ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学コミュニケーションセンター。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月19日

本郷通りの赤門のすぐ北に、通りから見えている古いレンガ造りの建物。2004(平成16)年に改装・増築されて「東京大学コミュニケーションセンター(UTCC)」となった。「大学と社会の双方向的な連携を推進する拠点施設」ということだが、一般の見学者なら、公式のグッズを販売しているショップとみればいいようだ。
ネットでは「1910(明治43)年に人力車の車庫として建てられ、その後、図書館製本所として使われた」という記述が目に付く。『東大新聞オンライン>COLUMN 2018.10. 』の「本郷キャンパス建築めぐり 東京大学コミュニケーションセンター編」によれば、図書館の製本所として建設された、ということで、説明にも説得力がある。「製本」とはいっても、雑誌の合本や修理の作業だという。大震災後、今の総合図書館が完成すると、製本所は不要になり車庫に転用されたとしている。だとすると、人力車は関係なかったのかもしれない。



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東京大学医学部2号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月19日

本郷通りの赤門から東大に入ると、正面奥に建っているのが医学部2号館(医学部本館)。建物の前に洋式庭園の広場を置いて、建物の正面全体を眺めることができる。正面は西を向いていて、午後になれば日が当たるから誰でもきれいな写真が撮れる。
内田祥三設計のRC3~4階建で、1936(昭和11)年の竣工だが、一部未完成のままである。中庭が二つある「円」形の平面プランが、左側面(北側)が前部だけで工事が終わっている。とりあえず間に合うから残りは後で、などと言っている間に戦時になってしまったのだろうか?

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東京大学理学部2号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月19日



東京大学理学部2号館。本郷7-3
2019(平成31)年4月19日

東京大学本郷キャンパスの南西部分(本郷通りと春日通りに沿っては民間のビルや商店などが並ぶが、その裏手)は、大震災後の1926(大正15)年に前田侯爵家との土地交換によって拡張された(『淡青』(東京大学広報紙)36(2018.03))。そこに「東京大学理学部2号館」と「医学部1号館」との、外観がほとんど同じに見える建物が並んで建っている。
内田祥三設計のRC3~4階建てで、理学部2号館は1934(昭和9)年、医学部1号館は1931(昭和6)年の完成。建物平面の四つの角を矩形に切り取った部分を四半円の平面部分でつないだような造形が特徴だ。ゴシック様式にはないようなデザインに思える。特に対角線の位置にある2カ所の階段室の外観部分は、縦長の窓が階段状に並んでいて、モダン建築を見るようである。





東京大学医学部1号館。本郷7-3
2019(平成31)年4月19日

医学部1号館のすぐ東に建っている14階建てのビルは「医学部教育研究棟」で2002年の竣工。現在は、医学部1号館はその教育研究棟と一体で運用されているという。

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立石荘。葛飾区東立石4-51
2010(平成22)年11月21日

奥戸街道の京成立石駅前交差点から横町を南に入ったところ。20室近くあるような割と大きいアパートで、昭和22年の航空写真に写っているのと、玄関まわりの壁にスクラッチタイルを貼っているので、戦前に建てられたものと思える。
ストリートビューで現状を見てみると、蔦に覆われてほとんど廃墟に見える。取り壊されないのはまだ居住者がいるのかもしれない。

下の写真は立石荘の南西、すぐそばにあった医院。戦後の建物である。2階は病室だったと思われる。写真右の鳥居は原稲荷神社のもので、参道の入口。現在は何棟かの住宅に替わった。2010年頃のことらしい。



安藤医院。東立石4-51。2008(平成20)年12月11日

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理容スズラン、吉田眼科医院。葛飾区立石1-16。2008(平成20)年12月11日

