ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




千秋社。千葉県野田市野田339。2006(平成18)年3月18日

株式会社千秋社は、1917(大正6)年に高梨・茂木一族の8家が合同して野田醤油株式会社を設立したときに、これを支援する経営者団体として合名会社千秋社を組織したのが始まり。キッコーマンの主要株主で不動産業務やキッコーマンの会計業務などを行っているということだ。
建物は「野田商誘銀行」だったもので、1926(大正15)年6月竣工、RC2階建で設計者施工者とも不明らしい。『日本近代建築総覧』の「野田商工会議所、野田市野田339、S2、RC、施工=戸田組」がこれに当たるのかもしれないと疑ったが、その野田商工会議所は『千葉県の近代産業遺跡>失われた近代建築>キッコーマン旧本社』の写真に見られる旧本社の隣の洋館かもしれない。建物の特徴などは『 千葉県の産業・交通遺跡 22千秋社社屋』に懇切丁寧に語られている。
野田商誘銀行は野田醤油醸造組合の発起により1900(明治33)年に設立された。勿論、資金調達のためだが、一般市民にも利用でき、地域社会に便益をもたらした。戦時の政府の方針で1944年(昭和19) 年5 月に千葉銀行に合併された( 企業の社会性と経済性の両立―野田における醤油醸造産業の事例―)。1970(昭和45)年まで「千葉銀行野田支店」として使われたが、その後千秋社の所有になっている。

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興風会館。千葉県野田市野田250。2006(平成18)年3月18日

財団法人興風会は、1928(昭和3)年11月、ご大典(昭和天皇の即位式、11月10日)を記念して、千秋社の寄付によって設立された。地域の社会教化事業を推進するため、という。千秋社は1917(大正6)年、野田の醤油醸造家が大同団結して野田醤油株式会社を設立した時に、これを支援する経営者団体として組織された。キッコーマンが野田を中心とした地域の教育を援助するための事業所と考えればいいだろうか。
興風会館は1929(昭和4)年10月の竣工。652席の大講堂を中心としたRC4階建地下1階、設計=大森茂、施工=戸田組。「ロマネスク様式を加味した近世復興式」ということだ。「復興式」というのはルネサンス式ということで、震災復興のことではない。設計者の大森茂には、明治大学や和敬塾本館があるが、当ブログでは『 東洋高校/三崎町1』を収録している。
2001(平成13)年に耐震工事が施された。外壁も塗り直したようだ。

時空散歩>野田散歩;醤油醸造の文化遺産を辿る』では、興風会の設立と興風会館の建設には、野田醤油の労働争議が背景にあるのではないかと指摘している。
1927年4月の争議は9月には無期限ストライキに突入。会社は全工員の解雇や右翼団体を入れての弾圧などで対抗。組合は日本労働総同盟の支援や国会請願と、解決の見通しはなくなった。それが1928年3月20日の天皇直訴事件で労使とも恐懼して急速に歩み寄り、4月20日、協定が成立した(参照:ウィキペディア>野田醤油労働争議)。11月のご大典を控えてあわてたのだろうか。江戸時代から続く醤油醸造家が近代的な会社組織に替わるには脱皮の苦しみが伴う、ということだろう。

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キッコーマン稲荷蔵。千葉県野田市野田250。2006(平成18)年3月18日

県道17号流山街道沿いのキッコーマン本社の裏側には茂木本家・茂木七左衛門邸や古い仕込倉が残っていて、その茂木本家母屋を中心に周囲の古い建造物がまとめて平成22年に国登録有形文化財に登録された。写真の巨大な木造建築が「旧仕込倉」ではないかと思う。『 千葉県>千葉県教育委員会>茂木本家住宅母屋ほか』によると、大正前期の建造で木造平屋建、瓦葺。現在は倉庫に使っているという。
「稲荷蔵」は『 時空散歩>野田散歩;醤油醸造の文化遺産を辿る』などで知った名称。観光地図などにある名称だろうか。そばに稲荷神社があるのだろう。千葉県教育委員会のサイトには「(茂木本家母屋の)西側に旧仕込倉や旧米倉、稲荷神社」とある。本稿はその旧仕込倉として話を進めているが「旧米倉」だったということはないだろうな。


