ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鳥ひろ、喫茶ボン。茨城県土浦市桜町2-7。2006(平成18)年11月5日

県道24号線の中村時計店の向かい側を南へ入った、裏通りとの角の、料理屋だったと思われる家。建物の左は「喫茶ボン」。写真右の裏通りの奥の緑の日よけは木造日本家屋の家で薬局のようだ。写真右の街灯にある「桜町薬品」だろうか?
現在はボンが入っていた左側半分が取り壊され、隣の薬屋も取り壊され、写真左の青いトタンの家も、写真右にわずかに写っている家も、取り壊された。その跡は全て駐車場になってしまった。撮影時でも駐車場が目立つ街だという印象だったのだが、さらに増えているようだ。

下の写真は1枚目写真の左右の通りを右(南)へ少し行ったところ。平屋の家は今はなくなって空地。左の家は「喫茶桃山」だが営業しているようには見えない。街灯には「富士火災代理店 県信商事」の看板が。この家は、現在は「コインランドリー 桃山」。


喫茶桃山。土浦市桜町2-8。2006(平成18)年11月5日



竹ちゃん、祐祐。土浦市桜町2-6。2006(平成18)年11月5日

1枚目写真右の通りを奥へ行ったところ。その奥の赤い看板が「ラーメンとも」で、上の写真の左奥に写っている。この通りの左右には風俗店が並ぶ中で、古い家屋が飲食店になっていたりして、細かく見ていくと面白そうである。

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吾妻庵総本店。茨城県土浦市中央1-6。2006(平成18)年11月5日

中城通りにある老舗のそば屋。「吾妻庵」は関東に11軒あるそうで、その「総本店」。明治6(1873)年創業で、大正時代に今のところに移ったらしい(〔99/01〕土浦・水郷都市の面影をたどる>再建された吾妻庵)。とすると、建物もその時に建てられたのだろうか?
1998(平成10)年に火事を出した。どの程度のものだったのか分からないが「2階は火災にあって、1999年に復元」としたサイトがあり、2階前面の屋根の瓦は新しく、1階前面の屋根の瓦は古いままのようなので、2階の一部を焼いただけで済んだのかもしれない。「うだつ型行灯看板」は焼失し、復元したもの。2011年の東日本大震災では大きな被害はなかったようである。
外に置かれている盆栽は店主の趣味だ。新聞記事に載るほどの腕前である(毎日新聞2016.10.20)。



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矢口家住宅(矢口酒店)。茨城県土浦市中央1-6。2006(平成18)年11月5日

中城通りに残る古い商家の中では黒漆喰の土蔵造りの建物は矢口酒店だけのようだ。重厚な感じはひときわ目を引く。天保12(1841)年に土浦で大火があり、その後に建てられた防火建築である。したがって中城通りでも土蔵造りの商家はかなりの数が建てられたのかもしれない。
通り沿いに嘉永2(1849)年に建てられた「店蔵」と「袖蔵」が並ぶ。それらの裏に中庭を介して慶応年間(1865~1867年)に建てられた「元蔵」があり、それらが「家相図」とともに茨城県指定重要文化財に指定(昭和55年)された「矢口家住宅」。

2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で損壊し、翌年から修復工事にかかった。4年の工期と約2億2千万円の経費をかけたという(永井昭夫建築設計事務所>矢口家住宅修復工事2012.10.13)。



矢口家住宅。2006(平成18)年11月5日

修復された今は、瓦が葺き直され、黒漆喰は塗り直されてピカピカである。貫禄がつくまで何十年かかかるのだろう。写真左の簡便な建物はなくなって袖蔵の横が奥まで見えるようになった。下の写真はその路地を奥へ入って袖蔵の後ろと元蔵を撮ったもの。


矢口家住宅。2006(平成18)年11月5日

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白石楽器店。茨城県土浦市中央1-12
2006(平成18)年11月5日

中城通りの「まちかど蔵・野村」の並び、すぐ東のところの商店。「ヤマハ音楽教室」の看板の家は、テントに「白石楽器」の字がある。楽器店としても営業しているのだろう。右隣の家は「白石書店」。ネット検索すると「白石書店が(2007年)1月15日で潰れちゃいましたね」という書き込みがあった。
建物横に古い看板建築だった遺構のレリーフが見られる。正面の造りは日よけのテントで見えないのがなんとも残念。
ストリートビューで見ると、現在のファサードはタイルが張り替えられているので造り直されたものかもしれない。白石書店もタイルを貼り替えて、どちらもポスターカラーの明るい色のタイルになっている。両店とも残念ながら「テナント募集中」。
写真左の小屋は「笹屋たばこ店」。今も店舗はあるが看板の類はなくなっている。


