ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




朝日屋食品店。中央区銀座1-20。1987(昭和62)年10月4日

昭和通りの東の裏通り。平成元年に「木挽町仲通り」の愛称がついた通りだ。写っている建物は、現在はみな建て替わっていて場所の特定がしづらいが、朝日屋の横は路地で、写真左は家(佐竹雑貨店)が取り壊されて朝日屋の横が見えている。右隣のビルは第一滝口ビル、その右の看板建築は森谷印刷。朝日屋横の路地は向かい側に続いていて、その方は昔からの家が今も残っているので、朝日屋のあったのが今の「パレステュディオ銀座」(2003年8月築、12階建て56戸)というマンションだと判る。朝日屋の向かい側が『玉屋文具店、他』の1枚目の写真で、そこに写っている建物のほとんどが残っているのに今更気が付いて驚いている。




喜多商店。銀座1-21
上:1987(昭和62)年10月4日
左:1991(平成3)年9月22日

木挽町仲通りにあった銅板張りの看板建築。上の写真右は建物がなくなって駐車場にしているので、路地の方の面がよく見える。商売の内容は分からないが、戦前の火保図では「モチヤ」。昭和30年頃の火保図では「大東商会」なので、モチヤが続いているようではない。
現在は同じ2階建ての家に「勝見智之/日本舞踊教室」の看板をつけている。どうも、写真の家を改修したように見える。
写真左のビルはシャッターに「青山総業株式会社」とある。念のためネット検索したらなんと『アベアドレス/神田淡路町1』が出た。勿論、淡路町の青山総業と同じかどうか分からないが、この会社は、建て替えが目的で買い取った建物の持ち主から管理を請け負っているのかもしれない。現在は左の空き地と合わせて「アヴァンティーク銀座一丁目」(2001年10月築、13階建て35戸)というマンションに替わっている。

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左:城南信用金庫銀座支店。中央区銀座1-18。1988(昭和63)年6月19日
右:現代通信社。銀座1-19。1994(平成6)年3月20日

昭和通りの新京橋交差点の東北角にある城南信用金庫銀座支店の旧ビル。新京橋は昭和通りが京橋川を渡るための橋で、写真左の首都高速の下にあった。関東大震災後の復興事業で通された昭和通りにともなって架橋されたわけだが、その写真を見たことがない。『Bridge Watching』によると、昭和5年1月に完成したRCアーチ橋。
写真の城南信金のビルは、昭和30年代に建てられたものだろうが、昭和30年頃の火保図にはまだ載っていない。一目で銀行と分かる外観で、戦前は古典様式の建物が多かった銀行建築だが、まだその気分を引きずっていた時代だったのだろう。
現在のビルは「JS銀座ビル」(10階地下1階建て、1993年2月築)というが、その1~4階を城南信金が使っている。

現代通信社は昭和通り東の裏の路地にあった。写真左のビルは太三ビル(太三機工)で、そのビルと共に太三機工が本社ビルを最近建て直した。



宮脇ビル(小鼓)。銀座1-20。1999(平成11)年10月30日

昭和通り沿いに今もあるスクラッチタイル張りのビル。1932(昭和7)年に建てられたという。2013(平成24)年に内部を改修して「銀座レトロギャラリーMUSEE」として再スタートを切った。小さなビルなので高層化もできないし、それなら外観に合った使い方を、と考えたのだろう。
小料理屋の「小鼓(こつづみ)」は1975(昭和50)頃の開店らしい(『銀座経済新聞(2013.05.21)』)。左の写真は『秋立ちぬ』という東宝映画の一場面。成瀬巳喜男監督の1960年の作品である。主人公の少年が宮脇ビルの前で昭和通りを渡ろうとしているところだ。少年の後ろの宮脇ビルの看板は「小鼓」と読めそうなのだが……。
映画の背景になっている場所(銀座と新富町)を特定して現状と比較しているのが『麻布田能久秋立ちぬを歩く』というサイト。26の場面について解説している大変な力作である。


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橋本印刷。中央区銀座2-15。1999(平成11)年10月23日