キッコーマン稲荷蔵。2006(平成18)年3月18日



キッコーマン旧本社跡。野田市野田339。2006(平成18)年3月18日

稲荷蔵の向かい側には古い門と塀が残されている。キッコーマン本社があったが場所である。1999(平成11)年に流山街道沿いの今の場所に新社屋が竣工して移転した。旧本社の建物は『日本近代建築総覧』に「キッコーマン醤油K.K.本店、野田市野田339、建築年=1927(昭和2)年、木造2階建、設計=佐藤良吉、施工=直営」とある。『千葉県の近代産業遺跡>失われた近代建築>キッコーマン旧本社』でその写真を見ると、木造とは見えず、色の具合でスクラッチタイル張りのRC造のビルに見える。設計者の佐藤良吉は千葉県教育委員会のサイトに、茂木本家邸の設計者で「宮大工の流れを汲む建築家」と説明されていて、白漆喰の城のような「御用醤油醸造所」も彼の設計。
『千葉県の近代産業遺跡』では、旧本社の東に洋館が建っていたのが判る。社長の自宅だったものだろうか? 上写真中央に見える門は、その洋館のものだったようだ。

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茂木七郎治邸。千葉県野田市野田378。2006(平成18)年4月29日

写真の屋敷は、観光的には「茂木七郎治邸」で、安政5年(1858)頃に建てられた野田市で最も古い木造住宅ということだ。個人の住宅で中には入れないようだ。外からは長屋門と塀、塀に接した蔵が眺められるくらいなのだが、それだけでもかなりの見ものである。門の前には浅い溝に橋が架かっている。昔はちゃんとした堀で水が張られ鯉でも泳いでいたのだろうか、と想像してしまう。門は開いているから、覗きこんですばやく写真を1枚撮らせてもらえたかもしれない。
茂木七郎治は茂木家本家の分家の一つだろうが詳しくは分からない。名前からの連想だが、茂木七郎右衛門家から分れたのかもしれない。『 日本食糧新聞1993.01.08』の記事によると、1993年に94歳で亡くなられた四代目七郎治氏は明治31年生まれ。キッコーマンで役員を務めながら野田市の市議会議長にもなった名士だったようだ。



2006(平成18)年3月18日

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キッコーマン第一給水所。千葉県野田市野田230。2006(平成18)年3月18日

第一給水所は野田醤油株式会社(現・キッコーマン株式会社)が原料水の統一を目的として建設された。 野田町民へも給水した。1923(大正12)年3月に稼働し、1975(昭和50)年3月まで続いた。
千葉県の近代産業遺跡』によると、1921年4月に地下水をくみ上げるさく井(さくせい。縦穴)工事に着手し、2本目で予定の湧水量を得た。翌年1月には水道敷設工事にかかり、3月には給水を開始、という経過である。
給水塔は普通にみられるものとくらべるとずいぶんと小さい。高さは22mで灯台のような形はユニークではあるが鑑賞してどうこうというものでもなく、なるべく低コストで施工したような感じだ。
ここに給水塔を造ったということは、土地も周囲より高いのだろうか。まわりは割と平坦な台地で、高低差は感じられない。第一給水所の北東の交差点が海抜13m、そこから400m西を通っている流山街道は海抜16m。一方、東に東武野田線を超えるとすぐ海抜15mの等高線が現れる。むしろ周囲より3mほど低い。立地は地下の水脈の関係なのだろう。老巧化ということで2010年2月に取り壊された。



