ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




クーペ。静岡県伊東市桜木町。2015(平成27)年1月19日

桜木町通りはアーケードにかかる看板から、商店街の組織が「桜木町奉仕店会」と判る。テントのアーケドのある範囲が「桜木町通り商店街」ということなら、桜木町通りと温泉橋通りとが交わるところから北へ、県道12号に沿った伊東市桜木町の町域とその向かい側の弥生町と幸町ということだろう。写真は桜木町通りの南端から北へ130mのところ。
「クーペ」という喫茶店が入った店舗付アパートのような建物は、コンクリート製のようにも見えるが、航空写真で見ると寄せ棟の鉄板葺きの屋根のようで、木造の看板建築ともいっていいような建物だ。その左の3階建ての小さなビルは「真間理容室」。その左が「広野精米店」で、二階の屋根が出桁造りになっていて、古い商家らしい。


広野精米店。伊東市桜木町。2006(平成18)年11月24日



金生ギフト店。伊東市桜木町。2006(平成18)年11月24日

桜木町通りと温泉橋通りとの交差点が写真右にすぐである。金生(かねしょう)はGift Shopとあるが、雑貨も扱っているようで、外には茶碗が出ている。その左の家が古そうである。店は「貸店舗」の張り紙があって、なんの店だったのかは判らない。アーケードにつるされた看板は「RASH」。

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廃店舗。静岡県伊東市桜木町。2006(平成18)年11月24日

県道12号の市立西小学校の辺りから南へ商店街になっている。商店街の県道とその東の松川の間が桜木町で、商店街は「桜木町通り」という。屋根はテントだが統一したアーケードが設置されている。
写真は桜木町通りの真ん中あたりの交差点。通りに面した店は看板が外されて廃業している。今は取り壊されて駐車場になっている。地方の商店街がすたれていくのはどこも同じらしいが、そういうところに駐車場の需要があるのが不思議だ。

下の写真は上の写真の後ろにあったアパート。1階がラーメンの「あひる」だが、テントの文字と絵はわざわざ消したようにも見え、すでに閉店したようである。あるいは夜になると店を開けるのだろうか。表通りの左の家と一緒に取り壊されたようだ。


ラーメンあひる。伊東市桜木町。2006(平成18)年11月24日

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廣三会。静岡県伊東市弥生町。左:2006(平成18)年11月24日、右:2015(平成27)年1月19日

温泉橋通りの真ん中あたりの横町を東へ入ったところにある洋風下見板のアパートのような建物。1階はなにか商売をしていたような造りで、引き戸がならんだ内側は土間だったのではないかと思う。左写真ではなかった「廣三会」という小さな看板が、右写真では玄関横に出ている。なんだか分からないがとりあえず建物名として使える。寄せ棟屋根のこう配が大きいように感じるが普通なのだろうか。
廣三会の左は、左写真のときは石井精肉店だったが右写真では閉店している。

廣三会の前の横町を東へ行くと県道12号の桜木町通りに出る。下の写真はその手前。山道製麺所は二軒長屋の建物だろう。写真右の白い壁の家は「山路」という日本蕎麦屋。


山道製麺所。伊東市弥生町。2015(平成27)年1月19日

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上田酒店。静岡県伊東市幸町。2006(平成18)年11月24日

温泉橋通りの、市立西小学校の南の交差点に看板建築の四軒長屋を見つけた。壁に貼ったトタン波板は錆が目立ち、横の鉢植えと思われる植物はのび放題で玄関をふさいでいる。2軒分を使っている上田酒店は、看板が割と新しそうだから営業していると思うが、下の写真では、角の袖看板が外されている。隣の店はフジカラーのステッカーが残っているのでカメラ店だったのだろうか。
四軒長屋の隣は入母屋屋根の民家。玄関の左は洋風の造りで、洋間の応接間か書斎なのだろう。


民家。伊東市幸町。2015(平成27)年1月19日

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マノ時計店、ツチヤ薬局。静岡県伊東市岡広町。2006(平成18)年11月24日

猪戸通りを南にいって寺田川を温泉橋で越えると、観光地図では「温泉橋通り」となる。さらに南にいって県道12号(修善寺街道)と合流するまでの570mをいうのだろう。マノ時計店とツチヤ薬局は温泉橋の南100mほどのところ。向かい側は市立西小学校がある。沿道の街灯には「商栄会」の表示しかなく、「温泉橋通り」の表示も見当たらない。
古い建物の商店が2軒並んでいる。最近は瓦が残されている家は少なくなった。2軒とも地元の客が相手の商売だ。マノ時計店のショーウインドーやショーケースには骨董品が置いてありそうな感じだ。