京成立石駅前の「立石仲見世」の西に「立石中央通り」というイトーヨーカドーのある商店街がある。そこを南に行って奥戸街道に出て、少し西へ行ったところに写真の出桁造りの商家があった。
2009年に現在の3階建ての小さなビルに建て替わってしまったが、「理容スズラン」はその新店舗で続いている。
この辺りは南に中川を控えた低湿地である。写真左のビルの左が交差点で、その地点の標高が-0.5mと地形図に載っている。この辺りの中川は「中川七曲り」と呼ばれる蛇行している部分だ。これが自然河川の形かと思っていたが、『川の地図辞典』(菅原健二著、出版=之潮〈コレジオ〉、2007年、3800円+税)によると、1700年代の工事によるものらしいが「(小合溜の)さらに下流の川幅を拡張し、付近に散在していた池沼を掘り連ねたため、七曲がりと云われるような屈曲のある流れが出来上がった」とあった。

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勝メガネ店。葛飾区東立石4-50。2008(平成20)年12月11日

奥戸街道の京成立石駅前交差点。写真右に、屋根式のアーケードが架かる「立石駅通り商店街」の入口がある。というより、京成立石駅から立石駅通り商店街を南に歩いてくると、奥戸街道の写真の交差点に出る。
交差点の南西角が、「勝メガネ店」と「はんこ屋さん21」の二軒長屋。戦前からあると思われる建物だが2018年に取り壊された。その右は「ウシゴメ文具店」。その右、青いテントが「伊勢屋」で、その間に路地があり、その路地の入口にアーチのように「ビリヤード」の看板が架かっている。地図を見ると、路地の中ほどの古いアパートのような建物に「富士ビリヤード」がある。ストリートビューを見るとアーチのような看板の裏側が見える。帰る客への挨拶なのか「ありがとうございます」と書いてあるようだ。



キヨタ菓子店。東立石4-50。2008(平成20)年12月11日

1枚目写真の右に写っているビルのさらに右にある二軒長屋で、奥戸街道に面した正面を看板建築にした建物。両店とも廃業して久しいようだ。右の店はヤマザキパンの看板が残っていて「キヨタ菓子店」だったと分かる。左の尖頭アーチと円柱の造形の店が何だったのか判定が難しい。スナックか喫茶店のような感じだが、ケーキ屋だと同じような店が並んでしまう。

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本田屋本店。葛飾区東立石4-45。2008(平成20)年12月11日

奥戸街道の美濃屋脇坂商店から少し東へ行った向かい側にある酒店。脇坂商店と同じ出桁造りの店舗で、横に看板建築の別棟を抱えているところまで同じだ。
京成立石駅付近を京成押上線に平行に東西に通っている奥戸街道は、住所が北は立石、南は東立石になる。その奥戸街道に対して脇坂商店と本田屋がほぼ向き合っているのだが、競合しないのだろうか? 京成立石駅は飲み屋街が有名だから、酒屋はいくつあってもいいのかもしれない。



二軒長屋の魚屋。東立石4-45。2008(平成20)年12月11日

本田屋本店から右(西)へ少し行ったところに残っている二軒長屋。その左の鮮魚店はだいぶ以前に廃業した様子だ。看板の左に店名らしい字があり、消えかかっているのを無理に読んでみると「魚房」だろうか?
二軒長屋の右に見える戦後の看板建築か、と見える店は「富士屋模型店」。鉄道模型やプラモデルを売っていて、そのHPには「立石唯一の模型店」とある。

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美濃屋脇坂商店。葛飾区立石8-1。2008(平成20)年12月11日

奥戸(おくど)街道の京成立石駅に近いところにある老舗の酒店。そのHPによると、「大正9年東京都墨田区押上にて個人商店として創業、大正12年関東大震災被災後 現在の場所に移転営業」。とすると、出桁造りの店舗は昭和初年頃に建てたものだろうか。
関東大震災以前の東京府南葛飾郡は農村地帯だったが、大震災で避難する人々が流入して住宅・工場などが増えていく。1912(大正元)年11月には京成電気軌道が開業して、市内への往来が便利になったことも大きかっただろう。1932年(昭和7年)10月に東京市に編入されて葛飾区が成立した。
奥戸街道は都道60号市川四ツ木線の一部で、平和橋通りとの交差点(奥戸街道入口交差点、立石1丁目)から東へ、蔵前橋通り(六軒島交差点、西小岩2丁目)までの区間をいう。昔からの街道のように聞こえるが、1984(昭和59)年に東京都建設局が60路線の愛称を付けたときに決まった一つ。京成立石駅主変では「立石大通り」とも呼ばれることもあり、「立石大通り商店会」という商店街になっている。
写真の場所から右(東)へ少し行くと中川で、奥戸街道は本奥戸橋で奥戸へ渡る。その橋から西は「立石道」という古道の一部にあたるというから、古くからある往還なのかもしれない。