2連の蔵と守衛所と思われる小屋。2006(平成18)年3月18日

給水塔のすぐ下にある変電所のような建物(2枚目写真)は、給水するための施設かと思うがネットでは言及したサイトは見当たらない。給水する量や対象を制御する装置が収まっていたのだろうか。給水塔に水を上げるポンプもあったかもしれない。『日本近代建築総覧』では「建築年=大正12年、構造=RC、施工=日本水道衛生K.K.、備考=聞込みによる」。
ところで「第二給水所」というものがあるのだろうかと思っていたら、『キッコーマン八〇年史』に当たったグズグズ氏が「第二給水所」もあったことをコメントしていただいた。第一給水所とほぼ同じ給水塔とポンプ室と思われる建屋の写真があるそうだ。

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スナック長屋。足立区千住柳町1。2012(平成24)年1月15日

右奥へまっすぐ通っている通りは大正通り。信号のある交差点で千住龍田町、千住柳町、千住中居町、千住寿町が接している。『 遊郭部>廓メシNo.11(双子鮨)』というサイトで、千住大門商店街の双子鮨をレポートしている。マグロが3カン乗った握りの並1200円がうまそうだ。当サイトでは鮨のことはあっさり片づけて、「大将」から聞き取った昔の千住遊郭の話などを解説付きで紹介している。その中に写真の建物が「スナックビル」として出てくる。ここでは外観に合わせて「スナック長屋」とかってに命名した。半分パクリだ。
建物は、航空写真を見た感じでは、角の一戸建ての家と五軒長屋がつながって六軒長屋に見えるものらしい。戦後すぐに建てたものではないかと思う。テナントは写真では「大ちゃん」「のりっぺ」「カラオケyou-yu」「スナック・ウイング」「お茶漬けおにぎり・みね」に空き家が1軒。2012年の住宅地図ではシャッターの店は「セブン」。このセブンが1969年の地図に「バーセブン」で出ていて、一番の老舗だったようだ。古い店はなじみ客も歳をとってしまうということだろうか。

1枚目写真の手前を左に入るとじきに「千住大門商店街/振興組合」のアーチがある四つ角に出る。そちらに曲がらず、そのまままっすぐ行く通りが千住柳町の遊郭があった目抜き通りで、その入り口に遊郭の大門があった。「遊郭部」では、大正通り―大門の道にカフェー街があった、という「大将」の話が紹介されている。
千住遊郭へくる客は、常磐線と東部鉄道の北千住駅からと、都電の「北千住駅」停留所から、という場合が多かった。これらの客は4号国道で一緒になり、斜めに大門に繋がっている裏道を行くのが近道なので、そこを行く場合が多かったと思われる。その道筋が大正通りを突っ切ると「カフェー街」の道になる。人通りがあるので、自然と飲食店が開業するようになっていったのだろう。

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溝口荘。足立区千住柳町23。2012(平成24)年7月14日

千住柳町といえば千住遊郭があった町で、日光街道の千住宿辺りに散在していた貸座敷を、1919(大正8)年に移転させたのが始まりである。あらかじめ土地を区画した新開地である。千住柳町の整然とした区画はそのときのものなのだろう。平均して1戸が100坪だった。(『足立風土記稿・地区編1千住』〈足立区教育委員会文化課編集、平成16年発行〉参照)
1937(昭和12)年には業者は57軒、娼妓405名(『「ぬけられます」あちこち廓探索日誌>北千住』参照)だったという。
戦争中は町の南部が建物疎開で削られたようだが空襲での焼失はまぬがれた。戦後はカフェー調の建物に建て替えたりして、戦前の和風旅館のような建物と戦後のカフェー調の建物が混在していたらしい。
1956(昭和33)年、売春防止法施行で「健全な学生街に生まれかわって、他にみられるように青線化することもなく、そっくりそのまま学生下宿屋に転向した。」(『改定東京風土図 城北・城東編』〈サンケイ新聞社編、現代教養文庫、昭和44年、560円〉)