ツチヤ鍼療所。伊東市岡広町。2015(平成27)年1月19日

ツチヤ薬局は部分的に看板建築にしている。1枚目の写真から8年後の写真で、薬局は廃業して看板が消されている。残されたミドリ十字で元は薬局だったと推定できるだけだ。ブロック塀の「ツチヤ鍼療所」の看板は新しくなっていて、鍼療所は存続している。

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神田万彦。千代田区神田須田町1-28。1988(昭和63)年8月14日

中央通りの須田町交差点の南の横町を西へ入ったところ。写真右のモルタル壁の看板建築は住宅のように見える。現在は5階建てのビルに建て替わって、1階には「神田万彦/果実問屋/創業天保十年」という看板がかかっている。撮影時でも万彦の自宅兼事務所だったかと思う。
がっちりマンデー!!>…千疋屋総本店…(2014.11.09)』には、大田市場から高級果物を仕入れて千疋屋へ入れているのが神田万彦(青木稔社長)とある。千疋屋との付き合いは178年になるとか。
『子規と四季のくだもの』(戸石重利著、文芸社、2002年、1600円)を立ち読みした中に、須田町交差点角にビルを構えていた「万惣」との関係が書かれていた。初代青木惣太郎(弘化2年生まれ、川越出身)は、神田市場(多町・須田町にあったが関東大震災で秋葉原駅の北へ移転。1989年大田市場へ再度移転)の果物問屋万彦の養子になり、ノレン分け後万惣を興す、とあった。それにしても万惣は解散したということなのだろうか。
写真左の家は看板の文字がよく読めないが「時計 武田」だろうか。現在は5階建てのビルに建て替わっている。



理容室ハシモト。神田須田町1-30。2012(平成24)年3月4日

神田万彦と同じ四つ角のもう一方の角。理容室ハシモトは『 千代田区神田周辺地区における景観形成の推進のための調査』(平成17年、歴史・文化のまちづくり研究会神田研究部会)では四軒長屋としている。ハシモトが2軒を使い、写真左の壁を改装した部分に2軒、ということだろうか。昭和28年頃の火保図にはすでに「橋本床ヤ」と出ている。

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岡谷商事、笹村商店。千代田区神田須田町1-30。1991(平成3)年9月1日

上市園の横町を南にいった次のブロックである。看板に、岡谷商事は「毛織物卸」、笹村商店は「綿織物卸」と商売の内容が書かれている。下右の写真が現状で、古い看板建築の建物はほとんどがまだ残っている。
岡谷商事は銅版張りだった正面がトタン波板に張り替えられている。笹村商店の後ろは看板建築が2棟で、飲み屋だった表の造作が残っているしもた屋と「栄ネーム」だった家。この2棟もかつては銅版張りだったが(『するが亭、栄ネーム店』)、下右の写真では鉄板のようなもので貼りなおされている。確かに、薄い銅板を板の壁に張り付けただけではやたらと永くは保ちそうに思えない。建てられてから80年にはなる銅板張り看板建築は今や限界なのかもしれない。



左:岡谷商事、1994(平成6)年2月6日。右:近影、2012(平成24)年3月4日

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ヤマニ裏地店。千代田区神田須田町1-12。1994(平成6)年2月6日

靖国通りの須田町交差点付近の1本南の裏通り。角のヤマニ裏地店から看板建築の長屋が並んでいる。三金(おでんの飲み屋らしい、今は「二灯庵」という鉄板焼きの店に替わった)が看板建築らしいデザインした正面をしているが、それ以外の家はモルタル壁のそっけない正面で、注目度は低い。
千代田区神田周辺地区における景観形成の推進のための調査』(歴史・文化のまちづくり研究会神田研究部会、平成17年)に「3.景観資源>(3)看板建築等リスト」があって、「18.三金、神田宝仙堂(薬)―外壁モルタル、カラー鉄板,3軒長屋」「19.ヤマ二裏地店―1F外壁煉瓦,2F板張り、4軒長屋」が挙げられている。「三金、昌平薬品、神田宝仙堂」が三軒長屋とすると、ヤマニを2軒分としてその右(車庫らしい)の家とでは4軒長屋にならない。たぶんヤマニは裏の2軒を加えての4軒長屋ということかもしれない。
ヤマニ裏地店は昭和28年の創業という。当時は須田町一帯に300軒近いラシャ(羅紗)屋が集中したらしい。ラシャはだいたいが背広(当時はスーツなどとはいわなかった)の生地で、都内のテーラーが須田町で生地を仕入れたのだろう。ヤマニ裏地店は裏地とボタンなどの付属品を扱う。紳士服に限らないから顧客は絶えないのだろう。