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東京大学史料編纂所。文京区本郷7-3
2019(平成31)年4月18日

建物は「東京大学総合図書館」で、その正面から見て右後ろに伸びている横側が「史料編纂所」という部署が使っている。つまり「設計者=内田祥三、施工者=大林組、建設年=昭和3年(1928)、構造=RC3階建」になる。
東京大学資料編纂所』によると、料編纂所は「古代から明治維新期にいたる前近代の日本史史料を研究する研究所です。国内外に所在する史料の調査・収集と分析をおこない、これを日本史の基幹史料集として編纂・公開しています」ということだ。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)には「(総合図書館の)隣の史料編纂所は大日本帝国の公的な歴史を編む場所であった。/その真下に位置する明治新聞雑誌文庫(1927年開設)は少し変わった存在で、大日本帝国のあり方に再考を迫った法学部教授吉野作造を中心に1924年に結成された明治文化研究会の後押しによって生まれた。いわば獅子身中の虫のようなところがあり、文庫の世話役には宮武骸骨というそれにふさわしい在野にして反骨のジャーナリストが雇われた」と説明されている。戦前は、史料編纂所は日本の歴史を肯定的に見るのに対して、明治新聞雑誌文庫は反対の立場だった、ということだろうか? 

史料編纂所の反対側、総合図書館の正面から左後ろに伸びている横側は「情報学環・学際情報学府」と「社会学研究所」が使っている。
『東京大学本郷キャンパス』には、「社会科学研究所は1946年8月に創設され、図書館の2階の5室で活動を開始。1954年4月に現在の建物が完成し、引き渡された。新聞研究所は1949年の創立、1953年図書館に隣接する場所に拠点を得た」とある。新聞研究所が現在の情報学環だ。総合図書館として一体の建物に見えるが、東南の部分は戦後の増築で、1953(昭和28)年に完成した、ということだ。
さらに、南側の教育学部の建物は1955年に完成したようだ。また、図書館の中庭には今では2棟の高層のビルが建っている。これら一連の建造物群は「図書館団地」と総称される。


東京大学教育学部。2019(平成31)年4月18日

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東京大学総合図書館。文京区本郷7-3
上:2007(平成19)年12月15日
左:1989(平成元)年10月15日

『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では、「図書館 設計者=内田祥三、施工者=大林組、建設年=昭和3年(1928)、構造=RC5階建〈地下1階、地上3階、中央部のみ5階〉」。解説文は「ポーチが半円アーチ列で、これを通って玄関に入ると階段ホールの空間は素晴らしい。ロックフェラーからの寄贈建築で、英米ソからの寄付を含めて90万冊を超える図書を有する。病院に次ぐ大建築である」となっている。
『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)によると、外観デザインはコンペが行われ、当書には堀口捨吉、渡邊仁、吉田鐵郎、岸田日出刀の草案が載っている。結局は内田が他の校舎と調和するように同質のデザインに決めたようである。内田はかなり細かいところまで手を入れ、竣工する最後まで試行錯誤を繰り返したという。
内部設計は、閲覧室の配置を本郷通りの路面電車の騒音を考慮したり、耐震性確保のために太い柱と細かい間仕切り壁の調和に苦心した。豪華な正面ホールや階段は、ロックフェラーに「おかげでこんな立派な建物ができました」と示す意味もあったらしい。



東京大学総合図書館。2019(平成31)年4月18日

2017(平成29)年7月に「総合図書館別館」が開館した。2010年に計画され、2014年12月に着工した。総合図書館(本館)前の広場の地下なので、地表からは見えない。地下4層で、地下46メートルあり300万冊が保管できる。
別館の工事中には本館の内部の改修工事をしている。

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