を屋号にした。なんともありがたい伝説である。以降、桶・神仏具の商売に転向したとか。葬儀社になったのは明治以降という。


近影
2012(平成24)年1月15日

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