そこで写真の溝口荘である。溝口荘は確かに学生相手の下宿屋だったのだろうが、それ以前には娼家だったのかどうか。場所はニコニコ商店街に近い遊郭の裏門の方だが、その間近である。goo古地図の昭和22年と38年の航空写真を見ると、両方とも同じ建物のようだから、溝口荘は戦前に建てられた可能性がある。玄関が3か所もあるのが気になる。ネットでは大方が娼家だったことに否定的で、要は見た目が簡略に過ぎるということだろう。ぼくも確信はもてない。


溝口荘。2012(平成24)年1月15日


『東京懐かしの街角』より

左の写真は『東京懐かしの街角』〈加藤嶺夫著、河出書房新社、2001年、2500円〉からお借りした。キャプションは「昭和47年8月●千住柳町24」。右の家の玄関の横に「開花荘」と書かれている。1969年の住宅地図に当たってみると、開花荘は25番地なので、キャプションの24番地は撮影地点をいっている。写真左の家は1969年の地図では「八爪?(読み取れない)学生寮」で26番地になり、溝口荘の向かい側だ。戦前の娼家はこういう造りの家が標準だったのだろう。

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上野屋。足立区千住大川町38。2012(平成24)年7月24日

ニコニコ商店街の北側。看板建築にした三軒長屋と二軒長屋だ。戦前からある建物ではないかと思う。航空写真を見ると、これらの長屋の裏にも3棟の古い長屋が残っているように見える。店を開いているのは手前の天ぷらの上野屋だけのようだ。三軒長屋の右端は、1989年の地図では「丸万寿司」。錆びたトタンの二軒長屋の方は「牛→豚/お惣菜/中林商店」と「鮮魚・みなとや支店」の看板が残っている。



ふるいち。住大川町37。2007(平成19)年1月27日

1枚目写真の右奥に写っている。和菓子の「ふるいち」と袋などの包装資材の「タカサワ商店」。「TOSTEM」の看板は青木ガラス店、郵便ポストの前は栄屋商店、「くすり」の看板は大道薬局。ふるいちの建物は残っているがそれ以外は取り壊されて駐車場になったり住宅に建て替わったりしている。


あらい青果店。千住大川町50
2012(平成24)年7月24日

ニコニコ商店街から1歩北へ入ったところで、写真右に花屋のハナヨシが写っている。右の角の家は「プチ菓子店」。

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ハナヨシ生花店、魚きん。足立区千住柳町41。2012(平成24)年7月14日

千住柳町の西北端で、写真右の横丁の右側は千住元町、ニコニコ商店街のハナヨシ(花義)の向かい側は千住大川町。ニコニコ商店街はここから始まり、反対の千住元町の商店街は「千住元町明光会」となる。商店街とはいえ、北千住駅からはいうまでもなく、国道4号線からもだいぶ入ったところだから、閉まった店や住宅に建て替えられた家が多い。そんな中でハナヨシの四つ角は商店街の体裁を残している。魚きん鮮魚店も入った看板建築の家は戦前からあるものではないかと思う。


寿司処福むら。千住柳町41
2012(平成24)年7月14日

1枚目写真の右の横丁の奥に小さく、赤い日よけが写っている店。昔の航空写真を見ると、この場所には三軒長屋と思える家が2棟、縦に並んでいる。その端の1戸が残っているのだろう。

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ニコニコ湯。足立区千住柳町2
左:1988(昭和63)年12月11日
右:2012(平成24)年1月15日

大正通りにある銭湯。いつの工事になるのかは知らないが、通りに面した正面を改装して「湯あそびひろばニコニコ湯」の字をかわいい書体で取り付けている。ニコニコ湯の名前はそのときに付けられたわけではなく、左写真の撮影時の住宅地図でも同じである。昭和27年の創業というが、最初からニコニコ湯だったのかもしれない。千住柳町の北の境界は「ニコニコ商店街」の通りだが、ニコニコ湯は千住柳町の南端に近いところにあり、お互いに距離があって関連性は薄いと思う。
周辺は空襲で焼き払われた地区のようで、ニコニコ湯の伝統的な銭湯建築は戦後の創業時のものだ。正面入り口の写真を撮っていなかったのを反省している。

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