中央区役所の築地川(現在は首都高)対岸に区立中央会館(銀座ブロッサム)がある。結婚式場に宴会場、ホールを入れた8階建てのビルだが、ちょっと厳めしい感じがしないでもなく、区役所の分館と間違えられそうな気がする。1970年頃に建てられたものではないかと思う。
それ以前は、1955年頃の火保図では「癌研究附属病院」。『がん研究所>沿革』によると、大塚にあった「がん研究会」の研究所と病院が昭和20年4月の空襲で焼失、翌年、銀座の南胃腸病院を買収して病院を再興した。昭和38年に西巣鴨に癌研病院ができ、病院は移ったらしい。また、1968(昭和43)年に現在の研究所の建物が完成、というからその時点で銀座を離れたのかもしれない。

当記事の写真は中央会館の裏の路地にある、あるいはあった古い看板建築。
橋本印刷は銅板張り看板建築の三軒長屋にみえる。その3軒とも橋本印刷が使っているらしい。昭和30年頃の火保図にすでに載っている古い会社だ。
下右写真は橋本印刷の幅の狭い方の路地に現在もある、モルタル塗り看板建築の二軒長屋。住居として使われているようだ。


左:橋本印刷、1991(平成3)年9月22日。右:二軒長屋。銀座2-15。1999(平成11)10月23日



アロム、正隆印刷。銀座2-16。左:1987(昭和62)年10月4日、右:1991(平成3)年9月22日

橋本印刷や二軒長屋のある路地を西に抜けると左写真のところに出る。関東大震災後建った看板建築が2棟ならんでいる。1986年の住宅地図で「旧岡本水道工事、アロム㈱、正隆印刷」となっている。その路地側の面が右写真。「アロム」は当ブログの『蛇の目寿司、他』ですでに掲載している。
今、ストリートビューを見ると、しばらくは駐車場になっていたらしいが、2棟の看板建築の跡地でビルの建築が始まったところだ。

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福山アパート東館。文京区白山1-4。2007(平成19)年2月24日

高台の西方2丁目の西に沿った崖の下、旧町名だと丸山福山町にあった古い洋風木造アパート。アパートの名称はその旧町名からきているのだろう。アパートは2棟からなり、上の写真は東館(当ブログが勝手につけた名称)で、崖下沿いの道(写真左のほう)と、そこから旧町名で指ヶ谷町の方に降りていく坂道との角にある。周囲は住宅地だがアパートが多く、一戸建て住宅ほどの小さな○○荘や○○アパートが密集したなかで、福山アパートは最も大規模なものだ。
Kai-Wai 散策乱歩な福山アパート(2004.11.20)乱歩な福山アパート (2)(2004.11.25)福山アパート(2009.08.08)』によれば、住人から聞いた話として、東館は関東大震災後に建てられたアパートで、西館は戦災で焼失し戦後に建て直されたものだそうだ。しかし昭和22年の航空写真を見ると、周囲は黒い瓦屋根の家が密集していて、少なくとも焼き払われたようには見えない。たまたま西館に焼夷弾が落ちてきたのか、あるいは改修したのを建て直したと記憶していたのかもしれない。





福山アパート東館。白山1-4。2007(平成19)年2月24日

崖下沿いの道から見た福山アパート。東館の敷地は三角形なので、南の側面はのこぎり状に段が付けられている。建物の南西の角には円柱で支えられた庇がある玄関がある。この部分は平屋陸屋根なので入ると玄関ホールになっているようだ。『都市徘徊blog>福山アパート』の写真が分かりやすい。
『Kai-Wai 散策』によれば、2004年の時点で東館はすでに空き家になっていて、取り壊されたのは2009年である。




福山アパート西館。白山1-4
2007(平成19)年2月24日

西館の方はほぼ正方形の平面で、3階建て。3階部分は全体が後退していて、壁を傾斜させることで、屋根裏部屋の体裁をとっている。崖下の道の門から北側の玄関が見え、扉が開いていて少し内部が覗けた。

現在は「サンピア白山」(2010年3月築)という、2棟のアパートに建て替わった。やはり東館は2階建て、西館は3階建てで、航空写真で見ると以前の福山アパートと同じように見える。

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協立製本第二工場。文京区白山1-10。2007(平成19)年2月24日