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土浦まちかど蔵・野村。茨城県土浦市中央1-12。2006(平成18)年11月5日

中城通りに、「まちかど蔵 大徳」と向き合って、元砂糖店「野村さとう店」の店舗と袖蔵が通りに面して、旧水戸街道の景観を残している。「大徳」と同様に土浦市が管理する観光施設および地元のコミュニティの場になっていて、「大徳」が母屋の内部を見せるのを主にしているのに対して「野村」は「蔵」というカフェで飲食を受け持つ形だ。
出桁造りの店舗兼母屋は明治中期の建築。その右の土蔵が「袖蔵」、その後ろの蔵が「文庫蔵」で、共に明治前期のもの。文庫蔵の斜め後ろには明治25年に造られた煉瓦蔵がある。いずれの建物も、平成14年に「まちかど蔵」として整備するための改修をしている。



土浦まちかど蔵・野村の袖蔵と文庫蔵。土浦市中央1-12。2006(平成18)年11月5日

文庫蔵とは商品やその材料以外を収める蔵のことをいうのかと思う。つまり商売の帳票や書画骨董をしまったことからの謂いだろう。
袖蔵の前に電柱が立っているが、現在の中城通りは電線を地下に埋めたため、電柱はない。



土浦まちかど蔵・野村の煉瓦蔵と文庫蔵。土浦市中央1-12。2006(平成18)年11月5日

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土浦まちかど蔵・大徳。茨城県土浦市中央1-3。2006(平成18)年11月5日

中城通りは水戸街道の城下町・宿場町として、土浦の中では最もにぎわったところだ。今でもそんな雰囲気が感じられる古い商家の建物が幾つか残っている。「土浦まちかど蔵・大徳(だいとく)」は江戸時代後期に建てた元の呉服屋の建物を改装した、市の観光案内・土産物販売の施設で、内部の見学もできる。
大徳呉服店の創業は天明5(1785)年、大国屋徳兵衛という人による。現在の株式会社大徳の社長は8代目。1974(昭和49)年に店舗を現在地の駅前通りに移転した。
建物は、中城通りに面して「店蔵(見世蔵)」と「袖蔵」が見える。店舗だった店蔵は北棟で、その裏側に住居部分である南棟があり、合わせて店蔵というらしい。街道に面した形が土浦城下の町家の伝統的な姿になる。
まちかど蔵大徳とキャノン美容室の間の横町を入ると、店蔵の後ろにある土蔵が見える。2棟あるが、どちらかがあるいは両方とも「元蔵」で、天保13(1842)のもの。「向蔵」というのがどれになるのか分からない。これらの建物は1998・9年に改修を受けて、今の、漆喰の白が美しい姿を見せているらしいのだが、これは建物を譲り受けた土浦市によるものかと思う。2011年の東日本大震災の際は瓦が全部落ちたという。2016年8月、「土浦まちかど蔵・野村」と共に国の有形文化財に登録された。



まちかど蔵大徳の横の路地。土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

まちかど蔵大徳の横を南に入る路地。写真左の建物は、現在は取り壊されて駐車場になっている。
まちかど蔵大徳の前の中城通りは、写真の路地の角のところで少し食い違っている。1枚目写真でなんとなく分かるかもしれない。古い街道に見られる「桝形」だろうか。道をクランク状にするのは敵の進行を遅らせるため、のようにも言われるが、街道を一列で来る場合は障害というほどの効果はないだろう。たぶん、旅人に先が見通せないようにしたのではないか。人は先が見えるとつい進んでしまおうとするから、それを見えないようにして、町に人がとどまって、泊まったり買い物をするように仕向けた?

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石上霞月堂。茨城県土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

土浦駅前通り(国道125号)から中城通りへ入ると、角の保立食堂の隣は空き地、その次が「石上霞月堂」という菓子店。撮影時もすでに閉店していたような感じだ。
看板には「ヨーロッパ風ケーキ」ともあるが、元々は和菓子屋のようだ。「霞ヶ浦銘菓 七ツボタン予科練を偲ぶ 雄翔(ゆうしょう)最中」の看板の裏側は「土浦銘菓 ぶらりひょうたん最中」。阿見町の「陸上自衛隊土浦駐屯地」や「予科練平和祈念館」に隣接して「雄翔館(予科練記念館)」(1968年開館)と「雄翔園」がある。「雄翔」の名前がそこからきているのなら、売り出したのはそれ以後のことになりそうだが……。また、高田保(たもつ)という劇作家、随筆家に、1948年に書いた「ブラリひょうたん」という著書がある。高田は土浦町の生まれで、「ぶらりひょうたん最中」はそれを顕彰したものだろう。2種類の最中がどんなものだったのか、外見なりと気になるが、たぶん写真などの記録もない幻の最中である。
建物は土蔵の前面を看板建築にしたもの。アールデコ風のモダンなデザインだ。たぶん戦後の改装によると思える。袖看板は外されたが建物は今も残っている。



