ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





中村邸。文京区西片2-12
上:1988(昭和63)年1月30日
左:2000(平成12)年5月5日

切妻屋根の裾がゆるい角度になっていて、その分急勾配で高くなった屋根が印象的な洋館だった。そう大きくもまた多くもない庭木が建物をうまい具合に隠していて、上の写真では屋根しか見えない。写真手前のタイル張りの塀は中村邸の手前の家のものだから、庭木もその家のものかもしれない。
『日本近代建築総覧』では「中村英夫邸〈英生ではないかと思うがあるいは代が変わったか?〉(旧中村医院)、建築年=大正初期、構造=木造2階建て、屋根裏部屋付。医院として使用」。モルタル塗りの壁で、コンクリート造のように見える。
都市徘徊blog>中村邸』によると、「旧村松医院」としていて、2013年末に解体されたという。こちらのサイトの写真は逆光にならない曇りの日に、建物がちゃんと収まるアングルで撮られている。

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平野家住宅。文京区西片2-9
2007(平成19)年2月24日

平尾家住宅は、『国指定文化財データベース』によると、主屋、客間棟、洋館、住宅蔵、茶室の4棟が1998年に国の登録有形文化財に指定された建物(他に茶室門と住宅門)で、敷地の奥には割と近年増築されたらしい別棟がある。「わが国最初期の住宅作家とされる保岡勝也による和洋折衷住宅」で、主屋(洋館の後ろにある棟と思える)は1921(大正10)年、その他は1922年頃の建築としているが、『西方町会』では「大正10年(1921)に洋館、翌年に和風主屋が建てられた」とある。
設計者の保岡勝也(1877-1942年)は、1900(明治33)年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、工科大学では学長であった辰野金吾に師事した。三菱合資会社に入社し、曽禰達蔵の下で丸の内赤煉瓦街の設計に携わる。1913(大正2)年に独立して、川越の八十五銀行本店(1918年)、山吉デパート(1936年)などを設計した(ウィキペディア)。「住宅作家」としても評価されているという。
『西方町会』には「この家は中央公論創始者・初代社長の麻田駒之助の邸だった。洋館部分の1階を中央公論、2階を婦人公論の編集室として使った時期もあり、その後平野家が譲り受けた」ともある。
道路から見えるのは客間棟と洋館の正面に住宅門。写真の塀は門と同じく煉瓦造モルタル塗で、内側に控えがあるという。

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金澤家住宅。文京区西片2-2
2000(平成12)年5月5日

写真では主屋がわずかしか写っていないが、2階建て純和風の住宅に、切妻屋根の洋風のアトリエが付属した家である。
国指定文化財データベース』によると、1930(昭和5)年に、「東京美術学校建築科の助教授であった金澤庸治(ようじ)が父親のために建てた住宅」で、「2階建の主屋のみ棟を東西方向に振っているのが特徴。施工は清水組」。アトリエ(金澤家住宅洋館)は「板塀に沿って建てられた平屋建、下見板張りの洋館で、北西面の外壁と屋根の一部をガラス張りとしていることから一見してアトリエの造りと解る。切妻屋根の右手の寄棟部は応接室。建築設計事務所兼自宅を意図したものとされる」ということだ。
金澤庸治(1900ー1982年)は、東京美術学校建築科を卒業後、そこの教職に就いて建築教育にあたる。東京芸術大学大学美術館正木記念館を設計している。「恩師である岡田信一郎の右腕として岡田の作品をバックアップする(ウキペディア)」という一面もあったという。
落合道人>西片町の気になるアトリエ住宅』には、清水組『住宅建築図集』から、「竣工直後の金澤庸治邸」と「金澤邸竣工時の平面図」が引用されている。