綿貫理髪店の前から南へ行くとすぐ看板建築の四軒長屋が残り、その先の路地の角のビルの隣が、写真の洋風看板建築の二軒長屋。前の通りはかつての本郷区と小石川区との境だった道で、写真の方は旧町名で丸山福山町、向かい側(西側)は指ヶ谷町。これらを同じ白山1丁目でくくってしまうのはどうかと思うが今更どうしようもない。
二軒長屋の中央の柱に「協立製本㈱第二工場/岡村紙工」の看板がかかっている。この辺りは中小の製本所が多い。
下の写真の四軒長屋は協立製本の並びで、南へ数軒行ったところにあったが今は建て替わって「シュライン」(2013年7月築)という2階建てのアパートになっている。写真の長屋をほぼそのままの形で建て直したようにも見えて、ビルにするより管理や維持も楽で、いいやりかたかもしれない。
四軒長屋のうち奥の2軒は、撮影時はどうか分からないが、1986年の地図で「東洋刃物ソーコ」。


四軒長屋。白山1-9。2007(平成19)年2月24日

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二軒長屋。文京区白山1-18
2007(平成19)年2月24日

白山通りの指ヶ谷小学校バス停の付近から東に入った横丁。白山1丁目は白山通りの東に南北に長く展開している。その南東部、白山1丁目のほぼ半分が空襲での焼失を免れていて、写真の辺りから南へ、今でも戦前築と思われる古い商店、工業所、民家が探せる。
昔の航空写真を見ると、写真の二軒長屋の右の駐車場にも二軒長屋があったようだ。今は集合住宅のような事務所のような3階建てと思われる建物に替わっている。
長屋の左の路地を入ったところが松坂屋質店の入口で、今も営業中だ。航空写真を見るとディスカウント店の「鈴や」(2枚目写真左の看板建築)の後ろに蔵があるようだ。鈴やは今は営業していないようだが松坂屋質店が経営していたのではないか?


綿貫理髪店。白山1-10
2007(平成19)年2月24日

松坂屋質店の前を右(東)へいくとすぐ写真のところに出る。床屋の横を入ると正面のコンクリートの崖の上に区立誠之小学校が見え、その崖沿いの道に出る。
昔の航空写真を見ると元は四軒長屋だったように見える。

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関口商店。文京区白山2-2
1988(昭和63)年3月13日

白山通りの白山二丁目交差点から西へ、千川通りへ抜ける横丁にあった看板建築。照井歯科医院のところから少し西へ行った向かい側。1986年の住宅地図にある関口商店と推定した。現在は「大嶋ビル」(1991年築)という5階建てのビルに建て替わっている。
外観は倉庫のように見える。あるいはこの辺りに多い製本所か印刷所かもしれないが、「商店」というからには印刷製本関連の紙などを卸していたのではないだろうか。二階の両端に銅張りの戸袋を置いた和風の窓の上に、円柱の飾りを両端に置いた浅いアーチの窓を造っている。装飾を兼ねた採光の窓なのだろう。
関口商店の後ろは比高10mほどの崖で、上に「白山閣」という日立製作所の迎賓館がある。写真後ろの木はそこの庭のもの。細川護晃(もりあき)という人の屋敷があったとこだ。『地図と楽しむ東京歴史散歩 地形編』(竹内正浩著、中公新書、2013年、1000円)から引用すると、「明治29年、最後の熊本藩主だった細川護久(もりひさ)の三男護晃が分家を創立するが、特旨により男爵となった。護晃が邸を構えたのが、小石川台が細長く延びた南端に位置する戸崎(とさき)の地である」「大正3年に男爵家が絶えたため、邸宅は細川侯爵家の別邸となった」「戦後日立製作所の所有となったが。白山閣という名は明治のころからあったようだ」。

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清砂通アパートメント15号館。江東区白河4-4。1991(平成3)年6月16日

清州橋通りの、大横川を渡す扇橋のすぐ西、元加賀小入口交差点を南へ入った元加賀公園の向かいにあった清砂通アパートメント。15号館の南に清州橋通りの裏通りに沿って16号館が建っていた。そのL字型の敷地は現在は「イーストコモンズ清澄白河パークフラッツ」(2005年2月築、9階建て84戸)というL字型平面のマンションが東京電力扇橋変電所を囲むように建っている。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、15・16館は6・9.10号館とともに第2期の工事になり、大正15年12月20日の起工、昭和2年12月14日の竣工である。その同時期に元加賀小学校と元加賀公園の建築も進められて、アパートより早く、小学校は昭和2年4月20日、公園は同年8月25日に竣工している。
15号館は敷地から少し後退して建てられている。一応コの字型平面だが南北の翼は短く、それをつぎ足すように増築がされている。


