ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




スナック玲子。豊島区巣鴨1-10。2007(平成19)年2月9日

JR巣鴨駅南口の一番街商店街(今は「巣一商店会」)の南端の三叉路で、写真左へ行くと巣鴨駅南口のロータリー。角に「スナック玲子」、「小野島歯科医院」の建物は引っ込んでいて写っていない。玲子の建物は2020年頃に取り壊されて、自転車置き場になっている。
写真左の長屋は9軒長屋というか、8軒のスナックや飲み屋が入っている。戦前も似たような長屋が建っていたのだろうか、とつい想像してしまう。2019年頃に取り壊されて、「アークマーク巣鴨Sta.」(2020年12月築、12階建35戸)というマンションが建った。小野島歯科のところも「アークマーク巣鴨Sta.Ⅱ」(2022年3月築、13階建34戸)に建て替わった。


9軒長屋。巣鴨1-10。2007(平成19)年2月9日

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セミー美容室、バーバー スガモ。豊島区巣鴨1-12。2007(平成19)年2月9日

JR巣鴨駅南口、白山通り(国道17号)の裏通りになる。写真左奥の冠城園ビルが白山通りに面している。右へ行くと巣鴨駅南口のロータリー。街灯に「巣鴨駅南口一番街」の看板が掛かっている。今は写真の裏通りへの入り口(たぶん3箇所)の街灯だけに「巣一商店会」の看板があって、他の街灯は柱に「巣鴨駅南口一番街」のプレートが貼られている。
美容院と理髪店が入る建物は「メゾンブランジュ」(2013年1月築、14階建48戸)というマンションに建て替わっている。

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水明亭。新宿区霞ヶ丘町11。2017(平成29)年12月8日。

霞ヶ丘町(かすみがおかまち)といってもぼくなどは知らなかったのだが、明治神宮外苑である。林の中の一軒家で、不思議な立地だが、ちゃんぽんと皿うどんの店として有名だったらしく、ネット上には多くのサイトで取り上げられている。
創業は1960(昭和35)年で、店舗もそのときに建ったのだろうか。「明治神宮外苑水泳場(神宮プール)」の横に出店したので「水明亭」の店名になったそうだ。2018年10月31日で閉店した。「閉店のお知らせ」の張り紙には「建物所有者の事業変更に伴い」とあったが、事情はさっぱり分からない。
ありゃりゃサンポ>ちゃんぽんの水明亭の跡地」を見て驚いた。水明亭の外壁裾の石積部分が残されて休憩場に替わっている。その案内板には「この広場一帯は、かつて水泳場東側苑地と呼ばれ、明治神宮外苑創建時(大正一五年/1926年)に建造された北部大番町寄休憩所の建物がありました。/この休憩エリアは、歴史的な建造物を後世に伝えるべく、建物の形状を一部復元し、使用されていた石材を再利用しております。/令和元年8月 明治神宮外苑」とある。北部大番町寄休憩所を土台にして水明亭を建ててしまったということになりそうだが、そのへんに案内板が「水明亭」に言及しない理由があるかもしれない。



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慶応大学北里記念医学図書館。新宿区大京町(だいきょうちょう)35。2017(平成29)年12月8日

三田評論2011年12月号』によると、慶応大学信濃町キャンパスの医学図書館は、昭和46年に「医学情報センター」、平成5年に「医学メディアセンター」と改称されているが、普通は「北里記念図書館」の名称が使われているらしい。
北里柴三郎は初代医学部長。北里が没して3年後、昭和9年に博士を記念するための北里博士記念医学図書館建設会(会長は長山本達雄、日本銀行総裁、大蔵大臣等を務めた実業家、政治家で、当時義塾評議員会議長)が作られ、2600人から30万円の寄付によって昭和12年(1937年)10月に竣工した。
設計者は和田順顕(「横浜郵船ビル(昭和11年)」が有名)、施行は清水組。構造はRC2階建。


北里記念医学図書館、背面

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慶応大学予防医学教室。新宿区大京町(だいきょうちょう)30。2017(平成29)年12月8日