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富士銀行志村支店。板橋区小豆沢3-6。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)の志村坂上交差点の東北角にあった富士銀行だった建物。現在は「NK志村坂上ビル」(1998年3月築、11階建)というオフィスビルが建っている。現在、富士銀行の店舗は同じ交差点の西北角、みずほ銀行志村支店(旧・第一勧銀志村支店)になっている。写真の建物は住所は小豆沢なので、小豆沢支店といったかもしれないが、この辺りの商店は都営三田線の駅名に倣って「志村坂上店」というのが大勢だ。
建物は2階建てに見える。戦後に建てられたものだが、戦前の銀行建築を引きずっているような外観のデザインで、なかなか厳めしい。昭和30年ごろまでに建てられた富士銀行の建物に共通するデザインかと見える。
富士銀行と第一勧銀、日本興業銀行が合併してみずほ銀行になったのは2002年4月だが、富士銀行志村支店はすでに撤退している。

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東京ゼンマイ。板橋区小豆沢3-4。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)の志村坂上交差点を東(小豆沢商友会の通り)へ入って、260m先を北へ曲がったところ。ばね(スプリング)を製造している工場だろう。現在、電話帳には出てくるがそれらしい工場は見当たらず、その住所は「ライオンズ志村坂上レジデンス」(2012年4月築、8階建52戸)というマンションだ。廃業したのかもしれない。

写真の道路を右(北)へ行くと下の写真の場所にぶつかる。古い平屋の家の横を入ると小豆沢公園。照明器は野球場のもので、今は1本の柱のものに造り替えられている。平屋の家には、鉢植えの木に隠れているが、玄関の脇に「天理教本梓分教會」という表札がかかっている。


天理教本梓分教會。小豆沢3-8。1988(昭和63)年11月3日

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トーハツ株式会社。板橋区小豆沢3-5。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)の志村坂上交差点を、志村銀座とは反対の東へ行ったところ。板橋中央総合病院の向かい側である。
トーハツは主に船外機と可搬消防ポンプを製造する会社で、会社のHPによると、1922(大正11)年、京橋区に「タカタモーター研究所」として設立され、翌年には発動機付揚水ポンプを国や東京市、電力会社に納入している。板橋に工場を設置したのは1937(昭和12)年。当時の社名は「タカタモーター製作株式会社」。1939年5月に「東京発動機株式会社」に社名を変更。1940年には「陸海軍の協力管理工場に指定され、我が国唯一の小型ガソリンエンジンの軍需工場として製品を順次開発生産し、大躍進する」とある。現在の社名「トーハツ株式会社」は1972(昭和47)年6月から。
グーグル古地図の昭和22・38年の航空写真に写っているのが戦前に建てられた工場建屋らしいが、1970年代後半にはそれらが建替えられている。写真の、奥に見える古そうな工場は1棟だけ戦前築の建物を残しておいたものと思える。
2012(平成24)年に板橋の工場はどこかに移され、工場の建物は全て取り壊された。現在は2000(平成12)年に建てられた本社ビルの他は敷地は更地になっている。写真の、スクラッチタイル貼りの2本の門柱が今も残されている。

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小豆沢1丁目の工場。板橋区小豆沢1-15。1988(昭和63)年11月3日

中山道(国道17号)に「志村警察署前」という交差点がある。「福寿通り(都道445号)」と交わっている。交差点の西北角が凸版印刷で、工場の正門は西へ行った次の裏道との角である。写真は福寿通りを凸版とは反対の東へ行った、3本目の裏通りとの交差点。木造平屋の建物は倉庫にも見えるが、工場と見て、その名前が分からないのでとりあえず「小豆沢1丁目の工場」としておく。
現在は「ライオンズマンション志村坂上第2」(1990年9月築、7階建て76戸)に替わっている。写真を撮ってまもなく取り壊されたらしい。

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凸版印刷板橋事業本部。板橋区志村1-11
上:1990(平成2)年1月14日
左:1988(昭和63)年11月3日