洋服店。土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

霞月堂の隣が駐車場で、その隣にあった店を裏から撮った写真。肝心の表面を撮っていない。袖看板が「CDKスーパーテックス」ならスーツの生地らしいので、紳士服店かもしれない。ネットで中城通りの写真を探したら、『マッピング霞ヶ浦>中城通り#2』にあった。1999年の撮影で、看板の文字が読み取れないが「○○洋服店」。
今は住宅に建て替わっている。

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ほたて。茨城県土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

「ほたて」は土浦駅前通り(国道125号)と旧東海道(中城通り-本町通り)の交差点(中央1丁目交差点)の角にある天ぷら屋。明治2年創業という老舗で、現在は六代目になる。
国道は昭和10年に川口川(かわぐちがわ)を埋め立てて通したもので、旧東海道はそれまで「桜橋」でその川を渡していた。川の両側は河岸の道路だった。店の角に、明治34年に架けられたレンガ造アーチ橋だった桜橋の親柱が置かれている。
ほたての建物は創業時のものという。屋根は瓦だったのを近年葺き替えたのだろうと思っていたが、『水路をゆく・第二運河』によると、トタン屋根にしたのはかなり昔のことだったらしく、「ハイカラ好きの創業者が、国産品がない時代に高価な輸入品を使って葺き替えたもの」という。「うんちく板」の「昭和初期の保立食堂」の写真ではすでにトタン屋根である。その写真の看板は「御中食 保立本店」。


ほたて(中城通り側)

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新美堂時計店。茨城県土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

JR土浦駅西口から国道125号を北へ、桜橋跡の中央1丁目交差点の手前。アーケードがあり「中央大通り商店街」というが、建物がなくなって駐車場に替わってきている。今は新美堂の建物もアーケードもなくなり、もはや商店街とはいえない。
新美堂の建物は、正面は洋風の看板建築だが本体はレンガ造の蔵のような建物である。蔵を改造して店舗と住居にしたものだろうか。

下の写真、左のコンクリート壁は呉服店の大徳(だいとく)本店。現在、中城通りの「まちかど蔵 大徳」となっているのが元の店で、昭和49年に中央大通りに移ってきたというから、その時の建物だろう。平成25年11月に現在の店舗に建て替わった。


新美堂時計店。2006(平成18)年11月5日



新美堂の後ろと横。2006(平成18)年11月5日



新美堂の裏の蔵。土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

新美堂の裏手に2棟の蔵があった。『『ぬけられます』あちこち廓探索日誌』によると、新美堂のものだという。いったい元はなんの商売をしていたのだろう? これらの店舗と蔵は2011年の東日本大震災で被害を受けたらしいが、それを契機に廃業し、取り壊したのかもしれない。


新美堂の裏の蔵。2006(平成18)年11月5日

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木村屋パン店。茨城県土浦市中央2-10。2006(平成18)年11月15日

土浦市を通る旧水戸街道は土浦城の南を東西に通っている「中城通り」がそれ。国道125号から東は「本町通り」となり、すぐ北に向きを変える。写真は北に向いたところの本町通り。写真手前が曲がり角で、そこにある土浦商工会議所が「土浦宿本陣(大塚家)」があったところ。「本町」も「中城町」も昔の町名だが、今は「中央1丁目・2丁目」。
開店しているときの写真でないのが残念だが、木村屋は一つのショーケースに総菜パンなどを並べて売っている。銀座の「木村屋總本店」から暖簾分けした店という。確かにマークが同じだ。だとすれば、買うのはあんぱんだろう。



内田砂糖店。土浦市中央2-8。2006(平成18)年11月15日

旧水戸街道が北を向くところから100mほど北へいったところに残るモルタル仕上げの洋風の看板建築。『日本近代建築総覧』に「内田砂糖店、土浦市中央2-8-3、構造=煉瓦造2階建」で載っている。正面が3段に、少しずつ後退していく造りが変わっている。ネットでは昭和4年の竣工と出る。煉瓦造りとは驚いたが、外観からそのような特色がなにかあるのだろうか。

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