JR総武線信濃町(しなのまち)駅前の慶応病院(慶応大学信濃町キャンパス)の裏に、通りを隔ててつい最近まで3棟の昭和初期に建てられた慶応大学医学部の建物が並んでいた。北から「予防医学教室」「北里記念医学図書館」「慶応大学病院別館」だが、別館は2009年に取り壊されて、「大学病院3号館(南棟)」に替わった。
予防医学教室(校舎)の建物は『日本近代建築総覧』では、「慶応大学予防医学教室、新宿区大京町30、建築年=昭和4年、構造=RC4階(地下1階)建、設計=曽禰・中条建築事務所、施行=清水組、備考=「曽禰・中条建築事務所作品集」による、一部鉄骨、塔屋」。
三田評論2014年2月号』によると、総工費39万9千円の大部分17万5千ドルがロックフェラー財団からの寄附による、という。
また、昭和20年5月24日未明の空襲で、木造だった病院の主要部分は全焼した。その際、学徒挺身隊80名と看護婦270名、医局員、学生の敢闘によって、入院患者180名全員を別館や国民学校に避難させ、予防医学教室、図書館、別館を焼失から守ったという。病院に焼夷弾を大量にばらまくとは、米軍はなにを考えていたのだろう。


慶応大学予防医学教室、南側面

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上:清華亭、味美。豊島区南大塚1-58
左:家庭料理 まきしま。南大塚1-50
2006(平成18)年12月6日

大塚駅前から大塚三業通りに入って230mのところの交差点、その北の角から3棟の戦後の看板建築といえる家がならんでいた。写真では右端の1棟(2008年2月のストリートビューで「らん」という店と分る)が端だけ写っている。3棟の別個の家だが外観を揃えているのは、通りをすっきりと見せたいからだろうか。現在は「日神パレステージ大塚」(2011年9月築、11階建29戸)というマンションに替わっている。

「まきしま(巻島)」は清華亭があった四つ角を西へはいったところ。前の道路は暗渠になった谷端川の流路から都道436号(プラタナス通り)へ上がる坂道だ。今も建物が残っている。撮影時は営業していたようで、建物角のショーウインドーにメニューが出ている。

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スナック泉。豊島区南大塚1-51。2006(平成18)年12月6日

大塚三業通りの大塚駅の近くにあった和風の大きな建物。料亭か待合だったのだろうか。後には3階建と見える棟があるが、同時に取り壊されたから一体の建物だったのかもしれない。通り沿いの1階には3軒の店が入っている。「スナック泉」は中央の紺色の壁、右は「スナック・ニューホース」。建物の解体時まで営業していたようだ。左の黄色い日よけは、解体前は「JOJO」というヘアサロンだった。
現在は「グレスコート大塚Ⅱ」(2021年2月築、10階建18戸)というマンションに替わった。

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松し満(まつしま)。豊島区南大塚1-60。2006(平成18)年12月6日

JR大塚駅南口のすぐ東のところ。松し満の裏は山手線の土手で、松し満の前の左右の道は大塚三業通りから分かれて、線路の土手の下に沿って東西に通っている道。その道と土手の間に1列に家や小さなビルが並んでいる。
現在、大塚三業通りの小さなビルに「割烹 松し満」という居酒屋のような店がある。「食べログ」には「創業は昭和23年で料亭としてお店を構え」とあり、その料亭が写真のものだろう。「2012年にカウンター割烹として、今の場所へ移転」ともある。
写真の建物は今も健在。住居になっているのだろうか。



千草。南大塚1-54。2006(平成18)年12月6日

駅前から大塚三業通りに入ってすぐのところ。現在も写真のままの家並みだ。写真右手の破れた日よけの店は喫茶店だったような構え。右端は「鈴木不動産」。3階建てのビルは焼鳥の「鳥晶」。写真左奥は「割烹 水たき 千草」。大塚三業地をレポートしたサイトには必ず登場する。「料てい」の丸い鑑札がついている。

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早稲田大学演劇博物館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学5号館(演劇博物館)、建築年=昭和3年(1928)、構造=RC3階建、設計=今井兼次(早稲田大学営繕課)、施工=上遠組、備考=地下1」という記載。
博物館の建設を熱心に推進したのは坪内逍遙で、正式には「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という。坪内逍遙(1859-1935)は、「日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』及びシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。」(ウィキペディア)。興味を引かれるのは業績とは無関係と思われる「妻センは東大の近くにあった根津遊廓の大八幡楼の娼妓の花紫で、当時学生であった逍遙が数年間通いつめた後、1886年(明治19年)に結婚した。松本清張はこれを題材にした『文豪』を書いている。」(ウィキペディア)こと。
建物の正面1階玄関に当たるところが舞台(フロントステージ)で、奥の陳列室は楽屋、2階廊下は上舞台、両サイトは桟敷席に相当し、劇を上演することもあるという。16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模していて、坪内の発案である。