清砂通アパートメント15号館。白河4-4。1991(平成3)年6月16日




清砂通アパートメント16号館
白河4-4
1991(平成3)年6月16日

16号館は15号館と同じ設計という。清砂通アパートメント全16棟は個々に大きさや平面形がバラエティに富み、まったく同じ造りのものは8・9号館と15・16号館だけだ。

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清砂通アパートメント11号館。江東区三好4-7。1991(平成3)年6月16日

清州橋通りの南の裏通り、元加賀公園の向かい側に清砂通アパートメント11~14号館の4棟が路地を挟んで建っていた。現在は再開発されて、「イーストコモンズ清澄白河サウススラッシュ」(2005年6月築、13階建て128戸)と「ドラゴンマンション木場公園壱番館」(1999年6月築、10階建て44戸)の2棟のマンションが建ち、アパートの間の路地は北の半分が消滅した。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、第4期の工事になり、昭和3年7月20日の起工、昭和4年3月30日の竣工である。
11号館は10号館から裏通りを挟んだ向かい側で、平面は匚型の両端を折り曲げたロの字型に近い形だ。上の写真は裏通りとその横丁との角だが、昭和初期に建ったアパートには見えない。これは道路とアパートの間の隙間に増築されていて、その表面を見ているからだ。写真左端の引っ込んでいる部分が元の表面と思われる。

下左写真は横丁を入ったところから撮ったもの。手前が11号館、赤い壁が12号館。この西の面も増築されていて、12号館も赤く塗られた部分が増築の個所である。下右写真は12号館で、増築された部分の奥に階段の入口が見えている。


清砂通アパートメント11、12号館


清砂通アパートメント11号館

11号館と13号館の間の路地を入ったところで、左写真右端が11号館北翼の折り返し部分、同写真中央が11号館南翼折り返し部分、その間が中庭への開口部、写真左の褐色の棟が12号館。右写真は11号館南翼を左写真とは逆方向から見たもの。



清砂通アパートメント14号館。三好4-7。1991(平成3)年6月16日

11・12号館と路地を挟んで向かい側にあった14号館。中庭のあるコの字型平面。写っている範囲で3か所の階段室があるから全部で5か所あるわけだろう。清砂通アパートメントは他の棟でも階段が数多く設置されているようだ。同潤会アパートはどこもそうだったのだろうか。
11号館の東にあった13号館の写真を撮っていなかった。増築のためあまり古い建物のように見えなかったせいかもしれない。

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清砂通アパートメント10号館。江東区白河4-3。1991(平成3)年6月16日

清州橋通り沿いにあった清砂通アパートメント7号館の後ろ(南)に8・9・10号館が横丁に沿って並んでいた。上写真は9号館が手前に少しだけ写っているが、なぜか8・9号館は撮影していない。もしかすると、増築されていて古い建物に見えなかったのかもしれない。
清砂通アパートメントは街路の整備が進むにつれて、順次建てられていった。『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、全16棟の建設を5期に分けている。9・10号館は6号館と同じ第2期で、大正15年12月20日工事起工、昭和2年12月14日竣工。第2期は元加賀小学校と公園が建設されるのに合わせて、その東西(西に6・9・10号館、東に15・16号館)にアパートメントを建設している。元加賀小学校は昭和2年4月30日の竣工で、アパートより8か月早い。
10号館の特徴は下左写真に見える北翼3階のベランダの円柱と片アーチだ。『集合住宅物語』(植田実著、みすず書房、2004年、3800円)には「10号館両翼の円柱と片アーチ型で造形されたバルコニー」としているので、南翼も同じ造りにしてあったようだ。南翼はベランダを部屋に改造したため隠れてしまったのだろう。



清砂通アパートメント10号館。白河4-3。1991(平成3)年6月16日

10号館には日本社会党委員長・浅沼稲次郎が住んでいた。『集合住宅物語』によれば、北翼の1階がその部屋で、夫人と娘さんとの三人で暮らしていた。浅沼は最初、竣工間もない12号館に入ったが、結婚して10号館に移った。1960(昭和35)年10月12日、61歳で暗殺された後も夫人が20年間暮らし、夫人が亡くなったあとも部屋はそのまま残されていたという。



清砂通アパートメント10号館。裏通りから撮ったもの。薄緑色の壁の部分は増築個所と思われる。



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