あさひ。神田須田町1-12。2005(平成17)年3月31日

ヤマニ裏地店の裏にある家で、二軒長屋の看板建築らしい。ストリートビューで見ると、手前が「あさひ」という居酒屋、奥が「げたばき」というワイン酒場。手前の空地にはビルが建ったので、今は建物の横はみられない。

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上市園、東京ネクタイ。神田須田町1-12。1988(昭和63)年8月14日

喫茶店びいんず(現在は取り壊されてマンションの建築中)の向かい。並んでいる古い家は1986年の地図で、左から「上市園、東京ネクタイ、光文社」。1977年の地図では「やすり製作所、東洋ネクタイ、光文社」。1950年頃の火保図では「渡辺やすり商店、帝国SG不動産、巴屋ラシャ店」。現在、上市園は健在だが、その右の2軒は「神田館」(1995年2月築、11階建て)という賃貸マンションに建て替わっている。
上市園をネット検索したら、『モハメイドペーパーの 何が出てくるか?>ヤスリの専門店(2014.02.19)』というサイトがあった。主に鉄道模型がテーマのブログだ。記事は『スパイクから運転まで―鉄道模型入門』という昭和36年発行の本に「上市ヤスリ店」が紹介されていて、筆者はそれを読んでその店へ行きヤスリを購入している。当記事をアップする際に店がまだあるか確かめに行き、茶や海苔などの食料品店の上市園として存続していることを確認する。
上市(じょういち)ヤスリ店は模型用に限らず各種ヤスリを制作販売していたのだと思う。製品には「上市」の銘を入れている。模型製作に使う特殊なヤスリは専門店でないと売っていなかったのだろう。店にはモデルマニアが出入りし、「老主人」が親切に説明してくれたようである。
上市の場所を当書では「神田のカワイモデルの裏側2本目の通り」と説明している。鉄道模型のカワイモデルは中央通りにビルを構える店で、ぼくも1960年頃に初めていって、以後数回いっている。鉄道模型マニアで知らない人はいない。

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びいんず。千代田区神田須田町1-10。2007(平成19)年1月4日

靖国通りから横町(多町大通りの1本東の裏通り)を入ったところ。建物上端の稜線が特徴的な喫茶店の「びいんず」から3軒の看板建築が並び、その先に網がかけられた洋館風の廃屋、と古い建物が見られた。現在、この一角は右端のビルから廃屋の先の四つ角に面したビルまで全て取り壊されてマンションを建設中だ。


旧村木商店。1986(昭和61)年6月8日

ネット上では「旧村木商店」の名称が通用している建物で、長いこと空き家になっていたが、2013年1月に解体された。この写真では玄関の上に「村木」の文字が残っている。撮影時の住宅地図では建物の右が「英ガラス」左が「佐山商事」奥に「村木」という記載。
近代建築探訪』というサイトは「岡田ファン」を自称する岡田信一郎に詳しい方(『近代建築ホームページ』というHPを持つ)のブログで、そこに『近代建築探訪>OSN076看板建築(村木商店)2012.03.29』という記事がある。そこでは「国会図書館所蔵の岡田信一郎設計図」の中に「村木商店」があったと述べられている。そこからの引用と思える正面図と側面図も載っている。前面が洋風の事務所、後ろは和風下見板の日本家屋で住居らしい。
同じブログの『気になる建物(2009.02.15)』では、村木商店が「馬鈴薯、玉ねぎ、くわいを扱う問屋」だったと解説されている。関東大震災の以前まで、神田多町の一帯にあった神田青果市場の問屋の1軒だったのかもしれない。
下の写真は角のビルが取り壊されて、旧村木商店の南面が見えている。



旧村木商店。2012(平成24)年3月4日

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