早稲田大学演劇博物館。2004(平成16)年11月9日

早稲田大学百年史』(別巻Ⅱ 第三編 付属機関 第二章演劇博物館)には「建物そのものをシェイクスピア演劇資料とし、同時に実演もできるという構想は永年逍遙の胸に温められていたものであった。」「(昭和2年5月)恩賜館にて演博準備会が開かれ、逍遙は設計担当の佐藤功一博士と早大営繕課の桐山均一にその模型を見せて設計を注文している。」「設計は桐山均一と同じ営繕課の江口義雄が担当、九月末には逍遙を交えて演博建築設計図の打合せが行われ、十一月十七日には設計協議会が大隈会館で開かれた。この頃は設計も完了し桐山は外遊したので、今井兼次が代って江口とともに説明した。」という記述がある。

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早稲田大学會津八一記念博物館。新宿区西早稲田1-6。2004(平成16)年11月9日(3枚とも)

『日本近代建築総覧』では「早稲田大学2号館(図書館)、所在地:新宿区西早稲田1-6-1、建築年:大正14(1925)年、構造:鉄筋コンクリート3階建、設計者:今井兼次(早稲田大学営繕課)、施工者:上遠組」。図書館として建設されたが、1991年(平成3年)に安部球場跡地に早稲田大学中央図書館が開館して、図書館はそちらに移転した。その後改修されて1998年(平成10年)5月に會津八一記念博物館が設置された。
2号館・旧図書館と今井兼次』には、今井兼次について、「本学名誉教授今井兼次(1895~1987)30歳の時の作品」「1920年より45年間に渡り本学教員として建築学科のデザイン教育を指導したプロフェッサー・アーキテクト」とある。図書館の建築は、御大典記念事業として「当時の建築学科主任、内藤多仲教授が中心となって耐震的な新図書館の計画を進めることになり、 今井兼次が意匠方面の設計者として参画することになった」という。
ぼくはまだ内部を見ていないのだが、その時のために以下の文章も書き写しておく。「ヒューマンな精神への撞景と実践と、空間的ヴィジョンへの意欲が大きな二つの軸となって、 この図書館建築に対する今井兼次の創作態度となって貫かれているのである。」「「質実豪放端正な」外観に包まれた内部空間は玄関大広間から大階段室へと至る空間の継時的な展開が中心軸を形成する。 今井が「宇宙の体系」を表徴する空間として構想した部分である。」とある。外観と内部のデザインは今井の精神的な現れ、ということだろうか。



早稲田大学會津八一記念博物館(東側正面)
『2号館・旧図書館と今井兼次』に「玄関大広間の六本の円柱は暗緑褐色の格天井を支持している。そしてこの六本の漆喰塗りの白亜の円柱には、 最後の一本を家族に見守られながら仕上げた家族愛の逸話を背景とする、一左官職の心魂を傾けた職人の制作態度が刻み込まれ、彫琢されているのである。」とある。この逸話は『都市回廊』(長谷川堯著、中公文庫、昭和60年、680円)にも、今井が目撃した光景として紹介されて、以下の文章は今井の書いたものからの引用(『建築とヒューマニティ』(早稲田選書、昭和29年)あるいは、「早稲田新図書館建設の感想」(『建築新潮』大正14年2月号))。

 正面大玄関広間の真白い六円柱を皆さんはご覧になつたことと思ひます。此六本の柱を仕上ぐるに一つの物語があります。残り少ない時間に若い二人の左官職は、はげみにはげんで仕事に掛つたのです。或る時は蝋燭の燈火で懸命に働かねばならぬ事もあつたが、二人は二本、三本と日を追ふて柱を白堊に塗り上げて行ったのです。塗り上ぐ可き最後の六本目の日が来たのです。この日の朝、年長の職人は盛装した自分の妻と三人の幼い子供を連れてこの大広間の一隅に座を占めました。男は相変わらず二人で働きつづけて行つた。やがて最後の柱は仕上げられた。希望を以つて働いた青年は、親子して終日、今まで自分達が仕上げ来つた六本の白柱をあかずながめて安心の姿で広間を去つて行つた。この光景はいじらしくも自分には有り難いものでありました。
 今一人、二十九歳の錺職は、これが自分のこの職に対する最終の制作だと云ふて痛めし脚部を曳きしめながら働く、けな気さを覚えてゐます。勇躍して仕事に尽瘁した者程、雄々しいものはないと思ひますが、幾多の希望を持つて働く人達に依つて、この図書館が形ち造られたことは、なにより意義多きことと云はねばなりません。




早稲田大学會津八一記念博物館(西側)。図書館の書庫だった8階建ての部分。上部3階分は昭和9年に増築された。

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