玄関の上に「凸版印刷株式会社情報・出版事業本部」とあり、現在の門の表札は「凸版印刷株式会社情報コミュニケーション事業本部」である。一般には「凸版印刷板橋工場」というかと思う。当ブログのタイトルは『日本近代建築総覧』の「凸版印刷板橋事業部」に「本部」を加えた。3階建ての白いタイル貼り壁面のビルが広大な工場の事務所棟。1938(昭和13)に完成した。設計・施工者は情報がとれなかった。塔屋の部分がアールデコ風のデザインで、その下の階は玄関が立派なので貴賓室でもありそうな感じだ。
凸版印刷>沿革』には、昭和初期の不況期にあっても、事業を拡大させてきた会社は、将来の印刷需要の増大を確信して、大工場を計画する。『公文書館の活用術! 館所蔵資料で知る「いたばしの工業」』によれば、板橋の約2万坪の土地に昭和9年に工場を建設したとしている。土地を獲得したのが昭和9年なのかもしれない。「沿革」には「総面積約6万6000平方メートル。工場の建物は4万平方メートルあり、洋風庭園と運動設備を備え、当時の工場のイメージを一新する近代的な工場でした。第1期工事が終了した1938年に操業を開始、すべて完成したのは1940年でした」とあり、その洋風庭園と玄関前のロータリーは竣工時のままらしい。
『館所蔵資料で知る』には「昭和15年10月、板橋工場内に陸軍の専属工場が設置される。その後、陸軍関係の仕事が増加し、また秘密にしておかなければならない印刷物を製造するための特別工場が必要になったこともあり、昭和17年に工場の増改築を行った」ともある。
戦後は、印刷機械の大型化に伴い、安い土地を求めて神田や小石川から中小の印刷工場が凸版板橋工場の周辺に進出してきたという。印刷業は下請が支えているような面がある。

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東神商事。中央区日本橋蛎殻町1-13。『SFマガジン1964年10月号』より

『SFマガジン1964年10月号 通算61号』の裏表紙の裏に載った広告。1964年というと東京オリンピックがあった年だ。雑誌の性格上、商品取引の広告などが載ることなどまずないのだが、どういうわけで掲載されたものか? 早川書房以外の広告は、表紙裏にミノルタカメラの一眼レフ「ミノルタSR-1」と、東神商事の上に、中滝製薬の「複合ワカ末糖衣錠」(モデルが日活の西尾三枝子)。この二つはたぶん広告の常連。当誌にはスタニスラム・レムの「ソラリスの陽のもとに」の連載が始まっている。
広告にある住所はかつてあった東京穀物商品取引所新東京穀物商品取引所(現在は「ザ・パークハウス日本橋蛎殻町レジデンス」(2013年8月築14階建て123戸)というマンション)の裏になる。
1969年の住宅地図に「食糧会館/東京穀物商品取引所」裏の向かいに「東神商事KK」と隣が「日本投資…(読み取れず)」で載っている。建物は関東大震災の後に建てられた看板建築だろう。現在は「第1テイケイビル」という5階建てのビルになっていて、そのビルの竣工が1984年である。写真の右端は「天音」という天ぷら屋で、この店の建物は変わっていない。
「赤いダイヤ」という言葉は戦前から言われていたのかと思っていたが、どうも梶山季之の小説『赤いダイヤ』(1962年刊行)から一般的になったようだ。

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小石川植物園本館。文京区白山3-7
1989(平成1)年5月7日

小石川植物園は「徳川綱吉が将軍職にあった貞享元年(1684年)に、子供の頃の綱吉の下屋敷であった白山御殿の跡地に作った薬園(小石川御薬園)を起源としている。明治になって、文部省博物館の附属となった時に小石川植物園と改称され、日本における最初の植物園となった。その後、明治10年(1877年)4月12日の東京大学創設後間もなく本学の附属となり、理学部の管理する施設となった」「本館には研究室や事務室、標本室などがある」(東京大学大学院理学系研究科・理学部>第1回植物園)。そういう施設だから、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園本園」という。
本館の建物は1939(昭和14)年に建ったもので、RC2階建塔付、内田祥三(よしかず)の設計。内田は関東大震災後の東京帝大構内の復旧を主導し多くの建物を設計しているが、多くはゴシック様式を基調とする古風な建物で、「内田ゴシック」といわれるデザインある。植物園本館はモダニズムというしかないようで、アールデコとか表現派にはならないようだ。内田は1936(昭和11)年に「東京大学三崎臨海実験所本館」を建てていて、そこに出窓のような半円形の部屋を造っている。植物園本館の左右の翼先端の造形は、実験所で使ったデザインを再使用したのかもしれない。時計塔は実用からは外れて外観を整える役割しかない。内田はなかば遊びで設計していないだろうか。

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